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「明治謹製」大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性(9)

【冒頭断わり】 「本稿(9)」は以下の「前編(8)」承前である。


 1「本日する記述の前論」としてまず,つぎのような議論をしておきたい。

 
 天皇・天皇制の議論・考察をめぐり,そこで使用される文献や史料(資料)の話題に関しては,あえて意識的にひとまず事前によく考え,留意しておきたいが論点があった。最初:出だしの段落は少し理解しにくい内容に関した叙述から始まる。

 以下の議論は,いわゆる歴史研究における「正史と外史(碑史・秘史・野史)」の,対位的なあるいは対抗した関係にまつわる話となる。天皇・天皇制の問題究明になると突如,国定教科書ではあるまいに,官許(宮内庁?)公認の著作・刊行物ではないと,権威(正当性?)がないがごときあつかいが,一部に根強くある。しかし,これほど奇怪な文献の利用や評価はありえない。

 a) さて「この種の指摘」に関してとなるや,単なる「官許・教科書的な観点」からはもちろんのこと,その国家権威主義の立場・イデオロギーからは,比較的,距離を保っている立場が「明確な識者」(必らずしも体制派ではない彼ら・彼女ら)に対しても,「この種の解釈」をあらためてくわえてみる余地が,中世・近代史に立ち向かっている観点としてありうること,あるいは,当初からあってもけっしておかしくはないという関心事に対して,あえて異議を提示する者たちがいた。

 研究対象を問わずその内容を議論するに当たり,対立・矛盾する中身があれこれ残されていることを理由に,この種の疑念をまともにとりあげないで済ます立場が,本当に不思議かつ奇妙な現象なのだが,なにゆえか,天皇・天皇制の吟味・討究になると,明確な断わりも説明もなしに最優先される場合がある。

 しかし,それでは学問・研究にたずさわっている者として,本来採るべき立場が,頭ごなしに否定され,排除されることになる。しかもそのさい,とりわけ正史的にのみ,明治天皇を討究していた(つもりの)学究の基本的な立場じたい(唯我独尊に走りがちな研究観そのもの)には,観過しがたい自家撞着が控えていた。

 すなわち,「体制派の立場」を盾にして自陣営以外の立場から展開される議論を,当初から排斥してきた姿勢がなかったとはいえず,そうした基本的な志向性(思想・イデオロギー的な価値観から恣意に傾いてなされる取捨選択)に,問題がないことなどありえなかった。

 「その種の疑念」から逃避しつづける学問の立場は,たとえば,古墳史研究者森 浩一からは峻拒されていたというか,学問的にまったく信頼されていなかったことに留意したい。ましてや宮内庁が制作する『天皇実録』で日本天皇史研究の万事がまかなえるならば,そもそも天皇・天皇制の問題に立ち向かうはずの「歴史学の研究」など,なにも要らない。無用である。

 少年時代から古墳に興味をもち考古学者になった森 浩一は,宮内庁が天皇陵に関する「陵墓治定(誰の墓であるかの指定)」に一貫して疑問を呈しつづけ,考古学的見地から遺跡としての調査・研究の結果,天皇陵という用語は使用しないと結論した。

 なお,天皇・天皇制の解明,研究をめぐっては,特定の問題関心を捉えてこれに「香ばしい」という感想を送り,換言すれば〈マユツバ〉的に接する必要が「あちら側にはある」のだという警戒心は,それなりに完全に根拠のないそれではない。その香ばしさの判定基準でいったら,その最たる事例が天皇・天皇制側からこそ供給されていたのだから,なにをかいわんやであった。

 たとえば,明治維新前後史の進行過程において議論されてきたごとき「睦仁・取り替え説」の指摘が百%虚説かと断定できるのか問われたら,これを完全に否定できる反証が文句なしに挙証されてきたわけではない。本ブログのなかですでに言及したところだが,半藤一利はその説の核心にある孝明天皇暗殺説を採る(「私自身は毒殺説に立っております」)と明言していた。

 註記)半藤一利『幕末史』新潮社,2008年,243頁。

 森 浩一が訴えた古墳研究にもしも,宮内庁が阻害要因を提供してきたとすれば,これは一種の政治による学問「抑圧」を意味する。関連する論争がこれからも,まだまだ試行されていく余地はおおありである,そうあって当然である。

 b) 前段で先走って触れてみた「睦仁・取り替え説」について有名な主張は,ねずまさし『天皇家の歴史 下』三一書房,1973年の第28章「孝明天皇の毒殺」(235-244頁)に収録されている。はたして,このねずの所論が天皇家の歴史における事件としてさらに議論されるに当たっては,単に否定される以前に,関連する議論の必要性からしてそもそも慎重に問われるべきは,当たりまえの要件であった。

 もしも前段で示唆される話題が,実在してきた天皇たちの生涯において,「その種の出来事がいっさいなかったのが天皇一族の歴史であった」という事実を,確証をもって裏付けねばならないはずであった。だが,このような天皇史研究の方途・領域は「香ばし過ぎる」とでも思われているのか,関心の浮かぶ論点にまともに立ち向かおうとする学究はあまりいなかった。あるいは,天皇・天皇史の研究として,けっして喜んで取りくまれやすい論題ではないためか,本気で探索・究明しようとする学究がほとんどいない。

