靖国神社と昭和天皇(3)
【冒頭断わり】-「本稿(3)」は以下の(2)承前である-
1 自分は戦争をしらない世代だからといって,1945年8月以前には自分はなにも関係がないといいきった日本国首相高市早苗の「ムギワラトンボ的な脳天気加減さ」の超極楽トンボ性は,一国の最高指導者の立場としてはもっとも不適な実例
1995年3月16日のことである。当時,衆議院では新進党に所属していた新人議員の高市早苗(34歳)は,国会・衆議院外務委員会において「戦後処理や歴史教育の議論」をめぐる答弁のなかで,「少なくとも私自身は,当事者とはいえない世代ですから,反省なんかしておりませんし,反省を求められるいわれもないと思っております」といいきっていた。
ドイツの哲学者,ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルが語ったところには,「歴史から学ぶことができる唯一の教訓は,人間が歴史から何も学ばないということだ」という有名な,よくしられた警句があった。人間たちは「人類として同じ過ちをなんどでも繰り返す」しかない本性をもつわけだが,その種の「皮肉な真理」がまさに,高市早苗の立場から恥じらいすらなく,明白に堂々と演じられてきた。
そうだとすると現在65歳になっている高市早苗自身が将来,「攻守ところをかえた関係」のなかで,つまり,後進の議員たちからもしも,「自国にかかわって発生してきた歴史諸問題の発生に関して」〔つまり,あなた=高市早苗の失敗・錯誤そのものに関して〕とならば,「少なくとも私たち自身は,当事者とはいえない世代ですから,反省なんかしておりませんし,反省を求められるいわれもないと思っております」と,即座にいいかえされたとき,いったいどのように返答するのか見物(注目)である。
すなわち高市早苗は,この人なりに「自分史が背負っている歴史の制約」は自分1代かぎりでのみ存在しうるし,あるいは,自分だけに課せられた事象として「完結できている」と独断していた。
けれでも,彼女の場合は,また別の引き出しのなかには,「歴史から課せられたその制約」から「自分を解放するための思想」が用意されていない。それがために,歴史を観るための視野が狭窄だとか形容する以前に,自身の精神構造じたいが,両親から洗脳的に教化された『教育勅語』のために,それこそ完全に,日の丸の赤色の部分のような一色だけに染まりきっていた。
歴史観のない政治家は,結局「単に自己理念に形成に失敗した不全の政治屋」にしか過ぎない。このような人物に,一国の最高指導者の職務を与えている現状日本の政治体制は,すでに「衰退途上国」と自虐的に把握されているゆえ,それなりにふさわしい人物かもしれなかったといえなくはないが,この国の未来にとっては〈最悪・最凶の道筋〉しか読みとれない。
昨日(2026年8月15日),高市早苗は多分,自分は首相になったときは当初,絶対に靖国にいく,8月15日という「敗戦(終戦)記念日」に参拝すると覚悟を決めていたはずである。
ところがどうだろう。その当日が来たら『毎日新聞』の翌日:8月16日朝刊1面・当該記事に,つぎのように書かれた行動を採っていた。
高市首相は,就任まで終戦の日に続けてきたとされる靖国参拝を,今回は見送った。歴史問題が横たわる中国や韓国との関係を意識した模様だ。代わりに靖国近くの日本武道館での全国戦没者追悼式に臨む前,同館駐車場で一時降車し,靖国方面に「二拝二拍手一拝」した。近くに同行記者らがいる中での祈りだった。
註記)記事の住所は,https://mainichi.jp/articles/20260816/ddm/001/010/124000c
首相,敷地外から祈り」
この記事の内容を読んで即座に思いだしたのが,彼女が首相として「先日記録していた行為」に対しては別途,つぎのごとき疑問(批判)が跳ね返ってきた記憶であった。ここでは,その関係の画像を,先に出しての説明となる。

◆ 高市総理,熊本地震視察で “ヘリから合掌”
写真のX投稿に「上から目線」「上空から見て何がわかる」
と批判殺到 … 選挙ドットコム副編集長は
「SNSでの見せ方を配慮する時代」と指摘 ◆
=『ABEMA TIMES』2026年8月6日 10:00,https://times.abema.tv/articles/-/10265571?page=1 =
高市早苗総理による被災地・熊本へのヘリコプター視察をめぐり,SNSでの情報発信が物議を醸している。
問題となっているのは,8月3日の13時14分に内閣広報官の『X』投稿された写真だ。高市総理は同日,熊本県の被災地を視察したが,日程にはヘリコプターでの視察も含まれていた。
内閣広報官は「多くの方がお亡くなりになったイオンモール熊本や日本製紙八代工場などの上空にさしかかると,高市総理は幾度となく手を合わせていました」という文言とともに,総理の拝む姿を添えて『X』に投稿した。
これに対しSNS上では「上から目線なのではないか」といった指摘や,「警護の関係もあるかもしれないが,上空からみてなにが分かるの?」といった疑問の声が寄せられている。
