「明治謹製」大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性(10)
【冒頭断わり】 「本稿(10)」は前編の(9)承前であって,その「本稿(9)」は,全体の論旨からやや側線のほうに,わざとしばらく入った議論をしていた。この「本稿(10)」は再度,工藤 隆『大嘗祭の始原』明石書店,1990年に戻り,この文献が語る「日本の天皇・天皇制」に『まつわる昔話』に教わりながら議論を進行していく。
なお,前編「本稿(9)」のリンク先住所は以下である。また,冒頭の画像は,旧ロシア・ロマノフ王朝一族で最後となった家族の集合写真である。
0 本日の議論「本論に入る」前に,2026年7月も下旬の段階になってだが,国会内で結論がで出た「皇室典範改正(ならぬ最悪)案」について
a) 最初につぎの3点の新聞報道・記事を紹介しておきたい。漢字もよく読めなかった麻生太郎が,「自分の娘」や「孫たち」(三笠宮の孫にも当たる人物:彬子と瑤子の2人の女性)に男子の養子を取る方法で,自分が本気で思っているらしい「下々の皆さん」である「われわれの存在」を見下す気持ちを,21世紀のいまごろ「まさに日本の常識は世界の非常識」の要領で,この先のいつかに実現させたいと欲望している。

しかし参議院でも2票差でこの法案は成立した

神社本庁だとか日本会議みたいな19世紀的なアナクロ団体の発想が
いまどきにさらに大きな顔をしてのさばらせる原因になる
皇室典範改正で(改悪)ある

敗戦と同時に完全に改革(改正ではなく)すべきであった
ところがその努力を故意に回避しておいた大きなツケが
21世紀も第2四半期に進んだ段階になってこの社説が指摘するように
「明治の皇室典範でも禁じられた仕組み」をわざわざ造ったとして大批判されている
b) だが,いまどきの世界における各国の王室は,まともな先進国のなかでこの問題を抱えている国々は,すでにつぎのような方針・政策を採るほかなくなっていた。
王室をかかえる諸国の継承問題は「男女平等(長子相続)を進める欧州」と「男系維持の伝統と後継者不足に揺れる日本」に大きく分かれている。ところが,日本だけがいまどきに男系天皇という特異な,もともとは「明治謹製」の皇統「観念」に呪われたごときの「皇室典範改正(改悪)案」を,この7月に成立させていた。
天皇・天皇制のあり方に限っていうとしたらすでに,この国は「まともな先進国」というには,あまりにも非常識かつアナクロの観念を,あらためて実現させ固定化させようと決めていた。だから,この国に属する人びとは,世界中から奇異の視線が自国におけるこの問題に向けられ,しかも奇観視されている現実を,このさいよくしっておく必要がある。
なかんずく,ヨーロッパ王室の動向は「男女関係なしの長子優先へ」となっている。
イギリス,スウェーデン,オランダ,ベルギーなどは,性別に関係なく「第一子」が王位を継ぐルールへを法改正をおこなった。それは「現代的な姿への適応」を意味した。国民の人気や時代に合わせた透明性の高い運営を第1に意識している。
c) ところが,日本(皇室)の現状は,今回における皇室典範改正(改悪)案によって,「男系天皇制男子の維持」を確定させてしまい,まさしく世界の先進国次元の目線からすると《物笑いの種》になるほかない話題を,あえて進んで提供したのである。
ここでは,『デモクラシータイムス』2026年7月20日のユーチューブ番組で,白井 聡が整理していた当該の問題点一覧が参考になるので,これを途中になるが,ここでひとまず紹介しておく。

しかも「明治謹製」だった旧皇室典範⇒敗戦後も基本枠組はそのまま継承された点を
さらにグジャグジャにした問題性を分かりやすく箇条書きにしている
皇室典範改悪は次政権になったら早速まともに本当に「改正すべできである」という宿題
つまりいい意味でのちゃぶ台返しが必要不可欠にしたようなこの改悪であったゆえ
高市早苗と麻生太郎の狂変コンビがこのような絞まりのないデタラメ案を作ってしまった
国会が決めたことだから,あとで軌道修正が不可能ではないとはいえ,このしぐさがもしかしたら,「世界に冠たる」「神州日本」なりの「八紘一宇」「万邦無比」の「無類の神聖さの発揚になりうる」などとまで観念しえたつもりであったとしたら,
これは,すでに物笑いの種であるなどといった形容の一線から飛び越えていた。国外からの反応としては失笑(軽蔑ゆえに漏らすそれ)しか反響してこないような「国柄の制作」に向けて,わざわざ「サナエと太郎の俗悪・ゾンビコンビ」がみごとに意を遂げたということになるのか。
現在の皇室典範では,父方に天皇の血をもつ「男系男子」だけが皇位を継ぐことができるとしてあった。だが,昨今における少子化の影響は天皇一族も例外ではなく,とくに「後継者と担い手の減少」,換言すると「少子化と女性皇族が結婚で皇籍を離れる仕組み」により,継承資格者や公務の担い手が急速に減っている。
