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【読後雑記】資本主義が嫌いな人のための経済学 ― ③右派が陥る加速への誘惑

要旨:
前回の記事では、ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』を手がかりとして、左派が社会の不調を終末の兆候として読み取ってしまう傾向について論じた。左派は社会のあるべき姿という「完成図」を重視するがゆえに、現実の問題を歴史の転換点として解釈してしまうことがある。

では右派はどうだろうか。右派は完成図よりも、市場競争や価格メカニズム、インセンティブといった「ピース」を重視する。そして興味深いことに、それらのピースの多くは実際に機能している。だからこそ右派の議論には説得力がある。

しかし、市場競争が有効であることと、市場競争を拡大し続けることは同じではない。金融市場が有効であることと、金融市場を際限なく発展させることも同じではない。正しいピースを持っていることと、そのピースを積み上げ続ければ正しい社会が出来上がることもまた別の問題である。

本稿では、ティモシー・ガイトナー『ストレステスト』を補助線として、右派に特徴的な市場への過信について考えてみたい。それは市場批判ではない。むしろ市場の有効性を認めた上で、「機能すること」と「委ねてよいこと」の違いを考える試みである。


1.右派はなぜ市場を信じるのか

前回の記事では、ヒースの議論をもとに「左派は完成図を描き、右派はピースを集める」という整理を試みた。もちろん現実の政治思想はそれほど単純ではないし、左派にも制度論は存在するし、右派にも理想社会の構想は存在する。しかし傾向として見たとき、この整理は一定の説明力を持っているように思われる。

左派は社会がどうあるべきかという問いから出発する。格差のない社会、公正な社会、持続可能な社会といった理想像を描き、その観点から現実を評価しようとする。一方で右派は、社会を構成している個々の制度や仕組みに注目する。市場競争はどのように機能するのか。所有権はなぜ重要なのか。価格はどのように情報を伝達するのか。インセンティブはどのように人々の行動を変化させるのか。そのような問いを通じて社会を理解しようとするのである。

そして重要なのは、右派が注目するこれらのピースの多くが実際に有効であるという点である。市場競争は企業に技術革新を促す。競争相手よりも優れた商品やサービスを提供しなければ生き残れないからである。価格は社会に散らばった無数の情報を集約する。ある商品が不足すれば価格は上昇し、その情報は生産者へ伝達される。利益は投資を促し、インセンティブは人間の行動を変化させる。これらは単なるイデオロギーではなく、経済学が長年蓄積してきた知見でもある。

ヒース自身も市場を否定しているわけではない。むしろ市場の機能を理解しないまま市場批判を行う左派に対しては厳しい。市場には市場でしか果たせない役割があり、その役割を無視して社会を設計することはできないからである。

だからこそ右派の議論には説得力がある。しかし問題は、その説得力が強いがゆえに、一つの飛躍が生じることである。市場競争は有効である。だから市場競争をさらに拡大すればよい。金融市場は資金配分を改善する。だから金融市場をさらに発展させればよい。技術革新は社会を豊かにする。だから技術革新を加速させればよい。そのような発想は自然であり、だからこそ魅力的なのである。

しかし、この推論は本当に成立するのだろうか。市場競争が有効であることと、市場競争を拡大し続けることは別の命題である。金融市場が有効であることと、金融市場を無制限に発展させることも別の命題である。ところが右派は、ときとしてこの区別を曖昧にしてしまう。そして、その曖昧さこそが後に大きな問題を生み出すことになる。


2.正しいピースは魅力的である

左派が終末論に惹かれる理由の一つは、終末論が魅力的な完成図を与えてくれるからだった。社会の不調は新しい社会への移行を告げる兆候であり、現在の矛盾はやがて解消される。そのような物語は複雑な現実に意味を与えてくれる。

右派の場合、それとは少し異なる。右派を惹きつけるのは完成図ではなく、成功したピースである。

市場競争は実際に成果を生み出してきた。技術革新もまた成果を生み出してきた。金融市場は資本を集め、新たな事業を可能にし、経済成長を支えてきた。これらは理論上の話ではなく、現実の歴史が示している事実である。

だからこそ市場は魅力的なのである。もし市場が失敗ばかりしているのであれば、市場原理主義など生まれないだろうし、競争が何の成果も生み出さないのであれば、競争を重視する思想も支持されないだろう。しかし実際には、市場は数多くの成功を生み出してきた。だから人々は市場を信頼するのである。

ここで生じるのが、「成功したものはもっと増やせばよい」という発想である。市場競争が技術革新を促進したのなら、もっと競争を導入すればよい。金融市場が経済成長を支えたのなら、もっと金融市場を発展させればよい。技術革新が人々の生活を豊かにしたのなら、もっと技術革新を加速させればよい。一見すると自然な発想である。

しかし、ここには見落とされていることがあるのではないか。
市場競争が有効であることと、市場競争を拡大し続けることは同じではない。

例えば薬は病気を治療する。しかし、薬が有効だからといって飲めば飲むほど健康になるわけではない。同じように市場競争も、特定の条件のもとでは非常に有効な制度である。しかし、その有効性が確認されたからといって、それを無制限に拡張してよい理由にはならない。

