「明治謹製」大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性(7)
【冒頭・断わり】 「本稿(7)」は「前稿(6)」の続編である。下記がそのリンク先住所となる。
1 李 鐘恒,兼川 晋訳『新訳 韓半島からきた倭国-古代伽耶国が建てた九州王朝-』新泉社,2000年の日朝古代史観
この李 鐘恒『新訳 韓半島からきた倭国-古代伽耶国が建てた九州王朝-』2000年は,江上波夫「騎馬民族征服説」を採用する見地から執筆されている。
とくに,七支刀に触れる箇所で李は,「百済王が宗主的位置に立って,自分の勢力下にある部下の侯王に下賜したという意味であるとも理解できるのである」と語った。
ところが「事態は完全に主客転倒された。七支刀は倭(大和政権)が百済を武力で征服した結果,百済が征服者の倭に阿諛するために献納したものではなく,韓半島にあった百済王が日本列島内にある部下の倭王に,反対に下賜したものだという可能性がはっきりするにつれて,いまや,『神功の新羅遠征』や4~6世紀の倭の韓半島進出などということは,すべて全く白昼夢ということになった」(以上,李 鐘恒『新訳 韓半島からきた倭国』283頁)。
「韓半島に定住していた倭。彼らは,移住してきて一時的に住んではいるが,いずれまた本国に帰国していく,そんな臨時の生活者ではない。もともとそこに生まれ,先祖代々ひきつづきそこにそのまま定住している人たちである。それをあえて日本人と呼んで外国人に断定してしまうことができるだろうか」
「井上〔光貞〕教授も指摘するように,4世紀後半から5世紀にかかる時期にあっては,民族はむろん,朝鮮人・日本人という実態も意識もまだ成立していないのだから,現代のような民族という観念でこれを区別するには問題があるとみるのが穏当だといえよう」
「断定的にいえば,この時代の倭,それは日本列島内の日本人ではない。そして彼らは日本列島から韓半島に渡り,そこに基盤を築いて住んだ人びとでもさらさらない。逆に彼らは,韓半島内の住民の一部で,またそのなかの一部が日本列島に渡った,そのような人種である。とすれば,彼らの組織や行政体系が,日本から指揮されたり,干渉下にあったという理由はまったくない」
「こうした倭の実体に対する認識の変化は必然的に,いわゆる任那日本府の実態がどうであったかをもう一度考えさせる重要な契機となる」(以上,同書,287頁)。
【参考地図】ー2世紀から7世紀の朝鮮(韓国)半島地図-

百済-南西部の〔のちのソウルから〕忠清南道・全羅道周辺
新羅-南東部の(慶尚道の慶州を中心にした)一帯
伽耶-朝鮮半島南部の中央=百済と新羅の間に位置した
2 野坂昭如・菅 孝行『天皇制にこだわる-天皇依存症の研究』明石書店,1986年における「天皇・天皇制」批判論
1) 明治天皇の身長
『キング』--1924〔大正13〕年11月末に大日本雄辯會講談社〔現在の講談社〕が創刊した大衆娯楽雑誌であり,第2次大戦前における講談社の看板雑誌であった。日本出版史上初めて発行部数100万部を突破した国民的雑誌--のある号に「附録」で,「明治維新から第1次大戦までの間の天皇の御事跡を絵巻風に仕立てたのがあった」
「岩倉具視が,病篤くて寝ているところに,明治天皇が,行幸だとかいってお見舞いに行く。明治天皇が,廊下のところに突っ立っている。反対側に,岩倉具視が身を起こして,お見舞いに大変感謝しているという絵があった」
「おばあちゃんが,……お見舞いに来ながら突っ立ったままだというのも変じゃないかねと,天皇のことをいっていた。その頃,明治天皇の頭が鴨居にちょっと隠れるくらい背が高く書いてあったので,とても大きな人だなと感じたのを覚えている」(野坂昭如・菅 孝行『天皇制にこだわる-天皇依存症の研究』明石書店,1986年,〔野坂〕11頁)。
ここではさらに,つぎのような「関連する事項」に触れてみたい。
明治天皇は身長が180センチあるといわれてきたが,前段の記述はそのとおりに書いている。日本の家屋は19世紀末から20世紀初めにかけてであれば,鴨居までは6尺〔約180㎝〕はなく,それよりも低い。筆者が昔,実際にそのような規格で建てられている日本の家屋に入ったとき受けた感じでは,170センチほどの高さに鴨居があったように記憶している。
明治天皇の身長が当時の日本人としてはとても大きい180㎝あったとすれば,『キング』「附録」が書いたように「鴨居の陰に隠れる」かのような構図になりうる。
だがまた,明治天皇が死亡したとき計測した身長が5尺5寸4分,167㎝であったとすると,こちらの情報にしたがえば,『キング』「附録」は明治天皇が大きかったという「俗説」,必ずしも真実ではない明治大帝「像」の普及に一役買う役目を果たしたといえなくもない。この種の俗説流布が「当時にあってはそれなりに意味があった」のか,などとも想像してみたくなる。