d) そこで,女性・女系天皇を認めるか,旧宮家の男系男子を復帰させるかなど,伝統の守り方について議論が続いていた。ところが,「今回の皇室典範改正案が改悪案である事情」は,皇位継承問題をめぐり日本社会の世論動向が「女系・女性天皇への賛成が多数を占めている」にもかかわらず,
神社本庁や日本会議という荒唐無稽派である「紀元2686年」「観念」の持主たちが,男系継承維持を貫くために高市早苗と麻生太郎に,その時代錯誤の「天皇継承」を法案として実現させていた。しかし,21世紀の現時点ではこの日本における皇室・皇族の存続政策は,すでに「世界から観て物笑いの種」を提供する顛末を招来したことになる。
自民党の小林鷹之政調会長は,2026年7月10日の衆議院議院運営委員会のなかで,皇位継承に関してであったが,「皇位の男系継承は2600年以上にわたって先人たちが守り抜いてきた皇室の伝統だ」と述べた。しかし,これは「日本史のいろは」に完全に無知である事実じたいに無知であった当人が,それでも東大法学部卒国会議員のいいぐさとしては,本当に驚異的な無識さかげんをみずから吐いた。
現代に「そんな麻生太郎」や「こんな小林鷹之」のごとき,天皇家の歴史問題に関しては無学のヤカラでしかありえない連中がいた。そして「明治謹製」としてならば,伊藤博文や井上 毅,伊東巳代治などが甲論乙駁のすえに作成した「旧皇室典範」の本質についてとならば,このタロウやコバホークは,もとより基礎的な知見は最低にすらもっていない。
基本的にいって,敗戦後にもその中身(とくに男系天皇)がわけもなくそのまま残された事情が原因にもなった経緯のなかに,最近の皇室典範改正(改悪)案「騒ぎ」が発生する遠因を潜伏させていた。本来からしこまれていたこの種の「議論抜きの難点」は,当人たち(太郎や鷹之など)の無識ぶりは仕方ないのでとりあえずは埒外としても,いまごろにもなってだが,やはり露呈されざるをえない顛末となって出現した。
1「研究対象として神道を考える」ことは,どういうことを意味するのか?
a) 工藤 隆『大嘗祭の始原』明石書店,1990年は明解に,こう主張した。
結局,「天皇の祭祀や,伊勢神宮を頂点とする神道的な神社秩序のなかの祭祀のほとんどは,ムラ段階にあった原型的な祭りを偽装するとともに,他方でより抽象化し,洗練させたものであり,同時にそれらを冷たく形式化し,しかも民衆を寄せつけないような権力の匂いも漂わせるように再構成したものだと認識している」 と(工藤 隆『大嘗祭の始原』明石書店,1990年,104頁)。
工藤がその本質をこのように説明した「古来からの神道・神社・祭祀」という意味でのその「神社秩序」なるものは,明治以来にきわめて人為的,政治的に工作され創造された,ごく簡単に表現するならば,「偽装」された(本ブログ筆者の把握だとその)「明治謹製」の「国家神道」に収束されるべき実体に相当した。
だから,そのそもそもの淵源は,近代国家体制の形成・構築のために転用(あるいは悪用)されてしまった,いわば「原始的な宗教としての神道信仰」に求めることができる。その事実は,伊藤博文が旧大日本帝国憲法を創作・立案するさいに,それれこそ,この明治憲法の目玉だとして「魂をこめて注力したところの,まさに肝心・カナメの力点」を意味した。
ところが,その明治維新とやらを成功させえたのちに登場させられた旧憲法は,第2次大戦に,日帝が完敗するまでは改訂(改正?)させる機会をもちえなかった。
b) 1945年8月15日の敗戦受け入れのあと,9月2日になると東京湾内では,つぎの風景が展開される歴史の展開があった。天然色になっている画像は,最近になって着色技術を使い,白黒写真を色づけしたものである。以下の画像はいずれもアメリカの戦艦ミズーリ甲板。

実際にはのカーキ色に分類される色合いであった


日本軍関係者人物はこちらもあとから色づけされた写真であるが小さくてみにくいゆえ
前段のような指摘はこちらではしないでおく
第2次大戦が終わってから77年近くが経った2022年2月24日,「プーチンのロシア」がウクライナ侵略戦争を始めたところ,ウクライナ側はある『X』(2023年7月24日までは Twitter )の宣伝で,つぎのごとき第2次大戦中に結ばれていた旧三国同盟「日独伊各国」の最高指導者それぞれの顔を組み合わせた画像を,対・ロシア戦用のプロパガンダとして公開した。

裕仁はすぐに取りのぞいた
しかし,日本側からの抗議をを受けて天皇裕仁の画像は除去したものに変えた。当時,ウクライナ側を支持(支援)する立場にあった日本の意向を尊重したからである。かといって,この画像に表現されている事実そのものは否定できない。
ウクライナ側はただ,「ロシアのプーチン」のファシズム的・ナチズム的な独裁・強権の政治体制を世界にむけて発信させる目的で,このように『X』(当時はツイッターと称していたが)を利用し,世界に対して戦術的に宣伝をおこなった。
