「明治謹製」大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性(6)
【冒頭・断わり】 「本稿(6)」は「前稿(5)」の続編である。下記がそのリンク先住所となる。
0 昨日,2026年7月23日の『毎日新聞』夕刊につぎのような論説が掲載されていたので,これを紹介して議論を始めたい
◆「正しい日本人」競争 ◆
= 吉井理記・稿『毎日新聞』2026年7月22日夕刊2面「特集ワイド」=
すでに猛暑である。ゲンナリしつつ国会中継を観た。〔7月〕15日にあった皇室典範改正案の参院特別委員会である。自民党の山谷えり子氏が「今年は皇紀2686年」「我が国固有の皇統の伝統と歴史,先人たちが守り抜いてきた皇室の伝統は重く,美しく……」との持論を披露していた。
与党議員が戦前製の皇国史観をインストールした歴史認識を披露していて,本邦の未来は大丈夫か,とさらにゲンナリした。「皇紀」とは,8世紀成立の「日本書紀」に初代天皇と記された神武が,「即位した」とされる紀元前660年を起点にした年数である。
山谷氏らは史実だと信じているらしいが,中国の史書「三国志」などに登場するいわゆる「邪馬台国」「卑弥呼」の時代の900年以上も前だ。「漢書」などの中国古代の史書には,神武らしき人物の記録はない。戦後の実証的な歴史学界で,神武の実在を主張する人は皆無といっていい。
ちなみに「日本書紀」によれば神武の祖母・豊玉姫は,「ヤヒロワニ」で,子(神武の父)の出産中に正体がばれたことを恥じ,生まれた子を置いて海に帰ってしまった。山谷氏らはこれも史実と信じているのだろう。
なにを信じるのも自由だが,神話や信仰を現実の政治に持ちこまれてはたまらない。以前にも触れたが,神武の「陵墓」は,なんの考古学的証拠もないまま,奈良県橿原市の一角に造営された。大正期には「陵墓」を見下ろす場所にあった被差別部落が「不敬」だと指弾され,移転を余儀なくされる悲劇まで起きているのだ。
この日は「2000年の伝統を有する世界最古の皇室に対し,一介の国会議員が意見するなど誠に恐れ多い」(日本保守党・百田尚樹氏)なんて発言も飛び出した。今国会,皇国史観を披露する議員が与野党で続出する異常事態となった。
天皇や皇室は神聖不可侵であるかのように競って言挙げし,奉るのが正しい日本人なのだ,といわんばかり。大日本帝国ムードたっぷりの今国会,ゲンナリするどころか,実は暑さも吹き飛ぶホラーのような国会ではなかったか。
ホラッ,また,こんな現実離れした,おとぎ話以前の,というかニッポン昔話よりも古い時代というか,本当にあったかどうかさえ,まったく確認のしようがない「皇国史観」のホラー的な神話物語が,自民党極右オバサン議員山谷えり子が,性懲りもなく本気でのたまっていたのだから,まともな神経(日本史全般をめぐる基礎的な素養を踏まえている常識人のそれ)で判断すると,これはほとんど “狂信の古代史「感」だ” というあつかいにしかなりえない。
だが,この国がいまからおよそ1世紀半前に開始させた「富国強兵・殖産興業」路線は,米欧の19世紀帝国主義諸国から自国を護るためにであれば,そのような自国神聖観を精神面で備えた立国理念が,どうしても必要であったかもしれない。
だが,1868年に明治の時代からはじまってから,今年2026年だとそれから158年も経ったというのに,まるで明治憲法の魔術的な呪文に乗っ取られた脳細胞ではあるまいに,神州日本の皇紀(高貴?)なる伝統と格式に該当するものが,いまだにこの国にきちんと実在しえてはいない,これが問題だなどと勝手に想定したあげく,
その「伝統と格式」がいま,存続不能・持続不可になりかねない危機にあるのだとまで,いささかのぼせて叫ぶさい,とくに「今年は紀元2686年だ」だと口にするこの歴史的な「暦・感」は,まともに自国の歴史を少しは勉強した者であれば,フンパン(噴飯・糞飯)ものだと感じる以上に,「その奇想天外性」の突飛さにまず呆れかえって当然である。多分,嘲笑・侮蔑の対象でしかありえない点も,即座に理解しうるはずである。
その明治憲法(大日本帝国憲法)の中身全体を読むまでもなく,そこには「皇祖皇宗,皇祖皇宗,皇祖皇宗……」という漢字が,なんどもなんども反芻されている。いまの天皇家の人びとが本気で信心するらしい皇室神道の祭神は,東京都のど真ん中に立地する元江戸城内に,明治の時代になってから建造された宮中三殿に祭祀されている。
賢所には天照大神が祀られ,皇霊殿は神武天皇以来昭和天皇まで(の歴代天皇・皇后や皇妃,および皇親(皇族)の霊が祀られていると説明されるさい,これらの人物たちはすでに(皇室の神道信仰流に)神あつかいされている。そして,神殿はその外の民間側のもろもろ祭神を一括して祭祀しているというから,この宮中三殿においては間違いなく,一番格下に意味づけられた神々群であるという定義になっていた。

ここではなんといっても,「神道とキリスト教の神の概念における最大の違い」がなにか(?)という論点を説明しておく必要があった。
それは多神教(やおよろずの神)か唯一絶対の神かという論点になる。神道は自然や万物に宿る無数の神々を崇拝するのに対して,キリスト教は宇宙のすべてを創造した全知全能の唯一の神を信じる。
とはいっても,明治維新以来に復活・再生された天皇・天皇制のあり方は,ある意味ではキリスト教の「神の全知全能」性を,疑似体験的に真似ていく方途においてしか,その曖昧であった古代史的記憶を再構成することができなかっただけに,
