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「明治謹製」大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性(8)

【冒頭断わり】 「本稿(8)」はつぎの(7)承前である。

 

 1 鈴木武樹『消された「帰化人」たち』講談社,1976年における古代「日朝関係史」観

 鈴木武樹は本書『消された「帰化人」たち』1976年で,「日本」「天皇」「帰化人」という3つのことばがたいそう好きな,この国の国史学者・国語学者・国文学者・国考古学者,いわば〈ネオ国学〉たちを,こう批難している。

 彼らは,この国がまだ「倭」「倭国」と呼ばれていた時代であっても,「日本」を用いる。しかも,この「日本」に含まれる地域を,けっして定義しようとしない。

 同じように彼らは,「天皇」なるものがまだ存在しなかった7世紀初頭より以前において,倭地の一部を形成していた倭国の「王」をも「天皇」の名で呼ぶ。

 そして彼らは,それらとまったくかわらぬ手軽さでもって便宜的に,ということは,非学問的に「帰化人」なる単語を用いる(鈴木武樹『消された「帰化人」たち』講談社,1976年,〔はじめに〕3頁)。

鈴木武樹『消された「帰化人」たち』1976年の指摘


 中国の古代において「帰化」の意味は,「教化に帰服すること」「王化に帰附すること」である。この定義からすれば,古代においては,他国・他地域から倭地へ移住してきた人間すべてを「帰化人」の名でくくることはできない。すなわち,「帰化」とはまったく関係なく,朝鮮半島・その他から倭地ないしは倭地に渡来した者たちも,少なからずいたはずだからである。

 にもかかわらず,国史学者・その他が,ある時代よりのちに朝鮮半島から渡来した人間たちをことごとく「帰化人」の名で呼ぶのは,『日本書紀』・その他の古代文献が彼らをそう呼んでいて,その「皇国主義」が無批判に受けいれられているためでもある。

 いいかえれば,ネオ国学者たちは,彼らがみずから「学問」と称しているものの,そもそもの出発点からしてすでに,文献そのものの主観性にとらわれており,非学問的なのである( 鈴木,同書,〔はじめに〕3-4頁)。

 鈴木がつねづね疑問としてきたのは,倭国の王権の保持者であった王や大王や天皇たちの祖先もまた,朝鮮半島からの渡来者ではなかったか,ということである。

 なかでも『偽られた大王の系譜』1975年は,倭国の王族たちはいずれも若干の家系の一員であって,それらの家系の大部分は朝鮮半島の辰王族にまで遡ることができるのではないか,ということを,数多くの状況証拠から推定してみた。この仮説の一部に対してはその時点で,水野 祐から長文の批判が寄せられていた(鈴木『消された「帰化人」たち』9頁)。

 本書『消された「帰化人」たち』は,6世紀の中葉までの倭国に支配階級の一員ないしはその周辺を形成する一員として登場する,ほとんどすべての部族または氏族の出自が,朝鮮半島に求められている。それはどちらかといえば,帰納的な推論の結果というよりは,演繹的な推理のそれであった。

 この姿勢に対しては,ある種の研究者ないしは読者のがわから理不尽な反撥が寄せられることを予測するにせよ,その種の人たちにはせめて一度だけでも,イギリス史に目をとおしてほしいと考える。『日本書紀』・その他が「帰化人」としている者たち以外は,すべて「純粋日本人」だと考える非歴史的な「歴史学者」が,いまだ大勢を占めている(鈴木 『消された「帰化人」たち』〔はじめに〕11頁)。

 要するに,本書の表題『消された「帰化人」たち』は,みずからが「帰化人」であることをみずら否定した,たとえば大王=天皇族や蘇我氏・物部史のような部族・氏族を指すと同時に,「帰化人」であることが明らかであるために歴史の表面からしだいに消されていった,たとえばアメノヒボコ族や漢(アヤ)氏のような部族や氏族をも指す。

 両者のばあいとも,「消された」とは比喩的な形容辞であって,彼らがすべて,現在の日本人たちの祖先の大きな一部分を形成するのはいうまでもない(鈴木,同書,〔はじめに〕11-12頁)。 

 中国人が〈倭人〉と名づけた種族とはなにかを推定すれば,それは,すくなくともヤポネシア新石器時代人が混血してできあがった種族だというべきだろう。「固有の倭人」は存在しないのである(鈴木,同書,25頁)。


  ◆ 大王=天皇族は朝鮮半島からの「帰化氏族」◆

 『日本書紀』『古事記』に記されている天神降臨神話は,朝鮮半島南端の金官加羅国(任那)ないしはその周辺の国々の神話が,倭国に伝えられて変形したものと考えられ,恐らく4世紀から5世紀にかけての時代にもたらされていた。

 しかし,王族が天神の子孫だという伝承は,5世紀には政治的にはまだ,それほど強力には利用されていなかったようである。その後,この天神降臨伝承は6世紀になって,任那との緊密な関係をとおして補強されたらしく,仏教の盛行のためにそれが政治的に用いられるまでには,7世紀の後半を待たねばならなかった。
 
 しかし,そのときはすでに,朝鮮半島,すなわち統一新羅と倭とのあいだには政治的な緊張関係が生じていた。また,支配者が朝鮮半島からの渡来者の後裔だという事実は,倭国にとっては国際的にも,すなわち,対唐関係のうえでも対新羅関係のうえでも,おもしろいことではなかった。

 そこで倭国の朝廷は,7世紀の後半以後,天皇族の出自が朝鮮半島にあることを懸命に消そうとしたようである。その努力の跡が,より古いかたちを残している『古事記』の天神降臨神話と,造作された形跡のいちじるしい『日本書紀』のそれとのあいだの相違に,もっとも象徴的に仄(ほの)みえているのではないか? 

 具体的には『日本書紀』では「韓(カラ)国に向かって……」の部分がみごとに抹殺されているのである。

 いずれにしても,大王=天皇族こそ,朝鮮半島から倭国に渡来した最大の「帰化民族」であり,その事実を隠蔽した痕跡が日本人の古代史だといっても,けっして過言ではない( 鈴木『消された「帰化人」たち』同書,224-225頁)。

 補記)以上の記述に関しては,当時古代史に関して教科書的にくわしい解説をした記述を参照されたい。なお『九州古代史の会』が関連する研究をおこなっている。この会のホームページは閲覧不可になっている場合があるので,ウィキペディアの「市民の古代研究会」を参照するとよい。

 

 2 工藤 隆『大嘗祭の始原』明石書店,1990年の語る日本の皇室の歴史的な起源


   ★ 天皇・天皇制の歴史,本当の古さは? ★

 ▼ 日本の文化にとって天皇・天皇制とはなにか? 
         天皇も人間であるからいつかは死ぬ
               -昭和天皇のときを思いだす- ▼

 ここでとりあげる文献,工藤 隆『大嘗祭の始原』明石書店,1990年は,昭和天皇が死亡した翌年〔平成2:1990年の9月〕に公刊された著作である。当時,天皇の代替りを表現する「大嘗祭の儀式(1990年11月22日-23日)」が執りおこなわれた。

