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靖国神社と昭和天皇(2)

【断わり】 「本稿(2)」は「靖国神社と昭和天皇(1)」承前である。リンク先住所はこちらである。

 また,冒頭の画像は村山富市である。

 出所)「芯の強い好々爺◇村山富市元首相・回想記(上)」『毎日新聞』2025年10月17日20時00分,https://www.jiji.com/jc/v8?id=20251017murayama01 から。


 ◆-1 「前置き」としての断わり

 本稿は,以前における最終版として2015年1月29日,「靖国神社と昭和天皇(2)」として公表してあったが,ブログサイトの移動があって,その後未公開の状態になっていた。今日の2026年8月15日,それなりの補正や必要な加筆をおこない,再公表することになった。

 --明治維新のあと成立する大日本帝国は,それじたいとしてならば「19世紀まで引きずってきた封建遺制」としかみなせなかった「天皇・天皇制・天皇家」などに,あえて意図的に注入した「近代史的な意味づけ,その役割」というものが,21世紀の現在になってもなお,この国のあり方に多大な後遺症的な影響を与えてきた。

 その歴史の過程のなかで,帝国主義侵略路線のために役立ちうる「戦争神社たる本性:この仕事」をになわされてきた靖国神社の真価,その本当の意味を,外国人研究者として考究した著作が,ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』平凡社,2011年8月であった。

 「本稿(1)」の住所:リンク先は冒頭に付記してあるので,できればそちらをさきに読んでから「本稿(2)」に戻って読むのが,好都合である。

 ここで以下に「本稿(2)」の「目次」を一覧しておく。

      = 目  次 =

  靖国神社はなにを祀っているのか
  鎮霊社の異様さ
  遊就館の雄姿
  大東亜戦争肯定論
  「礎(いしずえ)」論など
  「語りのフェティシズム」論
  小 括

本稿(2)の目次

 ◆-2 2026年8月10日,靖国神社は,敗戦記念日が81回目を迎える今回,つぎのような対応を決めていた。『産経新聞』の記事で紹介する。

産経新聞社は2026年8月6日
青森・岩手・宮城・秋田・山形・福島の東北6県では

2026年11月30日をもって『産経新聞』『サンケイスポーツ』の紙面発行を休止すると
(事実上の東北撤退を)発表した

新聞用紙や輸送コストの高騰が理由だというが
『産経新聞』は以前から夕刊の発行そのものを休止していた

東京本社管内(関東・東日本など)では2002年3月で夕刊の発行を休止し
大阪本社管内(近畿地方など)では平日のみ夕刊を発行してきたのである

2005年8月からは新聞販売店などの人手不足や労働環境の改善を理由に
土曜日の夕刊発行も休止した

 ◆-3 靖国神社でとくに8月15日になるとこの境内に出没していたのは,つぎのような連中の「コスプレ的な軍装ショーもどき」であった。 

一番前を歩く(行進?)するオジイチャンは日清・日露戦争からの亡霊?
長生きはするもんじゃ

うしろに続く大東亜戦争当時の将校殿は腰に巻いている皮ベルトが
左側・上斜めに吊り上がっているのは不自然というかあまりみたことのない着衣

 ここではついでに,つぎのような説明を紹介しておく。上に触れてみた疑問に答える中身がある。

 旧日本陸軍の将校は,軍衣(上衣)の上からベルト(刀帯・拳銃帯)を着用するさい,重いサーベル(軍刀)や拳銃の重みでベルトがずり下がるのを防ぐため,軍衣の左右脇腹付近にはベルトを支えるための「紐(帯革通し/ベルトループ)」や小さな「フック」が縫いつけられていた。

 サーベル(軍刀)の釣り方は,その帯革通し(ベルトループ)などを生かして通した腰のベルトから直接吊るすか,または,斜めの肩帯(承刀帯)を併用する「サム・ブラウン」式-- 腰ベルトと肩から斜めに掛ける1本(または2本)の補助ストラップを組み合わせた革帯(斜革)--のことなどの形式で,荷重が分散されるよう調整して装着した。