このキリスト教に対する神道とはいっても,あくまで明治維新前後から創案されたに過ぎない,「国家神道として取りこまれた伊勢神宮」(生者のための入り口の神殿)と「靖国神社」(戦死者のための出口の神殿)とが一体となって,帝国臣民となった人びとすべての宗教精神を「皇室神道の立場」から取りこむことに最大の目的が据えられた。
つまり,古来・本来の神道とは「明治謹製」として完全にかつ極端に異質かつ異様であった「国家神道と皇室神道とのとりあわせになる」,それも天皇をアイコンと化しつつ利用した,しかも米欧に対抗するための亜流帝国主義国家路線を推進するための疑似近代化政策として構築されてきた「天皇神格化作業」は,この国において本来,正流かつ固有であった神社神道・教派神道・民俗神道とは,そもそものなりたちからして別口の異物であった。
その理由は,以下の説明として案内できる。
イ)「神道の神」(八百万の神・やおよろずのかみ)は多神教である。
山,海,風などの自然現象や,偉大な祖先など森羅万象すべてに神が宿ると考え,自然との一体感が, 神は人間を超越した絶対的な支配者ではなく,自然そのものや自然とつながった身近な存在とみなす素朴な意識によって醸成される。
ロ)「教義の不在」がめだつ。
明確な教典や開祖はおらず,自然への畏敬の念から発生した信仰体系であった。キリスト教の神(唯一神)一神教は,天地万物を創造し,人間を愛し導く「絶対者」はただ1人であると信じる。その超越性と人格としての神は,時間や空間を超越した存在とされ,同時に人格をもち,人間と愛の対話ができる存在とされる。
ハ)「聖書と戒律」の存在。キリスト教徒には,聖書(経典)に神の言葉や教えが明確に記されており,人間はそれに従って生きることが求められる。
以上の3箇条の説明に即していえば,ロ) と ハ) を欠落させていた,いわば宗教としては未熟・不全であるゆえに,単なる古代史的な神秘性に依存するほかない神道の教義(?)は,キリスト教のそれにかなうわけがなかった。
それゆえにというべきか,「自然との一体感」そのものが実際のところ,「神は人間を超越した絶対的な支配者ではなく,自然そのものや自然とつながった身近な存在とみなす素朴な意識」しか備えていない神道が,
民間の神道諸派から抜け出て,いきなり皇室神道の次元・場面にまで生長しえたつもりになりたいのであらば,当然のこと「神道の教義(?)」が絶対に「キリスト教のそれ」に優越する関係性を保持し,維持することが絶対に必要となる。
ところが,明治憲法(大日本帝国)冒頭に置かれた『告文』には,きわめて正直にだったが,ただ,その気分だけが一方的に託宣されていた。それを引用する。引用にさいしては,告文では1行空けを適宜に入れ,憲法発布勅語では,一箇所のみ改行し,空白行も設けた。
以下において,皇祖は誰のことであるかはともかく,皇宗とは誰たちのことであるかといえば,昭和天皇裕仁まで入れられていた。彼までがすでに神格化された地位を与えられているのだが,皇居内の宮中三殿においてはとくに皇霊殿のなかだけでも,すでに 125人の神々が鎮座・同居している。神殿のほうをのぞくとこちらでは「八百万の神々」,つまり「本来の本物のこの国に伝統と格式を備えた神々」が犇めきあっている。
しかし宮中三殿のなかでは,賢所⇒皇霊殿⇒神殿という霊的に区分された神格性の絶対的な格差もまた,厳然たる「国家・皇室神道」的な観念として厳在するのであった。
告文
皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト為シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵行セシメ益々国家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆
皇祖
皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ逮テ時ト倶ニ挙行スルコトヲ得ルハ洵ニ
皇祖
皇宗及我カ
皇考ノ威霊ニ倚藉スルニ由ラサルハ無シ皇朕レ仰テ
皇祖
皇宗及
皇考ノ神祐ヲ祷リ併セテ朕カ現在及将来ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ
神霊此レヲ鑒ミタマヘ
憲法発布勅語
朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス
惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ
朕我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ其ノ朕カ意ヲ奉体シ朕カ事ヲ奨順シ相与ニ和衷協同シ益々我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシムルノ希望ヲ同クシ此ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ
〔以下に,大日本帝国憲法が続く〕
さて,21世紀に生きている自民党の極右議員山谷えり子が,「今年は皇紀2686年」「我が国固有の皇統の伝統と歴史,先人たちが守り抜いてきた皇室の伝統は重く,美しく……」との持論を披露したところで,「皇室の伝統が本当に重く,美しく……」持続可能であった系譜を途切れることなく継承してきたかといえば,この答えは「否」である。