 古代天皇史において「天皇の地位」をめぐる殺人事件は,いくらでも語られているではないか。その歴史の事実は否定できない天皇史の出来事であって,古代における事件であるだけにその真相の解明については,もろもろの困難がともなうとはいえ,それぞれなりにその経過が把握されている。

 まさか,そのあたりに関して議論を試みようとする研究じたいが,邪道あつかいされるわけでもあるまい。だからか,学究の立場(生活圏内)に居ない識者からは例を挙げれば,中村彰彦『幕末維新史の定説を斬る』講談社,2011年が,全頁のほぼ半分の分量を充てて,「孝明天皇は『病死』したのか」と題する内容を検討していた。中村はさらに単行本として『孝明天皇毒殺説の真相に迫る』中央公論新社,2023年を公刊し,その問題を詮議しなおしていた。

 中村彰彦いわく「収録した3編中もっとも長くなったこの拙文〔孝明天皇は『病死』したのか〕では,孝明天皇病死説を主張する研究論文にはかなりの論理の飛躍が不備が存在することは,その反対に毒殺説にはかなりの説得力が感じられることを論じたみました」と(中村『幕末維新史の定説を斬る』249頁)。

 前段で紹介した半藤一利が,孝明天皇暗殺説に「賛同する考え」を明確に表明したのは,半藤なりにあれこれと研究を重ねたうえの結論だったはずである。ただ,半藤のずるいところは,自身が「なにも勉強もしないでその結論に至ったわけではないはず」なのに,わざわざ「とくに証拠はございません」などと,韜晦と受けとるにはあまりにも度がすぎたオトボケ,つまり老獪さだともいえない発言を追加していた(半藤『幕末史』243頁)。

 このオトボケぶりは,日本の知識人や学究が天皇・天皇制問題に取り組むさい,ときおり披露する韜晦話法の実例であったと受けとるほかない。半藤一利は『幕末史』の別頁では,岩倉具視の暗躍ぶりに関連させてだが,「嘘かホントがわかりませんが孝明天皇を毒殺したり,偽のハンコを押させるなど,すべてを指示してい」たのが,この岩倉だったと明確に指摘していた(同書,421頁)。

 半藤一利自身が「嘘かホントかわかり」もしないで,そのような断言をするくらいだから,そのあたりの議論に関してはきっと,その嘘もホントもしっかり知悉したうえでそのように,韜晦というにはあまりにもアッケラカンに,「孝明天皇暗殺説」を指示する自分の立場を明示したことになる。

 この種の問題や「睦仁天皇・取り替え説」を取りあげる論者に対して「香ばしい」といったたぐいの感想(明確な特定の評価)を送る人は,そうした感想をなんとはなしに述べるのではなく,そういうだけの明確な論拠をたずさえていなければならない。

 ところが,必らずしもそうした手順を踏まないで,ともかくも初印象的な即断をもって,それも,あくまで感想次元に終始していながら,その種の「他者誘導:印象操作用の言辞」を使いたがる「第3者的な立場」からの「孝明天皇暗殺説」否定派がいた。

 本ブログ筆者が議論した関連の一部に対して,以前にも言及してみたが,たとえば,早川タダノリから「その種の〈香ばしい〉発言」という指摘を受けたことがあった。だが,その受けとめとしては「いったい,なにを指示しているか」が判然とさせられえないでいる。

立命館大学国際関係学部ホームページから


 c) 
江戸時代,最貧困層の公家だった岩倉具視が実は,大昔からの話もあれこれあるにせよ,明治維新史にかかわるいいぶんとしては,1867〔慶応3〕年,岩倉自身が「王政復古議」に関して,「皇家は連綿として万世一系礼楽征伐朝廷より出で候」(原文カタカナ)と指摘した,というのだから,これは笑止であった。

 いくらなんでも,「王政復古議」のために講じた「天皇の統治権の正当性と朝廷中心の政治への復帰を主張した言葉」といえ,虚語を重ねた屁理屈同然のいいぶんは,まさに噴飯ものを地でいっていた。

 というのは,この岩倉具視の発言が「万世一系」の語の初出であるとされ,つまりこの用語の登場は江戸末期とみなされるが,けれども,ほぼ同義語の〈皇胤一統〉という語は,鎌倉時代より使用されていたからである。

 岩倉が古物商からこの「万世一系」というシロモノを買いこみ,あたかも「お宝発見! けっこうな掘り出し物だ」という気分にでもなれたのか,あらためてその4字漢字の文句を,国家の脊柱を表現するための用語に使いはじめた。

 そもそも「万世」とは永く天皇の御代が続くことであり,「一系」とは皇統が一本の糸のように繋がっていることとされるが,この程度のごく微小の,つまり当たりまえ過ぎた事実をとらえてわざわざ,「日本の天皇」にかぎっては,この万世一系が誇示できるという発想そのものが,もとから誇大(古代)妄想であった。

 その誇大さを詰めていえば,盛夏に木々の根元から這いでてその木々に登り,2週間から1ヵ月ほどの命を鳴いて過ごす蝉であっても,これもまた「万世一系」である。なにも天皇の血筋だけに万世一系があるのではない。