  1989年1月に裕仁が死去してからしばらくのあいだ,昭和天皇の死去にともない意図的にしくまれた国家次元の操作によって,われわれの日常生活への悪影響が生じていた。

 それはさておいても,当時の日本社会の様相を表層的にみるかぎり,日本国は,まるで「象徴天皇」を中心に存在しているかのような,いいかえれば,彼と国民との政治的な関係が逆立ちした状態で動いているかのような現象を来していた。この事実は,当時の様子を記憶しているこの国の居住者ならば,間違いなく強く印象に残っている。

 一体に,日本国の「象徴」であるとされる「人間天皇」が死んだことによって,「日本国の住民たちの生活そのものの全体」までを,実際にはまるごと〈象徴しているわけでもなんでもなかった〉にもかかわらず,この国の人びとの「日常生活」全般が,一時的にであれ,停滞させられ妨害されてしまった顛末は,「象徴天皇にあるまじき〈逆機能の発揮〉」であったといわざるをえない。

 われわれは,象徴であれなんであれ,「人間の死」に対してはそれなりに弔意を表し,悼む気持をもたねばならない。しかし,一般国民・住民の日常生活にひどく支障をもたらし,経済活動を無用に沈滞させたり,社会の雰囲気をやたら抑圧したり妙に萎縮させたりするかのような「象徴天皇の死」であったとするならば,

 それは「国家の象徴である特定の人間」が逆に,「国民・住民の生活」を陰鬱にし,抑制的にするだけの結果をもたらしたのであり,「象徴そのものが亡霊となって虚空を一人舞いする」とでも形容したらよい,異常事態ないしは異様な光景まで発生させていた。

 そういう出来事が現実であったとすれば,皇室関係者の死というもののとりあつかいに関しては,今後よほど慎重な対応が要請されねがなるまい。あたかも「王様」や「殿様」や「独裁者」などが死んだかのような〈葬儀のしかた〉をすべきではない。

 ましてや,一般国民・住民の日常生活をわざわざ一時停止させるだけでなく,要らぬ負的な過重までをくわえるような形式での葬儀をすべきでもない。

 葬儀費用も国家経費である。象徴の象徴たるゆえんは「彼=天皇が死んだからといって,国民全員の親族が死んだわけではない」という考えから始めるべきである。 

 ここまで考えていけば,「象徴天皇」とはなんぞや,そもそもなにゆえ「人間が人間を象徴できるのか」という基本的な疑問が提示されねばならない。それはともかく,日本という国にある「天皇・天皇制の本質」を歴史的に省察するためにも,工藤『大嘗祭の始原』1990年から重要と思われる箇所を,こまかに引照しながら考えていきたい。

 補記)ところで,安倍晋三が2022年7月8日,統一教会の「宗教2世」の世代に当たる山上徹也によって銃殺された事件が発生したのち,この「世襲政治屋3世」の葬儀を国葬をすると,当時の首相岸田文雄が勝手に決めた点については,世論の過半が賛成しなかった安倍の国葬あつかいに対して非難する声が上がっていた。

 --要は天皇の葬儀じたいからして一定の問題があったところに,それに似たあつかいになりかねない安倍晋三の葬儀を,同じく「世襲政治屋3世」岸田文雄が恣意の采配によって取り決めた事実は,この国における民主主義の現実水準の劣化・衰退ぶりを,あらためて実証する一案になっていた。

 たとえば,「一色 清の『このニュースって何?』 反対が増える安倍晋三元首相の国葬 → 国葬って何が問題なの?」『朝日新聞 Edu A』2022年9月16日,https://www.asahi.com/edua/article/14718527 が,関連する基本的な「三つの問題点」を,つぎのように説明していた。

 〔2022年〕7月8日,安倍元首相が凶弾に倒れました。岸田首相はその6日後の記者会見で「国葬をおこなう」と表明しました。国葬は9月27日におこなわれます。しかし,世論調査では国葬に反対する人が賛成する人をかなり上回っています。

 反対の理由としては,少なくとも 16. 6億円の税金が使われることや安倍元首相と旧統一教会に接点があったことなどが挙げられます。しかし,それ以前にそもそもの問題があります。今回の国葬における問題を理解しつつ,国葬はこれからどうあるべきか考えてみましょう。

 今回の国葬の問題のひとつは,根拠になる法令がないことです。戦前には国葬令がありましたが,戦後の1947年に失効しました。

 戦前の国葬では,日露戦争で功績のあった東郷平八郎元帥や太平洋戦争の連合艦隊司令長官だった山本五十六元帥も対象となっており,戦意高揚に使われた面がありました。

 国葬令がなくなったのは,国民主権や平和主義を柱とする日本国憲法下の社会にふさわしくないと考えられたものと思われます。

 いま,国葬がはっきりと書かれている法律としては皇室典範があります。25条には「天皇が崩じたときは,大喪の礼を行う」とあります。大喪の礼は,国のおカネでおこないますので,広い意味の国葬です。

 日本国憲法1条には,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と書かれていますので,天皇や上皇の葬儀が国葬であるのは論理的に当然だと思います。逆にいえば,法的根拠のはっきりしている国葬は「大喪の礼」だけといえます。

以上に述べられている国葬の問題点は戦前体制下の法律規定であったこと


  ♠ 安倍晋三を国葬にした岸田文雄の罪は重い ♠

 2010年代にあの「悪魔(悪夢ではなくそれ以上のもの)が跳梁跋扈しまくった「安倍晋三の第2次政権」は,7年と8か月もの長期間維持してきた安倍晋三は,その為政に対する基本的な政治姿勢が「幼稚と傲慢・暗愚と無知・欺瞞と粗暴」だけでしかなく,しかも,この国の政治も経済も社会も伝統も文化もメチャクチャに,それもチャイルディッシャなお手並みでもって,引っかきまわしてきた結果が

 現在,例の「失われた10年」の第4周回目を,なお疾走(失速?)中を強いられている,日本の「政治経済体制」の「構築(!?)」に,多大なる負的貢献をした安倍晋三のための国葬であったから,国民・市民・庶民たちからの反発には根強いものがあった。

 安倍晋三がこの国のありようを「戦後レジームからの脱却」だとか唱えていたけれども,実は当人自身がよく理解できていなかった「米日安保体制の桎梏問題」に,首相という立場がそもそも呪縛されていた。けれでも,在日米軍の基地を介して実質的にはアメリカ合衆国の舎弟・三下である自国の立場を,なにひとつ変えることができなかった。

 それどころか,アメリカの大統領のなかでは初めて「日本国の主権」など完全に蹂躙した行動(羽田空港からではなく米軍横田基地から日本の進入〔浸入〕した)トランプ大統領(当時)に対しては,頤使されるままに,日本国の軍事費(防衛費)を倍増させる(GDP比率2%へ)というプレゼントまでもするといったごとき,売国かつ亡国かつ滅国の服従ぶりを恭順に示してもいた。

 だいたい「戦後レジームからの脱却」を主張するならば,1945年9月以前にはなかった米軍基地をなくすことから始めるべきであったが,こちらのほうはいっさい手つかずであった。米軍基地は依然,治外法権あつかいであり,反面からいえば属国日本の事実を日夜,鳴り物(騒音=爆音)入りである現物をもって教えている。