補記)ここで,明治天皇の50代の時期とおぼしき画像を参照しておきたい。とくに白黒の写真から睦仁に身長を,そばにいる人たちと比較しながら推測してみたいが,どのくらいに映ってみえるか? ともかく,明治時代に身長が180㎝というのは,かなり高身長である。

感じられる構図である

さらに体勢の基軸も若干右(向こう側)にまわして方角を移動(加工)させてうえで
これに色づけしたものにみえる
「明治天皇」に対しては,「皆さん大いに畏れかしこみ,神としてみとめた」(野坂・菅『天皇制にこだわる-天皇依存症の研究』同書,〔野坂〕18頁)のであれば,そのような俗説「明治天皇は大男」=「身体面でも偉大(?)であった」という天皇像の普及が,ぜひとも必要な要件であったと思われて不思議ではない。
2) 明治天皇が左利きであったという事実
ところで,明治天皇が左利きであるとの指摘があったが,菅 孝行は「当時,割と堅い家の子供でぎっちょも直さないというのは,かなり珍しいです」(野坂・菅,同書,〔菅〕44頁)と断わっている。
ここでいう当時とは戦前期を指すが,天皇家においても「右利き」にこだわる習慣が存在していたにもかかわらず,睦仁天皇が〈左利き〉であったのは,なにかおかしい(怪しい)という記述になっていた。
明治天皇は本当の睦仁ではなく,これにすり替えられた「大室寅之祐」(南朝の血統を引く2歳上の人物)が睦仁になりかわっていたという〈説〉を証拠づけるさい,有力な根拠を提供するのがこの「明治天皇が左利き」という事実である。
天皇家に生まれ育てられた睦仁が左利きのままでありうるわけがなく,なにかよほどの事情がないかぎり右利きであるはずという観察をすれば,明治天皇が左利きであったという事実に関しては,なお一定の疑問が残されたままである。
補注)河原利明『謎につつまれた悲劇の皇女-昭和天皇の妹君-』文藝春秋(文春文庫),2002年という本があったが,この本の初版は,ダイナミックセラーズ出版から1991年に公刊されていた。
昭和天皇裕仁の末弟「三笠宮には双子の女性がいた」が,「その女性は存在しない人物にされてきた」のではないかという話題を発掘し,追究していた。すなわち,河原の同書は,「昭和天皇の妹君! 三笠宮さま双子説を検証。マスコミ界の話題,皇室秘話の真相追求5年間,90人の皇室関係者の証言と資料を一挙掲載」した本だ,という宣伝文句で発売されていた。
【関連する説明】 昔から「畜生腹(チクショウバラ)」という差別的な表現があった。犬・猫などの動物が1回に2匹以上の子を産むところから,つぎのような理由で忌避される出来事とされた。
▲-1 女性が1回に2人以上の子供を産むことをののしっていった語。
▲-2 双生児や三つ子などをいった語。また,男と女の双生児。前世で
心中した者の生まれかわりとして忌み嫌われた。
この,河原利明『謎につつまれた悲劇の皇女-昭和天皇の妹君-』ダイナミックセラーズ出版,1991年(初版)は,「昭和天皇には隠された妹君がいた」という,衝撃的な「三笠宮さま双子説」の真相を確かめるべく,皇室関係者百人近くに取材,月刊誌・週刊誌・TVで公表してマスコミの話題になった著者が,その後も調査を続け,「妹君」のいる奈良円照寺を訪ね,面会もしたうえで,その検証のすべてをまとめた本であって,ミステリーの謎解きのようなドキュメントだと宣伝されていた。
以上,明治天皇が左利きだったという話題に対する接し方にかかわって,さらには「皇室」内的な別の話題もまた浮上させられていた。
補記)最近作,舟橋正真『三笠宮-昭和天皇末弟の近現代史-』中央公論新社,2026年は,小見出し「生誕をめぐる俗説-側室出産説と双子説-」を充て,すげなく完全否定している(同書,6-7頁)。
もっとも,この種になる皇室寄りだけになる言説(説明)では,河原利明が提示したごとき疑念がただちに破砕されたことにはなりえない。
一連の天皇家的官許の『〇〇天皇実録』を読めば,天皇のその代ごとをめぐる出来事・事件のすべてが「事実そのものとだけとして」書きつらねてあるなどと,信じる人はいない。
河原利明のような書き手の存在価値を全面否定したら,天皇史はそれこそ「隠謀史」に近い「単なる手慰みの私家史」になりかねない可能性を,大いに秘めていた。あれこれの批判的な視座からする天皇史解明の立場・見地があって悪いことは,なにもない。いまどき『菊のタブ-』でもあるまいに,むしろそうであったほうが好ましい。
3) 敗戦後に実行された昭和天皇の巡幸
1946年の2月ころに昭和天皇は横浜にいっている。横浜はもう焼けている。そのところに天皇がいけば,ふつうだったら暴民ががなにするか分からないという怯えをもっていいと思うけれども,全然そうは思わないでいっている。