 説明できないものをわざわざ挙げては,これになにか重大かつ深淵な意味がありうるかのようとりあつかい,これを世の中にむけて喧伝したがる「嘘八百の発言」は,岩倉具視(1825-1883年)だけでなく,ナチスドイツの宣伝相パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels,1897-1945年)が, ナチ党政権下で国民啓蒙・宣伝大臣を務めたさい,ナチズムの喧伝と強制的同一化を推進したそれと共通・類似していた。

 以上,ウィキペディアに出ているゲッペルスの説明も借り,若干捻って記述に転用してみたが,この万世一系という用語は,いまから1世紀半ちょっとばかり前に,岩倉具視が,日本古代史のいったいどの大昔までを究めてご託宣したつもりかしらぬが,なにも天皇の血統にかぎってだけが万世一系ではあるまい。半ば狂気にも近い「独自に過ぎた天皇史観」が開陳されていたことになる。

 いってみれば「アナタもワタシも皆,万世一系の先祖たちをもつ」ゆえ,天皇だけが特別に万世一系だというのは,ある意味ではなどというまでもなく,「緑色はみどり」であり「青色はあお」であり「赤はあか」であるという語り口と同じである。

 岩倉具視もそのまた,その万世一系のある1人の末裔であった事実は,自分が生きた時代においてなりに事実そのもの(真実だとまで表現する必要もなく)であったのだから,天皇の系譜にだけその事実を1点豪華主義で特別に喧伝するのは,お粗末が過ぎていたどころか,なんらかの狂気を呼びこんでの呼称でしかありえなかった。

 d) ひとまず動物の次元(前段では蝉を例に挙げてみたが)にまで立ち入らないでも,人間の世界ではどこの誰にでも「自分の父母」が,とりあえずは先代の位置に存在している。

 そしてさらに,この先代からさらにその祖先の何代目にまで,どこまでもさかぼっていけるようなご先祖様の系譜は,歴史的な連続性の悠久な時間経過のなかで,いってみれば,どこの誰かれなく皆が,それなりに累積させて実在してきたものゆえ,これじたいをもってなにか特別に誇るべき実体とみなしたうえで,それなりに「即・存在しえたなにものであった」かのように語ることはできない。

 本ブログ筆者がまだ大学生のときであったが,ある夏季セミナーに参加しとき,「孟」という姓の在日韓国人の牧師が講師に登場した。この人いわく,「私は孟子の第64代目の子孫(!)だ」と。どこを元祖とするか,あるいは枝分かれしてきた孟の姓かはしらぬが,そう自慢(?)していた。

 その場ではともかく,ウソではなく本当の話らしいと受けとったが,「孟子が偉ければこの牧師さんもどのくらいりっぱなのか」という点までは,そのときに講師としての話を聴いただけでは,とくに判断できる材料はえられなかった。この話は,ひとまずはその程度の話で終える。

 ところで,「ある特定の人間様の立場」のどれをとっても,その「万世一系」性というモノはそれなりに,しかもごく自然に皆が昔から「それぞれ別個にだがともに通有している」わけで,あなたも私も「永遠の今」的に万世一系を誇れる立場で,自分の人生をそれぞれに進行させているはずだといえなくはない。

 しかし,かといって,他者に向けてわざわざ誇れるほどの価値が,「人間生命の再生産作業」が連続していく過程そのもののなかから,すなわち,この万世一系「性」からただちに生まれるというものではない点は,これも理解しておかないと,公平な議論にはなりえない。

 e) だから,天皇一族に属する人間たちだけが格別に万世一系であり,これを問答無用でもって闇雲に褒めあげようとするリクツは,このことばじたいに,なにか特有で至上の価値があるかのように思いこめる背景を,故意に隠そうとしていたことになる。

 もちろん「隠すなにか」があっての話になるほかない点も,ここでは断わっておかねばならないが,いったいなにがあってその種の確信が育まれていたのか?

 しかし,ともかく,ただ先験的に無条件に,なおかつその理由や根拠すら明らかにすることすらないまま,万世一系だという〈その手の自信〉だけをもってただ一方的に語る中身は,常識的にはまったく通用しない人間観,歴史観,世界観でしかありえない。

 しかし,それでも天皇の血統に限ってならば,その万世一系が格別に有意義にたどれる系譜になのだという発想は,まさに恣意に走った「人間差別の見事な一例」である。

 差別を論じた本は,日本における差別問題うちとくに被差別部落の存在は,天皇・天皇制という存在の裏地となって有機的に構成する社会問題だと説明し,これを基本的な理解として解説する。この事実をわれわれは忘れてはいけない。

 f) 日本における差別問題は大きく分類するとしたら従来,アイヌ(ウタリ)先住民族差別,部落(被差別部落)差別,沖縄差別,在日(韓国・朝鮮人)差別が,いってみればその4本柱として根強くあり,いまもなおときおり,こられ差別の大泡が浮上しては,日本社会のなかに汚汁を撒き散らすことがないのではない。

 現状であれば,女性差別・障害者差別・LGBTQ差別,さらには新来外国人という「差別の諸範疇」も,前段のそれらに重ねたうえで,人間という存在のありようの違いを事由に「なにかにつけては惹起されがちな諸問題の対象」が,それこそ絶えることがない日本社会の問題で存在しつづけているゆえ,事実の問題としてしかと再認識されておく必要がある。

