過去の双子座天王星時代②アメリカ独立戦争と奴隷解放運動の起こり
天王星が発見されたのは1781年なので、アメリカ独立戦争の頃には発見されてはいませんでしたが、天王星が存在しなかったわけではありません。
前回は天王星が発見されてから起きたフランス革命と啓蒙思想のことを書きましたが、今回は現在のように天王星が双子座にいた時代のアメリカ独立戦争と宗教的覚醒運動、奴隷解放運動のことを書きます。
(長くなってしまったので分割しました)
双子座天王星とアメリカの戦争
アメリカ独立戦争の始まりの1775年に、現在と同じように双子座に天王星が入りました。同じ年にフランス革命で処刑されてしまうルイ16世が即位しています。
アメリカ独立戦争の背景
はじめての世界大戦とみなされることもある七年戦争(1756年から1763年。アメリカではフレンチ・インディアン戦争と呼ばれる)にイギリスは勝利し、ヌーベルフランス(フランス植民地)の大半、スペイン領フロリダ、西インド諸島のいくつかの島、西アフリカ海岸のセネガル植民地、インドにおけるフランス交易地に対する優越を獲得しました。

ピンクと紫がイギリス領、青がフランス領、オレンジがスペイン領。

フォンテーヌブロー条約でスペインが獲得した領土(黄色)
しかし、戦争に要した費用を払うために、北アメリカの13植民地に相談することなく税金を課しました。
1767年にイギリス本国議会で制定されたタウンゼンド諸法に反対したマサチューセッツ湾直轄植民地(現マサチューセッツ州)のボストン市民約300名から400名が1770年3月5日に暴動を起こし、イギリス駐屯軍の兵が発砲して市民5名を射殺した事件(ボストン虐殺事件)が起きました。

この事件は愛国者(パトリオット)が「虐殺」という言葉を用い、誇張も伴って植民地社会に喧伝され、イギリス本国と13植民地全体に緊張が高まりました。
事件の結果、タウンゼンド諸法が一部撤廃されましたが、本国と植民地の溝は埋まらず、その後もガスピー号焼き払い事件や有名なボストン茶会事件などが起こり、最終的にアメリカ独立戦争に至りました。
ボストン茶会事件については、こちらの記事に少し書きました。
(リンカーン暗殺シリーズは現在ほとんどを無料公開していますが、いずれ有料に変更する予定です)
開戦時の状況*天王星が双子入り
独立戦争の一番最初の戦いは、1775年4月19日のレキシントン・コンコードの戦いと言われています。
この戦いではアメリカ大陸軍(革命側)が勝利しました。
天王星は1775年4月9日に双子座に入ったばかりでした。


戦争が始まった当初は、アメリカには陸軍も海軍も無く、各植民地には地元の民兵部隊が存在するのみでした。(アメリカ海軍の発足は1775年10月)
開戦時、一部を除いた民兵隊のほぼ全てがアメリカ大陸軍に加わりましたが、民兵の装備は簡単なものであり、通常の制服も無かったそうです。
民兵には正規兵のような訓練や規律が欠けていたが、レキシントン・コンコードの戦い、ベニントンの戦いとサラトガ(1778年)、さらにボストン包囲戦では正規兵を打ち負かすことができた。
1775年6月、ジョージ・ワシントンが総司令官に任命され、ベンジャミン・フランクリンが初代郵政長官に任命されました。
フランクリンがフランスに協力と参戦を求める交渉役として派遣された結果、アメリカの反乱はフランスの特権階級に好意的に受け入れられ、イギリスの専制に対する啓蒙思想の具現化として認識されました。
自由と近代化の理想に燃えたピエール・シャルル・ランファン(ワシントンDCの設計者)や、のちにジョージ・ワシントンの大親友となるラファイエット将軍のような若者達(フリーメイソン)が1776年に志願兵になりました。

フランスはポルトガルのダミー会社を使い、密かにアメリカに武器・弾薬を販売しました。1776年末までの軍需物資の輸入元の90%がフランスでした。
国王ルイ16世(フリーメイソン)はアメリカ植民地を救援したかったが、財政状態が緊迫していた故に隠密に援助するに留まっていました。
ベンジャミン・フランクリンが郵政長官に任命されたのは、1737年にフィラデルフィアで郵便局長に就任し、その後ペンシルベニア植民地議員や郵便総局長をつとめた経験からですが、南北戦争での郵便局の仕事内容が諜報だったことを考えると、当時の仕事内容も諜報活動だったのじゃないかなと思っています。
ベンジャミン・フランクリンは発明家でもありましたが、もともとの仕事は印刷業でした。
独立戦争時にはイギリスから紙が入らなかったので、彼は昔取った杵柄で「麻」を漉いて紙を作り、独立宣言の用紙にはその麻の紙が使われたとも言われています。