こちらでも悪評
【以下の段落からは『毎日新聞』2026年8月16日朝刊の引照に戻る】
自民からは鈴木氏と有村治子総務会長,西村康稔選対委員長の党執行部3人がそろって参拝に訪れた。鈴木氏は参拝後,高市首相から預かった私費の玉串料を奉納してきたと記者団に説明。「高市総裁の気持ち,思いを体して今日参拝をさせていただいた」と述べた。
関係者によると自民四役のうち小林鷹之政調会長も集団参拝にくわわる意向だったが,地元・千葉の豪雨被害対応を優先させてこの日の参拝は見合わせた。(記事引用・終わり)
【『毎日新聞』紙面からの補足】

【『日本経済新聞』紙面からの補足】

以上,本論の話題は,8月15日の遠隔の地点から靖国神社の本殿に出向けなくて,玉串の奉納でそこへの参拝に相当する宗教的な行動を済ませたつもりになってということだったが,そのさい,靖国近くの日本武道館での全国戦没者追悼式に臨む前,同館駐車場で一時降車し,靖国方面に「二拝二拍手一拝」した(近くには同行記者らがいるなかでのその祈りだった)という一連のしぐさは,
熊本地震視察を自衛隊ヘリに登場したさい,上空から被災地・被災者を下方に眺望する関係性のなかで示した彼女のやり方とは,いちじるしく合致した,つまり「なんらかが確実に共通した」「それもかなりあざといしぐさ」であったと受けとられて当然であった。
靖国神社に直接参拝に出向くとなれば,中国,韓国のみならず,宗主国であるアメリカからの評価をさらに落としそうになる可能性もあった,という〈読み〉ぐらいはできたらしい彼女の採った「一連の行動」は,これはこれでまた,政治的な平衡感覚の発揮だったというよりは,単に計算高い根性の発揮に過ぎなかった。
さて,ここまでで項目1の記述は終え,次項2からは敗戦後になってからだと,軍人(正確には自衛隊)出身の人物が,現在は宮司を務めている事実に触れてからの議論となる。
補記)本ブログ内ではすでになんどが指摘してきた問題があった。それは靖国神社に参拝に出向くさい,本殿にまでいき「英霊に参拝する行為」と「玉串奉納」とのあいだには,なんら違いはない点であった。
すなわち,両行為に関していうと,靖国的な価値観からしてまったく差がない点については,宮澤佳廣『靖国神社が消える日』小学館,2017年 第4章「相次ぐ『靖国裁判』との戦い」が,いかにも思わせぶりたっぷりに,そ付近にまつわる裏話として語っていた。
しかも,その一般市民をコケにしたかのような,靖国神社関係者の幹部たちがきわめて露骨に晒した「その基本姿勢の専横的独善性」は,一般市民の立場からは真っ向から批判されて当然の俗悪性が毒性がたっぷりと包含されていた。
2 松平永芳宮司は元・旧日本軍人であったが,現在の靖国神社宮司は元海上自衛隊海将の大塚海夫である。
元海上自衛隊将官を務めた元自衛隊幹部,大塚海夫氏(現在は66歳)が2024年4月1日,靖国神社の宮司に就任していた。同社宮司に関したこの新任人事(元軍人の採用)は,敗戦後初めてであった「旧日本軍の将校」松平永芳(戦後は自衛隊にも勤務,靖国神社第6代宮司,1978-1992年)につづいて,2人目となった。
しかし,現在靖国で現在宮司を務める大塚の話題をめぐっては,別途「重要な論点」が控えているもの,ひとまずここでは詮議せず,すでに1987年,元・旧日本軍人の松平永芳が靖国神社の第6代宮司になった事実に触れてみる。
1978〔昭和53〕年10月17日,靖国神社宮司松平永芳は「昭和殉難者」(国家の犠牲者)だみなしたA級戦犯を,靖国神社に合祀した。そのさい,のちの湧き上がるであろう「昭和天皇の複雑微妙な心理葛藤」など,松平の眼中にはなかった。当時は,世間の目も完全に避けたかたちで,密かにその合祀をおこなっていた。
この松平永芳が,靖国神社の戦争的性格に合わない・ふさわしくないとみなした「鎮霊社」の周囲に鉄柵を設けて,ここへの「一般人が参拝できないようにした」というのであるから,これはどうみても穏やかではなかった。
補記)2002年2月から2012年2月まで日本遺族会会長を務めた古賀 誠(元自民党議員)は,小泉純一郎自民党政権時のとき,靖国神社に合祀されているA級戦犯について,「一部の英霊を分祀することも検討の対象となりうる」との見解を示したことがある。
その後,最近(ここでは2015年1月のある日)テレビ番組に出演したさい,鎮霊社の存在に触れ,この祠には合祀される以前のA級戦犯の霊が祀られていたとも発言した。
〔記事・本文に戻る→〕 さて,ここでの議論のためには,次段のような「過去におけて記録された関連の経緯」が参考になる。
A級戦犯合祀には靖国内部の路線対立が投影されており,さらには,経済成長と神社経営の問題も絡んでいた。2002年5月,境内の靖国会館であった崇敬奉賛会総会で,会長に就任した久松定成元愛媛大学教授は「内外の戦没者を祭った鎮霊社が示す愛の小世界にも心を打たれる」,この「宣伝を強化すべきだ」とあいさつした。