 なかでも,女性差別の領域に目を向けると,これまでは先進国であったはずのこの日本における関連の実情に関してはたとえば,牧野百恵『ジェンダー格差-実証経済学は何を語るか-』中央公論,2023年は,「日本停滞の理由がここ〔女性差別〕にある」とまで断言していた。本書は,この国における女性の地位が低迷状態を余儀なくされてきた事実を,いまさらのように指摘するほかない文献として公刊されていた。

 この本は「女性への規範が弱い国ほど高学歴女性が出産するなどエピソードを提示」し,「旧来の慣習や制度を問う」内容だと説明されているのだが,いままで「失われた10年」を阻止できないまま,2025年の現在だとその第4周回目を快走(疾走?)しているかのように映るこの「衰退途上国:日本」であるせいか,ジェンダーギャップ指数を一気に上昇させるための手立てそのものを講じることに,いまだに,まるで関心がないかようなこの国に感じられた。

 先進国だとかG7の一国だとかいわれるこの日本が,ジェンダーギャップ指数が,2025年になってもまだ118位に着けている評定は,まさに驚異的に低い順位を堅持しているとしか形容できない。

 ここではついでに,まずその第1位からの20位までの諸国を挙げ,つぎにその以下につづく国々は適当に抜き出し,さらに日本に前後したいくつかの国々も紹介しつつという要領で,参考になる各国それぞれのジェンダーギャップ指数をかかげておく。

       上位国と主な国のジェンダーギャップ指数
   (かっこ内は前年順位と前年比の指数の変化。前年は146カ国中の順位)

 1 アイスランド 0.926(1,-0.010)
 2 フィンランド 0.879(2,+0.004)
 3 ノルウェー  0.863(3,-0.012)
 4 英 国    0.838(14,+0.049)
 5 ニュージーランド 0.827(4,-0.008)
 6 スウェーデン 0.817(5,+0.001)
 7 モルドバ   0.813(13,+0.023)
 8 ナミビア   0.811(8,+0.006)
 9 ドイツ    0.803(7,-0.006)
 10 アイルランド 0.801(9,-0.001)
 11 エストニア  0.799(29,+0.025)
 12 スペイン   0.797(10,±0)
 13 オーストラリア 0.792(24,+0.012)
 14 デンマーク  0.791(15,+0.002)
 15 バルバドス  0.786(31,+0.013)
 16 コスタリカ  0.786(19,±0)
 17 スイス    0.785(20,±0)
 18 ニカラグア  0.783(6,-0.028)
 19 リトアニア  0.783(11,-0.010)
 20 フィリピン  0.781(25,+0.002)

 42 米 国    0.756(43,+0.010)

 101 韓 国    0.687(94,-0.009)
 103 中 国    0.686(106,+0.002)

 117 アンゴラ   0.668(113,±0)
 118 日 本    0.666(118,+0.003)
 119 ブータン   0.663(124,+0.012)

 146 チャド    0.571(144,-0.005)
 147 スーダン   0.570(146,+0.002)
 148 パキスタン  0.567(145,-0.003)

 補記)2025年10月21日,日本の首相として始めて女性が登場した。このままで高市早苗が数年間その地位を保持できれば,このジェンダーギャップ指数はいくらか上昇することが期待される。

 しかし,彼女による内政・外交の執行は,単なるネトウヨ姐さん式のツッパリ風作法「独走」になっている。政治の手法も経済の運営もまだまだ幼稚児次元であった。このままではとくに2016年中において,ますます円安下でのインフレの急激な昂進が懸念されている。

高市早苗の為政にはジェンダーギャップ指数を改善させうる要素はなにもない


 g) このジェンダーギャップ指数に関しては,けっして忘れてはいけない日本の「政治制度」問題のひとつとして「別姓問題」があった。この地球上で夫婦別姓を法律で規定するのは「わが日本だけである!」と誇れる人は,だいたい,頭の中をいますぐ大掃除しておいたほうがよろしい。

 夫婦別姓は,日本の古来美風である家の制度・家族の絆を壊すものだといういいぶんは,完全にデマ以上でも以下でもなく,単なる思いこみであった。明治以前であれば姓をもたない人びとが大勢いたから,別姓も同姓も問題以前の問題であって,そもそも問題にすらなりえなかった。

 そもそも,明治の旧民法(1898:明治31年施行)が定めたのが夫婦同姓であった。

 夫婦が同姓でなければ,家の安寧が維持できず,家族の絆が生成できないとったごとき見解は,率直にいってもう完全に, “▼カ丸だしのド・ヘリクツ” であり,脳細胞のガラクタ度も究極的な限界に到達している。

 それではである,夫婦同姓ではなく別姓である韓国(や北朝鮮),中国,台湾などでは,家に秩序がなく,家族の絆に絞まりがないみたいだと,いったい,どこの誰がそのような当てずっぽうのデタラメをいえるのか?