ところが成功体験は強い。正しいピースを持っている人ほど、そのピースをさらに集めたくなる。そして右派の誤謬は、まさにそこから始まる。


3.市場はなぜ止まれないのか

この問題を考える上で興味深いのが、ガイトナーの『ストレステスト』で描かれる金融市場の姿である。

2008年の金融危機について語る際、多くの人は市場の暴走という言葉を用いる。しかしガイトナーの回想録を読むと、そこには単純な暴走とは異なる風景が広がっている。

金融機関の経営者たちは市場を破壊しようとしていたわけではない。投資家たちも世界経済を危機へ陥れようとしていたわけではない。むしろ彼らは、自らの立場から見れば極めて合理的に行動していたのである。新しい金融商品が開発されれば利益が生まれ、その利益を見て競合他社が参入する。市場が拡大すればさらに新しい金融商品が開発される。この循環は、金融危機以前の市場において繰り返されていた。

ここで重要なのは、それぞれの判断が個別に見れば合理的だったということである。利益機会が存在するなら参入する。競争相手が成功しているなら追随する。より高い収益を得られる商品が存在するなら利用する。それは市場経済の中ではむしろ期待される行動ですらある。

しかし問題は、それらの合理的な行動が積み重なったときに生じる。金融市場は次第に複雑化し、リスクは見えにくくなり、誰も全体像を把握できなくなっていった。個々の参加者は合理的であったにもかかわらず、市場全体は制御困難な状態へ近づいていくのである。


ここに市場の難しさがある。危機は非合理性によって生じたわけではない。むしろ合理性が徹底された結果として生じたのである。市場は暴走していたのではなく、合理的に加速していたのである。そして、この加速こそが右派的な発想の限界を示している。


4.ピースは絵を完成させない

ここで改めてヒースのパズルの比喩へ戻ってみたい。

市場競争というピースがある。金融革新というピースがある。技術革新というピースがある。どれも有効であり、どれも現実に成果を生み出している。だから私たちは、それらをさらに増やしたくなる。

しかし問題は、その瞬間に始まる。なぜなら、ピースの有効性と完成図の妥当性は別だからである。市場競争は社会の一部を改善するかもしれない。しかし、そのことから市場競争を拡大し続ける社会が望ましいとは導けない。金融革新は資金配分を改善するかもしれない。しかし、そのことから金融市場を際限なく拡張することが正しいとは導けない。

ところが右派は、ときとしてこの飛躍を見落としてしまう。正しいピースを持っている。そのピースは実際に成果を生み出している。だからさらにピースを集めればよい。そのように考えてしまうのである。

しかし実際には、ピースを集め続けても完成図が現れるとは限らない。むしろ気づけば手元には膨大な量のピースだけが積み上がり、肝心の完成図が見えなくなっていることさえある。

市場競争は何のために存在するのか。金融は何のために存在するのか。技術革新は何のために存在するのか。本来であれば、こうした問いが先に存在するはずである。しかし手段が成功し続けると、人はしばしば手段そのものを目的と取り違える。そして、そのとき市場は自らの成功ゆえに方向感覚を失い始めるのである。


5.市場は「十分」を知らない

ここで問題になるのは、市場そのものの性質である。

市場は不足を発見する能力に優れている。需要が存在すれば供給を呼び込み、利益機会が存在すれば投資を促し、競争を通じて非効率を改善しようとする。その意味で市場は極めて強力な調整装置であり、近代社会が生み出した制度の中でも最も成功したものの一つと言ってよいだろう。

しかし、その優秀さゆえに見落とされがちなことがある。市場は不足を発見することはできるが、「十分」を定義することはできないのである。

市場は常に次の利益機会を探し続ける。より大きな市場、より高い収益、より効率的な仕組みを求め続ける。そこには終着点が存在しない。なぜなら市場は目的ではなく手段だからである。手段は方向を示すことはできない。

市場は需要に応えることはできる。しかし、その需要が本当に満たされるべきものなのかを判断することはできない。市場は利益機会を発見することはできる。しかし、その利益追求が社会全体にとって望ましいのかを判断することもできない。

つまり市場は、「もっと」を語ることはできるが、「もう十分だ」を語ることはできないのである。ここに市場の限界がある。そして、その限界を理解しないまま市場を信頼すると、社会は終わりのない加速へ向かってしまう。


6.必要なのはブレーキの技術である

ガイトナーの議論が示しているのは、市場の失敗というよりも、市場を止める仕組みの必要性だったように思われる。

市場は必要である。競争も必要である。価格メカニズムも必要である。それらを否定することはできない。問題は、それらが有効だからといって、それだけに委ねてよいと考えることである。

市場は加速する能力を持っている。しかし減速する能力は持っていない。だからこそ政治が必要になり、規制が必要になり、監督が必要になり、国家が必要になるのである。それらは市場の敵ではなく、むしろ市場が市場として機能し続けるための条件なのである。

前回の記事で見たように、左派は完成図を信じすぎることで終末論へ向かう。問題が存在することを、歴史の終焉として読み取ってしまうのである。それに対して右派は、ピースを信じすぎることで加速論へ向かう。市場が機能することを、市場に委ね続けてよい理由だと考えてしまうのである。

しかし社会はそのどちらでもない。歴史は運命ではない。同じように、市場は自動操縦ではない。必要なのは完成図だけでもなく、ピースだけでもない。その両方を見ながら、どこへ向かうのかを考え、必要であれば立ち止まることである。

左派編では、「問題があること」と「終わること」は同じではないと論じた。本稿で論じたかったのは、それと対になる論点である。すなわち、「機能すること」と「委ねてよいこと」もまた同じではないということだ。

市場は優秀である。しかし、その優秀さゆえに危険でもある。その力を否定するのではなく、その力をどこで止めるのかを考えること。それこそが、おそらくガイトナーが金融危機から学んだことであり、ヒースの議論が私たちに問いかけていることなのだろう。

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