久松定成は,旧伊予松山藩18代目の当主,父は筑波氏の従兄弟。鎮霊社を「昭和天皇の御心がかなった社」と訴えたが,神社側の反応は鈍かった。
実は,会津白虎隊や西郷隆盛ら明治政府の「賊軍」は,鎮霊社に祭られている。A級戦犯も,合祀されるまでは「ここに祭られていたと考えられる」が,1978年10月17日から本殿に祭り上げられたわけである。
ほとんど忘れ去られた鎮霊社をよそに,「大東亜戦争は避けられない戦争だった」と宣伝する遊就館は,夏休みで連日にぎわっていた。
註記)以上の引用は,http://members3.jcom.home.ne.jp/sss.hirohiko/newpage[1].html を参照〔したが,2024年4月時点で一度,リンク先住所を確認してみたところ,当時ですでに削除されていた〕。以外にとくに関連した出典は『毎日新聞』2006年8月9日〔東京〕朝刊。
とはいっても,松平永芳に固有の深層心理機制は容易に理解できる。戦争神社である靖国の境内に〈戦勝(?)に貢献しえなかった戦没者・犠牲者〉がともに祀られ ることは許されない(!)。それゆえ,松平にとってすれば,その存在じたいからして絶対に認められなかったのが,その「鎮霊社」であった。

拝殿や本殿の現状にみくらべるとしたら
とてもミジメっぽくも貧乏臭い印象を受ける
ここでは,写真の左側に移っている「案内文」の文字が,よく読みとれるように切りとった「構図」での画像をかかげてみた。
この画像を出したならば,鎮霊社そのものの雰囲気も,だいたいのところで観取できそうである。大人が実際にこの前に立ったら,いったい「どのような程度の祠」として「ヒトの目に映るか,想像してみてほしい」。
この鎮霊社の案内版には,「萬邦諸国の戦没者も共に鎭齋する」という文句が書いてある。だが,本記述に照らして判断するのだが,「このいいぶんは欺瞞に富んだセリフ」としか解釈できなかった。
3 鎮霊社の異様さ
鎮霊社に関して靖国神社側は,「明治維新以来の戦争・事変に起因して死没し,靖國神社に合祀されぬ人々の慰を慰める爲,昭和40年(1965)7月に建立し,萬邦諸国の戦没者も共に鎭齋する」という〈主張〉は,身内にしか通用しない手前勝手(手前ミソ的)な理由づけをおこなっていた。
ここでは以下に,毎日新聞「靖国」取材班『靖国戦後秘史-A級戦犯を合祀した男-』毎日新聞社,2007年,4-5頁に掲載されていた「靖国神社関係の年譜」を参考にまでかかげておく。上段に,敗戦後から同書発刊時までの歴代宮司のうち南部利昭までの氏名が並んでいる。

ところで,第9代宮司の南部利昭が,鎮霊社の周囲に取りつけてあった鉄柵を除去したのは,いくら靖国といえども日本の神社としての歴史的な伝統を,最低限は配慮せざるをえない事情を示唆していた。
ましてや〈敗戦後は一般の宗教法人となった神社〉に他律的に変身させられていたゆえ,1947年からは「みたままつり」という祭事を,それらしく〔というのは一般の神社の真似をしてという意味だが〕催すことになってのいた境内の風景としてならば,鎮霊社を鉄柵で囲んでおいた状態は,いささかならず異様であった。
その境内のなかで「鎮霊社」を鉄柵で封鎖するというその乱暴なあつかいは,国際社会において靖国をどのようにみさせるかという問題をも惹起させた。さらにはその後,日本社会そのものがこの靖国のしぐさをどのように受けとめているかという配慮もなされたからこそ,その鉄柵は排除されたと解釈しておくのが順当である。
しかし,以上の論述に関していえば,前述で若干触れた,つぎのような疑念が出てくる。これは,あの本当に立派で豪奢な「拝殿や本殿」などに「鎮霊社」を比べてみたうえでの話になるほかないが,靖国神社境内を案内した説明地図によっては,この鎮霊社のある場所を指示していない場合もある。
すなわち,それら案内図は,鎮霊社が明示されていたり,されていなかったりでもあり,なにやらそのあつかいをめぐっては「特別の事情なり経緯なり」が「あったり,なかったり」してもいた様子じたいまで,伝わってこないではなかった。あるいは,靖国の境内のなかでは「どうでもよい施設が鎮霊社だ」と感じさせもする「あつかい:案内の仕方」まであったとなれば,これはもうなんがなにやら,もうチンプンカンプンである。
靖国神社の境内にわざわざ,いってみれば「子ども用のオモチャ」同然ではないけれども,いまふうにいうとしたら,いくらか「立派な犬小屋に毛が何本か生えた程度」の,この「小さな祠:鎮霊社」を置いておき,このなかには「賊軍」やその他大勢の,けっして本殿には祀られない〈連中〉もいっしょくた,つまりごた混ぜにしたかのように祀ってある,と説明されていた。だからか,以前はここにはA級戦犯も祀ってあったのだという指摘まで聞かれた。
ことが「鎮霊社」の話になると,靖国信仰を「定義し,より包括的にその内実を具体化したい」がためだったのか,神社側から聞えてくる「神道式になるはずの宗教理解」そのものが,実は,あまりにも雑駁に過ぎるどころか,ともかくただの御都合でのあつかいに終始したとしか聞えない発言が吐かれてきた。