 補記)安倍晋三などの,いってみれば,以前から機能不全をきたして「自民党の21世紀史」が必然的に生み出してきた,揃いもそろって出来そこないばかりであった首相たちの,その「人的資源・品質管理としての生産過程そのもの」は,安倍から菅 義偉⇒岸田文雄⇒石破 茂⇒高市早苗への流れとしてならば,完全に劣性(潜性)遺伝の必然的な顛末であった。

 2025年10月21日,「日本初の女性首相」として高市早苗がが登場した。ところが,このネトウヨ・ティックなイキり姐さんが就任早々,懸念していたとおり,「KY」(国際政治の空気が全然読めない)のヘマを犯した。つまり大チョンボを打ったのである。

 11月7日の国会衆院予算委員会において彼女は,いままで日本の歴代首相がヘマな国会発言などけっしてしなかった--そうするわけなどいっさいかなったし,また外務官僚がその答え方:模範解答も事前に教えていたのだが--,わざわざいわなくともよい文句,すなわち「台湾有事は存立危機事態」などと得意げに,しかも「これが私の持論でございます」というしたり顔で発言した。

 当然のなりゆきであったが,高市早苗が首相の立場からこの〈個人的な自説〉を一くさりした瞬間,中国側からは大反発が突沸した。こうした事態の発生は,そもそも事前に分かりきっていたはずの予測であったゆえ,日中の政治関係はいきなり険悪そのものになった。(補記・終わり)

 補記の補記)本日は2026年7月25日であるが,日本初だというこの女性首相の大チョンボの悪影響は,当初から懸念されたとおりに,いまもなお日中関係をギクシャクさせる基本原因のままで,なにも改善されていない。

 すでに明白になったこの高市早苗という首相は,国家最高指導者としての采配をどのような見地・立場からどのような要領・指針にしたがい「原則的に実施すべき」というイロハ(基本・原則)を,実はまったく弁えない素人政治屋であった事実が,実際に首相の仕事をやらせてみるとバレていた。

 その本当にみっともない彼女の本性は,以下の枠外に紹介するが『X』にポストした(書きこんだ)発信の内容からも,よく伝わってくる。国家最高指導者の立場はどのような意味を有するのか,その初歩の初歩からしてなにも理解できていない彼女の政治屋としての知的水準は,恐るべきほどに低空飛行である。

自民党政権・党首の劣性遺伝要因

 以下に『一月万冊』2026年7月24日,本間 龍がユーチューブ番組でAIに作成させてだが,「高市早苗が首相の立場」を図案化して表現した,しかも完全に「それ,ダメ!」でしかない彼女の言動:対応ぶりは,どのように批判されるべきかを,政治学・行政学・経営学の基礎的な思考に則して説明されるべき図解だとみなし,ここに紹介しておきたい。

その1
その2
その3
その4

 本間 龍にこのようなAI作成の画像(高市早苗が一国首相として不適格な人物である事実を描いたこれ)を造らせた,そもそもの高市の発言はこういうものであった。

一国の首相が一家庭の主婦業みたいに書いた『X』ポストということで
いまや世界中か「この人,大丈夫か?」という反応が噴出

 古代史の話題のなかに21世紀に突如登場したこの日本初女性首相に対しては,以上の話題に関して,以下のように激烈に批判しておく余地がある。

 「『寝てないアピールする首相見たことない』 高市氏のX投稿波紋」『毎日新聞』2026年7月21日 19:25,更新 7月22日 18:44,https://mainichi.jp/articles/20260721/k00/00m/010/239000c という記事を介して,その『X』へ投稿した早苗流「日本国官邸・主婦」の絵日記ならぬ「1人苦労話に冠した披露話」は,前後して議論し説明しているが,これは,まさに「一国の最高指導者の立場」に居る人間が語るべき内容,吐いていいようなセリフではなかった。

 この人,だいぶ勘違いしつつも自己陶酔感だけはたっぷりに,そのように「1人語りしていた」ことになる。つまり「官邸から外部に向けて語り,公開する価値など寸毫もない身近な話題」を,わざわざ「働いて・働いて・働いて・働いて・・・」と文句とも関連させて書くべき対象でもなかった点に「まったく意識がまわらない」でいた。

 それでいてこのように,焦点ボケも甚だしい〈SANAEの絵日記〉ならぬ『早苗ちゃん式の日記』を中身を公開する文言を,世間(世界中)に向けて公開,拡散させた。

 なにかに大きな勘違いがなければいいのだが,自分の立場・職位・職務・職業・仕事・任務・責任がなんであったのか,まったく自己認識が狂っているとして受けとれないような,いってみれば,完璧に「お▲カな『X』での発言」を犯していた。

〔記事に戻る→〕 高市早苗首相は〔7月〕20日夜,自身の『X』(ツイッター)に,7月に入ってからの週末は経済財政運営の指針「骨太の方針」などの「分厚い資料を早朝から深夜まで読み続けた」などと記し,睡眠不足の状態で「書類の山と格闘」して過ごす多忙ぶりをアピールした。一方,与野党からは一国のトップリーダーの働き方や発信として適切なのか疑問視する声も上がった。

 「0~3時間睡眠が常態化」と『X』で

 首相は〔7月〕18,19日の土日については「(骨太の方針などの)文書の最終案を再度読み込んだり,数千通も溜(た)まってしまったメール処理で今日(20日)の明け方まで仕事に追われた」と紹介。首相就任以来の睡眠時間は「0時間~3時間睡眠が常態化」していると説明した。

 補記)誰であっても首相の仕事に就いている人間(政治家)が,睡眠不足になるほど多忙である点は,常識次元で理解できる。このようなことがらをわざわざ語るところが,このオンナ首相の浅薄さというか,脳▲りん的な感性をみずから暴露していた。小学生の一日首相体験じゃあるまいに・・・。

〔記事に戻る→〕 一方,3連休最終日だった20日は,「久々に5時間も睡眠を取れた」と強調。「午後は私的に使える貴重な時間になった」として,「昼からは手付かずだった大量の洗濯後のハンカチやインナーのアイロンかけとお裁縫を一気に処理」したとつづった。

 経営学の基礎理論的な知識のひとつに「権限の委譲」という論点がある。というか,それ以前の問題として考えるべき事項に過ぎないのであるが,こうなるとこの首相は,官邸のお風呂やトイレ,そして廊下や窓の掃除も自分でやる趣味でもあるのかと,完全に呆れながら感心したり,本当に▲鹿にしたりしなければならなくなる。

 要は分かってない,のである。「私的に使える貴重な時間」は,一国の最高指導者には,そもそも「限りなく奪われ,なくなるもの」だという覚悟が,このオンナ首相にはなかったというか,その肝心な心得がまったく理解の外。まあ,こういうことを▲ソマジメにいえる首相は,男と女とと問わずとりあえずは2月3日でなくとも,「鬼は外」!