あれは,天皇家に備わる,あるいは神的(笑)勘なのであるか,それとも宮内省・内務省の情報収集にすごさであった。「だって,ムッソリーニの最後は知っているんですからね」(野坂・菅『天皇制にこだわる天皇依存症の研究』,〔野坂〕55頁)。
「天皇が巡幸を始めた時は,まだ新憲法になっていないですね。1946年ですから。ということは,生き神のまんまで人間宣言をやった。それで,全国巡幸をやって民心の掌握をやって,新しい国家体制を整えた。旧天皇制の権威を使い切っておいて新憲法に橋渡ししているわけですね。その計算高さというかね。国体護持の専門家ともいうべき天皇と重臣・側近達の腕力,あれはなかなか大したものだと思いますね」(野坂・菅,同書,〔菅〕55頁)。
4) 万世一系の意味,三種の神器
「たしかに,何べん敗けても権威でありつづけてきた天皇がいて,天皇を権威として権力をとり,権力になり,権力でありつづけたという蓄積が敵側だけあって,こっちは何もない。民衆は短い一生の幅の時間の中だけで生きているのに,敵は嘘を承知で万世一系で生きているということが問題ですね」(野坂・菅,同書,〔菅〕56頁)。
「あの自信たるや大変なものだと思う。ヨーロッパの国王だと,恐くてやらないでしょう。そういった自信をつけさせちゃうような下地というのは,明治以降の近代化を進める上において,天皇をうまいことを道具にしたということだけじゃ,とても済まない」( 同書,〔野坂〕56頁)。
「天皇制」は「歴史的につくられたんだから,歴史的にこわせる,と考えたいし,そう考えるべきだ。その歴史というのはただの政治史じゃなくて,根強い文化史とか社会史あるいは生活史,習俗史の上での積み重ねみたいなもので,それがこういう政治を可能にしている。文化と暮らしをひとまとめにする統治の様式としての天皇制みたいなものを可能にしている」
「かなり受動的であるが,民衆は日本文化,暮らし,社会のレベルでつくられてきたのじゃないか。その上で明治国家の虚構をつくり,それによって国民を統合することが可能だったのだし,天皇が聖断を下すと戦争がとまるとかいう変な神話も可能になった」(同書,〔菅〕64頁,65頁)。
「『本物』は2種しか残ってないとかいわれますが,とにかく三種の神器を持って,王権の正当性だけを維持すればいい,敗戦の時だって,国体は護持したと右翼が書きまくったということですが,天皇だって,国体は護持した,正当性は維持したと思ったにちがいない。公開された手紙からも,一番気にしているのが三種の神器だということがよくわかる」
「いつ降服の決断をして,いつ調印するかという計算は,国体護持の目的のためにのみなされているわけで,民衆を生かすためなんかでは絶対ない。その辺はすごく強靱です。それに比べると,天皇制下の民衆というのは,ほんとうにスカスカで,うらみも記憶も反省も浅い。すぐ何でも忘れてしまう。それなのに,差別だけは忘れていない」
「ほんとうをいえば,彼は国民はどうだってよかった。天皇として生き延びたということが,彼にとってはもう大仕事を果たしたわけだしね,皇太子共々生き残ったということがね」(同書,〔菅〕185頁,〔野坂〕185頁)。
5) 権威づけとしての天皇・天皇制
「日本の武士階級というのは非常に情けない支配階級で,日本のブルジョアジーもそうですが,自分で自分の政治的な権力を権威づけるイデオロギー装置を創り出したことがない。権威は,必ず天皇なんですね」
「天皇の知ったことか,どんどんやってやろうじゃないかとやっていくのではなくて,いちいち京都に気兼ねしたり,あるいは自分自身の地位については天皇にお許しを得ることによって,権威がそこに確保される。また,みんながそれを一応認める。あの権威というのは,どういうふうに培われて出てくるのでしょうか」(同書,〔菅〕73-74頁,〔野坂〕74頁)。
「どうして,ということになりますが,一つには,天皇に代わる権威というものが,立ったことがなかった」
「天皇じゃない権威を建てようというふうにはなったことがないわけですね。それは,文化史的にいうと,非常に意味があることで,日本の文化をかなり深く拘束しているものがあるんじゃないか。道教というのは,そこに関わるような気がする。道教は伝統文化ではあるが,土着ではなくて,あっちから渡ってきたものを,こっちの土着民が食ってつくり変えて,独特な文化体系をつくった」
「あえていえば,中心を持ったアナーキズム思想じゃないですか。どっちかといったら非政治的な,律令国家の原型になった唐の律令みたいなものの政治的な権威を超えているというか,それを抜けてもっと非政治的に,政治権威にすがらずに,自在に生きるための社会思想みたいな,そういう性格を持っている。自然観も,人間と対立的でない。自然と自分があまり区別がつかない。そういう意味では,きっと原始的なアニミズム信仰に近い思想ですね。そこから呪術とも縁ができてくる」(同書,〔菅〕75頁)。