b) 話題をより本論寄りに戻そう。
よくいわれることだが,日本の神道は「古(いにしえ)からの,ながーい伝統があり,この国独特の土着宗教である」という雑駁な指摘に対しては,明治謹製として整えられた国家神道,すなわち
「伊勢神宮(生者のための表玄関:入り口に相当する神社)」と
「靖国神社(死者のための勝手口:裏門通路に相当する神社)」は,
日本という国の名称が使われるようになる前から,つまり古神道が実在したと思われる千年以上も昔からの伝統そのものを継承した神道式の神社を,全然意味していない。
まず伊勢神宮の場合は,明治期から新しく付与された「社格」をもたされてからの役割を発揮されるようにあつかわれた。さらには,単に「明治謹製」に過ぎなかって靖国神社の場合は,なにを勘違いしたつもりか,大昔から存在してきた神社と「同じ歴史的な長さ:そのもの」が,あたかもありえたかのようにずいぶんと恣意的に位置づけておき,いわば好き勝手に誤解しうるかのような意味づけを与え,こちらなりに明治独創風になる権威づけを謀ってきた。
伊勢神宮にはそもそも江戸時代までは天皇出向くことなどなく,明治維新以降,この神社を日本最高位の社格をもつ神社に格付けしたのは,ほかならぬ明治政府自身であったのだから,それこそ「出来レース」的な神社(とく神宮や大社など)に対する手前味噌の評価替えをほどこしておいてから,21世紀のいまごろになって「いにしえ(古来)久しき日本の〇〇神社」は,などというのは,虚飾が過ぎたウソの形容文句であった。
c) つまり明治政府は維新以降,亜流帝国主義だった自国路線を構築していくための「富国強兵・殖産興業」という土台を整備し,そしてその上のそれもはるか上方の位置にあっては,明治期に敷いた「脱亜入欧の思想」路線を敷いたのち,昭和戦前期の「大東亜共栄圏」という国際政治思想にまで展開(想像妊娠)させていった。
いってみれば,一国の破綻を前もって約束されたがごとき,それも「国家神道:政治イデオロギー」に先導される進路を敷いていたがゆえ,結局,明治時代が始まった1868年から1945年敗戦までの77年間は,イソップ物語に出てくる「カエルと牛」が教示したような物語,すなわち旧日帝なりの帝国主義路線は結局,「身の程しらぬの慢心」を戒められるかたちで終結させられた。
しかし,その1945年「8月から9月以降」における,なかでも靖国神社にとっての敗戦後「生き残り問題」は,GHQ側当局の「理解があるようで実はまだその不足:欠落も多分にあった」関係者による半知半解的な評価・判断によって,なんとはなしに,
換言すると「政教分離」が大事だとするGHQの「判断の迷い:不徹底」に対して,国家神道および皇室神道側の計慮・画策がうまく立ちまわるかたちを採ることで,天皇家の自家信仰問題が断絶させられるような事態からはなんとか逃げ切れることができていた。
仮にだが,米軍ではなくソ連に日本の首都東京が占領・支配されたとなったら,そもそも皇室の存続じたいが,はたして可能であったかどうかさえ,おぼつかなかったはずである。
要するに不幸中の幸いであった。ある意味,宗教問題には理解があったGHQの脇の甘さをすり抜けた日本国旧体制の,ここではたとえば皇室関係者は,GHQの立場からは完全に,どこまでも自己欺瞞的にだったけれども,うまく逃げ切れたという心証を抱けたのである。
d) 「宗教はアヘンだ」と断じてやまないあの狂信的なソ連邦の最高指導者ときたら,そもそもロシア革命のさいには,ロマノフ王朝一族を血祭りにあげていたくらいだから,GHQ(日本を占領したのは主に米軍で,英軍もくわわっていたが)が,多少は遠慮がちに「日本の神道・神社」問題に対処してくれた姿勢は,きわめて温和で思いやりのある「占領政策」であった。
仮にソ連が敗戦した日本を占領したりしていたら,アメリカとは段違いに過酷な措置をほどこし,国家神道は根絶やしにされたと推理してなにも不思議はない。

この写真も白黒を天然色に加工したもの
「伊勢神宮 + 靖国神社」という具合に,明治以来,この2本柱中心に概念付けられた国家神道式の宗教施設にまつわる観念は,古来からの民族神道(広くは神社神道・教派神道・民俗神道など)とは,明確に一線を画しておくべき,いうなれば「完全に異質のものであった」,とその性格を観察するほかない。いうなれば,19世後期・流にとても新しかった,きわめて「近代的な産物」であった。
しかし,これが21世紀のいまになってもまだ,そのまま残置されているとなれば,これを称して「封建遺制」の残骸であり,そして,現代国家の立場としてはこの日本を実質,「半封建国家体制」たらしめる政治宗教思想が,国家神道としての皇室神道の基本的性格であったと識別せざるをえない。
補記)近現代日本史の流れうちから,あれこれの結節点(大から小までの雑多なそれら事件・出来事)については,長大な説明となっているが,つぎの文章が参考になる。