〔本ブログの「本文・記述」に戻る ↓  〕 

 2010年代の話に戻る。当時の世論のなかにはつぎのような風刺画が流通した。批評的だったとはいえ,このように断定されてしまう一国の最高責任者がいて,本当にろくでもない指揮ぶりを,それも長期間,発揮しつづけてきた。そうであったからには,この国が悪くならないわけがなかった。

 ここではつぎの画像資料を挙げておき,やや本論からズレていたここら付近の段落を,ひとまず締めることにしたい。高市早苗の師匠(?)だったというか,先輩筋の首相に関する関連の諸資料を列挙しておく。

この政治過程のなかで庶民にとってなにかイイコトはあったか?

下の画像資料も同工異曲であるがアホエノミクスと
アホノポリティックスの不協和音ばかりが鳴り響いていたのが2010年代以後
高市早苗はこのろくでもなかった政治過程にさらに恥の上塗り的な延長を工作中である
つぎの構図で表現されるべき日本政治の今日的難題も先送りされるばかりである
「あいつだけは」「いけない」のに
日本の首相になっていた
その結果は2020年代の日本が思いしらされている
山上徹也の刑事裁判「公判」(裁判官裁判)はなにゆえ
約3年3か月も経ってから開始されたのか?

結局前掲画像などにも示唆された歴史的な因果関係のなかで
安倍晋三は生命を絶たれた

一審判決を不服とした弁護側が控訴期限の2026年2月4日
大阪高裁へ控訴状を提出していたがこの公判はまだ始まっていない

山上徹也の裁判はなぜ判事に裁かせないで
一般市民による審理・判決に任せることにしたのか?

このような問題意識はいままで本ブログ筆者がしるかぎりでは不詳の事情であるが
国家側のある種の嫌らしい事情・背景がないとはいえない


 3  工藤 隆『大嘗祭の始原』明石書店,1990年の重要論点


 工藤 隆は,この著書『大嘗祭の始原』明石書店,1990年の「はじめに」で,こう断わっている。 

 1989年1月に昭和天皇が死去し,皇室行事として大嘗祭が執りおこなわれたさい,マスコミなどに示される “表層” に現われた報道姿勢は,「大嘗祭の価値そのもの」が,あたかも絶対的なものであるかのようにあつかわれていた。

 しかし,その根拠についての言及はほとんどなく,まれにあってもその説明は,はなはだ楽観的かつ安易であった。一方で,その大嘗祭の価値に否定的な人たちの論理も,必らずしもその本質の部分まで届いておらず,その否定の根拠が,1945年に崩壊した軍国主義的天皇制ファシズムに引きつけすぎるか,あるいは現憲法の政教分離の原則からのものが多かった。

 一般に,本質とずれたところからの批判は,けっして根底的な有効性をもたない。それどころか,実は,否定しているつもりの対象の本質の部分によって,自覚せぬままに浸潤されていることが多い。

 本当のところは案外,意識の深層においてはその対象に寄りかかることによって自己を安定させているのである。本質を離れたところでの全否定は,しばしば肯定につうじる(工藤 隆『大嘗祭の始原』〔はじめに〕2頁 )。

 日本国に日本人として生きているかぎり,大嘗祭さらには天皇の存在意義を全否定できないのであれば,それと絶対的なものとして全肯定する立場もまたありえない。それが人間の作りあげたものであるかぎり,世界はどこまでいっても相対的存在でしかありえないからである。

 ただし,その相対的でしかありえないはずの世界に,絶対的で超越的なものの存在を主張する立場もあるにはある。宗教の場合がそうである。
 
 しかしながら,日本国は宗教国家ではない。日本国は,天皇信仰・天皇京の宗教集団ではないのだから,天皇が日本国にあって相対的存在としてあつかわればならないのは,当たりまえである。

 というわけで,工藤『大嘗祭の始原』の論題は,大嘗祭ひいては天皇制をどこまで相対化できるか,またそれになんらかの価値があるなら,それをどこまで客観的にとり出してみせることができるかに設定され,これをもって大嘗祭の核心部分の構造に迫ろうとするのである(以上,同書,〔はじめに〕2-3頁)。


   ▼ 大嘗祭論の前提〔第1章「題名」〕

 昭和天皇が死亡したのは1989年1月7日であった。1988年9月19日に彼が吐血してからそれまでの期間,日本国のかなりの部分においていわゆる “自粛” の嵐が吹きつづけた。この自粛現象については,1945年に崩壊した天皇制ファシズム下の時代でもないのに,なぜそれが生じたのかというところにとくに注目しなければならない(同書,15頁)。

 ただし,日本政府自民党は,大東亜戦争を “侵略” と認めるのをいまも嫌がっていることに典型的なように,本音の部分では右翼的体質を温存しているから,天皇崇拝の普遍化を推しすすめるひとつの機会として,天皇重病を活用した。

 しかし,それでも時代の変化・国際環境の変化は敏感にとらえていて,必要なブレーキはかけた。結局,自粛はじわじわと連鎖的に広まっていった。

 全体からみればわずかではあっても,そういう自粛の流れに疑問を投げかけたり反対したりという動きも徐々に出てきた点だけは,敗戦前の時代との違いといってよい。

 奇異の目でとらえる諸外国の反応がマスコミによって伝えられたのも,外からの視線が与えられたという意味で,相対化に必要なひとつの条件と作った。これも,あらゆる情報がファシズム国家によってほぼ完全に管理されていた敗戦前とは大きく違う点である。

 しかしながら,それでもなおあの嵐は吹いた。その根はよほど深いと考えるほかない(同書,16頁)。

 --途中ではあるが,工藤の議論はあくまで,自身も日本人・日本民族の構成員であるという事実を,かなりの程度固定的に前提してうえで,理解したものとみなさざるをえない。

 すなわち,内外の視線を配慮するわりには,自身の立場を相対視する意識が足りないように感じる。とはいえ,それでも工藤なりに「当時の自粛」現象の「根の深さに関しては,つぎのように分析している。

  a)「国 民」--決定権は主に旧世代。

  b)「政 府」--天皇崇拝思想の政治利用は保守勢力の基本方針。

  c)「マスコミ」--天皇の本質に触れることをタブー視。

 なかでも c) で工藤は,「ある種の人間を絶対的に賤しいとするのが部落差別であり,逆に,ある種の人間を絶対的に尊いとするのが天皇制である」とも論断している(同書,17-18頁)。

 「素朴なことからいえば,天皇や皇族関係のニュースになると,必ず尊敬語を使うように徹底しているが,その必然性はいったいどこにあるというのだろうか。“習慣”だというかもしれない。あるいは,いわゆる右翼からの抗議・妨害を受けない用心のためにだというかもしれない」

 「だが理由はどうであれ,マスコミは結果的に,“天皇は絶対的存在だ”という思想を日々流し続けていることになる」。この「ことによる国民の意識への影響は,かなり大であろう」(同書,19頁,20頁)。

 補記)以上の記述は,封建遺制を引きずるのではなく,それに「引きずられている」「国民であり国家である日本」の意識が,結局,中世的な特性を払拭できていないこの「国の民たち」の事実を,21世紀の現在になってもなにひとつ変えられない実情を指摘している。