 逆も真なりで,韓国や中国では家の秩序がなく(本来欠けており?),家族の絆も強くなく弱いのだ(足りない!)などといえるのかと問われたら,そもそも,このような問い方じたいが,見当違いの「他国の家・家族」に対する理解の仕方であった。

 そもそも「女系天皇・女性天皇」を,依然,認めないこの国である。ジェンダーギャップ指数を向上・改善させようにも,この順位に対してはいつも死垂のようにぶら下がっているのが,この天皇問題関連における余計な「プラス・アルファー」的な制約であった。

 h) 以上のような,東アジア近隣諸国と日本の家・家族制度の実際との比較を念頭に置いていえば,そもそも法務省のホームページが,つぎのように説明してもいる事実(別姓は明治旧民法の製作になる制度であった)をしれば,夫婦は同姓でなければなどと “力んで唱える人たちの脳細胞の造り” は,初めから問題だらけであったことになる。

         ◆ 我が国における氏の制度の変遷 ◆
 =法務省ホームページ,https://www.moj.go.jp/MINJI/minji36-02.html =

 徳川時代
  一般に,農民・町民には苗字=氏の使用は許されず。

 明治3〔1870〕年9月19日 太政官布告  
  平民に氏の使用が許される。

 明治8〔1875〕年2月13日 太政官布告  
  氏の使用が義務化される。  
   ※ 兵籍取調べの必要上,軍から要求されたものといわれる。

 明治9〔1876〕年3月17日 太政官指令   
  妻の氏は「所生ノ氏」(=実家の氏)を用いることとされる(夫婦別氏制)。  
  ※ 明治政府は,妻の氏に関して,実家の氏を名乗らせることとし,「夫婦別氏」を国民すべてに適用することとした。なお,上記指令にもかかわらず,妻が夫の氏を称することが慣習化していったといわれる。

 明治31〔1898〕年 民法(旧法)成立  
  夫婦は,家を同じくすることにより,同じ氏を称することとされる(夫婦同氏制)。  
  ※ 旧民法は「家」の制度を導入し,夫婦の氏について直接規定を置くのではなく,夫婦ともに「家」の氏を称することを通じて同氏になるという考え方を採用した。

 昭和22〔1947〕年 改正民法成立   
  夫婦は,婚姻の際に定めるところに従い,夫又は妻の氏を称することとされる(夫婦同氏制)。  
  ※ 改正民法は,旧民法以来の夫婦同氏制の原則を維持しつつ,男女平等の理念に沿って,夫婦は,その合意により,夫又は妻のいずれかの氏を称することができるとした。要するに改正民法は旧民法の夫婦同姓を継承したことになる。

新旧民法

 ここでは,三土修平が制作してくれた「以上の家・家族制度の変遷」を,通時的かつ空間的には切断するかたちで,ことの本質を空間・感性的にすぐ理解しやすくしてくれる図解があった。ここでもこれを紹介しておく。

ヨーロッパでは「平面の公」が日本では「上下の公」になる
もちろん日本の三角形の頂点には天皇が居る

 i) 要するに,実は「個人」そのものとしての帝国臣民ではなく,どこまでも「家・家族制度の枠組みのなかでの個人」しか認めない「明治憲法(大日本帝国憲法)の時代的反動性」は,この図解のなかにも「個人・人格」が浮上してこない,みえない,「みえるのはあくまで家の単位」内においてだという点に照らしても,否応なしに察知できるのである。

 明治維新以降,「伊勢神宮(生者のための神社)や靖国神社(死者のための神社)にこじつけられた役割」も,この図解を介してならば,概観的にであっても,よく理解できるはずである。いってみれば,この2社を介して日本国家・皇室神道風の「ゆりかご」から「墓場」までを,臣民たちに対して霊験的に透視させえたつもりであった

 だがとくに靖国のほうは,「肉体」とはかかわりをもたずに「御霊」のみを国家のために活用するという,徹底してズルイ観念を心底に隠しているかぎり,その宗教原理的な狙いもまた詐術的な対応しかできない大前提が隠されていた。

 伊勢にしても靖国にしてもその前面に出てくる「国家精神」からの期待は,「家」の観念にだけあって家族の個々人は相手にされることにはなっていない。ともかく「家:家族あっての個人だ」から,前段に紹介した三土修平の図解も,個人そのものはひとまず描く余地なしという理解になっていた。結局,その反対方向に向かう関係での個人の理解は,実在しなかったことになる。


 2 研究対象としての天皇・天皇制-官許的な歴史観からは忌避される中世・近代天皇史の問題-


 この「本稿(9)」は,「本稿(8)」のほうで,くわしくとりあげてみた,工藤 隆『大嘗祭の始原』(明石書店,1990年)の語った「日本の皇室の歴史的な起源」をめぐる議論と深い関連があった。

 しかし,この「本稿(9)」では,工藤のその本からしばらく離れ,前項の a) で取りあげた論点を再掲的に討議する。いいかえると,同じような関心をもって,日本天皇史の脇道にみえかくれする外史(稗史)的な展開に,いまいちど目を向け,それ相応に再論してみたい。

 前項での指摘にしたがえば,「香ばしい話題」と指称することで,天皇・天皇制のなかにみいだすことができたはずの新しい論点の所在を,最初から忌避しようとしたあまり,その「見て見ぬ振りをする」がごときの「正史の立場(イデオロギー)を気どったその立場」からは,あえて大きく離脱する視野を開く必要があった。

 ところで,「万世一系になる天皇史」はなぜ,神武天皇から始まるのか?