◆ 第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」
(初稿1999.10.29)◆
=『井原医師会』
http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html =
e) さてここで,工藤 隆『大嘗祭の始原』明石書店,1990年に戻る。
神道をめぐり人びとが,「心の底から “感動” する」のは,「要するにムラ段階の原型的な要素を色濃く残している祭りがほとんどなのである」(工藤,同書,104頁)。
「神道の側からの論文には」「その基本的な価値観の隔たりの大きさに,正直いって辟易させられる」
とくに,神道の立場での「論文のなかで,現在の天皇に対してのみならず,『古事記』,『日本書紀』に出てくる天皇にさえ尊敬語を用いているものがあるが,客観性を生命とするはずの研究論文において,その研究対象に対して尊敬語を使っているということは大きな矛盾である」
「学問研究にあっては,研究対象との間に適度な距離を保つことが必要なのだが,尊敬語で天皇に対する経緯を表現し続けている論文というものは,研究対象との間にとらねばならない距離を放棄しているということを,みずから宣言している」(同書,105頁)。
まったくに工藤の指摘するとおりであって,「神道を学問の研究対象=客体に据える手順」とは無縁のこうした神道〈学者〉が,ちまたにはいくらでも存在する。学術書の体裁をとったりっぱな神道に関する研究書をひもといてみるに,これがなんと,神道という「宗教を宣伝したいか(?)」ような記述の方式を採っている本もあるのだから,唖然とさせられる。
しかも,それら書物は「神々に対する直接の畏敬・尊崇の念を充満させた雰囲気」を漂わせる記述内容になっているから,それこそ,人文科学・社会科学論としての「政教分離」どころか,その癒着=合体化を成就させている点では,学術研究の基礎的要件をみずから破壊して憚らない「成仏ぶり」を披露している。
いわば「学問における〈政教分離〉」が完全に無視されている,というか意図的に寸断されている。だが,それでもその事実をなんとも思わずに「尊敬語で天皇に対する経緯を表現し続けている論文」が,いまでも連続して登場するその姿は,
自分が「現人神」である点は否定したけれども,神武天皇の末裔だという架空そのものの「神代に生きている」かのような文章を,それも学術書の体裁を採ってでもなお書きつづける神経は,通常の学問執筆の手順からは別世界のそれであった。
2 歴史的にみた大嘗祭
a) 工藤 隆の言説・紹介をつづける。
既述のように「すでに平安時代の大嘗祭は,天皇の権力を維持するための政治祭祀としてほぼ完成しきっていた」
「つまりは,権力維持のための政治祭祀としての偽装が徹底され」「ムラ段階の原型的なものがほとんど姿を隠してしまっていた」
「したがって,この時期以降の大嘗祭」は「ちょっとでも油断するとその天皇権力の偽装の政治性のなかに取り込まれてしまうという構造になっている」(工藤,同書,107頁)。
「天武・持統朝に一応の完成段階に達する天皇権力を特徴づけたのは,その空無性と,権力への飽くなき上昇志向性の,不可思議といっていいくらいの同時存在であった」
「特にその,空無性ゆえにあらゆるものを吸収して,それを天皇権力の優越性へと転化させてしまう能力には,驚異的なものがあった」
「中国という当時の大先進国から流入したり,積極的に輸入した技術や知識や教養は,当時としては,いまでいう最先端技術。最先端科学,最先端思想にあたったから,それらの “情報” を独占するということは,ただちに天皇権力を強化するものとして,強力に作用した」
「そのなかでも,“科学” として重要な位置を占めた代表格が,陰陽道(広義の道教の一部)であった」(以上,同書,110頁)。
「伊勢神宮が天皇権力との結びつきを一段と強め,天皇氏族の氏神的存在になっていったのは,天武朝においてであった」(同書,111頁)。
なお,工藤からは「大嘗祭の主要部分は,まるで陰陽五行思想だけでできあがっているかのように」論じていると指名した,民俗学者吉野裕子(よしの・ひろこ:1916-2008年)に向けて苦言する発言をし,こう批判もしている。
大嘗祭の「始原への眼が著しく弱い。その始原からの視点で見たときには,大嘗祭における陰陽五行思想的な部分というのは,あくまでも副次的,付属的な要素でしかない」と(同書,112頁)。
吉野裕子は,12巻からなる『吉野裕子全集』(人文書院,2007~2008年)をもち,古式神道本来の人文科学的研究に大きな貢献をしている。けれども,いわば人文科学的および社会科学的な観点にもとづく「歴史的な視点が裏づけ」が,必らずしも十全ではないために,工藤の繰りだすような批判を受けている。