 そこには,明治維新の19世紀的な成功とは裏腹の関係でもって,この21世紀における日本国の「現在的な失策」の伏在が,伏在そのものでありながらも,表層にまで明確に浮上していた。

 いくら日本国憲法だとはいっても,いまどき,万世一系だとか一視同仁だとかいった『古代』妄想の囚われた観念が,実際に昭和天皇の場合だと本当に信じていたとなれば,その事実が息子や孫の天皇たちに継承されていないと断定しうる材料は,そう簡単にはみつからない。

 なかんずく,21世紀にもなった段階において,そのような「国家・国民の象徴人物」を持続可能的に戴いているこの日本は,明治由来の別姓堅持の基本姿勢にも端的に現象させてもいるように,手を変え品を変えては,その「時代錯誤」というよりは,規格外に独自であった「自国:神州的な想念」に,いまだに浸っていたい国柄でもある。

 けれども,この幻覚的な自認作用がこれから,加療もされずに維持されていくようでは,安倍晋三のせいもあって,すっかり「衰退途上国」になりはててきた現状を,そして,日本初の女性首相となった高市早苗がさらにこの国をより貧弱にしているこの現状を,どうしたら軌道修正しうるのかと思うに,もはや絶望的……であるとしかいいようがなくなっいた。

 早苗が首相になった2025年10月21日時点だと 151円台であった「円・ドルレート」が,昨日の2026年7月24日には 163円台にまで下落した。その間9ヵ月しか経っていない。毎月1円以上はダダ下げさせてきた。この日本の経済をめぐる動向が,経済の〈なにも分からん人〉であったこの首相にいわせると,「円安でホクホクだ」になる。だが,これは愚にもつかないという以前に,政治家としては経済音痴そのものである知的水準を自白させる発言でしかありえなかった。もう笑おうにも笑えない。笑い話だとしたら断崖絶壁に立たされた気分……。

 ところで,今年:2026年に生まれた者が74歳になる2100年には「日本の人口は往時の3分の1(未満)となると予測されている。現在まで「少子化の勢いは止まらない」となれば,今後に向けて「天皇・天皇制は民草(赤子)の存在なしくては皇統を維持しえない」わけだったゆえか,

 そして同時にまた「自家の跡取り息子(Y染色体)」の確保に四苦八苦しつづけていた結果,天皇家に姻戚関係のあるあの麻生太郎が妹の信子は姪の彬子と共同戦線を張ってだが,皇室典範の改正ならぬ改悪を成就させていた。皇室典範のこの改悪案は,2026年7月17日に参議院本会議で可決,成立した。その後,7月24日に公布、10月24日に施行の予定である。

 いまの天皇家においてつぎの天皇になりそうな可能性が大きいのは,悠仁である。この青年は天皇徳仁(令和天皇)の甥である。そしてまた,いまの時代において,王室(皇室)のなかに女性が天皇となる可能性は,明治憲法(打日本帝国憲法)が新憲法(日本国憲法)に変わってもなお,否定されつづけている。

 要は女性差別,ジェンダーギャップを当然視する,いあば「先進国だとみなされている国々」のなかでは,いまどき本当に珍しい「男女間の性差別」を当然視する「お国柄」なのである。

 それでも「世界のなかで先進国であるつもり」だけはまだ矜持として抱きつづけているらしいこの国家は,きわめて奇異な「貴人観」に浸ってもいられる感性ももっていた。

 結局,この国は,けっして「いにしえからの〈皇室の伝統ではない〉」,つまり「明治謹製」であっただけの「天皇位・観」というものに呪縛されてきていながら,21世紀に現在になっても,世界中から奇観視されている天皇・天皇制を,これからも後生大事にするつもりである。

 日本における天皇・天皇制の不要論を強く説く人がいるとしたら,現状のごときY遺伝子の確保に四苦八苦する天皇家という存在は,いったいどのような「日本国憲法」にまつわる意味を歴史的に有してきたのか,あらためて掘り下げてみる余地があった。だが,このあたりの議論はいまだに,まさか「菊のタブー」の影響がなかったとしても,前向きに,積極的に,批判的に議論を切開していこうとする識者は少ない。 


〔工藤 隆の本文に戻る ↓ 〕

  d)「天 皇」--その変幻自在さ。

 「軍国主義盛んなファシズムの時代には,陸・海・空軍を統帥する者として軍服姿で白馬にまたがっていた同じ人物が,敗戦後には,一転して『人間』だということになり,普通の背広姿で民主主義的平和信奉者に変身する」

 「普通ならそこにどうにも越えられないような大きな断絶を感じて,天皇自身も大衆もその白々しさに耐えられないはずなのに,意外にあっさりとその溝を飛び越えられてしまったところに,天皇制というものの変幻自在がある」

 「昭和天皇の誕生日の祝日だった4月29日を “緑の日” と名前を変えて存続させたのも,なかなかの鮮やかさである」(同書,20頁)。

 補記)再び途中ではあるが,旧日本帝国には現在の防衛庁自衛隊のように陸・海・空3軍編制ではなく,陸軍と海軍しかなく空軍はなかったので指摘しておく。あえて著者の不得意な知識にケチを付けるつもりはないけれども,敗戦前の日本帝国天皇は陸・海軍を統帥する大元帥であった。

〔本文に戻る→〕 さて「この変幻自在さは,大嘗祭についてもいえる」。「外来の道教(陰陽道)に最先端の “科学” を見ていた7,8世紀にはその道教の要素を取りこみ,唐風文化の影響が強まる9世紀には唐風の正確を一段と強め,中世には密教の要素さえくわえ,文明開化の明治になれば洋風を取りこむという具合に,過剰といえるほどに時代の流れに敏感に反応し,それに迎合して祭りを維持していきた」

 「実をいえば,大嘗祭の核心にあたる稲の収穫祭という要素でさえも,もともと天皇氏族が創始したものであったかどうかさえ疑われるのである。そういうわけで大嘗祭というものには,外皮を一皮ずつはがしていくと,最後には天皇氏族のオリジナルなものはなにも残らないという感じさえしてくるのだ」(同書,21頁)。

 補記)昭和天皇は即位した翌年から「田植え行事」を,自家用神道である皇室神道のもとに創案し,実行しだした。当時(昭和2:1927年)はまだ,日本の農業人口が絶対数,比率ともに高かった。しかし,昭和のはじまった1926年における日本の農業人口比率は,約61%であったものが,1935年(昭和10年)には56%,1943年(昭和18年)には53%へと年々減少傾向をたどってきた。

 話を21世紀の現時点に移すと,日本の農業が深刻な転換点を迎えている事実が,その危機的状況を端的に表わす数字によってもすぐに伝わってくる。実際,2020年から2050年までの農業を主な仕事とする基幹的農業従事者の推移は,「2020年の136万人」が「2030年には83万人」に減少し,「2050年には36万人」へと,30年間で100万人減(▲7割)となる見通しである。
 
 なお,2026年農業構造動態調査よると,日本の農業人口・比率の現状従事者数は約98万6600人まで減少しており,総人口比だとわずかに約0.8%しかない。しかも,65歳以上で区切ると高齢化率約7割を占め,平均年齢は67歳を超えているというのだから,つぎに取りあげる話題の「意味」がすんなり理解できなくなる。