「天皇家自体が,渡来人だという説があるわけでしょう。天皇制権力ができた時にはやまとは農耕中心の文化だったわけですが,天皇家は騎馬民族だったかどうかは別として征服王朝であるという可能性は強い」
「とすると必ずしも自分が蓄積してきた文化の歴史を背負って天皇の権威が成り立ったというのではないかもしれない。むしろ征服された多数の勢力の側にあった文化や信仰体系を借りてそれを呪術的な力の源にした。政治的な力と文化伝統とが,ほんとうに矛盾なしにつながったのかどうか知りませんが,たぶん,そういう虚構の上に律令国家の権威と権力は一体化されている」(同書,〔菅〕77頁)。
「天皇を殺そうとした人とかいろいろいるし,孝明天皇は勤皇派皇族の中川宮と岩倉具視の陰謀で殺されたともいわれていますが,公に首級を上げた,というふうには絶対ならない。足利 尊氏だって,ちゃんと北朝を立ててしまうのだから,やはり,天皇を権威の源泉にしてる」
「法王と教皇,それと国王の関係であるならば,支配するところが全然別だから,それはいいが,そうじゃなくて重なっている」し,「同心円どころか,同じ円なんですからね」(同書,〔菅〕148頁,〔野坂〕148頁,〔菅〕148頁)。
「何も天皇の権威をしょって太政大臣だ〔と〕か征夷代将軍だとかもらわなくても,おれが日本の天皇になってやる,あるいは,天皇じゃなくても,別の形の支配者になってやると考えてもいいだろうと思うのに,これが出てこない。天皇は,一度も殺されたことがないということになっている。わが歴代権力者は何を怖れていたのだろう」
「ほんとうは殺されているのかも知れないが,おおっぴらにはない。そこのところは,羽仁五郎さんなどもイギリスの王権が強固だといっても,近代国家建国のとき,イギリスの市民は国王を殺している。あの経験を持てば,もしかしたら民主的な立憲君主制というのはありうるかも知れないが,そういう経験のない日本の国家で,天皇制を残して民主化をいってもダメなんだと戦後,かなり強くいっていますね」(同書,〔野坂〕148-149頁,〔菅〕149頁。〔 〕内補足は筆者)。
「大東亜共栄圏をつくるために先頭に立って旗を振る天皇というものを民衆が要求するような形に,挙国体制を組織する暗黙の力が働いたということは事実です。そういうことでなければ,ファシズム的権力は絶対できてこない」(同書,〔菅〕192頁)。
「普通の世間の人達も天皇が好きである。学者も,臆病と処世術に支えられた天皇との関係というものが常にあった。今度,政治家とか権力者とが〔か〕の中ででも,自分がお山の大将にならなくては気が済まないという気持がかろうじてあったのは,田中角栄かもしれない。彼は,天皇の上にいこうかと思っていたのかもしれない」
「裕仁は,角栄がものすごく嫌いだという話がある」が,「わかるような気がする」
「権力者にとってみると,いちいち天皇の前でペコペコしなくてはならないのというのは,実に腹が立つと思う。その時,天皇を,その権力者は権力としては認めていない。あくまで,利用すべき存在として認めているだけである」
「昔は,そういうふうに意識して,天皇というものを利用していた。明治以降は,かなり露骨な時期もあったが,それをやっているうちに,今度は,自分が操り人形になってしまった。これは,一応,天皇の人間宣言でパァになってしまったはずです」(同書,〔野坂〕149頁,〔菅〕149頁,〔野坂〕149頁)。
「絶対的権力者が日本に出てこないということについて,またそれを評価する人がたくさんいて,それも天皇のおかげであるといういい方をしますが,確かに天皇から庶民まで,天皇依存症の性格が近代国家の中で厳然とあって,天皇の存在そのものは,まったく普遍性を持たない外国には通用しない存在であるとすると,一種,天皇制鎖国をやっているわけです。そうすると,さらに天皇の権威が強くなって,われわれが求心力を働かせてしまった場合に,処世術なり臆病なりで生きている連中は,ひどいことになるぞという発想にはならなわけです」(同書,〔野坂〕150頁)。
「日本の労働者のように国家や企業の枠を絶対のものとして受け入れてしまった場合これからどうなるのか。犠牲を背負いこんで,我慢して,企業のため,お国のために頑張るというのは,一見うまくいくようにみえるが,一体それがいい社会かどうかということを根本的に考え直す直に,そろそろきているのじゃないか」