 こうした着衣では,行進のさいにも下がらないよう,上衣のウエスト位置にぴったり合わせてきつく締める。

この説明では上の画像に写っていた将校殿の着こなしの悪さを指摘してみた

 ◆-4 靖国神社が今夏「8・15」にも境内に出没が予想されるコスプレ軍団を出禁に措置した手順は,この神社の趣旨からすれば当然のなりゆきとして生まれたものだと解釈できる。

 しかしそうだとすれば,靖国神社が7月13日から16日の4日間に開催してきた「みたままつり」に疑義が生じないとは限らなくなる。一時期,この祭事開催期間においては,境内がナンパが横行する出来事も発生したりで,神社側はだいぶ苦慮したらしい。

 ということで以前は,この「みたままつり」の期間においては,たくさん出店がそろったりしてたいそう賑やかであったが,この神社の明治謹製的な本義に照らしてみると「やや問題あり」という判断がなされたらしく,現在においては,当該期間はつぎのような境内の風景になっている。

 靖国神社(東京)の「みたままつり」は,混雑緩和やトラブル防止を意識し,「昔ながらの従来の露店(屋台)の出店」を排除した。その代わり,外苑の「憩いの庭」や「中央広場」などにキッチンカーを出店させ,軽食や飲み物などを販売させている。

 その出店・販売の形式は以前と同じに露店(屋)となっており 主な販売メニューは「串焼き・焼きそば・かき氷などの軽食」だという。営業時間は,午前11時から午後9時ころ(目安)。

 ◆-5 かつて,靖国神社「みたままつり」の期間は,参道や境内に何百店もの昔ながらの露店や屋台が所狭しと並び,提灯の明かりの下で多くの人で大変な賑わいをみせていた。だが,現在は露店の出店は取りやめになっている。

 つぎの画像入りの記事紹介は,いまから12年前の「みたままつり」の光景をとりあげていた。

神聖な場所にふさわしい祭事にしたいというのが神社側の指導要領

 ともかく以前は,大鳥居から本殿へと続く参道の両側に出店・屋台が出そろい,金魚すくいや焼きそば,わたあめなどの露店がずらりと並んでいた。それは,たいそうな賑わいであった。

 夜遅くまで多くの人が訪れ,歩くのも困難なほどの活気と熱気に包まれていた。とりわけ,出店・屋台の明かりにくわえて,3万を超える懸雪洞(みたまねぷた・ぼんぼり)の光が重なり,独特の大きなお祭りの風景を作っていたというが,いまは昔の話。

【参考文献】-遠い昔,靖国神社が出来たてのころを描写しているのが,この本である。文系春秋から文庫版でも公刊されている-


 1 靖国神社はなにを祀っているのか


 1) 飯田 進-B級戦犯の靖国批判-

 飯田 進は『魂鎮への道-無意味な死から問う戦争責任-』不二出版,1997年4月,岩波書店〔この岩波現代文庫となった版での副題は「BC級戦犯が問い続ける戦争」に変更〕,2009年6月,『地獄の日本兵-ニューギニア戦線の真相-』新潮社,2008年7月などをもって,自身の戦争体験にもとづく著作を公表していた。

 飯田 進(いいだ・すすむ)は,1923〔大正12〕年京都府生まれ,2016年10月13日,93歳で死去していた。1943〔昭和18〕年2月海軍民政府職員としてニューギニア島へ上陸する。敗戦後,BC級戦犯として重労働20年の刑を受け,1950〔昭和25〕年スガモ・プリズンに送還される。その後は,社会福祉法人「新生会」と同「青い鳥」の理事長を勤めた。

 「本稿(1)」が記述の対象に取りあげていた,ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』平凡社,2011年は,飯田が靖国神社をつぎのように批判した立場を紹介している。

 靖国神社が殉国の英霊を慰霊顕彰するという美しいことばは,遺族・戦友会をはじめ国民の心情に訴えるものがある。しかし,戦争に参加した立場からいえば,そういう立場:「殉国の英霊が顕彰される」は違う。