 ともかく,いまは裕仁の孫になる徳仁が,毎年5月になると皇居内に確保されている田んぼに出向いて,「田植えのまねごと」をしている。多分「大嘗祭」に対する「なんらかの含意・関係」をもたせたかったはずの,天皇家の家長が皇居内の田んぼで実施しているこの田植え作業は,実は,日本の「米作という農事の実際」に対して,はたしてどれほど本当にそのものを象徴しうる意味がありえたのか,その本義じたいからして理解しにくかった。

 ずばりいってのけると,その彼らの田植え風景は,いささか諧謔的にいわざるをえないのだが,浮世絵離れしている。日本という国のなかでの本当の農事とはかなり縁遠い,つまり現実そのものとは齟齬を強く感じさせる「絵柄」『そのもの』を提供している。この指摘は「象徴」ということばをめぐって「表出されるべき違和感」を指摘したつもりである。

 そこでつぎに,新聞に載っていた天皇の田植えをする姿を,その画像で確認しておきたい。このかっこうは,いまでは手植えはしない事実も顧慮していうべきところだが,本当のかつてなされていた田植え作業から現実離れそのものの演技になっている。なぜそういえるかについては,ここではあえて説明するまでもないが,画像の下部につづけてその理由を書いておく。

本当の田植えの風景にならない点はすぐに気づくはずである

【解説】 着衣としてはまずごくふつうのパンツをはいているし,つぎにワイシャツの袖すらめくっていないというか,わざわざ(なのか)この衣装で田植えに臨んでいる。天皇の田植えだから “それでいいのだ” などというなかれ。

 工藤 隆の説明によれば,皇室行事の伝統文化とはタマネギみたいなものであって,それは,一枚ごと剥いていくとその芯というべき中心部分がみつからない,というのであった。

 それでも,「皇室の古式ゆかしき,旧来からの優雅な伝統」が,いかにも充実して存在してきた歴史そのものであるかのように,一般的には世の中に向けて喧伝されている。

 つぎの話題「歌会始」がその実例となる。

 e)「歌会始」

 「天皇文化自体がもつ偽装された神性に負っている」ことは,たとえば「和歌研究」「まさに歌会始に象徴されているような形での,天皇権力の権威感によってその存在を保証されている側面がある」に留意しなければならない( 工藤『大嘗祭の始原』32頁)。

 「ところで,この歌会始が宮中の恒例の年中行事になるのは,実は,近代に入って明治3年(1869)からだという」

 「そういえば,皇居の中で田植えや稲刈りをするようになったのも,実は昭和天皇〔昭和2(1927)年〕からだということだ。このように,実は近代に再構成したものでも,一見すると,古代以来連綿と絶えることなく続いてきたもののように感じさせてしまうところに,天皇文化の伝統の力の凄さを見る思いがする」(同書,32頁,33頁。〔 〕補足は引用者)。

 ところで「天皇文化の権威感」「は実は神謡そして神祭りに発している」「すなわち, “偽装された神性” としての天皇文化の,その偽装の奥には,原型的な神祭りが隠されているはずなのである。この原型的な神祭りには,人間の文化の始原的な姿が表現されている可能性がある」

 その「偽装された,すなわち政治権力を維持するための武器として変改されてしまった神性の,その源にある始原的な神性にまで届くことができるかどうかに,すべてはかかっている」(同書,33-34頁)。

 したがって,前段で言及してみた歌会や田植え(天皇の奥さん方になるとたとえば養蚕作業があった)は,明治維新以降,日本帝国を名のったこの国が「天皇家」を君主に置く国家体制を整えたがゆえ,その天皇一族の伝統と由来を,あれこれと工夫をほどこし,装飾〔粉飾的にもで創造〕しておく必要に迫られたのである。

 歌会始は明治〔天皇〕とともに,そして田植えは昭和〔天皇〕から孫の令和天皇にも引き継がれており,それぞれが時代ごとに登場した『天皇の〈天皇としての演技〉』になっていた歴史的な事実を,われわれはいかに観察すればよいのか。

 f) 現在になってみれば就業人口のわずか約0.8%にまで減少しているが,当初は「農業従事者の苦労を分かち合い,農業を奨励するために」昭和天皇が始めた田植え作業は,今日的な観点から観察するさい,天皇・天皇家にとって,「新嘗祭的な含意」にまで連なる実質として,どのような「皇室神道」内的な意義づけがなされているのか? かならずしも明快ではない。たとえ説明はいかようにでもなしうるにしても,そのように断言してよい。

 「天皇陵の比定・治定」なる作業も明治時代に入ってから,伊藤博文の考えにしたがい本格的に開始されていた。考古学的には的確な裏づけもないまま,闇雲に,つまりデタラメといっていい手順をもって,つまり,33代推古天皇以前は欠代とされる天皇が大部分であるにもかかわらず,初代神武天皇以降「架空の天皇」の陵がつぎつぎと決められていった。

 天皇陵と治定された古墳に対しては,明治以降になってから土木造成工事の手がくわえられてしまい,建造当時の姿を変造されて現存する古墳〔天皇陵〕もある。まともな考古学者は,天皇陵の比定に関しては,学術上の信頼を抱いていない。

 古墳研究の権威学者である森 浩一は「天皇陵」という用語じたい使用しないと宣言しており,それには「古墳」として別に名称を付けて研究対象にとりあげる,とまでいっているしだいである。話がまるでちがう話になっていた。

 

 4 『記紀』の問題など


 a) 日本の皇族の由来

 『古事記』『日本書紀』の神話を分析すると,海の民=海人族や出雲族などに代表される,いくつもの氏族の伝承が寄せ集められている。そこでは,純粋に天皇氏族のみの神話は抽出できない。

 むしろ,いくつもの氏族の神話を天皇氏族中心の神話にまとめあげていった,いわばその編集能力に独自の力を感じてよい。すなわち,他氏族の信仰や神話を奪って,あるいは献上させて,これをあたかももともと自分たちのものであったかのごとくにしてきた。

 しかも,そうした行為に「後ろめたさとか恥じらいとか」の「感情を抱く必要のなかったような精神風土が感じられさえある」

 「私たち近・現代人の感覚からは想像しにくいような倫理観が,当たり前のものとしてあったのかもしれない。勝利した者が,敗れた者たちから,諸財物のみならず,信仰,神話,祭式,呪術といった精神の部分にかかわるものまで献上させたということは充分にありうる」

 「要するに,相手から信仰,神話,祭式,呪術を奪い取るということは,その相手の生命力を奪うことであったと考えてよい」(工藤 隆『大嘗祭の始原』明石書店,1990年,35頁,35-36頁)。

 補記)再三途中での話になるが,前段での話「収奪・献上」の行為は,なにも近現代人と無縁とはいえない。いつの時代・状況でも起こりうる勝者と敗者,あるいは強者と弱者のあいだにおいて現象してきたのが,政治社会的な次元で生起するほかない「その種の収奪・献上」ではないのか。