京都にある泉涌寺には,天皇の一番大事な行事である大嘗祭さえ執りおこなえなかった歴代天皇たちが,それも『孝明天皇以降の古墳的な墓所(陵墓)群』に比較したら,石ころ程度にしか映らないほどにみすぼらしい墓々しか残せずにしずかに祀られている。

明治時代になってから建造されていた
明治天皇の父とされる第121代孝明天皇のこの円形の陵墓(後月輪東山陵:右側)は
1867年11月24日に竣工

になっている

大嘗祭は,第40代天武天皇が在位した時代(673-686年)に制度化されて以降,天皇が即位したさい一度だけおこなうもっとも重要な一世一代の皇室儀礼とされた。
しかし,戦乱による朝廷の困窮や政治的理由(中絶期間など)により,大嘗祭をおこなえなかった天皇は歴代で計15名存在した。それら天皇と大嘗祭をおこなえなかった主な天皇の一覧と,その理由を歴史的な流れに沿って解説したい。
▲ 大嘗祭をおこなえなかった天皇一覧 ▲
イ) 室町〜戦国時代(1336年〜1573年)の長期にわたった中絶期(9代・221年間連続の中絶)とは,足利 尊氏が京都に開いた室町幕府の統治期間を指す。
この室町幕府の権力が次第に衰退し,1467年に勃発した「応仁の乱」 を機に全国で下剋上(実力で上の者を倒すこと)が横行する戦国時代へと突入したなかで,朝廷の財政が完全に困窮し,即位の礼すら何年も延期されるだけでなく,莫大な費用がかかる大嘗祭は完全に途絶えた。
第104代 後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)は,財政難のため即位の礼を挙行するまでに22年かかり,大嘗祭は断念した。
第105代 後奈良天皇(ごならてんのう)も,同じく困窮を極め,大嘗祭をおこなえないことを,伊勢神宮に詫びる文書(宸翰)を奉納した。
第106代 正親町天皇(おおぎまちてんのう)は,織田信長らの援助で即位の礼はおこないえが,大嘗祭の復興には至らなかった。
第107代 後陽成天皇(ごようぜいてんのう)は,豊臣秀吉の支援を受け宮中儀式の再興を進めたが,大嘗祭は見送られた。
第108代 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は,徳川幕府との対立(紫衣事件など)もあり,挙行されなかった。
第109代 明正天皇(めいしょうてんのう)は,奈良時代以来,久々の女性天皇。
第110代 後光明天皇(ごこうみょうてんのう),第111代 後西天皇(ごさいてんのう),第112代 霊元天皇(れいげんてんのう)などの即位時はおこなえなかったが,朝儀復興に執念を燃やし,次代での大嘗祭復活の道筋をつけた。
ロ) 江戸時代の部分的な不挙行(中絶からの復興期)
1687年に東山天皇によって約220年ぶりに大嘗祭が一度復興されたが,その後も財政や政治的配慮から,再びおこなわれなかった代があった。
第114代 中御門天皇(なかみかどてんのう)は,霊元上皇の在位中の取り決めなどにより,この代では再び不挙行となった。
第116代 桃園天皇(ももぞのてんのう)
第118代 後桃園天皇(ごももぞのてんのう)
ハ) 南北朝時代の北朝天皇(1名)足利尊氏らによって擁立された北朝の天皇のうち,崇光天皇の代だけは観応の擾乱(足利家内部の権力闘争)の勃発によって政治的に挙行できなかった。
北朝第3代 崇光天皇(すこうてんのう)(※なお,光厳・光明・後光厳・後円融の他の北朝天皇は大嘗祭を挙行した)
ニ) 古代の特殊な例第49代 光仁天皇(こうにんてんのう)政変による高齢での即位など,当時の政治的混乱から大嘗祭の記録がない(通常の「新嘗祭」で代替されたとななされている)。
第64代 円融天皇(えんゆうてんのう)。即位前後の政情不安や宮廷の事情により,大嘗祭はおこなわれなかった。
しつこく繰り返すが,山谷えり子流に「我が国固有の皇統の伝統と歴史,先人たちが守り抜いてきた皇室の伝統は重く,美しく……」との持論は,このような皇統たちの「大嘗祭というもっとも重要な皇室内行事を,そもそも欠落させていた事実:時代背景史」など目もくれないで,いかも自分だけがただ隙勝手に一方的に専断したうえで「吐いた,饒舌もどきの皇室讃美」であった。
1 山科 誠『日本書紀は独立宣言書だった-明かされた建国の謎-』(角川書店,平成8年)による補遺。--『日本史の百済史が百済史の日本史』であること,など
1)日本史は百済史
本書,山科 誠『日本書紀は独立宣言書だった-明かされた建国の謎-』角川書店,平成8〔1996〕年は,いまから30前に発行され,古代史における日本と朝鮮・韓国の深い絆を「奇想天外ともいえる仮説」をもって解明している。
山科は同書〈あとがき〉で,「日本書紀は本文30巻と帝王の系図1巻からなる国家的事業」,それも「三韓の国々の影響や関係を抹消しながら」「40年間にわたり日本独自の歴史書を編纂しなければならなかった編集者の苦労は誠に頭の下がる努力だった」というふうに,この1300年も昔に書かかれた古代史書の制作者を称賛した。
註記)山科 誠『日本書紀は独立宣言書だった-明かされた建国の謎-』角川書店,平成8年,〔荒俣 宏「解説」〕205頁。
また,同書の末尾に解説を寄せた荒俣 宏は,こう記述している。
神功皇后・聖徳太子推古天皇・雄略天皇・天武天皇に関する「きわめて衝撃的な真相を語っている」 この「5人の天皇には朝鮮半島との深い関係が認められる」
「もし仮に,かれら天皇クラスの “日本人” が朝鮮半島人そのものであったとしたら,どうだろうか?」 「本書を読了されたあなたは,かならずや,『やられた!』と叫ぶことだろう」
註記)山科,同書,〔同所〕201頁。