 戦場となったニューギニアで「10万人を下らない将兵」が餓死,野垂れ死にした。この兵隊たちは誰を恨んだか? そういう作戦をした軍の中枢にいた参謀たちである。この事実を「殉国の英霊」ということばでぼかされることは,とても耐えられない。それでは「戦争の真実が忘却される」

 註記)ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』平凡社,2011年,269-270頁参照。

ニューギニアでは「10万人を下らない将兵」が餓死
要するに戦死者の6割は餓死


 ところで,靖国神社拝殿の南側には,慰霊祭が執りおこなわれるもうひとつの場がある。1965年に創建された「鎮霊社」という祠である。ここにはふたつの座,つまり神が「座る」「宿る」場所がある。 

 靖国神社ホームページから

            
  a) そのひとつの座は,いわゆる官軍でない「賊軍」の戦死者の座があって,戊辰戦争で官軍と戦って倒れた会津藩・盛岡藩の武士,江藤新平・西郷隆盛のような王政復古後,維新政府に対して反乱を起こし敗れ,自決した人びとが祀られている。

  b) もうひとつの座は,さらに興味深い。全世界の戦死者を祀る座で,そこにはイギリス・アメリカ・東南アジア・韓国・中国などの国籍の,戦死あるいは戦災死した人たちの霊が祀られている。この全員が「軍」もしくは「軍属」として戦死した人びとである。

 この鎮霊社は本殿の「中央」に対し,まさに周辺的なささやか存在であるに過ぎない。だが,それでも神職が毎朝・毎晩供え物をするし,例祭は7月13日と定められている。

 補記)この7月13日という日付は,敗戦後になってから毎年靖国神社が催している祭事「みたままつり」(7月16日まで4日間)の初日に当たる。


 2) 鎮霊社がこれなりに「重要な意味」をになわされた理由は,なんであったのか? 過去には数多くの〈凄惨な戦争〉があった。そのために微妙で複雑な過去を背負わされた被害者が存在し,また加害者も当然その対極側にそれ相応に存在していた。おびただしい数の日本人(などとそのほかの国々に属していた人びとなども)が,不必要に無駄な死に方を強いられ戦争の犠牲者になった。

 結局,鎮霊社とはその由来というか本質的な意味あいに関しては,大雑把にとらえていえば,こう理解できる。「そのほか・大勢の戦争犠牲者たち」をひとまとめにくくり入れ(つまり放りこみ),記憶させておくために設置されていた,つまり,靖国神社境内に申しわけ程度の意味あいで設けられた『ごく小さな祠』であったと。

 この鎮霊社は,敗戦後に2代目宮司になった松平永芳〔元軍人で1978-1992年在任〕が鉄柵をめぐらして一般人が参拝できないようにした。だが,南部利昭宮司(2005-2009年在任)が,それをまたとりのぞいた。いまでは誰でも事由に出入りできる(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』270-271頁)。

 補記)以上の記述(説明)については,本日時点ではつぎのように追信しておく必要がある。

 つまり,靖国神社境内の鎮霊社は現在,周囲が柵などで囲まれていて,この社殿のすぐ近くまで立ち入ることはできない。ただし,手前の参道などから遠隔で参拝・手を合わせることは可能だという。

鎮霊社の現状


 日本の神道の伝統的な宗教意識のなかには「祟り・畏れ」がある。ところが,靖国はあくまで「戦争のための・戦勝のための神社」であり,その「国家神道的な理念(信仰心)の昂揚」にこそ,存在意義があった。そのゆえ,戦死:戦没した〈英霊〉を合祀する「場:座」しか,創建以来から設ける気持などまったくもちあわせなかった「国家政策的な宗教施設」なのである。

 要は,神道本来の宗教精神であるはずの「その祟りや畏れ」には,実はというか本当(本心)のところは「まったく関心をもたない」という理解になる。それが「この靖国神社の本性(ほんせい)」であった。