 かつて,帝国主義諸国が植民地において文化財や古代の財宝を,好き勝手,やりたい放題に収奪してきた行為は,政治的な支配・従属の関係のもとにおいては普遍的な略奪の行為となっていた。

 この場合は,あまりにも近現代的な出来事あったがために,収奪した財物の出自に関してはごまかしが効かず,収奪したものでも自分たちがわがもともと制作したとまで騙しとおすことはできない。もっとも,できれば,そのようにごまかしておきたい気持がなかったとはいえない。

〔本文に戻る ↓ 〕 工藤 隆の話に戻ろう。

 「日本列島は流入した複数民族の吹きだまりだった」ことは「歴史学や考古学の視点からみても当然のことだ」 「日本列島の歴史が,そもそもの始まりから天皇氏族という単一の氏族の支配で一貫してきたなどということは,論理的にありえない」(工藤,同書,37頁)。

 「神を偽装する者としての天皇」が,「人々への命令・約束などのことば」あるいは「神への祈願・感謝などのことば」を手段に使うことによって,『神 ⇔ 巫者(媒介者)⇔人』という関係のなかに「明確に階級関係」として「入ってきた場合」は,どうなるのか? 

 ここでは,「武力,財力だけでは権力を維持できないから,神信仰の部分もとりしきって人々の心をつかもうとする」。つまり,「巫者=王」として,「支配者である王が巫者を兼ねる」か,あるいは「両者が分業体制をとる」。

 そのことによって,「王は,神には従属の位置をとっているが,人々に向かってはその神の権威に庇護されつつ支配するものとして対処している」(同書,48頁,49頁,50頁,51頁)。

 ところが,以上において「王の権力の絶対性が一段と強まった場合」は,『王=神 ⇔ 巫者(神祇組織)⇔人』となってくる。

 「ここでは,人々の神への従属がそのまま王にも擬制されて,神への従属は王への従属と合体している」。すなわち「王を天皇に置き替えれば,これこそが天武・持統朝において頂点を迎える,天皇は現人神(あらひとがみ)であるという天皇神幻想を創出していこうとする積極的な行動の内的構造」が登壇する。

 「天皇が神だということになれば,神への民衆の従属意識は,そのまま,実は生身の人間でしかないはずの天皇への従属意識にすり変わることになる。これは,その根本のところにある神信仰が大きく変質したり消滅したりしないかぎりは,ほぼ絶対的な支配の構造として,強大な力を発揮する」(同書,52頁)。

 しかし,この『王=神 ⇔ 巫者(神祇組織)⇔人』となった段階は,「どうしても,不自然で,作為的で,意図的なものを感じざるをえない。この本来ムラ段階のものであるはずの現人神性を,あえて〈国家〉の段階で出現させようとしたところに,特に天武・持統朝の異様に政治的な偽装性を感じとらざるをえない」からである。

 「天皇の現人神の〈演技〉は,ムラ段階で人々が神を偽装している行為を,あらためて〈国家〉の段階で模倣し直すといった,二重の演技性をはらんでいる」。それゆえ,「そこには,政治権力の匂いが濃厚に漂っている」(同書,54頁)。

 b) 天皇の文化にオリジナリティはあるのか?

 「天皇権力の国家祭祀の3本柱として整備される」ものは,「まず稲の再生産を保証するもの,次に人間を含むすべてのものの生命の再生産を保証するもの,さらに人間の生存に障害になるものを排除するもの,これら3つの要素を中核に据えて,祭り,信仰として体系化されるもの」「これがのちに,新嘗祭(大嘗祭),鎮魂祭,大祓」となったのである(同書,65頁)。

 「天皇文化は,その成り立ちからいって,おそらくは天皇氏族のオリジナルなものはほとんどない空無性にこそ,その本質をもつ存在だからである」。「しかしながら,外来のさまざまな文化を積極的に吸収して,それをもともと自分たちのものであったかのように身にまとってしまう偽装の能力においては,天才的であった」(同書,83頁,48頁)。

 工藤は「模倣という行為になしに人間の文化は存在しえないという立場」から,「日本が,経済力の点を除けばほとんど尊敬を受けていないという事実」を指摘する。

 もっとも,21世紀に入って,平成の天皇が在位してから令和の天皇の時代に36年が経っているいま,日本の経済力が当時〔1990年は日本経済がバブル破綻を迎える時期〕においてこそ〈頂点に調達していた事実〉を回顧してみて思うのは,工藤の指摘にあった「経済」以外に関して,日本・日本国が諸外国から尊敬を受けられるものがなにもないかといえば,必らずしもそうとはいえない。

 日本産業の技術力・日本企業の革新力・日本経営のきめ細かさにおいてこれまで,他国産業経済に誇れるものがなにもなかったかといえば,けっしてそうではなかったからである。ここでも工藤は,自身が専門になる領域以外に対する発言にあっては,やや軽率に独断的な思考を披露する傾向がある。

 以上の指摘は,企業の時価総資産額で世界企業の順位を計った場合,直近ではトヨタ自動車以外,皆無となった事実を承知のうえで断わっておくべきことがらである。

2026年時点だとこのトヨタは50位から外れた
そしてこうも( ↓ )なった
トヨタは自国内でも逆転された


 c) 日本の皇室をどうすればよいのか

 工藤は「現在の天皇文化を最も正しく遇するとすれば,その所属を文化庁に変えるべきだ」といい,「そうして,超一級の国宝として経済的その他の面で手厚く保護を与え,たとえば今年の大嘗祭のようなときには,徹底的に古式に則ってその復元を試みるべきだと考える。

 もちろん古式とはいっても,その始原の段階に戻ることは不可能だから,せめて『儀式』が記録している平安前期のスタイルくらいにまで復元すべきであろう」と提案する(工藤『大嘗祭の始原』85-86頁)。

 また「現在の日本国憲法を一部改正しなければならない」とも断わっている(同書,86頁)。

 工藤の前段における意見には,筆者も基本的に賛成である。皇室一族を〈聖家族〉のように祭りあげかねない国粋保守・反動右翼主義者による時代錯誤の考えは,敗戦後にようやく入手しえたまともな民主主義を窒息死させかねない。かといって,一部の極左的な考えでのように,皇室一族を根絶やしにしろだとかまではいう必要もない。

 それにしても,世界中のあちこちをみわたしたところでも,これほど偏倚・珍種の王族一家を政治制度的に残存させている「奇妙ないしは奇特な国」はほかにない。

 けれども,あえてその存在じたいを尊重することにすれば,工藤も主張するようにまず,天皇家の文化を「平安前期のスタイルくらいにまで復元」させることとし,つぎに,皇室一族が人間国宝(?)になりうるかどうかはさておき,彼ら自身が信じてきたつもりの〈皇統の連綿性〉を,これからも維持させる役目を振りあてることにする。