つまり,この鎮霊社に担わされている靖国流に与えた国家神道的な役割は,祭神に受け入れてあった霊魂たちに対する「差別的とりあつかい」を露骨なまで行使した,それも「一時しのぎの奇妙な祭祀の方法」にこそ,その特徴がうかがえた。
結局,この祠に霊的に封入された主人公たちは,A級戦犯だと説明する場合があった。あるいはまた,主にゴミ箱同然に使用される祠として,賊軍集団が一括して放りこまれている場合もあった。この種の〈物語〉が,この鎮霊社には背負わされていたことになる。
4 遊就館の黄昏れた雄姿,敗北した旧日本軍の兵器・武器を陳列する意味,靖国神社の「鎮霊社」とは反対側に戦争博物館「遊就館」が位置している
この「博物館である遊就館」は,靖国神社の慰霊祭などの「絵入り解説書」のような役目をもつ,といえるかもしれない。ここでは靖国神社の主な展示物を写真で紹介したいが,とりあえずは,同社ホームページの参照を期待しておき,本論では再度,ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』平凡社,2011年の記述に戻ろう。
--さて,「国のために死んだ人びとの勇敢さを賞賛するのは,なにも遊就館だけではない。むしろあらゆる戦争博物館の存在理由だ」といっていい。「そして戦争博物館に共通の特徴がもうひとつあ」り,「それは戦争のテクノロジーに参観者の目線を集中させ,過去の記憶を『消毒する』ことである」(271頁)。
遊就館には泰緬鉄道で使用されたC56形式の蒸気機関車を展示されている。だが,泰緬鉄道の「敷設は困難をきわめた」とあるだけで,その鉄道の建設過程で9万人もの捕虜・現地労働者が犠牲となったことは無視している。
ロケット特攻機「桜花(おうか)」,人間魚雷「回天」〔訳本の活字は〈回転〉と入力ミスしている)や実物大の模型も陳列されている。しかし,これらの解説文は技術面では詳細にわたり興味深いものの,人を殺す機械であることは,なかば隠蔽されている(271-272頁)。
ということで,この遊就館において目立つ,つぎのごとき特徴に触れておく必要もあった。
遊就館の「もっとも顕著な特徴は,敵の姿の,不思議な不在」であり,「勝利をおさめた敵の姿が15年戦争の語りから消えている」。蒋 介石および汪 兆銘の顔写真は出ていても,米英の軍は姿のかけらすらない。
ロンドンの帝国戦争博物館(Imperial War Museum)とは違っている。要は,遊就館は博物館ではなく宝物殿であり,その使命は英霊を顕彰することのみにある。と同時に「近代史の真実を明らかにする」こともその使命であると謳っている。
とはいえ,敵不在のまま「近代史の真実」どこまで語られるか問題である。靖国が語れるのは顕彰に合わせた歴史のみであって,敵を不在にする結果は,もっとも痛ましい記憶・敗北の記憶・加害の記憶・戦争の虚しさの記憶などを,すべて抹消することになる。どうやら遊就館はそれらの史実を直視できないらしい(272-273頁)。
戦争に完敗した旧大日本帝国のぶざま,全国津々浦々を焦土にされ,あまつさえヒロシマ・ナガサキには原爆を落とされた戦史は,けっして語りたくもないのである。
遊就館は沖縄戦を展示しているけれども,その記憶はきわめてあやふやであって,軍が沖縄県民を虐げてきた事実には触れない。沖縄県民にとっては周知の事実,悲惨な史実が記憶の取捨選択のせいでないものとされている(273頁参照)。
敗戦という事実そのものはみたくない官軍神社としての
想い出にのみ浸っていたいのである
以上に記述した遊就館の展示物に表現される「皇国史観」が,21世紀のいまにあっても,司馬遼太郎の歴史観「坂の上の雲」に通じていくことは,理の必然的ななりゆきであった。しかし,そのことが容易に感得できたとしても,遊就館の立場と司馬の立場において決定的に異なったのは,その間違いを司馬のほうは生前より認識していた事実である。
5 大東亜戦争肯定論
1) パール判事の無罪論
遊就館の展示は,完全に「敵が不在でも外国人がまったく不在というわけはない」 「東京裁判の判事」「ラノハビノッド・パールの肖像写真」は「大きく出ている」
極東国際軍事(東京)「裁判で被告全員無罪の意見を出した」「有名なパール」「の写真の横には著名な台詞(せりふ)」「欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人である」「が大きく書ラダ・ビノード・パールかれている」
しかし,だからといって,パールの観方が妥当な歴史記憶になるとはかぎらず,また日本の陸軍が罪を犯していないとはいえない(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』273-274頁)。
「終戦〔実は敗戦〕を扱う最後のパネルは」,大東亜戦争の「日本軍による一連の戦いは,アジアを侵略した憎むべき欧米人から諸国民を解放する,名誉ある戦争だった」ことになる。