 前段で触れた鎮霊社を「拝殿の脇」,場所としてはすぐにはみつけにくい位置に造っておいた事情をめぐっては,それなりに当初からまつわりついていた,いわば,その中途半端さそのものから感得できる実態(下心)が伝播してこないではない。それなりに,なにかを徹底させておく気持ちだけはきわめていたらしいなかで,ただそれでも感得できるその中途半端な性格づけが,この鎮霊社の本質的な「ゴミ箱」をよく表現していた。

 3)日本帝国が敗戦するまで体験してきたもろもろの戦いは,「微妙で複雑な過去」を数多く記録してきた。そこには「被害者も加害者も存在し」ていたし,そのどちらでもない犠牲者もいた。これらの事実はそう簡単には忘れられない「あの戦争史の記録」であった。

 しかも,日本という国だけに限定された「戦争被害の記録・記憶」ではないから,こうした戦争を原因とする犠牲者各数は,きわめて残酷な世界史における各国実例の「全体:相対」として記憶しなければならない点は,あまりに当然である。

靖国神社に合祀されている犠牲者数は前段に記述のとおり
246万6000余柱だといわれつつこの数字が最前面にいつもかかげられるさい
強調されるのはこの国家神道神社のきわめて畸型した信仰心である

 日本の近現代史における戦争犠牲者統計は,この表に数値として記入されている。こういう歴史の過程になっていた。

 とりわけ,1937年7月7日に開始した日中戦争からは,戦争犠牲者が一気に増大した。かといって,彼ら(彼女ら)の霊魂を収容していた靖国神社境内が,それでははたして大混雑したかといえばそうではなかった。

 というのは,死者のその霊魂だけを都合よく取りだしてはさらに,戦争の(督戦)をするために悪用してきたに過ぎなかったから,生きている人間側に映る九段下の光景を煮詰めていえば,そこではまさに「絵空事」次元の歴史的空間が演出されていたことになる。この事実は,21世紀の今日・現在にもそのまま妥当する風景としてであり,即「絵空事」だと断定されて,なんら不思議はない。

 2 なかんずく,この旧大日本帝国・陸海軍の直営だった靖国神社


 a) 要は靖国神社は,日本伝統の神道本来の宗教精神とは無縁であった由来を有するどころか,その宗教としての古来からあった日本神道の本旨からは,完全に離脱し背反する基本的な性格をもたされ誕生していた。

 つまり「おびただしい数の日本人が無駄死にをし」,「凄惨な戦争を記憶する場所」が,戦場のあちこちに残された事実があったにもかかわらず,靖国神社はそうした人間の死そのものに関した「肉体の死」の歴史が蓄積されてきた現実界を,一貫して頑固に峻拒したうえで,どこまでも「精神界」の対象としてのみ取りあげてきた。

 その国家神道としての恣意的な粗雑性や荒唐無稽さばかりを,前面にそそり立たせた「明治以来の異系かつ畸型の神道信仰路線」の基本性格は,観過しがたいほどに異様に奇抜であった。

 そういう政治・軍事的な特徴を色濃く出してきた,とはいっても,どこまでも「明治謹製」だった,しかも天皇家御用達でもあったそれなりに特殊であった「靖国神社の素性」は,21世紀のいまに生きるわれわれがどのように受けとめなおすべきか?

 b) よく考えてみようではないか。

 ただ常識的に一般論で思考しただけでも,靖国の「戦勝・官軍神社」としての基本性格は,ほかの宗教や宗派の信条や教理からも完全に飛び抜けて異様であった。「敗北した賊軍」に所属したとみなされ分類された者たちは,いっさい相手にしない「勝利のための督戦神社」である靖国神社は,そのようにふるまうほかない立場を,創建された当初から採るべき「当然の態度」に決められていた。

 その意味で靖国神社はなによりもまず,日本古来の伝統ある諸神社とはその宗教精神をまったく異にした《似非神社》であった。この種類の国家神道的な神社を,東京都の中心部に存在させてきたこの国のありようは,異様だなどと形容する範囲をはるかに超えていたなにものか,尋常ならざる「宗教的な怪異さ」を包容(抱擁)していた。