吉野の議論は,神道という宗教領域に関して,学問的な意味あいでいう「批判的な考察」を導出する方途をとらず,事実そのものの解明に直接,重点を置く,実証的な分析に終始していた。そのために,工藤の批判を甘受しなければならない性格を,おのずと露出させた。
b) 明治以来,国家政策的に新らしく徐々に構成され,独自に編成・組織されてきた「神社神道」のなかからは,なかでもとくに問題となるほかない「特異な神社」である『靖国神社』が,「皇室神道」の勝手口というか裏門の位置させられた異系(畸型)の神社形態として,登場させられていた。
伊勢神宮や靖国神社は,国家が「日本帝国用の宗教施設」として臣民に強制的に信心させたり,そして,皇族たちが「皇室という私家用の宗教」として自主的に信心したりするという基本特性をも有しており,明治の精神そのものを郷愁するための「疑似宗教のための神道風・伽藍」になっている。
神道は本来,久米邦武が「武筆禍事件で神道は古俗」に巻きこまれるほどに教理体系や信仰方式において未全・幼稚であった。 久米の論文「神道ハ祭天ノ古俗」(1891年)はまさに,的確に「神道は宗教ではなく,古代の自然崇拝・祭天の習俗である」と学術的に主張した。
そのために--この論文を「画期的な論考」とみなす必要はないのだが--,当時の神道家から猛反発を招いてしまい,帝国大学(東大)教授を辞任するまで追撃された。この「久米邦武筆禍事件」は,まさに「明治期の学問の自由と国家神道体制の矛盾」を象徴する出来事となった。
明治神宮が大正時代,1920年11月1日(睦仁の誕生日の2日前の日にち)に創建されているが,この神社の性格は基本において,伊勢神宮や靖国神社とは明確に一線を画されている。
明治維新の以後におけるこの国は,「臣民一般」が信じる〔というよりは,さらに正確にいえば尊崇の念を表わす〕べきだとされた国家神道における〈宗教的な観念〉を,臣民たちに対して一律に強制してきた。
また「皇族一家」のためには別途,皇居の敷地内に用意した宮中三殿を設け,〈皇室用の特別な神道路線〉を新らしく制作・創造してきた。宮中三殿(賢所⇒皇霊殿⇒神殿)を建造し,ここの自家の先祖たちを祭祀し,これを信仰することにした。
要は「天皇たち」は死後においては皆,1人も落ちこぼれることなしに,皇霊殿の神々にくわわっていく。だから,21世紀になっても,あの「サメの脳みそ」しか備えていない森 喜朗元首相であっても,「日本は神の国なるぞ」などといい気になって持論を吐露できた。
森 喜朗のその発言は2000年5月15日になされていたが,森は神道政治連盟国会議員懇談会の会合で「日本の国,まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく」と発言した。
この発言じたいは2026年になった段階でも,森と同じ考えであるとくに自民党極右などの議員たちはたくさん存在する。つぎに紹介する一覧表は2015年時点のものであるが,基本,現在においてこうした実態はなにも変化していない。

どれほど本当に神道信仰心があるか怪しい議員も多いが
ともかく「票のための意味のある」この日本会議や神道政治連盟には
参加することじたいに本心の意義がある
日本会議については https://www.nipponkaigi.org/ を参照されたい
さすがに神道の国であるこの日本であっても,戦前の「国体」思想を想起させるとして,「国民主権に反する」との強い批判を招き,内閣支持率急落と森退陣の遠因となった。
森 喜朗の内閣支持率として最終的に記録した一桁9%までの急落は,いまだに破られていない「歴史的な低支持率」として,いまでも皆が記憶しているはずである。
c) いずれにしても,こうした大日本帝国時代に創建されていた「宗教観念的な空間全体」の最前線あるいは最上位における話となれば,明治以降の諸天皇は死後,実質的に「1人の天皇」の立場を卒業させられ順次,皇居内の「皇霊殿」に「皇霊そのもの」,つまり神となって祭祀されていく。
つまり,臣民たちのまえに立ちはだかってだが,そうした宮中三殿における皇霊殿における祭祀は,なにかとそれも穏やかな伝達の仕方であっても,国民たちに対してあれこれと,皇室神道的な含意・示唆を伝達する媒体としての役目も演じている。となれば,そこではひとまず,あの戦争の結果:「敗戦の体験」は邪魔になっているはずだが,不思議なことにその邪魔にはなっていなかった。
日本国憲法に規定されている「政教分離の原則」は,皇居内に建造されている宮中三殿においては,なんら機能していない。この事実に関しては工藤隆がすでに,前後して参照してきた文献のなかで,的確に指摘していた。
天皇の国民(市民・庶民・そのほか)に対して述べる一言・一言が,賢所や皇霊殿の祭祀を踏まえてというか,皇室神道的に深い関連性を有した発言を構成しもするのであった。