山科『日本書紀は独立宣言書だった』の〈あとがき〉は,日本書紀の問題をとりあげた本書の狙いを,およそこのように説明している。
それは,日本の古代史において権力者であり,編纂者でもあった天武天皇(第40〔39〕代,在位 673-686年)と持統天皇(第41〔40〕代,在位 686-697年)が意図的に塞いでしまったために,「すべてが消失」された「日本の古代史」「の道」「をまっすぐに舗装した作業」,
いいかえると,「日本が神代の時代から単一民族による自主独立国であったという創作で」もって,「大陸,特に朝鮮半島からの渡来,亡命人物をすべて否定し」,「日本の統治者は大陸からの渡来民族であるということを抹殺するために,日本書紀が書かれたといってもいい」史実を闡明することである。
註記)山科,同書,〔同所〕202頁。なお,明治3〔1870〕年に追贈された弘文天皇を39代に入れることにすれば,天武天皇は40代,持統天皇は41代になる。
タレント業もこなしている日本の博物学者の荒俣 宏は,山科の著作に関して,日本古代史の真相をこう語っている。
補記)荒俣 宏(1947年生まれ- )は,こう紹介されている。日本の博物学研究家,図像学研究家,小説家,収集家,神秘学研究家,妖怪評論家,翻訳家,タレント。
元玉川大学客員教授,武蔵野美術大学造形学部客員教授,サイバー大学客員教授,京都国際マンガミュージアム館長,日本SF作家クラブ会員,世界妖怪協会会員。 日本大学藝術学部芸術研究所教授なども歴任している。
天武天皇までの歴史は,日本の島を舞台にした歴史にまちがいない。だがけっして,土着日本人の歴史ではない,人間の面からいえば,朝鮮半島の人びとがこの島に進出,あるいは亡命しつづけ,ついに故国と縁を断ち切り,新生の独立国として起つまでの歴史なのである。つまり日本史の主人公は半島の人たちなのだ。
註記)山科,同書,〔同所〕199頁。
だから,「戦前のように,古代日本は朝鮮半島に任那という植民地を所有していた,などと脳天気に考える者は,もはや少数派であろう。騎馬民族征服説が生まれ,古代日本の国際性(ペルシア人やキリスト教も流入していた!)も明らかにされ,そのイメージは一変したといってよい」
荒俣は結局,「本書の著者が提示する仮説は,まさしく度肝を抜かれるような大胆きわまりない発想にもとづいている。事実,ぼくもブッ飛んだ。だが,ブッ飛んだ次の瞬間,本書の虜になったのもたしかだ」と,山科の仮説・発想をべた褒めである。
註記)山科,同書,〔同所〕198頁。
壬申の乱〔672年に起きた日本古代最大の内乱〕で勝利を握ったのは,天智天皇(第38代,在位 661-671年)の弟に当たる大海人皇子,のちの天武天皇(第40代,在位 697-707年)である。
この天武天皇は,兄の天智天皇が手を付けた日本国づくりを完成した人物と考えられる。大陸の律令制をそのまま倭(ヤマト)にも布き,国史である『日本書紀』編纂を命じ,王朝の祭神であるアマテラスを祀る伊勢神宮を整備し,とどめとして日本および天皇の呼称を創始した人物でもあった。
註記)山科,同書,〔同所〕196頁。
2)山科『日本書紀は独立宣言書だった』の狙い-歴史改編:百済史から日本史へ-
ところで,山科 誠『日本書紀は独立宣言書だった-明かされた建国の謎-』1996年の主張は,荒俣が褒めちぎっていうように〈完全なる創見〉であるのか?
筆者の分かる範囲内でいえば,山科『日本書紀は独立宣言書だった』が日本書紀をめぐって主張した論旨と重なる研究業績は,
水野 祐(『日本古代王朝史論序説』私家版 1952年,増訂版 小宮山書店,1954年),
鹿島 曻(1978年,関連する多数の著書あり),
佐々克明(『「日本国」以前』学芸書林,1980年)や,
そして事後,21世紀になってからは
澤田洋太郎『ヤマト王朝は渡来王朝』新泉社,2000年
林 順治『応神 = ヤマトタケルは朝鮮人だった 異説日本国家の起源』彩流社,2009年)
などがすでに,先行研究の成果を公表していた。
それゆえ,これらの研究成果との突きあわせて,あらためて山科の書物を評価する余地がある。そこで,山科『日本書紀は独立宣言書だった』の論旨を末尾から,ここでは少し引照してみる。
--日本書紀において天武天皇の巻までは編纂の意図は非常に明解である。一貫して天智,天武天皇が百済から渡来したという事実を抹殺することと,生涯の敵である新羅国を悪者として書くことだったからだ。
したがって,応神天皇や雄略天皇についても,朝鮮半島から渡来した王たちであるということを厳格に秘密にしている。それと天武天皇は別に百済の国の歴史を残そうとして,大海人皇子たちと一緒に渡来した百済の書き人に百済王朝の歴代の歴史を正式に編纂させている。
それらは,現在日本だけに残っている『百記』『百済新撰』『百済本記』と呼ばれる百済三書である。この百済三書には現在の韓国には残っていない事実があることから,日本で書かれたものと考えられる。それらの歴史書は,母国をなくした当時の亡命百済人にとって,誇りの書でもあったのだろう。
もともと,日本書紀は「倭国史」という歴史書を原典にして編纂されている。この倭国史を日本書紀という名前に書きかえた人物は,筑紫史益(チクシノフヒトマサル)という史官である。彼は天智2年から持統5年までの29年間にわたって,日本書紀を真面目に編纂しつづけ,莫大な恩賞を授かっている。
このフヒトマサルは白村江で日本,百済連合軍が唐,新羅に敗けたのちに来日した帰化人と思われる。このフヒトマサルがそれまでの倭国史を日本書紀と変えて,日本という言葉を初めて創った功績が持統天皇に評価されたようだ。