 しかしそうでありながら,敗戦した大日本帝国がいちおう消滅したあとになっても,戦前・戦中の宗教精神のままこの靖国神社(や各地の護国神社)は存続してきた。つづいては,後者の護国神社はさておく話となる。

 靖国神社は「官軍神社」であり「勝利神社」であったから,当初からけっして「敗北神社」でありうる可能性は予定していなかったし,それを考える余地すら完全にもたなかった。

 ところが,第2次大戦に敗北したこの大日本帝国は,勝利以外には自分(自国)の存在をいっさい認めない立場を堅持していながら,どういういいわけがありえたか,さっぱり得心がいかない事実なのだが,「勝てば官軍,負ければ賊軍」という基本を,第2次大戦大戦での結果に関しては,完璧に除外していた。

 c) たとえばこう考えてみてはどうか。

 靖国神社が勝利神社=官軍神社でありえた時期は1945年8月までであって,これ以降は「敗北神社」になっていたのだから,敗戦後は一宗教法人に衣替えしたとはいえ,その官軍神社の伝統を正統性をもって語ることはできなくなっていた。そして,この指摘は,日本国内向けの視座と国際政治に向けた視座の双方を「対にして」観察すべき問題性を踏まえていた。

 「五稜郭の戦い」(箱館戦争)は,1868年から1869年に起きた戊辰戦争の最後の戦いであったが,榎本武揚が率いる旧幕府軍が,函館の五稜郭を本拠地として明治新政府軍と戦い敗北していた。この戦いをもって国内の大きな内戦は終結した。

  ★-1 戊辰戦争で官軍は勝利した。敗北したのは賊軍となった会津藩などであった。国内では「官軍と賊軍」の区分・識別がひとまず明快になされたのは,あくまで日本という枠組のなかでの戦乱の推移をめぐる,分類・腑分けであったからである。

  ★-2 しかしながら,1945年夏に終わった第2次大戦(日中戦争・太平洋戦争)」は,国家間の戦争行為の結果,★-1の区分を適用して素朴に考えれば,国際政治のなかで「官軍=連合軍」と「賊軍=日本軍」という対峙関係を明確に存在させたのだから,大日本帝国がこちらの舞台の上で一挙に「賊軍」化させられた顛末が生まれたことになる。

  ★-3 「日本は不幸中の幸い」であったのだが,アメリカ軍を主勢力とするGHQ・SCAN(連合国軍最高司令官総司令部)の総司令部最高指揮官が,ダグラス・マッカーサーであった関係上,この官軍の地位に居座ったGHQ・SCANの占領支配下では,

 「GHQ=官軍」「対」「旧大日本国政府=賊軍」という図式が,もちろん,双方の関係を造成する基盤の大前提になっていた事情のもと,日本側においては敗北した自国が賊軍そのものになりはてていた基本特性(不利性・劣等性)を,確実に認識のなかに叩きこむ理性の働きを,なぜかしそこなっていた嫌いがないではなかった。

 それは,大元帥閣下自身がA級戦犯などにはならずに済み,その代身になった東條英機などの絞首刑組の存在が,賊軍側の苦しい事情のなかであっても,彼(裕仁)の一身だけは,なんとか救済する因果をもたらしていた。

 それがゆえに,戦後日本の政治史過程のなかでは,日本側において「自分たちが徹底的に賊軍化された」のだという「戦責意識の覚醒」を十分におこないえなまま,今日まで生き抜いてきたことになる。

官軍と賊軍の意識

 d) 日本政府が1995年「8月15日」に公表した『戦後50周年の終戦記念日にあたって』(いわゆる村山談話)という声明(⇒リンク先住所はクリックすれば辿れる)は,賊軍化していた自国軍事史の真相(というか事実)そのものを思い出したくない,いってみれば,靖国神社的な欺瞞精神の持ち主がいまだに大勢いるこの国のことだから,ひどく悪評判であったのは,その「賊軍意識の不徹底(自覚と反省の不足)」が,いつまでも根強く残存し控えていたからである。