 神武天皇は架空の想像人物だからこそ,そのように「天皇史を実在しない人物から開始」できるのであって,しかも,この不在であった天皇を自分の祖先だと本気で信じていた,たとえば昭和天皇の立場に即していえば,万世一系の大本からして,つまりその起源からして確たる証拠は,なにもなかった。まさに彼は神話の世界のなかにも漬かって生きていたつもりの人間なのであった。

 したがって,これから論じる話題もそれほど突飛とは考える必要がない。むしろ「真理・事実を追究しようとする姿勢」に関してとなれば,よほどこちらの議論のほうがマジメであって,「ウソで固めておいた歴史」を「そのまま残しておこうとするような欺瞞」は回避されている。

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       ★ 今の天皇は現王朝が出来てから四代目 ★

= 孝明天皇で前王朝は終了し,明治天皇から新王朝が始まっている =
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/781.html   
(投稿者 リーマン,日時 2004 年 2 月 06 日 02:48:08:FagqpUDXKcu9o)

 a) 今の天皇は現王朝が出来てから4〔5〕代目(孝明天皇で前王朝は終了し,明治天皇から新王朝が始まっている)

 補記)上でいう4代目とは平成の天皇:明仁を指し,5代目は令和の天皇:徳仁になる。

〔記事に戻る→〕「明治の成り立ち」を考えるにさいしてはこの陰謀論に触れざるをえないと思います。子供のころ,親父に戦前の教育について話を聞くと,「戦前は天皇絶対であり,日本史では南朝正統,足利 尊氏は極悪人,と教えられたんだ。」と折に触れて教えてくれました。

 小学校6年になって一応学校で日本史を習ったあと,「でもさ,今の天皇は北朝系統の天皇なんでしょ。それなのに南朝が正統だってことは,戦前は正統ではない天皇を拝まされていたってこと?」と質問すると,

 親父は「そうだなあ。確かにおかしいような気もするが,当時はそんな疑問をいうような人間は回りに1人もいなかったし,自分も素直にそう信じていたんだ。」~と,まったく回答にならない返事しかしてもらえませんでした。

 この疑問は,皇居の楠木正成の銅像(明治33年,1901年完成)をみたときに決定的となりました。北朝の天皇の住んでいる皇居が,南朝に最後まで身をささげた家来に守られているわけ?

 補記)西郷隆盛と明治天皇とはかなり仲良しであって,隆盛が西南戦争で死んだあと,睦仁は露骨には感情に出せなかったが,そうとうに悲しんでいた。ただし,隆盛は靖国神社に合祀されていない。賊軍は結局,賊にすぎないといって,完全に排除してある。

 賊軍になっていたからというのがその理由であった。だが,敵も味方も区別なしに弔えない神道,それも明治以降の「国家神道」としての靖国神社は,死者の霊的世界でも人間を差別するという,いわばろくでなしの神社であった。

 だからそこには,特定の祭神ではなく「合祀」という形式でもって,多くの戦争関連の犠牲者を,ひとからげにして「祭神」に祀られている。宗教に関する普遍的な精神に照らしていえば,まさに邪道というか「エセ宗教」で粉飾した,しかも国営神社の靖国神社であった。

 ただし,その戦争・督戦・官軍神社が,敗戦後も宗教法人にころもを着替えて,21世紀のいまも,敗戦神社になりかわったまま,まさしく矛盾した元国営神社のみっともない姿をさらしつづける実態は,恥そのものである。もちろん国家的次元でのその恥を指す。

〔記事に戻る ↓ 〕

 b) な~んか変。ぜんぜん変ダゾ!

 このガキのころの疑問にその後,答えてくれる人は現れませんでしたが,鹿島 昇氏の本(題名忘れました)を読んで,ストンと了解してしました。結論をいうと,「北朝系の天皇は孝明天皇で終わり。明治天皇は南朝系の天皇である。」ということです。

 この説明は,ガキのころからの私の疑問には真正面から答えてくれますが,一方で「まさか本当にそんなことが」という気持ちも一抹残ったことも確かです。しかし,いまは「やっぱりこれが事実だったのだろう」と考えています。この点については,直接の証拠を挙げることは出来ませんが,数々の状況証拠が挙げられています。

  ① まずは,徳川慶喜の動きです。ご存知のとおり,彼はガチガチの水戸学の本場の出身です。その彼が北朝の天皇におめおめと敗れて水戸に帰ってきたとしたら,水戸の人々がそのまま彼を受け入れるでしょうか?

  ② 仮に,お殿様だから受け入れたとして,幕末あれだけのエネルギーの元となった南朝イデオロギーが,明治以降ぱったりと消えてしまっているのは,なんとも不思議ではありませんか。

  ③ 明治天皇の正式の奥さん(3歳年上)が,「〇〇 皇后」とは呼ばれずに,「昭憲皇太后」という天皇のお母さんとしての称号で呼ばれている,ということも極めて奇妙です。

【参考画像】-2008年に本ブログ筆者が撮影した案内板-

これにおいても「明治天皇」×「昭憲皇太后」
という記述の仕方が採られている

 これはどう考えても変ですね。明治天皇という当時は神様みたいに扱われた人の正式な奥さんが〇〇皇后と呼ばれないなんてどう考えてもおかしい。当時の周囲の人たちにも皇后と呼べない事情を感じていたのでしょう。