それまでの日本は,百済を宗主国としていたので国名を「倭国」と卑語にして表現していた。しかし百済国が663年に滅亡したあと,百済人は日本に亡命政権を作らざるをえなくなっていたのだ。
そのころ,フヒトは「日の本」という言葉を日本書紀の神代の話から取って,新しく「日本」という国名を創ったのである。したがって日本という国号は百済,高句麗が滅亡したあとの,670年ころから使われたことになる。
註記)山科 誠『日本書紀は独立宣言書だった』188-189頁。
天武天皇が中臣大嶋と平群子首に詔して,帝記および上古の諸事を記録することを命じたのが天武10〔681〕年であった。それから40年も経った養老4〔720〕年,日本書紀が最終的に編纂されて,舎人親王によって当時の元正皇后に奏上された。
天武14〔685〕年に伊勢神宮の遷宮の制度ができる。これは現在までつづいている。20年ごとに新しく伊勢神宮を建てなおし,遷宮する儀式のことである。遷宮は,天武天皇が即位した673年を起算の年にしたと思われる。
なぜなら,最初の遷宮を持統天皇が693年におこなっているからである。663年に百済国が滅亡して来日し,その敗戦の悔しさから10年経って日本で新たに天皇に即位した天武天皇にとっては感無量の気持であった。
それだけに,日本古来の神を奉る伊勢神宮にあらためて感謝したい気持は察することができる。しかし,皮肉なことに天武天皇は,この伊勢神宮に感謝する儀式を考えた翌年の朱鳥1〔686〕年9月に死亡する。
補注)朱鳥は「あかみとり」と読む。飛鳥時代の元号であり,天武天皇の晩年に使用された。686年7月20日に改元したが,同年9月に天武天皇が死亡したため,その後は使われていない。
〔記述に戻る→〕 要は,天武天皇は百済国の出身であり,その母国百済を滅ぼした新羅国を許すことはできなかった。したがって天武天皇は,日本最初の王朝が新羅出身のスサノオ一族によって建設されたこことしったのち,日本書紀からその記事いっさいを抹消するように命じたのである。
註記)山科,同書,182-183頁。
山科『日本書紀は独立宣言書だった』は,まさしく「日本書紀とは,古代日本が大陸,つまり朝鮮半島の三韓の国々からの独立を明確なものとするための歴史書であった」と断定する。天武天皇が日本書紀の編集方針としたのは,「過去の植民地の歴史を新しい独立国としての『日本』の歴史に書き換えること」であった。
それゆえ「そこでは神代の始まりから,日本はあくまでも独立国として誕生したという由緒正しい歴史を新たに創り出さねばならなかった。また,倭国の最高権力者は,それまで『大王(オオキミ)』と呼ばれていたが,それもこのときから『天皇(スメラミコト)』という称号に変更することにした」
「このような背景があったために,日本書紀の編纂,すなわち倭国の “歴史改編” 作業は40年という長い年月を要した」
註記)山科,同書,16-17頁。
また山科は,非常に興味ある分析をしている。日本書紀の作者が「神武天皇の秘密を簡単に暴露している」箇所では,「年15にして太子となる」と表記し,「神武天皇が最初の天皇」ではありえず,先帝がいたことを漏らしている。
日本書紀の作者たちは,単なる創作で天皇を捏造し,日本の歴史を偏向させるほど誇りのない人々ではなかった。しかし,残念ながら神武天皇以前の王たちは,日本書紀の編者によって抹消され,残ったのは神話の名前だけとなった。
註記)山科,同書,41頁,53頁。
補記)本ブログ筆者は以前に書いたつぎの記述のなかで,いまからだとだいぶ昔になるが,国会議員の中山正暉が語った「前段に指摘されていた疑問」に関する発言を紹介したことがあったので,これをあらためて紹介してみたい。
それは,こういう具合に国会議事録に記録されていた中山正暉の発言であった。該当する段落は赤枠で囲み指示した。ここでは,小さく写っているのでみづらいが,クリックし拡大をかけて読んでもらいたい。

この第147回国会「参議院 国土・環境委員会」第17号,平成12〔2000〕年5月18日における中山正暉の発言は「神武天皇にも父母はいたはず」だという,きわめてまっとうな指摘(疑問?)を提示していた。
〔記事・本文に戻る→〕 日本書紀の神功皇后の巻には,肖古王とその息子・貴須王,そして枕流王,辰斯王,阿華王など,ほかの天皇の巻よりも多くの百済王が登場する。なぜ,この時代にそれほど多くの百済王が日本の歴史に現われるのか。
それは,当時これら「百済の王たちが同時に日本の王でもあった」のではないかという仮説になる。もしも百済から来た王たちが日本の新しい征服者だとしたら,日本書紀の作者たちがその名前を明白に書けなかったこともうなずける。
もうひとつ仮説ができる。「朝鮮半島で百済と一緒に新羅と戦った兵士は任那の兵だった可能性がある。そうすれば,日本から多くの兵士を送らなくて済むからだ。当時日本から大兵力を渡海させることは現実的ではないので,この仮説のほうが正しいと思われる」
「すなわち,現実は日本書紀に書かれたようではなく,本家が百済で分家が日本だったのではないか」
「372年(神功52年)の七支刀献上の話も,実際は肖古王が当時の日本の占領司令官に母国百済への応援を感謝するための褒賞の剣だったのではないか」
「つまり私の仮説では,360年当時の日本の王は,神功皇后でなく,その夫である百済の肖古王であったということになる」
