竹田青嗣先生「哲学の極意ー本質を捉えるための哲学的方法」をお聞きしてきた
「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。
御覧いただき、ありがとうございます。
noteのできるだけ毎日更新を実践しています。現在の曜日ごとのテーマはこちら。水曜は「読書と思想の日/哲学するのススメ(短期連載)・哲学・思想書紹介・概念整理」のテーマとなります。
大阪の梅田で開催された哲学者の竹田青嗣先生による「哲学の極意ー本質を捉えるための哲学的方法」という講義をお聞きしてきた、という話を下記の記事で書きました。
NHK文化センターの講座は資料や講義内容に関しての公開については制約が厳しいこともあり、今回は、この講座を受けての自分が受け取ったものを中心に紹介していこうと思います。
紹介と書きましたが、自分用のメモという意味合いの方が強い記事になりますので、ご興味ある方のみ、御覧いただければよいのかな、と思います。
ちなみに講座の情報はこちら。現時点でオンデマンドはまだ視聴できるようです。
そもそもこの講座のタイトルである「哲学の極意」というのは下記の書籍のことを指しています。
個人的に、竹田青嗣先生の「哲学論」には注目しているのですが、今回は哲学の入門書ということで、前回の講座で持った疑問が解消できるのではないかと、少し楽しみに参加しました。
前回の講座の参加記録はこちら。
前回の講座を受けての感想を一言で言うと、竹田青嗣先生は「哲学者」ではなく「社会思想家」なのでは?という疑問でした。今回は哲学の入門書をベースにした話になるので、「哲学者」としての竹田青嗣先生のお話が聴けるかなぁ、と期待したのです。
冒頭でまず話されたのは、そもそも「哲学の方法とは何か?」というお話でした。比較されたのは、「宗教という方法」です。共通点は、言葉によって世界を説明するという目的です。
ここから先は、下記の記事の「人類思想史」ともリンクする話になります。
まず、人類は「宗教という方法」を編み出しました。この方法は「人類思想史年表」で言えば、アジアではメソポタミアの時代、ユダヤ教、ゾロアスター教、それから枢軸時代に入って仏教、かなり遅れてキリスト教、イスラム教と流れていきます。こちらは「物語」によって世界を説明しようとする方法で、共同体の善悪・聖俗を決定している、と竹田先生はおっしゃいました。
興味深かったのは、竹田先生の口からエリアーデという名前が出てきたことです。宗教関係については竹田先生はあまり探究されていないんだな、ということと、割と竹田先生の思想というのは「哲学者的」というよりは「読者的」なのかもしれないな、と思ったのでした。
その後、人類は「哲学という方法」を生み出します。物語を使うと話がまとまらないところから、原理(アルケー)を再定義して論理によって構築することによって世界を言葉で説明しようとします。
竹田先生が指摘されていたことで面白いな、と思ったのは、ギリシア哲学には宗教の土台がなく、インド哲学には宗教の土台がある、とおっしゃったこと。確かに、と思いましたが、なぜ、ギリシア哲学には宗教の土台がないのか、とても特殊な時代と環境がそうさせたのかな、と思いました。この辺はまたどこかで探究したいと思います。個人的にはいわゆる西洋近代の科学にも宗教的な要素は混入している(例えばビックバンと「光あれ」のイメージの類似など)と思っていて、どちらかというと「宗教」と「哲学」の対比よりは「物語」と「論理」の対比の方が正確な対比ではないかな、というのが個人的な批判ですが、これは「宗教とは何か?」の再定義の文章をいくつか準備中でもあり、またどこかで書きたいと思っています。
ここで面白かったのは、竹田先生は、「哲学は時間がかかる」という言葉をおっしゃいました。200年だか250年だかっけてアリストテレスがまとめたとき、哲学の祖をタレスとしました。ギリシア哲学はアリストテレスによってまとめられ、質料・形相・動因・目的因の「四因」として整理しました。このうち目的因を除く3つはその後、「素粒子」「原子構造」「力」として、現代物理学の基本の枠組として発展した、と竹田先生は言います。
つまり、哲学の発展として科学がある、というのが竹田先生の思想史なんだな、と思いました。哲学は普遍性を求め、言葉で世界を説明しようとする。その哲学の目的は宗教の目的が「共同体の善悪・聖俗を決定」することだとすれば、「普遍性(共通了解)の創出」だと竹田先生は整理されていました。