つまり「日本の兵士は皆,天皇の名において生命を捧げた,忠誠心に満ちた英雄なのであって,けっして無駄に生命を落とした,犬死になどしたわけではない,ということになる」
なかんずく「遊就館は」「陸軍が実際に犯罪を犯したこと,中国や東南アジアに対し,実際に侵略行為を働いたことをみごとに忘却する」のである(274頁)。
要は,天皇の名のもとに軍を東アジア諸国などに進軍させた旧日本帝国は,完全に敗北していた。しかし,その総責任者:大元帥陛下である昭和天皇は,敗戦後に開廷された戦争裁判に出廷することもなく,戦勝国,主にアメリカの都合によって戦責を免罪されていた。
2) 旧日帝の最高責任者が当時,そのように罪を完全に免除された事実は,20世紀後半から21世紀にかけてのアジア史の政治世界に多大な影響を与える要因になっていた。
この天皇個人のために,たった「一銭五厘」の生命(値段)となって戦場で命を落とした,換言すれば「鴻毛より軽しと心得よ」「天皇のため国のために,命を捨てよ」と教育され,実際にそのような運命に放りこまれた帝国臣民が数百万数十万名もいた。
忠良なる帝国臣民となってだが,天皇陛下に赤子としての熱誠を捧げた彼ら・彼女らであった。この死霊たちがいまとなっては,それこそ「怒髪天と衝く」ような感情の表現をしたとなっても当然であった。生者となって残れた者たちは誰であれ,その死霊たちから逃げ切れる立場にはない。そうであってもこれまた,なにも不思議はない。
それでも,彼ら〔戦争の死者〕とその遺族たち〔生者〕の敗戦後は,まったく立つ瀬がなくなっていた。それどころか結局,国家の側からは,ただただ踏んだり蹴ったりの目に遭わされてきた。だが,「旧軍人や戦没者の遺族に対する年金」を支給されてきた遺族たちにかぎっていえば,こちらの立場はまだよほどマシであった。
そういった・こういった事情があったせいで,「彼ら」の遺族側の大多数は「かつて帝国臣民であった」にせよ大多数は,東アジアの諸国・地域の人びとに対して罪の意識をもたずに済んでいた。そういった敗戦後史をたどってきた自分たちの境遇に,たいした疑問も不思議もなく,「敗戦後の歴史」を生きてこれたのである。
3) 中国侵略にかかわる日本臣民側の立場,その歴史的な意味
大東亜戦争中,1943〔昭和18〕年9月ころの日本軍は,全70個師団のうち中国に26個師団,満州・朝鮮に15個師団,南西戦域に13個師団,本土に11個師団,南東戦域に5個師団と戦力を分散させていたが,それまですでにガダルカナル・アッツ・キスカが米軍の手に落ちてもなお,陸軍の主な戦線は中国にあった。
この中国の戦線においては,いわゆる「三光作戦」--「三光」とは中国語の意味だと「殺しつくし,焼きつくし,奪いつくす」--が,中国軍と住民との結びつきを断ち,共産軍に協力しているとみなした農村などを徹底的に破壊するための作戦として遂行された。こうした「日本軍の残虐行為=戦争犯罪」が化学・細菌兵器の使用と併せて重大な軍事的犯罪を記録したのである。
当時,中国に将兵として動員された日本軍人が,幼児期より帝国臣民として根本精神に叩きこまれた「天皇のため・国のために,命を捨てよ」,すなわち自分の命を「鴻毛より軽しと心得よ」という絶対的な命題は,この自分たちよりも「さらにもっと軽い人間存在」として,中国(広くはアジア)の民衆までみくだし平然と殺せる精神構造を,しごく当然とわきまえる「日本軍兵士側」の精神構造を惹起・定着させた。
その意味でも,遊就館の戦争展示に表現された「戦争を回顧する思想」=「被害者意識は強くあっても・加害者意識はほとんどなし」は,1945年夏以前までの時代思想としてだけでなく,21世紀におけるその「二重意識」としても,いまなお「靖国神社の境内では根強く生きつづけている」
6 「礎(いしずえ)」論など
1) 死者を褒めたたえる靖国神社の根本矛盾
遊就館の展示方法は歪曲された歴史記憶を再生産し,いうなれば「無意味に思える戦死に意味をみいだそうとする試みと位置づけられる」
「靖国神社関係者が戦争の虚しさ,戦没者の死,日本の敗北を直視しないで,できない結果でもあるが,その傾向は神社および関係団体が発行する出版物においていっそう明らか」である(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』275頁)。
それら出版物でまず注目すべきは,こういう「礎(いしずえ)」論の展開となる。
a) 現在の私たちの生活は,先人たちの築いた「礎」の上にある。
b) 殉国の英霊,250〔246万4万余〕柱の貴い「礎」の上に今日の日本があり,そしてあなたがおり,家族がある。
c) その「礎」となった人びとを祀る靖国神社は,戦没者追悼のための中心的施設として長く国民から大切にされてきた・・・(275頁,〔 〕内補足は引用者)。
こうした理屈ないしは因果の積み重ねは,実は,ずいぶんもろい歴史的認識に依拠している。
というのは,本当のところから考えれば,それほど『貴いという〈殉国の英霊〉』を出さないようにする点にこそ,「国家の役割」の一番だいじな役目があったにもかかわらず,