「そこのところを抜きにして,諸外国と比べて生産性が高いとか秩序が安定しているとか労働力が優秀だとかいえないのじゃないか。社会的,政治的なことも含めて,ほんとうは,ほかの生き方,人と人との別なつながり方を考えなくてはいけないのに,それを抜きにして,天皇陛下が真ん中にいてうまくいっているとか,企業一家主義でうまくいっている,と思っている。日本の経済成長というのは,そういう枠組みのなかで成り立つ優位性にすぎない。考えるべきことを考え,正すべきは,正さないから日本は一見よく見えるんだろう」(同書,〔菅〕153頁)。
補記)「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代が終焉してから,早,「失われた10年」の第4周回目を走っているような現在,つまり,21世紀も第2四半期になった日本である。2010年代に第2次安倍晋三政権はこの国を,本当にダメだらけの惨状に引きずりこんだ。
いまの2020年代も半ばを過ぎるころになってみれば,政治も経済もただの非一流国家に転落したまま,夢も希望もなにもない「ただの極東の一国」になった。
あの,日本初として登場した高市早苗は「ウソしかつかないような自民党のなれの果ての総裁」となって,さすが首相になっただけに,2025年10月21日にこの国の最高指導者として晴れの船出したはいいが,やることなすことのすべがウソまみれ……。
彼女はしかも,30年以上も国会議員を続けていながら,政治のイロハも経済のABCも全然分かってない無能・無為ぶりを,就任後9ヵ月経ったいまとなれば,余すところなく暴露する始末。
アベノミクス(本名:アホノミクス)よりもさらに数段劣ったサナエノミクス(本名:アホエノミクス)を,ハエ叩きのごとく振りまわすしか能のない「国家運営」ゆえ,昨日(2026年7月23日の日経平均株価がとうとう 163円台。これは39年ぶりの円ドル・為替相場・水準である。

しかも,このオンナ首相は,自分が育った家庭環境のなかでは『教育勅語』(には「いいことも書いてある」ではなく),この勅語じたいをすばらしい文言で書かれていると信じていた母親がおり,しかもこの母親は早苗が国会議員になってからもビンタ(教育的に?)を食らわしてきた女性(警察官)であったというから(なお父親は対照的にやさしい男性であったと説明されている),
高市早苗がなぜ,首相になってから公務の世界の次元において平然とウソにしかならない言動を吐きつづける一因を,そうした母子関係史から推理することが不可能ではない。ともかく,高市早苗の母親である和子は,奈良県警察の警察官(熱血で知られた警察官)だったというけれども,この母親は自分の娘に対するその種の教育(しつけ)の仕方が,どのような影響を生むかまでは計慮外だったとみなすほかない。
【参考記事】-『日刊ゲンダイ』から-
〔ここで,野坂昭如・菅 孝行『天皇制にこだわる-天皇依存症の研究』明石書店,1986年の引照に戻る ↓ 〕
1984〔昭和59〕年9月であったが,「全 斗煥という,カッコ付きの元首がやって来て,法的には元首なんかでは絶対ないはずの『象徴』である天皇が,日本の元首の役割を演じた。韓国の普通の人からみた場合,こういう天皇の姿はどういうふうにみえたのでしょうか」
「あの天皇は,われわれの尺度でははかりしれないところがある。どうも人間宣言に,ぼくたちはごまかされている。……全 斗煥との会談の時にも,自分にはそれをやるだけの使命も資格もある,という元首としての自信というのは強かったんじゃありませんか」
「戦争で負けてグシャとなって帽子を振って歩き回り,今は好々爺然と国技館に行ってと,ぼくらは天皇をみちゃっていますが,本人はそう思ってないと思う。ものすごい自負心と皇祖皇宗に対するという,ぼくらとは違った形で責任を感じているでしょう」
「明治大帝,明治大帝って二言目にいう〔けれども〕,大正のことはいってない。ちょっと親不孝じゃないかな。(笑)そういう本質は,韓国の人はわかってますよ。しかも,なおかつその天皇を温存している日本民族に対する不信感というものは,たいへんすごくあるだろうと思いますね。世間並みじゃないんだから,神様か人間か,どっちかにしてくれ……」(同書,〔菅〕172頁,〔野坂〕172-173頁)。
補記)つぎの航空写真(グーグルマップ)は,大正天皇夫婦以降の各天皇夫婦の墓所(陵基)を撮しているが,まだ「これからさきになる平成天皇夫婦」のための墓所の関する話題はさておき,
昭和天皇夫婦〔香淳皇后と記入がある〕のその墓所の大きさ(面積)に比較すると明らかに,大正天皇夫婦〔大正天皇と貞明皇后と記入がある〕のそれのほうが「小規模である違い」がめだっている。
なお,左側の土地の茶色がむき出しになっている場所が,平成天皇夫婦の墓地が建造される予定地である。

東京都八王子市長房町