そうであるからには,神道信仰に対してとならば,とくに意識して排除しなければならない「まともなキリスト教徒」あるいは「ふつうのイスラム教徒」は,日本の天皇・天皇制とは完全に対立・相克するほかない,いわば《宗教対立》を必然化させられるほかない関係のなかに,常時置かれていることを忘れてはいけない。
森 喜朗がご託宣したつもりの文句「日本は神の国なるぞ」は,なにもこの森個人でなくとも誰でも口に出せるものであった。そのところに関連させていえば,現在の日本国憲法には第1条から第8条まで「天皇条項」が記述されている。
この事実は,民主主義のための憲法改正であったはずの基本性格が,そもそもの始点から背負いこんでいた〈骨髄的な矛盾〉を指示していた。もともと存在していたその矛盾性は,いってみれば正直に新憲法に内在されていた難題を意味した。敗戦後日本においてGHQ「総司令官であったマッカーサー」は,そもそもこのような矛盾の仕掛け人でありながら,朝鮮戦争の最中に日本からは去った。
たとえば『朝日新聞』が2019年3月21日朝刊に,明仁が天皇であった時代がまもなく終わる時期に,以下のように報道した皇室神道の実体・中身は,あくまで,明治維新以降に徳川幕府から取りあげた「宮城⇒皇居」という敷地内において,新規に設置された神道用祭場:宮中三殿での皇室行事に関していた。


明治謹製の制作になる「なんとか祭」の一覧
したがって,明治以来のものでしかない「皇居というこの場所,宮中三殿じたい」における「天皇家の新神事一覧」の執行模様をとらえて,「古式ゆかしき」などと形容するのは(そう表現したとすれば),もともとこれよりもはるかに古来から存在してきた各種の各派神道の実在を,いちがいになのだが,明確に完全に「ないがしろにした言説」になる。
ところが,たとえば髙谷朝子『宮中賢所物語【57年間皇居に暮らして】』(ビジネス社,2006年)は,自分が巫女(内掌典)としてそこに勤務した体験を絶対化したうえで,二言目には絶えず「古式ゆかしい」,つまり,その「作法やおしきたりはすべて口伝で代々受け継がれて」きた「古くからのおしきたり」であると,自信をこめて語る(同書,4頁)。
だが,この種の発言すべてが個人的な感想になる「印象論の〈証言〉」であって,賢所に務めていた勤務年数が57年の長きに及ぼうと及ぶまいと,最初からみえないものはみえない立場に置かれていた事実じたいに,当人にはまったくその自覚がない。
結局,彼女自身の認識力などでは及ぶべくもない《皇室神道の暗闇・奥底》は,むろんなにも透視できるはずがなかった。彼女の理解などではとうてい及ぶことすらなかった,それでも表面的には,いかにも神秘的を装っていたに過ぎない「皇居内の宮中三殿の賢所に彼女が蟄居生活をさせられた状態で見聞きしてきた事実」は,終始一貫,遮断されたごく狭い生活空間に住みつづけてきた,個人的な体験談でしか語れていないそれであった。
--髙谷朝子に対する批判的な言及はここまでとし,以下は工藤 隆の議論に関連させた記述に戻る。
d) 敗戦後,日本国憲法がその「天皇一家の長」を〈人間宣言〉させていたといえ,この国はなお,彼を「日本国・国民の象徴」として戴いている。この歴史的な経緯=関連性をすなおに読みとるならば,〈なにをかいわんや〉であったと批判されるべき要素から完全に逃げ切れる理由は,なにもみつからない。
結局,象徴になったとはいっても,「天皇と国民の上下関係」は残置させられたままなのである。現在の天皇は徳仁であるが,この夫婦の立場と自分の立場が対等,平等であると自信をもっていえる「国民・市民・庶民」は,はたして何人いるか?
新聞社が皇室関係の報道をするさいは,それ用の特別な編集指針がある。敬語や尊称の用法は多少緩和されたとはいえ,また新聞社による差異もめだってあるなかで,皇族たちが報道の対象になるときは,あれやこれやと神経を使わざるをえない。
もっとも戦前みたく,天皇陛下を天皇階下と活字を間違えて植字したといって,あたかも地球がひっくり返ったかのような大騒ぎはしないけれども,あいもかわらず無条件に畏敬すべき対象が,皇居に住む人たちとその一族として実在するのが,この国:日本である。
補記)敗戦前の話となる。「天皇陛下」を「天皇階下」と誤植した印刷・出版の事例が発生した。これは,日本の活版印刷史において「もっとも恐れられた不敬の誤植」の代表例となった。
戦前の不敬罪が存在する時代ゆえ,印刷所の存続や個人の処罰に関わる重大な事件へと発展した。この誤植に発生した代表的な歴史的事件,そして事後採られた印刷所の対策を,少し説明しておく。
実際に起きた代表的な事件は,富田常雄の小説『軍神杉本中佐』出版停止事件(1942年)であった。この『軍神杉本中佐』(童話春秋社)のなかには「天皇陛下」を「天皇階下」と誤植した箇所があったが,校正がいたらずそのまま発行された。戦時下であったことも重なり,この誤植が原因で同社は出版停止処分という非常に厳しい処分を受けた。
