「哲学」と「宗教」の二元論は本当に成り立っているのか?~竹田青嗣先生「欲望論の新展開(5)」を受けて
「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。
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ここしばらくは「人類思想史」からの「哲学」の再定義、というようなテーマで書いています。
前回は、大阪の梅田で開催された哲学者の竹田青嗣先生による「哲学の極意ー本質を捉えるための哲学的方法」という講義をお聞きしてきた、という話を書きました。
その講座の中で、竹田先生は現在、刊行中の主著『欲望論』について、連続講座を開催中であることが告知されていました。ただ、該当のHPを調べても情報が出てきません。主催者に電話してみると、連続講座であり、なおかつ初心者が参加しても理解できない可能性があるため、こういう講座に参加された方が電話してきた場合にのみ紹介しているとのこと。そんなRPGみたいな!と思いつつ、申し込んでみました。
ちなみにこの講座への参加費も、下記の「ひふみコーチ」の講師を務めさせていただいたものからの支払いとさせていただきました。機会をいただいた「ひふみコーチ」の皆さんに感謝致します。
今回、参加したのは全5回講座のうちの5回目で、ゼミ形式のようで、既にあらかじめ受講生が担当が割り振られた部分をそれぞれ発表し、それに竹田先生がコメントする、という形式の授業でした。ですので、初参加の私は何の貢献もしないでオブザーブ的に聴いているだけでしたが、参加者が日本のあちこちで哲学を教えているようなレベルの方々ばかりで、日本の哲学という学問の状況がざっくりとわかるような貴重な場でありがたかったのですが、その体験から、思いを強くすることがありました。
前の記事にも書きました「哲学」と「宗教」の二元論ですが、本当にその二元論は成り立っているのか、という疑問です。前回の記事でこう書きました。
個人的にはいわゆる西洋近代の科学にも宗教的な要素は混入している(例えばビックバンと「光あれ」のイメージの類似など)と思っていて、どちらかというと「宗教」と「哲学」の対比よりは「物語」と「論理」の対比の方が正確な対比ではないかな、というのが個人的な批判ですが、これは「宗教とは何か?」の再定義の文章をいくつか準備中でもあり、またどこかで書きたいと思っています。
ちなみに竹田青嗣先生の『欲望論』は現在、2巻までが刊行されており、第3巻は来年くらいになるそうで、今回の講座ではその仮目次が示されていました。その目次を見る限り、この大著は単に「欲望について書かれた本」というよりは、認識の前にある「欲望」から西洋哲学を捉え直すことにより、西洋哲学を正統に発展させようという試みであり、紆余曲折あり今は死にそうになっている哲学を復活させる試みなんだなぁ、ということが理解できました。ただ、竹田先生自体は「美的追求の発生論」だとおっしゃっていて、完成するまでこの解釈が正しいのかはよくわかりません。
それはさておき、今回、『欲望論』の文脈で再解釈された思想家は、ヘラクレイトスとパルメニデス、アリストテレス、ヘーゲル、ハイデガー、ニーチェでしたが、そこで2つの疑問が湧いてきました。
まず一点は、「ギリシア哲学には宗教の土台がないというのは本当か?」という疑問です。そしてもうひとつは「西洋哲学の土台にはユダヤーキリスト教があるのではないか?」というものです。
この問いに答えるのはまた別の機会として、その前に、「そもそも宗教ってなんだ?」というところをしっかりと定義しておかないと話が混乱する、と思っています。
ただ、前の記事でも触れたように、竹田先生は宗教を語る論拠にエリアーデを持ち出してきています。私も大学時代にエリアーデに出会い、影響を受けているのですが、実際には私の宗教観念に最も影響を与えているのはデュルケムです。大学の卒業論文でデュルケムの『宗教生活の原初形態』を元本にしていました。
多くの日本人にとって西洋の概念である「宗教」という翻訳語が、もともとの意味のRiligionの概念とズレている、という話は下記で展開しました。
この文章はそもそも「東洋哲学とは何か?」を調べていて、そこでついでに「宗教」という言葉に出会ってしまった、という流れですので、Geminiに「宗教」のところだけを要約してもらいました。
日本における「宗教」という概念は、明治維新期に西洋の "Religion" に対応する翻訳語として、キリスト教をモデルに意図的に作られたものです 。1884年に井上哲次郎の『哲学字彙』へ掲載されたことで定着しましたが、それ以前の日本には「宗教」という一言で括られる独立した概念はありませんでした 。
かつての日本人は、現在の宗教にあたるものを、所属組織を示す「宗門・宗旨」、人間として歩むべき実践的な「道(みち)」、そして学問や道徳と未分化な「教(おしえ)」という3つの枠組みで捉えていました 。これらは生活の実践と深く結びついており、人生の局面ごとに使い分ける「並行する道」として共存していました 。
しかし、明治政府が条約改正などの外交目標のために「教義」を重視する西洋式の「宗教」概念を導入したことで、本来の実践的な「道」としての性質との間にズレが生じました 。このねじれが、自身の生活習慣を宗教と見なさない「無宗教」という感覚や、神道を「宗教ではない」と定義して国家公認とした政教分離をめぐる矛盾の根源となっています 。
ここでちょっと思いついた言葉が「日本的霊性」という言葉です。かつて、下記の論考では、鈴木大拙を割と批判的に取り上げてしまったのですが、もしかして鈴木大拙はいわゆる西洋の「信教の自由を認めない日本人は野蛮人」という批判、「神道は宗教ではない、自分は無宗教と言いたがる日本人」という状況に対して、誤訳されてしまった「宗教」という言葉に替わる言葉として、「霊性」という言葉を使ったのではないか?という疑問も湧いてきました。
とまあ、竹田先生の講座にオブザーブ的に参加させていただきながら、いろいろ思考が広がってしまったのですが、まずは「宗教」という厄介な概念を再定義してからではないとこれ以上、話を進められないな、と思いました。
とりあえず、この記事のタイトルの「「哲学」と「宗教」の二元論は本当に成り立っているのか?」という問いを回収しておきますと、個人的な考えでは、遅れてきた中世で近代化を図った西ヨーロッパの人々がキリスト教的な思考を廃して科学的思考を模索した際に、仮想的として「宗教」を置いたためにこの二元論が産まれたのであって、そういう意味では、中世以降の西洋哲学の歴史を見る上ではこの対立は有意義だけれども、人類の思想を俯瞰して見た場合にはあてはまらない、というのが現時点での結論です。
ということで次回からはしばらく、西洋というある意味、特殊なエリアに限定しない文脈での、この「人類にとって宗教とは何か?」という内容の記事をアップしていきたいと思います。
現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローもコメントも記事の引用・紹介も大歓迎です。
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