補記)明治神宮自身の解説は,つぎのように記述している。

 明治神宮は,東京都渋谷区代々木に大正9年(1920),創建されました。

 第122代天皇の明治天皇と皇后の昭憲皇太后を御祭神としておまつりしています。

 御社殿が鎮座する約70万平方メートルの杜(もり)は,創建にあたって人々のまごころでつくられた人工林です。

 明治神宮の祭神


  ④ 最後に挙げられるのは,伊藤〔博文〕の死後,明治天皇は「南朝が正統」とみずから述べていることです。もし自分が北朝出身の人間ならば,そんなことをいうわけありませんよね。

 明治天皇南朝説(明治天皇すり替え説)についての詳細については,上記文献のほか,手際よくまとめたものとして,http://www.ctk.ne.jp/~knagao/meiji.htm (← だがこれはすでに削除状態)などをご参照ください。

 c) 私が述べたいのはすり替え説を前提としたところからです。前述したことは,当時の海外の人間,とくに明治政府を間接的に作ったといえるイギリスからみて,どうみえていたのでしょうか?

 当時のイギリスが水戸学や南北朝問題に詳しかったとは思えませんので,この「すり替え」のアイデアまでイギリスが出したとは思えませんが,この話を伊藤や岩倉〔具視〕から聞いた「アーネストサトウ,パークス,グラバー」など,当時のイギリスの中心人物たちは,「興趣に富んだなかなかオツなアイデアだと思う」といったのではないか,と想像しています。

 明治の天皇制の枠組みが,江戸時代までのものとは異なり,実質的にはイギリス人の発案によって作られたものであることは,以前申し上げました。イギリスからみれば,天皇制とは「日本人という新たに発見した土人を上手に治めるための道具」としての位置付けであったことは間違いありません。

 以前お話したインディージョーンズ魔球の伝説のなかに出てくる,シバ神の像のようなものということです。

 このシバ神が発泡スチロール製であるのか,金属製であるのかという問題は,人民を騙す側からみればことの本質から離れた問題であるはずです。表面がおどろおどろしく畏まっているのであればそれでよろしい。

 しかし,「天皇をすりかえた」という話を聞いたとき,イギリス人は「芸術的な騙しだ。まったくもって素晴らしい。イギリス人ってそのような美的センスのある騙しって大好きなんですよ,伊藤さん・岩倉さん」と悦に入ったのではないか,と思います。

 このときのイギリス人の心理状態は皆様も分かっていただけるのではないでしょうか。

 たとえば,われわれがアフリカの奥地でデジタルカメラで原住民の写真を取り,「これは君たちの魂をこうやって吸い取る神物(シンブツ)なんだ。これを拝まなければ君たちの魂はすいとられてしまうぞ。」と脅してみたら,いきなり原住民達が,その場にひざまずいてそのデジタルカメラを拝みはじめた,といった場面を想像してみれば分かるかと思います。

 馬鹿だなあ,とは思うものの,チョッと愉快ですし,そのまま騙して帰りたい気にもなりますよね。

 当時のイギリス人も,大室〔寅之祐〕という長州の洟垂れ小僧に錦のベベを着せて,それに対してみずから神妙にお辞儀してみせる自分の姿に,いいようのないおかしみを腹の底で感じていたでしょう。

 これらの事実をいまのイギリスはしっているのでしょうか? 大使館に赴任する日本大使は少なくとも,引継ぎのなかで教えられるのではないでしょうか。

 「俺達イギリス人のご先祖さんが作ったカラクリ人形にこれから就任のご挨拶に行くってわけか,,。」

 イギリス大使館が,皇居の入り口のすぐ近くに位置しているのは,偶然ではありません。(日本は,これと同じ事を朝鮮でやって嫌われました。イギリス大使館は日本人にぜんぜん嫌われずに120年前と同じ場所に居座っています。)

 d) 幕末維新のエネルギーは,南朝を正統とする尊皇攘夷・水戸学が精神的な支えになっていたことは皆さんご存知のとおりです。

 吉田松蔭門下の連中は当然のことながら,西郷〔隆盛〕も先祖は南朝の菊池氏につかえた家柄であり,薩長それぞれの政治的なイデオロギーが「南朝の天皇を建て,異人を追い払い,独立を保つ」という共通した基盤に立っていなければ薩長連合もむずかしかったと思います。

 それではなぜ,明治元年に,伊藤・岩倉・大久保〔利通〕らは,「北朝系の天皇を葬り,南朝(と称する)天皇を担いだぞ。正義はわれわれにあるぞ。」と(五箇条のご誓文なんか出す前に)高らかに宣言しなかったのでしょうか。

 そのような国づくりの方法も選択肢としてはあったはずです。危ない橋を渡らなければならない可能性は強くなりますが,求心力はこちらの方が強かったのではないでしょうか? 理由はわかりません。ただ,彼らの姑息な性格を考えると「彼ららしい」ということはいえるかもしれません。

 しかし,この明治政府の基礎の基礎の部分で「大嘘」をついてしまったことが,いまにいたるまでの現王朝の基本的な性格(なんかとこそこそ内輪だけで・小手先だけでごまかそうとする性格)を形作ってしまったのではないか,と思います。

 そしてこの明治元年の王朝設立のドタバタの当初から,イギリス(パークス・アーネストサトウ)は深く関与していた(少なくとも承知していた)という事実を,再度確認しておきたいと思います。

 以上,日本人にとっては,あまり聞きたくないような話をしてきました。しかし,問題はここからなのです。

 e) このような事実をしったうえで,あなたはいまの天皇制を支持しますか?

