【ピリカ文庫】いつもの喫茶店。
ちょっと重い玄関の扉を開けると、ギィイっという、重苦しい音がする。いつも通りの「いらっしゃいませ」という、マスターの心地よいあいさつが響く。
──いつもの喫茶店。もちろん店名はあるのだけど、「いつものあそこ」と認識するくらいで、店名はすっかり記憶の片隅に行ってしまった。決して忘れてしまった、わけではない。
私がテーブル席に着席すると、「本日は何にいたしましょう?」とマスターが尋ねる。「いつもの」。「いつもの」で通じるくらいには常連のつもり。マスターがゆっくりと湯を沸かし始める。
何と言ってもこの喫茶店の特徴は、店内にラジオが流れていることだ。それほど繁盛しているとは言い難いし、マスターが話し好きというわけではないから、だったりするのかもしれない。
店主の趣味溢れるオールディーズの洋楽が流れる喫茶店だったり、近年は“レコード・カフェ”と呼ばれる、客が好みのレコードを店内で流したりする喫茶店もあるようだ。この店もまた、そんなマスターのこだわりなのだろう。
いつものようにコーヒーの抽出を待っていると、カウンターの隅に置いてある、インテリアと一体化したかのようなラジオが、主張しすぎない程度に聴こえてくる。
──時計の針は午後3時を回りました。皆様ご機嫌いかがでしょうか?暦の上では秋だっていうのに、こちら東京では30度を超える真夏日。こう毎日暑いと「暑い」と言うだけで、もう嫌になっちゃいますよねー。
というわけで、今日のメッセージテーマは「暑い!」で、リスナーの皆さんからのメッセージをお待ちしております!テーマじゃないメッセージももちろんOK!メールは番組のメールフォームから送ってくださいね☆
折角なので、先日買った文庫本でも読もうかと思ったが、しまった!持ってくるのを忘れてきてしまった。手持ち無沙汰だし、番組にメールでも送ってみようかな。
◇
「お待たせしました。アイスコーヒーです」とマスターがコーヒーを差し出す。さすがマスター、分かってる!こう連日暑いとアイスだよなぁ。出来立てのアイスコーヒーが楽しめるのも喫茶店ならでは、だろう。
ガムシロップとミルクを加えて、じゅるり。暑いので、ちょっと濃いめで甘さ強めのすっきりしたコーヒーがいいわぁ、などと思いながら、先程番組に送ったメッセージが気になっていた。
さて、続いてのメッセージは…おっ、お初ですね。ラジオネーム「夜のピクニック♪」さんから。メッセージありがとうございます!
「パーソナリティさん、こんにちは。今日のメッセージテーマですが、実は私、転職を機に引っ越そうと思うんです。新しい上司に代わって仕事がやりづらくなったのと、お給料も休みも少ないし、もうこの仕事いいかなーって。毎週同じ時間にマイクに向かうパーソナリティさんって、ラジオに対する情熱が尽きたことってありませんか?」
という、今の熱い気持ちを送ってくださいました!
──あー読まれた。私のメッセージだ。マスター、気づいてるかなぁ。
パーソナリティは続ける。
私も、先輩にいろいろダメ出しされたり、ご意見を頂いたりして、もうこの仕事向いてない!って辞めたくなったときがあります。でも、転職するのがものすごく怖かったです。いま、ここで辞めてほかで通用するかって。
私には勇気が無かったんで、折り合いの良くない先輩からは逃げちゃって。逃げちゃったけど、いろいろあって今もパーソナリティやってます。「わたしの信念」っていうと、ちょっと堅苦しい感じになっちゃうけど、私がこれだって思ってることがあるから、今も続けてるのかも。
先輩とぶつかったら素直に受け入れて改めるのも後輩として大切だと思う
けど、真っ正面から立ち向かっていくだけが正解ではなくて、時には嫌だってケンカしたり、大きな壁を横から回り道したり、壁に穴を開けちゃうというのもアリだって、今は感じます。
…なんか語っちゃいましたね🤭新しい夢にチャレンジしようとしている「夜のピクニック♪」さんを応援しています☆
では次のメッセージです!
ふふっ、パーソナリティさんに応援されちゃった。何でも直球勝負して勝利を目指すだけではなく、時には回り道が正解なことだってあるのかもしれない。
◇
気づけば午後4時。これからのこと、仕事のこと。物思いに耽ってしまった。お会計のときに、「そっかぁ…引っ越しちゃうのか。ウチの店に通ってくださってるのに残念だなぁ」とマスターが話しかけてくる。
──ああやっぱり、マスターに気づかれちゃったかぁ。マスター鋭い!
「まだ決まったわけじゃないですけど、実はそうなんです。引っ越すときにはご挨拶しに来ますね」と私が返す。
「寂しくなっちゃうなぁ。そのときは餞別代わりにサービスするよ!」とマスターに見送られる。そういう心遣いがうれしい。
◇
帰り道、すっかり日が傾くのが早くなっているのに気づいた。暑い日々が続いていたのと裏腹に、季節はすっかり秋になっていたようだ。これから涼しくなっていくのかな。
知り合いだから話せること。知らないから本音を話せること。どれだけテクノロジーが進んだとしても、ラジオがリスナーにそっと寄り添ってくれるメディアだから存在し続けている、のかもしれない。
おしまい。
(2,128字)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
あとがき
依頼に二つ返事でOKしてしまいましたが、普段物語を書かないので、執筆に当たって相当悩んだ挙げ句、結構な時間を掛けてプロットを作ったのはここだけの秘密。ピザさん、ピリカ文庫にお誘い頂きありがとうございました!
それとピリカ文庫で喫茶店っていうと、どうしてもピリカさんの名作「ヒトリ珈琲」を想起してしまいますが、出来る限り寄せないようにはしてみました。結果として微妙に似ちゃったりして。
気の利いたセリフをマスターに喋らすと「ヒトリ珈琲」になっちゃうので、あえてラジオを間に挟んで、第三者に喋らすという荒業。その上、登場人物すべてを匿名・性別不明にしてみました。一応決めたけど。
エッセイ風味を感じるのはクセですが、ピリカ文庫に収録されるということで、掌編小説を意識して書きました。手練れの皆様からすればお子ちゃまの戯言状態でしょうけど、どうかお許しを。お楽しみ頂けましたでしょうか。
ヘッダ画像は群馬県・草津温泉にある喫茶店、「花栞」の「レトロプリンホイップのせ」。硬めのプリンがおいしい。いつも草津に寄ったときにお世話になっております。
もちろん創作ですので、登場人物はすべてフィクションです。但し、「私」の心理描写についてはご想像にお任せします🤭
ピザさんが紹介文を書いてくださいました。
そして、ピリカ文庫のもうお1人方はとらふぐ子さん。ユニコーンの曲と時代の流れ、それに喫茶店のマスターをクロスオーバーさせて書いてらっしゃいます。併せてお読み頂けると幸いです。
追記。ポッドキャスト番組「すまいるスパイス」で、素敵なお声のくまさんに朗読して頂きました。DJの秀島史香さんに寄せて朗読されたとのこと。文字を追うのとまた違った感じ方を味わえるはずです。
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