ただし、哲学の発展として自然に生まれたのは自然科学なのですが、では、人文科学や社会科学はどうなのよ、というのが竹田先生の話の展開です。私はここで、文学や美術など、いわゆるアートはどう処理するのよ?と思ってレジュメにコメントを入れています。
まあ、私のコメントはさておき、「哲学は時間がかかる」というのは面白い指摘だなぁ、と思いました。下記の記事で紹介している佐藤一斎についても同じことが言えるのかな、と思いました。特に陽明学に関しては、いわゆる諸子百家の時代の思想と宗教も含めて整理していると考えると、ギリシア哲学におけるアリストテレスと同じ流れなのかな、と。その説明である陽明学と朱子学の両方を学んで、さらに統合を試みたのが佐藤一斎だったのかな、と思ったのです。
話を戻しまして、竹田先生の認識では、アリストテレスによって整理されたギリシア哲学は、ローマ時代にキリスト教が席巻することによって一旦、途絶えてしまいます。この辺の時代のことを、『負債論』のデヴィッド・グレーバーは下記の章で書いています。
政府と宗教が切り離された時代が続き、「軍事=鋳貨=奴隷制複合体」が継続していたイスラム世界では、政情は安定しており、そこでは様々な思想が展開されていました。一方、政治的情勢が不安定で、常に戦争によって支配領土が書き換わっていた西ヨーロッパでは、キリスト教という宗教を使って一体感を出そうとしていたように思えます。ユダヤ人という異教徒に対するバッシングもこの時代からの産物のようです。
さて、話を竹田先生の講義に戻しまして、ギリシア哲学からのキリスト教経由の自然科学、という説明はなかなか筋が通っているように思えます。一方の人文科学・社会科学に対しては、哲学はなかなか貢献できなかったようです。
竹田先生は「フッサール現象学」がその解を示していた、と考えられています。ただし、その後、ポストモダン思想や分析哲学などの懐疑ー相対主義派によってチャラにされてしまった、と。これはアリストテレス思想がキリスト教によってチャラにされてしまったことと同じ構造に見えます。ヘレニズム時代に「アカデメイア」と呼ばれた場所が懐疑主義者=相対主義者の巣窟になり、ギリシア哲学が無効化された、と竹田先生は説明されていました。今の日本の大学やメディアもそうなっていないかな、とはふと思ったところです。
ここで竹田先生は2つの図が大事である、と示されました。図になっていますが、別に図でなくても良いと思いますので文章で説明しますが、まずは、1つ目、「共通了解の二領域」ということで、「厳密な共通了解の領域」と「共通了解不成立の領域」がある、ということです。この二分表現はいまいちわかりにくいので、個人的には「共通了解成立の領域」「共通了解不成立の領域」と言った方が良いのでは?と思いました。それぞれ、「共通了解成立の領域」には自然科学、数学、基礎的論理学があてはまり、「共通了解不成立の領域」には価値観、感受性、倫理観が含まれる、とのことです。
2つ目の図では「世界確信の三相構造」が示されました。「個的(主観的)確信」「共同的確信」「普遍的確信」の3つで「共同的確信」に宗教が含まれ、「普遍的確信」に自然科学、数学、基礎論理学が含まれる、というものです。「三相構造」ってわかりにくいですね。「世界確信の共有レベル」と言った方がわかりやすいかもしれません。
まあ、当たり前といえば当たり前の話ではありますが、確かに人間関係の揉め事はこの領域とレベルを区別できないところから生まれてきそうですので、整理することも意味があるかもしれません。
ここで、個人的に面白い話が展開されます。人文科学や社会科学には「価値観」が入ってくるので、なかなか「普遍認識」にたどり着かない。ゆえに、価値観の多様性をどう克服するか、が問題となる。そこでフッサールが発見した方法が「本質観取」である、と。