〔引照に戻る→〕 昭和天皇は「元首になったというよりも,元首であり続けたわけでしょう。天皇に対する警備のあり方,あるいは敬語の問題,また首相が任命式の時に,ペコペコお辞儀をしているのを見ていれば,総理大臣より偉いに決まっていると,誰もがみちゃう。そうすると,これは,元首ですよね」。「民主主義日本の象徴だっていったって,それではおさまりのつかない話でね」(同書,〔野坂〕173頁,〔菅〕173頁)。
6) 神道の基本性格
「神道は,もともと共同体の祭祀宗教です。それが古代天皇制下に,国家権力の宗教,国教になった。それ自体,かなりムリがあることなのに,あろうことか,近代国民国家の国家統合の基軸にもってきた。そういう事例は,ほかの国ではまったくないとはいえないが,まれである」
「この元来祭祀宗教である信仰体系をつかうと,内部に固めるにはものすごくいい。異質なものを全部排除してしまう。内側を均質に固め,外側は全部敵とする観念で」
「明治国家をつくった時も,敵将を祀るとか,たたり神を祀るとかいう怨霊信仰の伝統に反する靖国信仰をつくったり,ずい分乱暴なことをやったわけですが,それはそれでうまくいった」
「ところが,大東亜共栄圏はだめだった。海を越えて大和の外に出たら,まったく通用しない。日本の近代国家は島国の中で培われたものを使って,天皇という国民を統合するのに非常に都合のいいイデオロギーの基軸を見出すことに成功した。そのことと,日本人が国際性を持たないということが,ワンセットになっているのではないでしょうか」(同書,〔菅〕130頁・131-132頁)。
補記)以上のごときこの 6)の話題に関しては,体制側の神道信仰者であったつもりの識者たちが,わずかの異論すら許容しなかった,明治後期のある事件として「久米邦武筆禍事件」が起きていた。ごく簡単にこの事件を説明してみたい。
イ) 「古俗神道」の問題。日本には仏教伝来以前から存在した,自然崇拝や祖先信仰などの固有の信仰形態を有しながらも,特定の教祖や組織はもたず,また神社の社殿すらない「素朴な自然信仰」が中心であったこの古俗神道が連綿と継承されていた。
ロ) そういった古俗神道の実在を踏まえてだが,明治時代後期,久米邦武が論文「神道は祭天の古俗」で提唱し,神道を宗教ではなく「天を祭る古来の習俗」と位置づけたところ,神道界から激しい批判を受けた。明治維新以降,「日本は神州である」という狂信的な宗教的(まがいの「国家神道」を狂想していく)国家体制を,明治帝政が採るべき進路とみさだめていく背景のなかでの事件であった。
ハ) そこに1891〔明治24〕年であったが,帝大教授・久米邦武が論文「神道は祭天の古俗」を発表したところ,神道界関係者たちがこの理解を問題にし,一大騒動になった。その翌年,久米が大学を追われる事件を招き,1893年に修史事業が停止される一因にもなった。
この事件前後の,神道界における諸雑誌の議論を跡づけた宮地正人は,久米邦武が「 “国家神道” と歴史学の対決として事件」を学術的にとりあげ,客体的に考察したがために,国家神道の確立・普及・浸透を期する神道研究者たちの批判を集中的に受ける「筆禍事件」を引き起こした,と解説した。
7) 在日知識人に対する日本の学者評価
1980年代に在日する韓国・朝鮮人や欧米人から始まった「指紋押捺拒否をした韓国人のインテリが,ほんとうに日本の学者ってつまらない,ほんとうに腑抜けでどうしようもないと思う,現実の問題と結んだところで学問をやるなんていうやつなんて全然いないと,えらく軽蔑しています」
「そのなかには偉い人だけじゃなくて,20代で,学者の卵として学者のルートに乗りたいと考えて,それを自分自身の生活にしちゃった人も含まれてますね。逆に運動家のなかには,ダメと思った割には少しはおもしろい人がいたので救われたということをいっている」
「しかし,“真理は少数にあり” で,必ず例外的存在の少数者というものがいて,ときにはそっちが力をもち,現存する社会を新しいものにかえる推進力になっていく,そういう活力が支配階級のイデオロギーを圧倒する。そういうこともあるのが,普通のブルジョア社会だと思う」
「それが日本の場合には,野に異見無しで,能力ある人間がお上や独占企業の機関の側に吸い上げられてしまった。本当に在野の賢人がいない。官学や私学までも含めて研究機関の内側に入ってしまうと,ほとんど,その場の論理に同調してしまって,機構のなかにそういう場そのものの意味に醒めている人がいなくなってしまう」し,「それはなぜか,といわれても理由はわからない」(野坂昭如・菅 孝行『天皇制にこだわる-天皇依存症の研究』明石書店,1986年,〔菅〕143頁,143-144頁)。
7) 帝国主義イデオロギーとしての天皇制問題
「天皇制イデオロギーとか天皇主義というのは,一応『自立』した帝国主義のイデオロギーですから,日本以外のどの国とも戦えるというイデオロギーですね。すごく排外主義的で,内側の原理は和の原理,外へ向けては殺戮の原理です」