ともかくも「死者とならねば:殉国しなければ」,その〈国家の礎〉にはなれないと観念させる点を,無条件的に「絶対・至上の価値」とみなしていた。
ところが,「尊い命」などど形容する死生観の本質は,数多くの兵士たちを不用意にむざむざ殺しておきながらも,この人間の命に対する尊厳・その魂に対する尊崇ということがらになると,こちらのほうは「後追い的に急にとりつくろいながら」に表現される「虚飾の実体(!)」であるに過ぎなかった。
「靖国神社」側は国家神道の立場から,戦没者たちは「尊い命」を「もっていた」(?)と,無理やりに一方的かつ一律に「記憶する」。だからか,帝国臣民は,そういう宗教精神を構えた明治式の国営神社に対する信仰心を,一律的に反映する精神姿勢を強要されてきた。
しかし,大日本帝国が旧帝国臣民に対して措置していたその「英霊に対する実質的な処遇」は,実は,その真価:核心においてみれば,口先で唱えられる大仰な英霊観の「価値の高さ」にはとうてい比較すらできないくらい,実質的においてはほんのわずかの「尊崇の念」しか注いでいなかった。
その意味でも,国家が臣民に強要してきた戦没者に関する「英霊・死観」は,神道宗教的なゴマカシの回路によってのみ,成立させられていたというほかなかった。かつて,帝国陸海軍はなんといっても,「人間の死」というものを,実際には本当に軽々しくあつかっていた。
ところが,この両省の直接管掌する靖国神社は,兵士が死んだとたんに突如,臣民に対する態度を 180度「大」転換させる。死者に対してだが,急遽「英霊になった」と盛んにおだてあげていた。この豹変ぶりに驚かないでいられる者など,いったいどこにいるか?
靖国神社が「個人・肉親・家族・知人の死(戦死)」を完全に吸引・回収しようといくら努力しても,この遺族の悲しみが国家側にまるごと包摂されつくす保証は,もともとなかった。
靖国を拒否する人びとはいくらでも存在する。しかし,それでもなお,国家側は靖国神社という宗教施設を利用しながら,その取込・収容のための努力を継続する。
その国家と個人の関連性にあってはもともと,「国家(全体)と国民(臣民)」のあいだに潜在する基本的な矛盾が隠されていた。この矛盾は敗戦後も残っている。戦後における民主主義国家体制は,靖国神社の宗教問題を解決できないままでは,近隣諸国との軋轢・摩擦の基本原因も除去できない。
「礎」論とは,侵略する国家の側でも侵略される国家の側でも,非常に便利に使いまわしできる「戦争犠牲者の記憶方法」であり,その「国家概念化としての処理方法」である。明治以来,昭和にまで至ってきた「旧日本帝国由来の戦争過程の深化構造」は,この礎「論」にもとづけば,いとも簡単に無視・忘却できたかのように映っていた。
しかし,礎「論」にはみのがせない重大な陥穽があった。戦前・戦中の軍事体制国家・兵営国家「日本帝国」は,明治憲法が支配する政治社会であった。この基本的事実に照らしていえば当時の日本は,教育勅語やその倫理・道徳が絶対的で聖なるものとして仰がれていた。
靖国神社の国家宗教的な精神背景には,明治維新精神の古代史的な桎梏の実在が指摘されてよい。
補記)現在の日本国首相である高市早苗は,両親が『教育勅語』を至上とする家庭のなかで育ってきた。よくいわれてきたのは,教育勅語のなかにはイイコトも書いてあるという一説である。
しかしながら,21世紀のいまどき,日本社会のなかでジェンダーギャップ問題の解決に資するどころか,その破壊効果しか挙げえない『教育勅語の反時代性』は,高市早苗という「日本初の女性首相」のもとではさらに悪効果しかもたらしえない。
2) 陸軍省新聞班『国防の本義と其強化の提唱』昭和9年10月
1934〔昭和9〕年10月2日に陸軍省新聞班が発行したこの『国防の本義と其強化の提唱』(B6判・56頁)は,「戦ひは創造の父,文化の母である」との書き出しで始まっていた。しかし,そのように「国家が遂行する戦争を,大日本帝国は「戦ひは創造の父,文化の母である」だと定義していたけれども,その結果は1945年8月に出ていた。
この「陸軍パンフレット」は当時,新聞で大きく報道され,社会に衝撃を与えた。この陸軍パンフレット『国防の本義と其強化の提唱』は,計60万部が刊行されたという。
この『国防の本義と其強化の提唱』(陸軍省新聞班,昭和9年10月)は,57頁で付図2枚の小冊であり,「国防観念の再検討,国防力構成の要素,現下の国際情勢と我が国防,国防国策強化の提唱,国民の覚悟」の5章の構成からなっていた。
とくに「国防観念の再検討」は,こう謳っていた。
たたかひは創造の父,文化の母である。
試練の個人に於ける,競争の国家に於ける,斉しく夫々の生命の生成発展,文化創造の動機であり刺戟である。
茲に謂ふたたかひは人々相剋し,国々相食む,容赦なき兇兵乃至暴殄ではない。
此の意味のたたかひは覇道,野望に伴ふ必然の帰結であり,万有に声明を認め,其の限りなき生成化育に参じ,発展向上に與ることを天與の使命と確信する我が民族,我が国家の断じて取らぬ所である。