なぜ,この誤植が起きたのかというと,活字の配置(ケース)の問題があった。活版印刷の時代,植字工(活字を並べる職人)は文選箱(活字が並んだ棚)から手作業で文字を拾っていた。
「陛」と「階」の混同漢字の形状(つくり)が「皆」で共通しており,同じ棚の近くに配置されていたため,手元や目視の狂いによって間違えて植字しやすかったと説明されている。
日本国憲法は民主主義国家体制を基本精神とする憲法であるが,マッカーサーのせいで(半分以上はこの人の責任であって,残りのまたほとんどは裕仁が関連した事項),いまもなお「民主主義の上に王様一族」を位置させる国家でありつづけている。
在日米軍の存在とは裏表の関係性を有する皇室問題があるなかで,皇族たちじたいが憲法に対する異物であらざるをえない事実は,敗戦後80年(日本国憲法の施行は1946年11月3日〔明治天皇誕生日〕公布,1947年5月3日施行だが)以上が経過して現在においても,なお明確に刻印されている。
また,工藤 隆によれば,日本の天皇家における神道儀式は大略,平安の時代にほぼ完成したという。「大嘗祭」という宗教儀式は,庶民次元における神道の信心とはまったく異次元の意味に変換されている。そして現在は,皇室という国家神道的な宗教組織を抱える『日本政府=「政治権力用の神道儀式」』にもなっている。
昭和天皇から平成天皇への代替りにさいして執りおこなわれた大嘗祭は,まさしくその実例であった。平成天皇がいつか死期を迎えたときにはさらに,葬儀の件では別途,なんらかの大々的な行事が執行される。
ただ,天皇位はすでに2019年5月1日,息子の徳仁に譲位していた。いずれにせよ,この国がいったい誰のために存立している国であるのかを,根柢より疑わせる事態が,敗戦後史のなかであれこれと再発していたことだけは,確かであった。
3 大嘗祭の意味など-工藤 隆『大嘗祭の始原』の続論記述-
「稲の稔り」は農業作業の過程においてその最終地点に位置する。しかし,この稲の稔りは翌年にもつなげてくれるはずだから,これを「農業技術としての収穫儀礼であったはずと推定できる」
「稲に代表される食物一般のもつ切実も,現代の,とくに飽食の時代などともいわれる1980年代以降の日本からは想像もつかないほどに強かった」
「人々の関心の第1は,まず食料の確保であった。そして,これは基本的には,権力の座についている者たちにとっても同様であった」
「食糧の順調な確保は,この時代に生きる人々すべてにとって,あらゆることに優先する願望であった」(工藤『大嘗祭の始原』188頁)。
江戸時代において武家や大名の武士階級に対して支給されたのは,「知行高=生活費:給料・サラリー」を--サラリー(salary)の語源は salt:塩であった--,計量的に表現する「石(こく)」を単位に使った〈米穀〉であった。
当時のように,資本主義以前における経済段階,いわば貨幣経済の普及・浸透が経済全体を完全におおっていない封建時代であれば,人間生活にとってもっとも基本的な物資である食糧〔食料〕,それも日本の場合でいえば「主食となる米」の確保が,人間の生命の維持とその生活の全体の発展,いいかえれば「人間生活の再生産を維持・発展させる」ために不可欠な基礎的条件となる。
古代史的な事情においては,ときの支配者が政治権力を掌握するさい,経済権力とともに宗教権力をも手に入れてこそ,それこそ三位一体的な権力の構造と機能を統合的に発揮できる国家体制を樹立することができたわけである。
したがって,工藤 隆が述べたように「稲を中心に農業全体の順調を祈るもの」の比重が格段に高かった時代においては,収穫儀礼の重要性は当然「現代の比ではない」ことになる。また収穫儀礼は,冬至に端的に表現される〈死〉の時期を「無化し,秋と春を直接結びつけてしまうような祭りである。
「すなわち,秋を引き寄せ,また春も引き寄せて,その両者を冬至の1日に集中させてしまうという構造をもった祭りである。これこそが,大嘗祭の原型としての,いわば原ニイナメの祭りであった」
「この原ニイナメは,収穫によっていわば仮死の状態に入った稲を,翌年の春に再誕生させるための最も高度な農業技術として,すべての人々に最重要視された」
「したがって……王であるかぎりは,この祭式を掌握し,その核心部分に入り込むことは至上命令であったはずである」(工藤,同書,169頁)。
「このように,〈王〉はまず,稲の仮の死を稲の復活へと転換させる祭式の主宰者でなければならなかった。そして,その上に重なったのが,太陽の仮の死を太陽の復活へと転換させ,また,自然界の仮の死を自然界の復活へと転換させ,さらに,個人を衰弱・死から脱出させる原鎮魂祭だった。そして最後に,それらすべての上に,前天皇の仮の死を新天皇へと転換させる王位継承の儀礼が覆いかぶさった」
以上のような現象は,弥生中期くらいから発生し,卑弥呼の時代にはそれがやや体系化され,その後長い時間をかけて徐々に8~9世紀にような大嘗祭へと形式を整えていったと思われる(189-190頁)。