「内部にむけての和の原理は同時に差別の原理で,被差別者も差別を受け入れさえすれば,差別されているなりに,和の原理の内部に組みこむ。この時に,アメリカはどうなるか。アメリカは外部です。イデオロギー上は絶対アメリカとも戦争するイデオロギーなわけですね」
「天皇が出てくれば出てくるほど,イデオロギーは反米になる。ないしは反米になりうる条件はどんどん整いつつある。ところが,軍事的には,どんどんアメリカとくっ付いているから,あとはほかのところがうまくいっているかというと,ものすごく経済摩擦がはげしくなっている」
「その辺,複雑によじれた関係になっている。本格的な危機というのはそういうものだといえばそのとおりですが,軍事・経済・イデオロギーが三つ巴でゴチャゴヤになっている。思想としては,アメリカとも戦争できることをめざすようになっている」
「天皇が甦るということを前提にしたならば必ず反米が出てくる」
「『天皇依存症』というのは,アルコール依存症になぞらえた野坂さんの命名である」
「日本人の天皇中毒を解毒するために」には,「誰しもそろそろ,それにすがらずに生きる知恵と文化と政治を見出し,創り出してもいい頃ではないか」(同書,〔菅〕177頁,177-178頁,〔野坂〕178頁,〔菅〕197頁)。
以上,本日のこの「本稿(7)」の記述は,野坂昭如と菅 孝行の対談本を相当詳しく紹介していくなかで,日本の「天皇・天皇制の内閉性」と対になっている「自己完結性」が結論されたところで終わりとしたい。
3「本稿(7)」なりの若干まとめ
a) もっとも,21世紀における天皇・天皇制の問題次元がいまだに,明治時代の偉勲となった伊藤博文(ならびに井上 毅)を中心に国家設計にたずさわったところの,つまり,その大本である「現代に残る古代史的封建遺制」の本性(桎梏)から一歩も脱却できないまま,
あの安倍晋三君が第2次政権をさせて以来,「戦後レジーム(敗戦以後の対米服属国家体制)からの脱却」を標榜したがために,19世紀から20世紀へさらに21世紀になっても,日本の民主主義国家体制は形成未全に留まり,つまり,半熟たまご同然の水準・状態を余儀なくされてきた。
日本は,天皇・天皇制が残っているから本当にすごい国でありうるのかという論点(虚説)に対しては,真正面からこの話題に取りくむ識者たちの方法じたいが,基本において「その存否じたいは問わない議論」をしていたのだとしたら,当初から成果が上がる討議は期待できるわけがなかった。
日本が本当にスゴイところは,そうした民主主義国家体制が「天皇・天皇制」なしでは想像されにくく,また,実際に創造もされなかった点にこそ,「根本の問題」が集約的に読みとれる。GHQの元帥マッカーサーが関与した,しない以前の問題であった。
昭和の敗戦後生まれの本ブログ筆者は,昭和天皇の活きていた時代を時間的に認識しておくための基本軸を踏まえたうえで,息子の平成天皇がオヤジさんのいわば重い負債を背負ったかっこうになって,「平民妻:正田美智子」とともに,平成の時期における苦業(慰霊の旅:巡礼模様)をこなす姿も観てきた。
2026年のいまとなれば,裕仁の孫の徳仁が「令和の天皇」を演じているわけだが,「正:ヒロヒト」⇒「反:アキヒト」⇒「合:ナルヒト」と形容してもいいような,つまり,3段跳び的融合の「理解:観念」が可能かといったら,残念なことにあまり期待できない。
そこへ先日,高市早苗が皇室典範改正案を,女性天皇は認めない,男系天皇を維持するには女性宮家に養子を入れて,子どもを儲けさせて「男子を生ませ」,これを天皇に据えるといういまどき「先進国もどき」ともいえないような,まるっきり,皇室典範をもてあそんだ「改悪」が国会両院を通じて可決されていた。
しかし,この皇室典範改正案(ならぬこの改悪案)に対しては,大手紙が猛烈に反対し,批判する社説を書いた。これほどに「男女差別」的でヒドイ,ジェンダーギャップのヘッタクレも▲ソもなにもない,単なる時代錯誤そのもの発想であったからには,いいかげん,もう叩かれまくる顛末を呼びこんでいた。
しかも,この法案を国会で通したのがオンナ首相(としては日本初物)の高市早苗と,この麻生太郎がゴソゴソうごめく自民党政権とであったからには,まさに「戦後レジームの脱却」(安倍晋三の悲願であった)ならぬ,そこからの「大脱線」が発生したことになる。こうなると,もはやレジームもヘッタクレもない。
日本の経済は現に,サンセット状態に突入しつつあるという悲惨な現状のなかで,政治の実際がやることとみたら,これまた「どこまで続く泥濘ぞ!」でしかありえないのだが,いまのオンナ首相はその自覚・認識はゼロであった。国旗侮辱罪? まさか,日章旗を軍旗だと勘違いでもしているのか?