 「120年〔1世紀半以上も〕前は田舎の百姓侍だったかもしれないが,それからもう長い時間も過ぎたことだし,いまさらよそから天皇を連れてくるわけにもいくまい。事実関係だけ表に出すに留めて,このままにしておいていいんじゃないのか」

 「このような事実が明らかになった以上,天皇制について頭に血がのぼったようなことをいう人も少なくなるだろう。北朝の血筋を引いている人には申しわけないが,今後今の天皇家と婚姻関係を深めるなどして,これからゆっくりと遺恨を解いていくしまあるまいよ。」

 「日本の天皇制が明治からいまに至るまで,なにかぐらぐらしていて,秘密主義で,妙に肩をいからせて,それでいて暗い影が付きまとっている印象がある理由がこれでわかった。日本がいまの現状にゆきづまりを感じているのも事実だし,これらの事実が明らかになったのもなにかの縁だから,これを機会に元の北朝へもどしてみてはどうだろう。」

 「いや,いまさら北朝に戻しても,更なる恨みを重ねるだけで,根本的な解決にはならないだろう。うそ臭い天皇制というものとこれを機会におさらばして,新たな日本作りに踏み出すほうがいいんじゃないのかな。国民としてもそのほうがすっきりとしてかえっていいと思う。そもそも明治以降の天皇制というのはそれ以前まではなかったものだし,なくなったとしてもいまの日本人はきっとうまくやっていくはずだよ。」

 考え方は色々あると思います。私もどれがいいという意見を今固めているわけではありません。ただ,議論するときには,外部から借りてきた〇〇理論とか〇〇主義とかに寄りかかって決めるのではなくて,日本人自身が自分で考えて決めることが重要だと思います。

(それが民主主義的だからといっているのではなく,二度と騙されないようにするためです。)

 一方で,自分がいま為政者だったらこのことを公表するかどうかを考えてみると,恥ずかしながら,組織の歯車であるサラリーマンの私としては,意気地なしなのでそのままにしておくような気がしています。

 「いまの天皇制に問題があり,その根本原因がスタートラインにあることは重々わかるけれど,いまさら公表するわけにはいかないなあ。自分の在任中だけでもなんとかだましだましつないでいくしかない。」と考えるような気がします。

 そのようなことをつらつら考えると,このすり替え説が表に出て議論されるのは,現在の支配体制がすっかり代わったあとでないと,現実的には無理なのかもしれません。そうすると,日本人が「みずからの姿をキチンと過不足なくみる」ということはしばらくは無理であり,そこにつけこもうとする異国達は絶えることがない,ということになるのかな。

 f) 〔昭憲皇太后〕は,孝明天皇の息子睦仁(旧明治天皇)の奥さんとしてお嫁にきていながら,いつのまにか旦那が(新)明治天皇に入れ替わられてしまったという奇特な運命に生きた人です。

 幕末に大室〔寅之祐〕が明治天皇に成り代わったとき,伊藤・大久保・岩倉はどうしてのちに,昭憲皇太后と呼ばれるこの女性を始末しておかなかったのかはわかりません。あまりにも忙しくてそこまで手が回らなかったのでしょうか。あるいは,この皇后の実家ごと陰謀に取りこんだ可能性もあります。

 新明治天皇もまさか,自分が身代わりとなる前の旧明治天皇の奥さんを寝取るというのも気が引けたようで,御所の中で別居していたようです。新明治天皇が生きているうちは彼女も生きていられたようですが,新明治天皇がなくなって間もなくなくなります。(始末されたのではないか,と思っています)

 --以上,『阿修羅』に寄稿された記事から長々の引用となった。

 最後に出ていた話,明治天皇の女房:昭憲皇太后は,睦仁の死後まもなく消されたのではないかという指摘は,本ブログ筆者もなんとはなしに,つまりおぼろげになのだが,

 「明治天皇が死んだあとまもなく(多分すぐに?)死んだのが昭憲皇太后だったか……」という単なる知識の次元を超えて,そこから再考すべき「なんらかのその種の疑義をが抱いた」としても,「それが絶対におかしい,的外れの想定」だとまでは断定はできない「戦前の皇室史」があった,という感想を抱いてなにもおかしいことはないのである。

 だいたい,古代史における天皇家をめぐる,それこそ切った張ったの騒動は特別にめずらしい事象ではなかった。明治時代ともなればその手法はもっと洗練されたはずだから,研究者の立場からはそれだけやりがいのある研究対象を与えられた。だが,そうした時代の位相はみにくいから(あるいはみたくないから)放置しておくというのは,学究の姿勢ではありえない。

 最後にこういう事項,以前触れた点であるが,日本の文化勲章まで授賞されたドナルド・キーンが,明治天皇に対する第1級の研究者として居たのだが,晩年には日本国籍も取得し,日本で死んだという履歴は,かなり意味深に受けとってもいい〈なにか〉があると解釈してみたのが,本ブログ筆者の〈感想〉であった。

 どういうことかといえば,キーンは自分の明治天皇研究を究めていくうちに,本日のこの記述が言及した内容には,なんらかに一定の知見を間違いなく構築しえていたのではないか,という推理をなさしめたからである。

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 【付 記】 「本稿(9)」の続編(10)は以下である。

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【参考文献】


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