「いずれにしろ日本書紀の作者たちはこの事実を知っていたがゆえに,神功皇后の巻を粉飾,年代をわかりにくくして40年間年次を前に延ばしたものと思われる。逆に言えば神功皇后は肖古王の皇太后として,次の日本の正統な王となるホムタ皇子を養育しながら,360年から死ぬまでの約30年間,日本を支配した女王だったということになる」
「神功皇后が死んだ翌年,ホムタ天皇が30歳で即位し,名実ともに日本人の王によるホムタ王朝がスタートすることになる」
註記)山科, 同書,76頁,79頁,80頁。
山科 誠は,仮説:「ホムタ王朝以降,少なくとも百済が唐,新羅連合軍によって西暦660年に滅亡するまでの間,古代日本は百済の王によって統治されていた」を,立てていた。
さらに,「天武天皇が日本書紀の作者たちに命じて隠そうとした一番の秘密は,日本の王朝が実際は何度も交代し,その征服者たちが朝鮮半島から来た民族であった」点を強調した。
註記)山科,同書,80-81頁。
百済では,王の名前とその即位期間がかなり明確であるに比べて,同じ時期における日本書紀の記述は曖昧で,どこまで真実なのかよく分からない。それは主として,日本における百済王朝の権力争いが続出した結果だと思われる。ホムタ王朝は,兄弟親族が残酷な血で血を洗う権力闘争のはてに,後日はその後継者が断絶してしまう悲劇にみまわれたのである。
註記)山科,同書,83頁。
ホムタ王朝の圧制に非常に疲弊していた国民は,長年の古墳作造りや海外への軍役は,想像を絶する苦しみであった。だから豪族たちは,恐れながらも百済直系の天皇を迎えることには反対するようになった。
「当時の百済の歴代の王たちはひょっとすると日本から戻った天皇たちだったのではないか」
日本の王朝は当時「百済国の傀儡政権のようなものであった」〔のではないか〕
それゆえ「日本の歴史家にとっては」「任那割譲の底辺にある流れがまったく理解できない」し,「任那割譲は,日本のホムタ王朝が百済国の分家であったという事実に立脚しないかぎり,論理的に解くことができない」
註記)山科,同書,95頁,97頁,98頁。
「当時の日本は,まだホムタ王朝の宗主国である百済に逆らうほどの力はなかった」
「日本書紀が編纂されたときには肝心の百済国が滅亡していたために,主客をすべて逆転して書くことができた」
「欽明天皇の即位後すぐに,百済は新羅が占領している任那地区の国々を奪取しようと企み,日本に増援の兵を送ることを命じてくる。この当時の日本書紀の記述は,日本のもともとの領地であった任那を再興するために百済に増援を命じるというような書き方になっているが,これは間違いである。当時の日本は,まだホムタ王朝の宗主国である百済に逆らうほどの力はなかったはず」である。
「日本書紀が編纂されたときには肝心の百済国が滅亡していたために,主客をすべて逆転して書くことができたというのが現実だろう」
註記)山科,同書,112頁。
3) 聖徳太子は蘇我馬子であり天皇であった
「聖徳太子の正体は」「天皇であり,蘇我馬子と同一人物であった」
「聖徳太子の『聖徳』は中国では皇帝のみにつけられた尊称」である。
「日本でも天皇のみが使えた称号で,皇太子でも使えなかった称号なのである。これらのことから考えて,このとき聖徳太子が日本の天皇だったということになる」
「蘇我氏の家長はすべて倭王,すわなち天皇だった可能性がある」
「蘇我稲目,蝦夷は歴代の天皇だった」
「大変突拍子もないもののように見える」「その仮説にそって日本歴史をたどると,多くのことが自然と解決することも事実なので」ある。「逆に現在伝わっている当時の歴史観をそのまま理解するほうが困難な点が多い」
註記)山科,同書,119-120頁,121頁,122頁。
第2回遣隋使となった小野妹子は,608〔推古16〕年,裴 世清らとともに住吉津に帰国してくる。
中国側から「裴 世清以下12人の中国人を小野妹子と一緒に日本に訪問させている」ことは,「その頃,煬帝が文帝の遺恨を晴らすために高句麗征討群を派遣しようとしていたため,倭王を刺激して高句麗に味方させないようにという意図によるものと思われる」
「当時の国際状況は風雲急を告げており,この隋の使者,裴 世清が倭国から帰国するや,煬帝は大軍を高句麗に向ける。それが611年のことである。隋としては高句麗と親しい日本の状況を調べるために裴世清を差し向けた」といえる。
註記)山科,同書,130頁。
飛鳥時代の孝徳天皇2年め,645年に起きた大化の改新については,この「クーデタで誰が一番利益を得たかということを調べればいい」のである。
「それはほかでもない」「大化の改新による最大の利益受益者が百済国であったことは明々白々なのである」
「百済国にとってはホムタ王朝以来の日本の百済政権が,継体天皇を最後に蘇我王朝によって奪われて久しく,このクーデタによってそれを取り戻すことができた」
「いまでも日本の政治が外国によって左右されていることを見ればよくおわかり」のように,「日本人の外国に対する態度や性格は昔から今も少しも変わっていない」
「大化の改新は当時の日本の支配階級に踏み絵を踏ませた大事件だった」といえる。
註記)山科,同書,145-146頁。
「大化の改新に次ぐ古代日本の大事件は壬申の乱である」「壬申の乱は西暦672年に起こった。大化の改新が645年であるから,その間30年間もの間,日本は激動の時代を送っていた」
「日本書紀の編纂の秘密は,すべてこの壬申の乱が鍵となっている。したがって壬申の乱の謎が明解に解けることにより,その以前の大化の改新が立証され,ホムタ王朝が,ミマキ王朝が,そしてジンム王朝の秘密が解けてくる」