フランクリンは1730年にフィラデルフィアのセントジョーンズ・ロッジでフリーメイソンに入会し、1734年にはグランドマスターになっています。
ジョージ・ワシントンは、1752年2月4日にバージニア州のフレデリックスバーグ・ロッジNo.4 でフリーメイソンに入会しました。
フリーメイソンの反乱だった独立戦争
フランスは当時財政的に困難な状況でしたが、この戦争を長年フランスの宿敵であるイギリスを弱体化させる機会として捉えていました。
フランスの特権階級は、七年戦争の敗北(1763年のパリ条約)以来、イギリスへの復讐を夢見ていたと言われています。
イギリスの名誉革命(1688年)によって、スコットランドから追放されアメリカに渡ったジャコバイト(ステュアート朝のジェームズ2世の支持者)も、フランスによる復讐に大いに期待していたそうです。
ベンジャミン・フランクリンは、フランスはヌーベルフランス植民地を取り返せると訴えましたが、外務大臣ヴェルジェンヌを除いた外交、財政、軍事および経済を担当する指導者層の多くは参戦には懐疑的でした。
しかしサラトガの戦いで大陸軍が勝利し、フランスは13植民地が勝つかもしれないと思うに至り、1778年2月に同盟条約を結び、参戦に転じました。
1779年6月には、スペインがフランスの同盟国として参戦しました。
フランスは13植民地が自立した状態にあることを認識し、双方とも勝手に休戦しないこと、および植民地はアメリカにおけるフランスの権益を守ることで合意した。
オランダもイギリスの力を削ぐことを期待して、戦争の初めからアメリカに密かに財政的な援助をしており、1780年に参戦しました。
要するに「イギリスに一泡ふかせろ」という理由で、各国はアメリカの独立を応援したわけですね。
こうして最初は子(アメリカ)が親(イギリス)に反抗して始まった家庭内暴力だったのが、国際戦争へと発展したのでした。

その頃イギリスは第一次産業革命による隆盛もあって、大帝国への道を開いていました。
国王ジョージ3世(フリーメイソン)は、「懲らしめれば、いずれ反省して権威(親)の下に戻りたいと願うようになる」と考え、ヨーロッパの連合軍を打ち負かした後で反抗している植民地(子ども)を再度従わせる計画を持っていました。
↓ジョージ3世時代のイギリスの様子(よかったらご覧ください)
フランスは借金地獄に
最初の3年間の主戦場はアメリカの北部に限られていましたが、フランスが参戦してからはイギリスは王党派が多い南部を支配して優位に立とうとしました。
先住民族の大半が戦争に巻き込まれ、多くの部族社会は戦争への関わり方を巡って分裂することになったが、それまでアメリカの開拓者からの侵略に曝されていたために、先住民の多くはアメリカと敵対する道を選択した。
およそ13,000名の戦士がイギリス側で戦闘に従事したと推定されており、その中ではイロコイ連邦の約1,500名が最大であった。
フランスとイギリスの戦いは、アメリカ領土だけでなく西インド諸島からインドまで広がりました。
フランスは1782年初頭まで和平交渉において強力な立場にありましたが、1782年4月セインツの海戦でイギリス艦隊に敗れ(独立戦争自体には何の影響も無かった)、ルイ16世にとっても壊滅的な打撃となりました。

フランス軍は大きな損害を出し、多くの者が捕虜となった(戦死または負傷3000人、捕虜5000人)。
フランス戦列艦4隻(旗艦を含む)が拿捕され、1隻が破壊された。
独立戦争の最初の4年間で、フランス海軍は4隻の戦列艦を失い(うち3隻は事故による)、1782年には15隻の戦列艦を失いました。
セインツの海戦の結果、戦略的主導権はイギリスに移り、フランス敗北を聞いたアメリカはすぐに、将来フランスの支援を得られそうにないことに気づきました。
フランス抜きで平和条約を結ばないという約束をアメリカが反故にしたため、フランスとの同盟は崩壊しました。
孤立状態で闘っていたイギリスでは、1781年9月のヨークタウンの戦いで敗北した以後、戦争維持派が急速に勢いを無くしていました。
ジョージ・ワシントンはまだしばらくは戦争が続くものと信じていましたが、イギリスの首相フレデリック・ノースはヨークタウンの降伏の報せを聞いて辞任し、後任のロッキンガム首相は戦争を続けることは得策ではないとして和平交渉に入ることを決めました。
1782年11月30日、イギリスとアメリカの間で予備的な平和条約が調印され、1783年パリ講和条約でアメリカの独立が承認されました。

フランスはヴェルサイユ条約 (1783年)によってセネガルを得ましたが、ヌーベルフランスを取り返すことは出来ず、膨大な負債が残りました。
遠距離でかつ海軍を使った戦争により、フランスの負債額は33億1500万リーブルとなり破綻宣告を待つような状況に陥った一方、財務長官ジャック・ネッケルが税率を上げずに負債を払うために借金を重ねたため、著しく景気も後退していました。
追い打ちをかけるように同年6月にアイスランドのラキ山が噴火し、その後も続いた気候不順から小麦等が不作になり、食料難が数年続いたこともフランス革命の遠因と言われています。


フランスにおける参戦のもう一つの結果は、アメリカ合衆国憲法の公布でした。(施行は1789年)
フランスの特権階級は、啓蒙主義を通じて若い国に文化的影響を与えたことに誇りを持ったそうです。
その啓蒙思想が数年後にフランス革命(フリーメイソン革命)につながり、特権階級の慢心はうち砕かれることになります。


フランスの財政危機は周知されており、アメリカ独立戦争の終結は「このへんで手を打とう。次のために」というフリーメイソン(ユダヤ)の合意だった気もしてきます。フランス革命も計画されていたと思います。
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最後までお読みくださりありがとうございました。
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