 すなわち,「日本国の文化財」の立場を演じる者たちとしての彼らに,日本の伝統文化の一翼を担わせることにする。

 5 象徴天皇制の本性は主権在民精神と絶対的に矛盾する

 
 a) 
日本国憲法の基本矛盾

 工藤 隆『大嘗祭の始原』1990年は日本国憲法に言及し,これに固有の「決定的な矛盾」を指摘する。

 日本の天皇・天皇は「絶対的超越者として位置づけられている」というのである。「主権在民の精神と」「絶対的超越者であるような存在を認めることとは,相容れないはずである」

 しかも「選挙という相対化の手段を前提にしている社会のはずなのに,天皇の地位だけは選挙とは無縁の,絶対的なものとして設定されているのも,矛盾以外のなにものでもあるまい」(同書,87頁,88頁)。

 以上のような象徴「天皇・天皇制」の基本性格は,敗戦後において「占領国と被占領国の妥協・調整の産物」であった。

 「現憲法における天皇の地位は,選挙という相対化のシステムの外に,治外法権的に,つまり神聖不可侵の存在として位置づけられていると結論していい。そこには,象徴が,なぜ天皇でなければならないのかついてはいっさい問わないという暗黙の了解が隠されていた」(同書,88頁,92頁)。

 「天皇の絶対的超越性は,なぜそれほどに強い力をもちえたのか」といえば,それは「第1には,明治以降に強力に推し進められた,天皇の神格化,絶対化政策の余韻が根強く生き続けてきたからである。第2には,そういった天皇の神格化,絶対化政策を可能にするような基盤が民衆のなかに存在していたからである。そして第3には,その最初の制度化が,すでに実現され,それがそのかなりの完成度の高さゆえに延々と生き延び続けてきたからである」(同書,92-93頁)。

 「そして,なぜそれほどに天皇権力の場合には神の偽装が成功を収めえたのかといえば」「天皇氏族が,各複数民族,多数氏族のうちでも,そのあらゆるものを取り込む空無性においてはるかに抜きん出ていたからであった」。

 「そういうわけで,天皇が他と区別される特別で超越的な存在だという錯覚の根拠は,まさにこの神の偽装にある」 「天皇を信仰のように崇拝する人たちからみれば,神の偽装ではなく,天皇は神そのものである」(同書,93頁)。

 b) 象徴天皇制と政教分離規定の矛盾

 現憲法の象徴天皇の規定は,その背景に前提として天皇の神性を隠しもっている以上,そこにすでに宗教性をも隠しもっている。ほかならぬ天皇だけを象徴として別格にあつかい,そこに絶対的な超越性を認めた瞬間から,現在の日本国憲法はその宗教性まで抱えこむことになってしまった。ところが,現憲法は一方で,「政治と宗教とのかかわり」を断つという「政教分離の原則」を規定してもいる。

 第1条で天皇を特別な,超越的存在としてあつかった瞬間から,現憲法は天皇の神性という宗教性を抱えこんでしまっていた。すなわち,現憲法は,天皇の宗教性のみは承認したうえで,第20条の政教分離規定を儲けたという大矛盾をもっている

 憲法という国の最高法規がすでに,天皇の宗教性を暗黙のうちに前提しているのだから,結果的には,天皇のなにか行動をとるたびに,たとえそれが憲法の範囲内のものであっても,結局のところ,なにがしかは宗教性を帯びる行為になってくる。

 1947年制定の現皇室典範には大嘗祭に関する規定がない。それは,政教分離の “民主憲法” と大嘗祭のもつ宗教的・信仰的性格の強さとの〈矛盾の大きさ〉に引き裂かれて,あえてその時点では触れないことにして,問題を先送りしたのではないか。

 その解決を先送りされた矛盾がいま,昭和天皇の死,そしてそれに続くつぎの平成天皇の皇位継承というのっぴきならない現実の進行によって,一気に浮上してきた(同書,94頁,95頁,96頁)。

 ところで,平成天皇の在位期間もすでに20年を経過した現時点である。天皇も人間であるかぎりはいつか〈死〉の時期を迎える。平成天皇もいずれ迎えねばならないその死のとき,昭和天皇の死のときと同じように「自粛騒ぎ」を起こさせるつもりのか? 

 あるいはまさか,明治天皇の死のときのように,国民全員に喪章を1年間も着けさせることはないと思うが,同じ人間の死であるにもかかわらず,昭和天皇の死のときはまるで,「死なないはずの《神》が死んだ」かのような〈喪中騒ぎ〉であった。

 補記▼)以上の議論はひとまず,2019年4月30日に平成天皇明仁が退位したのを受けて,5月1日に息子の徳仁が天皇に即位する,という特例的な処理がなされた事実の「以前」におけるものであった。

 ともかく「第1条で天皇だけを,宣教という相対化の手続きの外に置き,絶対的超越者として遇していること自体,その存在の全体が宗教性のなかに置かれているわけだから,どう法解釈をくふうしてみたところで,矛盾の根本解決はとうてい望めない」

 その根本的矛盾の解消のためには「第1は,現憲法の改正する」。「第2は,現在の憲法をそのままにし,それが矛盾のなかにあることをみんなで認め合ったうえで,そのあいまいな性格に合わせてそのときどきの事態に応じて適当につじつま合わせをしてきり抜けていく」(同書,97頁)。

 補記)前段の▼を着けた補記は,まさにこのように工藤が指摘した “矛盾の臨機応変なるつじつま合わせ” が,天皇明仁自身の申し出が通るかたちで実現していた事実に触れたものである。

〔本文に戻る→〕 工藤は,そのうち第2の方向がこれからも長期間継承されると判断する。「天皇文化は浸透して生き続けているのだから,当然といえば当然のことなのである」

 そうでなければ,憲法を改正し,いったん象徴天皇制を廃止する。あらためて天皇を日本最大の有形・無形の文化財として位置づけなおし,超1級の人間国宝として文化庁の管轄下に置き,手厚い保護をくわえるという方向のもっていかねばならない,というのである。

 「たとえば大嘗祭は,文化庁に許される範囲で最高額の予算をとり,また民間からの寄付も最大限に受け,徹底的に古式に,つまりは徹底的に宗教的におこなうべきである」(同書,98頁)。

 結局,日本における天皇制はこのように,敗戦後にGHQが地ならししたうえで提供してくれた民主主義国家体制の上座に,なおも宗教的な存在として鎮座しつづけてきた。

 そうしたありかたに不可避であった〈矛盾の事態〉は,これを抜本的に解消したいのであれば,象徴天皇制という政治的形態には実質絶縁状を送りつけたかたちで,日本国の文化財へと意味を変換させる必要を述べた工藤の見解は,妥当なものである。

 ただし,工藤は,日本人・日本民族として天皇・天皇制の完全な廃絶を意図しない。もっとも,天皇・天皇制の完全なる廃絶も視野に置く議論が,この天皇・天皇制の歴史的な意味,そして論理的に国家と国民生活関連の含意を徹底的に考えぬくためには必要ではないか。

 それとも「人間国宝」的な,それも特級版での待遇をもって保存させるべき文化的な価値が,皇室とこれに属する人びとにはあるとでも評価しているのか? ここまで考えるとなるや,問題は宗教学や政治学であるよりも,社会学,社会心理学の学域にその重点は移動する。

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 【付 記】 「本稿(8)」の続編(9)は以下である。

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