「今まで日本の古代歴史が不明であった理由は,この壬申の乱が正しく解明されていないこと,逆に言えばそれ以前の歴史が歪曲されたまま解釈されているため,壬申の乱が解けなくなった」
「この壬申の乱が正しく解釈できたとき」,山科『日本書紀は独立宣言書だった-明かされた建国の謎-』「で書いてきた仮説が正当性を持ってくると言える」
註記)山科,同書,155頁。
「日本書紀の総仕上げ」「最後の秘密の記事」は,「663年に百済国が白村江の戦いで負け,実質的に滅亡し,高句麗も668年に唐,新羅連合軍に負けて滅亡する」が,「日本ではこの年,天智7年に中大兄皇太子が即位し,天智天皇となる」と,「そして4年後の672年には壬申の乱が起きて,その翌年,天武天皇が即位する」ことになった。
註記)山科,同書,167頁。
2 本ブログ筆者の考察を試みる
a) 山科 誠『日本書紀は独立宣言書だった』1996年は,一言でいって,日本人としての日本民族意識を強くもっているつもりの「現代のヤマト人」たちの立場にとってみれば,絶対に気にいらない歴史分析を披露した。
林 順治『応神=ヤマトタケルは朝鮮人だった-異説日本国家の起源-』(河出書房新社,2009年)は,「騎馬民族は2回来た !! 石渡信一郎の研究をうけて,加羅と百済から渡来した新旧二つの朝鮮渡来集団による古代日本国家建国の,驚くべき史実を明らかにする」と,出版元の宣伝文句に謳われていた(同書,帯より)。
ここに氏名の登場した石渡信一郎は,いままで,つぎの諸著作を公刊してきた。
『聖徳太子はいなかった-古代日本史の謎を解く-』三一書房,1992年。
→『完本 聖徳太子はいなかった-古代日本史の謎を解く-』河出書房新社,2009年。
『ヤマトタケル伝説と日本古代国家』三一書房,1998年。
『百済から渡来した応神天皇-騎馬民族王朝の成立-』三一書房,2001年。
こうした関連の文献は,山科『日本書紀は独立宣言書だった』が,日朝〔朝日〕古代史の秘密を初めて明らかにした書物ではない事実を,文献史的にも明示している。
もっとも,山科にしても,また前掲文献の執筆者たちもすべて,通常の史学界で活躍する学者や研究者ではないために単独で,自身の挙げた研究成果を単行本を介して世に問うてきた。
日本の史学界は,それもとくに旧帝大系の影響力の強い圏域では,以上に枚挙した著者たちの公表してきた研究成果は無視されている。
b)「帝大」の教授〔教官〕ということばから受ける印象からも理解できるように,日本帝国時代から引きつぎ背負ってきた〈歴史的な残影〉のために彼らは,自分たちが勝手に〈正史〉と規定した領域での研究業績しか認容できない。
いわば,在野の歴史研究家たちが個人的に独自に挙げた創造的な研究成果は,官立の立場においてこそ正統派=歴史研究者を自認する彼らにとってみれば,日朝古代史が『朝鮮優位の関係史』としてその実体を形成していたなどとは,つゆほども考えたくない。
ましてや,金 錫亨『古代朝日関係史-大和政権と任那-』(勁草書房,1969年)が朝鮮・韓国側の歴史研究者として,古代における日本史が本当は朝鮮史に服属したような関係=「分国」体制で存在していたとする見解などは,虫酸が走るほど,嫌な,聞きたくもない創見になる。
つぎには【アマゾン通販:参考文献】からの紹介となるが,金 錫亨のこの本を取りあげておく。このアマゾンでのブックレビューは,3件しか投稿されていない。そのうちのひとつが,次段のような感想を述べていた。
伊藤利光(5つ★のうち 5.0 )「 記紀以来の日本史の最高傑作」2015年4月18日は,つぎのようにレビュー済み
稀有な著作です。大和朝廷の成立から大化の改新に至る真実の所です。日本の考古,古代史の学者がい〔ひ〕とことも反論ができなかったことから表面に現れることはなかったが,日本書紀の偽造歴史がよくわかります。
しかし,既述に挙げてきた日本の,それも在野・民間の古代史研究家たちが,日朝古代関係史における史実=真相に関した,こちらは個々バラバラの探索・究明ではあったにしても,それらを総合的に統括して受けとめて,金 錫亨よりもさらに適確に,しかも各分野にまたがった解明をおこない,多様な成果を公表してきた
c) 水野 祐(1952年)・鹿島 曻(1978年)・佐々克明(1980年)らの関連業績-前段で若干触れた関係のさらなる説明-。
水野 祐『日本古代王朝史論序説〔新版〕』(初版は1952年,早稲田大学出版部,1992年,201-203頁参照)は,「日本古代王朝断絶」の状況を以下のようにまとめていた。
イ) 「万世一系的神聖天皇」は伝説史的事実であり,神話における架空の天皇である。
ロ) 初代天皇より推古天皇まで33代のうち,実在した天皇は全部で18代のみと推定される。
ハ) 神武天皇より開化天皇まで9代の天皇,垂仁・景行・安康・清寧・顕宗・仁賢・武烈・宣化の8天皇,総じて17天皇は架空の天皇である。
ニ) ハ) の17天皇のほかに「飯豊天皇」の即位を認め,初代を崇神天皇,推古天皇まで18代の天皇を,実在として数える。
という見解が有力になっている
要するに,日本古代史は「3王朝の交替」を経て途絶している。したがって「万世一系的神聖天皇」観も虚説であった。これが水野「説」の要点である。
これをもう少しくわしくいえば,朝鮮半島では7世紀中頃までの三国統一の過程においても,多くの人たちを日本に押しだし移入させた。そのなかでもとくに亡国百済の遺民が多く,その上層部の人びとは大和政権に流入して,1時期,奈良には百済文化の花がさきそろうような状況も生まれた。