 現在の首相である高市早苗は,2025年10月21日,日本で初の女性首相の座に着いていたが,1995年の時点ですでに「自分が否応なしに賊軍となったこの国の人間であった事実」などそっちのけにしたまま,つぎのようにツッパリ姐さんよろしく啖呵を切っていた。
 
 その点はたとえば,北原みのり「高市早苗34歳『反省を求められるいわれもない』」のインパクト 戦後日本の『ブラックボックス』を思う」『AERA DIGITAL』2026年8月9日 16:00,https://dot.asahi.com/articles/-/289667?page=1 が,適切に,つぎのように説明していた。

 「私自身は当事者とはいえない世代ですから,反省なんかしておりませんし,反省を求められるいわれもない」

 若かった高市早苗首相の国会答弁だ。

 1995年,戦後処理や歴史教育のあり方をめぐる議論のなかでの発言で,高市さんは新進党の議員だった。当時の総理大臣は村山富市氏,71歳。

 34歳の高市さんが “世代” をもち出して「(日本軍の加害について)反省を求められるいわれもない」といい放った姿の動画がいま,SNSであらためて再生されている。

 〔その形相は〕 “世代” をもち出し嘲笑するような笑みを口元に浮かべていて,なかなかインパクトのある映像だ。

 ぽっと出の若手新人議員だった高市さんのこの発言は,メディアで大きく取り上げられることはなかったが,戦争体験者が多くを占めていた当時の国会においては,やはり幼稚で雑な発言に映ったのではないか。

 そしてそんな高市さんのような政治家が,30年後に総理大臣になってしまったということは,やはり,危機を感じるべき事態なのだろう。歴史から学ばず反省のない国は滅びる,というのは,人類の定説ですから。

 補記)ここで格別に断わっておくべきは,高市早苗のような発言もまた,のちに登場してくる次代の人びとからはきっと,「私自身はあなたと同じ当事者とはいえない世代ですから,あなた(高市早苗)のいう反省なんかしておりませんし,(あなたから)反省を求められるいわれもない」と返されても,一言も返せないことである。

『AERA DIGITAL』2026年8月9日


 e) 大日本帝国があの大戦争に敗北した点について,まず最初に思いだしくおくべき事実であり,もともと忘れられない歴史上の重大な場面があったはずである。

 敗戦後の日本がGHQに占領支配されたのは事実。一時期だが裕仁の代わりにマックが天皇あつかいされたのは事実。朝鮮戦争が勃発するまでは食うや食わずの国民消費生活であったのは事実。

 その後においていまの日本国が,まるで米国の服属国であるかのような実情もこれまた事実。駐日米国大使館が日本総督府とみまごう公館であるのもこれまた事実。日本の空は米軍が管理しているのもこれまた事実。自衛隊3軍が在日米軍の舎弟的な立場にあるのもこれまた事実。

 以上の指摘を否定できる人はいまい。以上すべて,敗戦を機に日本の政治・経済・社会の全領域において現象しだした諸事の質的変化であった。結局は「1945年8月15日の敗戦」によって,大日本帝国という国が「日本という国」に縮小した結果として現象した出来事であった。

 f) それでも「日本が敗戦によって当然に賊軍化した事実」などおかまいなしに,今日の8月15日にももしかしたら,靖国神社境内にはコスプレ軍人の姿が登場するのかもしれない。

 さすがに靖国側は,今年からはそのような演技をしに境内に入りこむ者たちを出禁に(排除)する方針らしい。だが,本日のこの2026年8月15日には,もしかしたら靖国神社境内めがけてコスプレ軍人が突入を試みるかもしれない。

 その指摘は冗談半分の言及のつもりだが,もしも話がここまで本当に進むとしたら,もう完全にカリカチュア。もっとも,その突入しかねない者たちは,この記述で指摘する自分たちの中途半端なマンガ性を,どうしても理解できない一群であった違いあるまい。

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  【付 記】「本稿(2)」の続編(3)は以下である。

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【参考文献】


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