此の正義の追求,創造の努力を妨げんとする野望,覇道の障碍を駕御,馴致して遂に柔和忍辱の和魂に化成し,蕩々坦々の皇道に合体せしむることが,皇国に與へられた使命であり,皇軍の負担すべき重責である。
たたかひをして此の域にまで導かしむるもの,これ即ち我が国防の使命である。
その「たたかひ」によってこそ,靖国神社に英霊として合祀されていった戦没者は,たとえば,つぎの「靖国神社戦争別合祀者数」の統計によれば,全合祀者数246万6千余名のうち,大東亜戦争だけで 213万3915名にもなってしまうほどに,ものすごい数の〈戦争犠牲者:英霊〉を出していた。
だが,この犠牲が「礎」となって,日本における敗「戦後のような社会を理想とし,究極の犠牲を払ったとの議論はとうていなりたたない」(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』277頁。合祀者数には補正をくわえて引用)。
★ 靖国神社略史 ★
1869年6月 明治維新の志士と戊辰戦争の官軍戦没者の慰霊のため「東京招魂社」を九段に建設。設立の中心となったのは,旧陸軍創立者大村益次郎。
1879年 靖国神社と改称。天皇忠臣を祭る「別格官幣社」として陸海軍,内務3省が管理。
1894年 日清戦争を契機に祭る対象が「賊軍と戦って死んだ人」から「外国と戦って死んだ人」に変化。
1942年ころ 内規により陸海軍省審査委員会が部隊長らの上申にもとづき審査,天皇が裁可。
1945年12月 GHQの「神道指令」により国管理から離れ宗教法人化。翌年登記完了。
1953年 戦傷病者戦没者遺族等援護法の改正により戦犯の遺族も対象に。同法の戦没者を対象に「祭神名票」が作成される。
1956年 厚生省(現厚生労働省)引揚援護局が各都道府県に未合祀者を合祀する事務に協力要請通知。厚生省の「祭神名票」にもとづき神社が合祀決定。その後も遺族の申し出などによりほぼ毎年合祀。
1959年 BC級戦犯,合祀開始。
1966年 A級戦犯14人が名票に載り,神社側に送付される。1970年崇敬者総代会で合祀が了承。
1978年10月 神社がA級戦犯14人を「昭和殉難者」として合祀(79年4月判明)。
▼『合祀されていない人』--西郷隆盛(賊軍),戊辰戦争幕府軍側戦死者(賊軍),乃木希典(殉死者は戦死者でないため),東京大空襲犠牲者,広島長崎被爆犠牲者。
▼『合祀されている人』 吉田松陰,坂本龍馬(国事殉難者として),「ひめゆり学徒隊」女子学生,従軍看護婦,学童疎開船「対馬丸」犠牲学童。
さて,ブリーンは「礎」論を,こう批判した。
戦後の平和と繁栄は,日本軍の戦いぶりでなく--それがいかに勇敢であったにせよ--むしろその敗北および敗戦にともなう軍隊の解体や非軍事化,人権の保障を中心として民主化,国家機構の改革こそ,それを保証した。その総仕上げは,まさに明治憲法にとってかわり,国民主権,平和主義を基礎に置いた日本国憲法にほかならない(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』277頁)。
3) 小堀桂一郎
元東大教授の小堀桂一郎は,総理大臣のみでなく,天皇が靖国神社を公式参拝すれば,日本「国民のモラルに非常によい影響を与えることができる」と期待する。いまの若者は,日本の国に生を受けたことを少しもありがたく思っていない。
だが,靖国神社問題が解決しただけで「青年層の国に対する考えかたが大きくかわる」し,「誇るべき日本という国」を道徳的にプラスの方向で思えるようになると主張する。靖国神社こそ,社会問題解決の糸口となりうると強調する(278頁)。
1978年〔10月17日〕にA級戦犯が靖国に合祀されて以来,昭和天皇は参拝にいきたくともいけなくなった事情をしってかしらぬか,靖国擁護論者は「天皇の個人的な意思」をまったく忖度することもなく,自分たちの国家観・靖国観を天皇にまで押しつけている。
ブリーンの記述に即していえば,小堀桂一郎のような論者は「天皇を中軸にした忠誠心,愛国心,自己犠牲そのもの」にこだわり,「そして総理も天皇も堂々と靖国にいけば必然的にそのモラルが全国民に広まる契機になると」「考えている」(279頁)。
ということは,「天皇,首相による儀礼執行が国民の教化に直接つながるという観方は,まさに戦前に流行っていた祭政一致論の戦後版」である。しかし「問題は神社がこのようにモラルの昂揚をみずからの使命とする以上,純粋な慰霊,純粋な悲しみ,反省をもとにした追悼がはたして可能かというところにある」
つまり「慰霊のための慰霊ではなく,ある特定の政治的思惑--モラルの普及--のための慰霊にしならないのなら」,これは靖国「神社が戦没者を政治的に利用していること」を意味する。そうであれば「靖国のもつ戦争の記憶は,客観的で複雑なそれではありえず,もっぱら現代社会の道徳,道義にみあった,それに役だつ『記憶』にならざるをえない」(279頁)。
7 「語りのフェティシズム」論
1) エリック・サントナー:戦争記憶研究