個人的にはこの「本質観取」という言葉は堅苦しくて嫌いなのですが、ではもっといい訳語がないのかと調べてみたところ、そもそもドイツ語では、Wesensschauと表記され、フッサールの作った造語のようです。Wesen(ヴェーゼン)は「本質、本性」という意味で、Schau(シャウ)は「眺め、観照、直観」という意味らしいです。英語だと"seeing the essence", "intuition of essences"と訳されるようです。個人的にはなぜフッサールがこういう神秘主義者みたいな言葉の使い方をするのか、あるいは哲学ジャーゴンを生み出して何がしたいのか、本当に世界に自分の思想を広める気があったのか、と疑いたくなりますが、竹田先生がCommonと言う言葉を使っていたように、もう少し普通にわかりやすい言葉にもできそうな気がします。
ただ、個人的に疑問に思ったのは、これは上の分類で言うと、「共通了解不成立の領域」に「共同的確信」レベルの「共通了解」を得るという話であり、その場としてはいいのですが、世界説明レベルの「共通了解」で言うと、宗教とレベルが一緒になってしまうのでは?ということです。
まあ、竹田先生の「宗教」の概念がエリアーデなので、そことはまた違う話ではあるのですが、既にある「宗教」の枠組みの説明を採用して個々に思考しない、というロジックでしたら、確かに違っているな、という気がします。ただ、仏教の「悟り」という概念の意味を考えると、同じことをしているのかもしれない、とちょっと思いました。
宗教に関しては、竹田先生は「信教の自由」ではなく「信仰の相互承認」が必要、おっしゃっていて、これは確かに!と思いました。自由を主張し続けると結局は分断や分裂を産み、争いしか起こりません。そうではなく、まさに「自由の相互承認」の思想の元に「信仰の相互承認」があれば、目に見える対立の根源にある「目に見えない対立」を解消できそうだな、と思いました。このあたりは憲法学者などにも知って欲しい概念だな、と思いました。竹田先生は既に『哲学は資本主義を変えられるか』とい御著書を出されていますが、個人的にはこの話の延長線で、『哲学は民主主義をよみがえさせらるか』というような本も書いて欲しいな、と思いました。
それはともかく、もっと単純に考えて、人文科学や社会科学における「哲学」には対話が必要、という話をされているんだな、と思って、これはこれでコーチングを科学しようとしている自分の中でバッチリハマるというか、なるほど確かにねーと思ったのでした。
ここで講座の中では、教室の最後尾で聴講されていた弟子の苫野一徳さんをなんとか壇上にひっぱり出そうとする竹田先生と、出るのを拒む苫野さんとの駆け引きもあって面白かったのですが、竹田先生曰く、苫野さんは「本質観取のファシリテーター養成の第一人者」とのこと。講座でも紹介されていた書籍はこちら。
ちなみにこの「苫野一徳さんをなんとか壇上にひっぱり出そうとする竹田先生と、出るのを拒む苫野さんとの駆け引き」は、最後の質疑応答のときに成就しました。
ということで、あっという間の2時間でしたが、この講座自体も苫野先生ファン、竹田先生ファンの集まりのようになっていて、いまいち外に開かれている感じもしないし、主催者側もそう考えてるのだろうなぁ、と思って、これこそが「哲学」という分野の問題点なんだろうなぁ、と思いました。
それこそ、アメリカのビジネススクールでギリシアの古典をみんなが読んでいるくらい、開かれたものにするにはどうしたらいいんだろう、と考えていくと、苫野先生のように教育現場に、という方法もひとつですが、教育現場での試みというのはどこかに強制力が働くので、苦手な人、嫌いな人を作ってしまうのだろうな、という思いもどこかにあります。
私としては、必ず対話を産み出すコーチングという手法の中で、それが実現できるように、もっとたくさんのプロコーチの方々に、哲学を知って欲しいなぁ、と思っていて、そういう意味で「哲学」関係の記事も書いているので、その思いを新たにした機会となりました。
ご興味あればこちらの記事をどうぞ。
ちなみにこの講座への参加費は、下記の「ひふみコーチ」の講師を務めさせていただいたものからの支払いとさせていただきました。機会をいただいた「ひふみコーチ」の皆さんに感謝致します。
現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローもコメントも記事の引用・紹介も大歓迎です。
ご意見・ご感想・記事で取り扱って欲しい話題のリクエストも専用フォームより募集しております。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!