新嘗祭はキリスト教では感謝祭に相当する。このことは指摘するまでもなく,比較宗教的な関心事になる。いずれにしても,人間の生命・生活の再生産に必要不可欠な農作物収穫に対する「神への感謝の心」を表わす宗教行事である。
ただし,神道とキリスト教のあいだでは,神という存在を此方がわに引きつけて一体化させるか,あるいは彼方がわに引きはなして分離させておくかという根本的な違いがある。この違いに宗教としての発展段階の質的差異を読みとることも可能である。
4 新嘗〔ニイナメ〕の原像は〈女〉
工藤 隆『大嘗祭の始原』は,「大嘗祭を根拠づけている稲の祭りを想定するにあたって,東南アジアの収穫儀礼などに注目するのは当たり前のことなのである」と断わっている。
先述にあった「稲の仮の死を稲の復活へと転換させる新嘗の,原理論的にみて最もありうる原構造」は,「出産行為は〈女〉しかできない仕事である」から「〈女〉である主婦が,そのなぞらえを演じるというのはほとんど必然のことだといっていい」(工藤,同書,196頁,199頁)。
「稲の死の時期である収穫の時に,稲の母を設定し,人間の〈女〉を介添えにして,稲の子を誕生させ,翌年の稔りに継続させていく。これは稲の収穫儀礼の原理論といってもいいくらいに合理的である。実態として日本の稲作儀礼への東南アジアのそれからの影響を想定しつつ,一方で,それを一つの原理論(モデル型)として受けとめておく」
その「〈出産〉のためには,生殖行為が前提にされている場合があって当然だろう」(同書,199-200頁)。
ところが,「こういった構造をもった〈女〉のニイナメから,やがてその主人公である〈女〉が排除され,代わりに〈男〉の王が侵入し,さらにその〈男〉の王の位置に〈天皇〉がすべり込むという流れを考えて」おくべきである。
「さらに,原理論的にみて稲と〈女〉しか存在していなかったはずのニフ〔贄〕の忌み儀礼と,巡行し,訪れてくる神の儀礼,あるいは先祖の神の儀礼とが,いつごろどのようにして合体したのかという」「難問が残されている」(同書,201頁,212頁)。
要するに「〈女〉のニフの忌みから〈男〉の新嘗への転換は」「古代のどの時点かで実際に生じたに違いない,歴史的実態である。そして,さらにその〈男〉の部分に,天皇氏族の〈男王〉がすべり込んで,ついにはのちの〈天皇の新嘗〉へと転じ,それが王位継承の要素と重なって大嘗祭へと上昇した,という全過程も,実際に生じた歴史的事実」である。
工藤は,以上の話をまだ「とても証明できるようなことではない」から,「原理論的には大嘗祭はそういう構造を内包している」というに留めていた(同書,212頁)。
明治以来現在まで,日本の皇室で執りおこなってきた「大嘗祭」は,秘儀として隠す操作をほどこすことによってこそ,あたかも,その宗教的な価値が高められてきたかのように振るまってきた。
補記)明仁天皇の代替わりとなった徳仁天皇の大嘗祭は,2019年の場合,11月14日から15日にかけて皇居でおこなわれた。この儀式は,天皇が即位後初めて神々に新穀を供え,国家の安寧と五穀豊穣を祈念する1世に一度の重要な神道行事だと意味づけされた。
いずれにせよ,その大嘗祭は天皇家の私事に留まるのか,それとも,日本という国家の公務になりうるのかという論争点は,あいまいに残す議論としかなしえない日本の憲法学者(大部分)の不徹底は,これからも,この国の民主主義状態を根幹から問いつづけていく一大問題である。
ところで,その儀式は「大嘗宮(だいじょうきゅう)」と呼ばれる特別な建物でおこなわれ,天皇が新米やアワの飯・酒・海産物などの神饌(しんせん)を供える「悠紀殿供饌(ゆきでんきょうせん)の儀」と,「主基殿供饌(すきでんきょうせん)の儀」がおこなわれるという。
しかしながら,明治から大正・昭和へと「天皇が即位の礼ののち,初めておこなう新嘗祭である大嘗祭」は,まだ2度〔徳仁の代まで数えると3度〕しかおこなわれていない。
元来,その儀式の中身にはどのような伝統と格式があって,これに付きしたがい,執りおこなわれているのか。これらは依然として〈秘中の秘〉とすることによってしか,その宗教的な秘密価値を高めることができないかのような「旧日本帝国主義的な皇室政策」の「明治謹製」性が,まさしく問題の核心であった。
そこで注目されるべき固有の性格は,いわば「皇室行事において歴史的には大昔にその始原ありとされた〈空無性〉の《実体》」なのである。
----------------------------------
【付 記】 「本稿(10)」の続編(11-1)は以下である。
----------------------------------
【参考文献】
註記)以上の2冊は同じ本で,下が文庫本として発行されたもの。
註記)この『吉野裕子全集 第1巻』人文書院,2007年に所収されている著作は『扇』と『祭りの原理』の2作品。