フランスの歴史家エリック・サントナーによる戦争記憶研究に聞こう。靖国神社の遊就館のごとき「戦争博物館・記念施設」に共通する特徴は,フランスなども体験した戦争のトラウマ,つまり「敗北⇒占領⇒それに協力」という精神的外傷を抑圧する働きにみいだせる。
歴史的なトラウマの痛みを受けいれることを拒んだり,できなかったりするのは,戦後のフランスばかりではなかった。多くの戦後社会がある程度共有する現象であった。戦争記憶が耐えるにはあまりに痛すぎるためそれを抑圧し,抑圧するための記憶戦略が演じられるほかない。
「神話形成」であるこの記憶戦略は「語りのフェティシズム」と名づけられる。この「語りのフェティシズム」は実は,歴史物語そのものがよって立つところの「トラウマ・喪失の痕跡」を消し去ることもできる。
その結果,トラウマ以後の状況において自己確認を再構築するという責務から,人びとを解き放ち,彼方へと先延ばしされ,けっして到達することがない(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』279-280頁)。
補記)ここでいわれた「神話形成」とは日本の英霊であり,アメリカのヒーローとなる。この英霊やヒーローということばは,批判や思索の全面的に拒絶しなければ,そう簡単にはうまく成立しえない,ひたすら無条件に神聖であるべき概念なのであった。
2)「語りのフェティシズム」の実例:靖国神社「遊就館」
靖国神社で演じられる宗教儀式は,勅使を登場させた「慰霊祭の力学」や「慰霊祭による戦時中の価値観の再生産」「遊就館の展示物の取捨選択やその整理」「発行物にみる『礎』論」などとして,まさしくサントナーのいうところの「語りのフェティシズム」の範疇である。
補記)ここの記述については,ジョン・ブリーン(John Breen:ロンドン大学SOAS校),東健太郎訳「太平洋のトラウマ:靖国神社による戦争語りのフェティシズム」,http://21coe.kokugakuin.ac.jp/articlesintranslation/pdf/JohnBreen.pdf も参照。
21世紀の靖国神社では,日本の戦争のトラウマが拠って立つところの敗北,敗北にともなう2百万以上もの戦死,敗北のもたらした恥辱の占領,占領がみちびいた戦後の繁栄と平和を保証した憲法,という歴史的な物語がみごとに抑圧され,その痕跡が神社および神社関係者の歴史的記憶からきれいに消し去られている(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』280頁)。
そしてそれにとってかわるものに,日本の兵士はみな天皇の名において生命を捧げ,忠誠心に満ちた英雄,英霊だ,戦争はアジアを憎むべき欧米人から解放する名誉ある戦争だ,特攻隊の戦死が戦後日本の平和と繁栄の礎をなす,というまさにフェティッシュ化された物語を展開するのみとなる。
靖国神社の語りのフェティシズム〔とは「呪物崇拝」のこと〕は,追悼に欠かせない批判的反省の可能性を拒絶する。戦争のトラウマを直視しない靖国が,天皇,日本,みずからの家族のため,さまざまな動機をもって貴い命を捧げた戦没者を追悼する場となれるかは大変に疑問である(280頁,281頁)。
8 小 括
ブリーンは「新たな追悼平和祈念施設が国家に利用され,『第2の靖国』になる恐れがある」「ことは,国家がかかわるかぎり否定できないが,新しい施設の利点は多くある」ことを理由に,つぎのような追悼施設の建設には反対していない。
a) 戦争のトラウマを抑圧しない,フェティッシュ化された物語を許さない,複雑な戦争記憶をかかえる可能性を有すること。
b) a) のことが,同時に,本当の意味における追悼,政治の絡まない追悼の前提条件なので,その施設は,十分追悼の場となりうること。
c) 追悼の可能性はさらにトラウマ以後の,つまり戦争と無関係である戦後の自己確認(アイデンティティ)再構築の契機ともなりうること(281-282頁)。
--前掲した注記中の文献,ブリーン(John Breen:ロンドン大学SOAS校),東健太郎訳「太平洋のトラウマ:靖国神社による戦争語りのフェティシズム」は,
『ヤマザキ,天奥崎兼三表紙皇を撃て! - “皇居パチンコ事件” 陳述書-』新泉社,1987年の著者で,大東亜戦争中,ニューギニアに送りこまれた日本軍将兵16万人のうちわずかに生き残った6%の1人となった奥崎謙三が,つぎのように憤激しつつ語った事実に言及していた。
1「地獄を語らなくってね,戦友の慰霊なんかなるわけがない」!
2「靖国神社いったら英霊が,その,救われると思うのか,
貴様,えっ」!
なお,奥崎謙三について本ブログはすでに,つぎの題名でとりあげ議論していた。
いってみれば,「昭和天皇-奥崎謙三-靖国神社」という三角関係の中心部に集約されて浮上せざるをえなかった「昭和天皇戦争責任」は,「大日本帝国1兵卒」が「大東亜戦争」を生き抜いてきた観点から批判する立場からも明確に描かれていた。
【参考文献】