例の,日本の「ジェンダーギャップ指数」は2025年の最新評価では,148カ国中 118位。順位は2024年から変わっていなかった。G7(主要7ヵ国)のなかでは,ダントツで最下位が続いている。
b) さて,徳仁のあとは実質,悠仁が天皇位に就く可能性が一番ありそうな今後:未来になりそうだが,いまの段階における天皇家「監視者たち:ウォッチャー」の関心事は,もしかすると男系天皇の途絶を心配していた。それで皇室典範改正案(実質改悪案)を先日,国会で成立させていた。
しかし,21世紀の日本じたいが今後どうなっていくのか,いきそうなのかといった論点のほうが,一般の国民・市民・庶民の立場・利害にとってはより重要な関心事である。
天皇家が消滅したら日本という国も崩壊でもすると本気で考えている人がいたら,それよりも当面は,南海トラフ地震など,近海の太平洋海面下にひそむ「ナマズの大跳躍」の心配をする喫緊の警戒のほうが,より重要である。
補記)この記述を準備している最中につぎの地震が発生した。2025年12月8日午後11時15分ごろ,青森県東方沖を震源とする最大震度6強の地震が起きた。この地震の規模を示すマグニチュードは 7. 5 で,深さは54キロと推定された。
この地震の影響で一時,津波警報や注意報が北海道太平洋沿岸中部,青森県太平洋沿岸,岩手県に出された。9日午前1時前後には久慈港で70センチ,浦河で50センチ,八戸港で40センチの津波を観測した。午前0時前後には,むつ小川原港で40センチ,えりも町・庶野(しょや)で30センチの津波が観測された。
気象庁は,津波警報を9日午前2時45分に注意報に切り替え,注意報も午前6時20分に解除したが,今回の地震を受けて気象庁は今後発生する可能性がある大きな地震への警戒を呼びかける「北海道・三陸沖後発地震注意情報」を,2022年の運用開始以降初めて発表した。この警戒の呼びかけは16日午前0時まで続くものだという。
〔本論に戻る→〕 天皇家における男系男子天皇系譜の存続危機は,明治維新以来にわざわざ定義づけられて創成された新しい伝統とはいえ,この危機を回避あるいは解消させる手順そのものの議論に関してすら,民主主義的な根本精神に十分に則って進行させているとはいいにくいのが,この国の実態である。
まるで21世紀に生きているごとき「現段階における19世紀的な天皇問題状況」は,そのなかに陰湿に秘めているつもりの政治時代観を,根柢から抜本的に改新させえないことには,
2010年代においてだったが,すっかりこの国を精神的な荒野に追いやってしまった,あの「世襲政治屋3世」の坊や,つまり「幼稚と傲慢・暗愚と無知・欺瞞と粗暴」性にしか,その人間としての資質を見出せなかった安倍晋三君の「偉大なる負の政治史」を,わずかも回復・修繕することは不可能だといわざるをえない。
いまの21世紀の時代にあってである,天皇が国とその民の統合の象徴だといっているなかで,その「天皇」が死ぬと,まるで古代史のなかでの実話でなければありえない「巨大な墳墓」を,それも「夫婦(めおと)墓」ごとくに造り,ここに「彼ら夫婦」を並べて埋葬するといった国柄は,
明治維新とともにはるか古代史の営為を真似て復活させたつもりの,旧帝国主義的発想に引きまわされた「政治事象の反時代的な含意」は,あなどりがたいほど時代錯誤のきわみである。
こうした皇室事情史をまともに展望,反省,是正する動向そのものは,内的に沈潜しうる本気の思考ににもとづき生成されてこないかぎり,21世紀に生きる「古代模擬国家体制」の奇っ怪さ,珍妙さ,頓狂さは,これからもその材料性をさらに蓄積させていく政治過程を進むほかあるまい。畸型的に,である。
そもそも皇位継承問題に関していうとしたら,本気でこれからも男系男子制を継承していくつもりか。時代錯誤であると指摘されるその理由や根拠は,その問題じたいに対する自覚症状が皆無である点に,あるいはなにかにまつわって,虚勢を張ってとりつくろう点にみてとれる。
しかも,現行のその制度が「いまだに世界に冠たる日本の特性だ」とか認識いたたがるのだから,このいいぶんにこめられているその気持ち:ホンネを,外部者にはとうてい理解の及ぶような性格のものではない。すなわち,初めから他者の理解は完全に排除しておきながら,なおかつ自分側の圧倒的な主観上の優位性だけは盲信しえたその性根にこそ,その「重大な病巣」があった。
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付記)「本稿(7)」の続編は以下である。
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【参考文献】