天皇家の根本が伽耶族の支配層と同種であった事実は,日本の建国神話が如実に物語っており,疑う余地もないというのである(309頁)。
d) 鹿島 曻『倭と王朝』1978年
鹿島 曻『倭と王朝』(新国民社,1978年)は,日朝古代王朝史において「百済史と日本史が重複してきた実相」を,つぎのように書きつらねている。なお,段落を1行空けたところは,時代の区切りとなる箇所として,そう措置した。
1代 神武天皇 - 尉仇台(扶余王子),罽 須(高句麗10代王弟),仇首王(百済6代)
2代 綏靖天皇
3代 安寧天皇 - 比流王(百済11代)
4代 懿徳天皇 - 沙伴王(百済7代)
5代 考昭天皇 - 肖古王(百済5代),赫居世(新羅1代),饒速日命
6代 考安天皇 - 安日彦,天日矛,脱 解(新羅4代)
7代 孝霊天皇 - 責稽王(百済9代),仇 鄒(新羅4代王子)
8代 孝元天皇 - 汾西王(百済10代),伐 林(新羅9代)
9代 開化天皇 - 契王(百済12代),伊 買(新羅9代王子)
10代 崇神天皇 - 近肖古王(百済13代)
11代 垂仁天皇 - 近仇首王(百済14代)
12代 景行天皇 - 辰斯王(百済16代)
13代 成務天皇 - 阿莘王(百済17代)
14代 仲哀天皇 - 腆支王(百済18代)
15代 応神天皇 - 久爾辰王(百済19代)
16代 仁徳天皇 - 讃,仁徳(駕洛7代王妃)
17代 履中天皇 - 毗王(百済20代)
欠 飯豊天皇 - 市辺皇子,蓋鹵王(百済21代)
18代 反正天皇 - 済
19代 允恭天皇
20代 安康天皇 - 興
21代 雄略天皇 - 武
22代 清寧天皇
23代 顕宗天皇 - 昆支王(百済22代王弟)
24代 仁賢天皇 - 文周王(百済22代)
25代 武烈天皇 - 平群真鳥,三斤王(百済23代)
26代 継体天皇 - 大伴金村,安(安羅王)
27代 安閑天皇
28代 宣化天皇
29代 欽明天皇 - 東城王(百済24代)
30代 敏達天皇 - 武寧王(百済25代)
31代 用明天皇 - 聖王・明(百済26代)
32代 崇竣天皇 - 恵王・季(百済28代)
33代 推古天皇
34代 舒明天皇 - 義慈王(百済31代)
35代 皇極天皇 - 善徳(新羅27代)
36代 孝徳天皇 - 孝 (百済31代太子)
37代 斉明天皇 - 真徳(新羅28代)
38代 天智天皇 - 豊 (百済32代)
39代 天武天皇 - 金多遂(新羅29代王弟)
実は,山科 誠『日本書紀は独立宣言書だった』が解明していた,日本史と百済史との融合的な史実関係は,鹿島の分析したこの「朝日古代王朝関係史」の枠組のなかで吟味,議論するとなれば,より理解が進み,研究上の相乗効果もえられる。
e) 佐々克明『「日本国」以前「倭韓連邦から日本国へ-』1980年
この佐々克明『「日本国」以前「倭韓連邦から日本国へ-』(學藝書林,1980年)も,「天皇家の王朝交代表」をつぎのように整理していた。以下は「天皇名」⇔ 本拠地(フランチャイズ)⇔ 備考の順で記す。
1) 神武~ 9) 開化 金官加羅の首露王から鉗知王-9代の投影か-
10) 崇神~13) 成務 新羅系 征服王朝の祖
14) 仲哀・15) 応神~25) 武烈 百済系 百済貴姓真氏の出-辰王朝の裔か-
26) 継体~28) 宣化 新羅系
29) 欽明~38) 天智 百済系 欽明は任那王・仇衡か(鈴木武樹)
39) 天武 天武は新羅貴人・金多遂か
40) 持統~ 日本国初代天皇
以上こまかい点では異同も出るくるが,水野・鹿島・佐々や石渡のいわんとする「日本古代史の真相」は明白である。日朝古代王朝史は百済史の日本史〔ヤマト史〕であり,日本史は百済史の裏面史である。これに尽きるのである。
平成天皇が自分の祖先の1人として,桓武天皇の母が朝鮮〔百済〕系がいる事実に言及したことがある。しかし,日本の天皇家が元来,由緒正しい血統を本当にもっているという歴史を正直に告白したら,「日本史=百済史」即「百済史=日本史」(の絶対矛盾的自己統一性)に逢着せざるをえない。
f) 平成天皇がコクった「ご先祖様には朝鮮の王族もいる」(2001年12月23日,彼の68歳・誕生日記者会見での発言)
平成天皇のこの発言に触れて,今日の結論のための記述に利用しておく。すでに触れたことがある明仁氏の言動であったが,本日のここでの記述にも大いに,それも深く関連する事項であった。
平成天皇は「2002年の日韓ワールドカップ共同開催を契機に,両国民の理解と信頼感が深まることを願う」と述べた。そのさい,とくに「古代日韓間における交流の事実,韓国との縁を強調していた」
具体的には,いまでは平安神宮の祭神に祭られている「桓武天皇(第50代,在位 781-806年)の生母が百済の武寧王の子孫である」ことや「武寧王の子である聖明王が仏教を日本に伝えた」ことなどに触れていた。
さらに,『日本書紀』などには,日本と韓国との人々のあいだに昔から深い交流があった事実が詳述されており,要は「韓国から日本へ移住したり招聘されたりした人々がさまざまな文化・技術を伝えた」という日韓関係の歴史を,いまさらのように,しかもあえて話題にしたわけである。
平成天皇のこうした「歴史的な発言」は,2002 年日韓ワールドカップ開催を目前に控えた時期だったけれども,日本のマスコミには不評だったらしく大きくとりあげられなかった。
g) ただ,3か月ほど経ったころ,Newsweek 誌(日本語版)2002年3月20日号が「天皇が結ぶ日韓の縁」という見出しを立てて,その話題をとりあげたに過ぎない。この画像は少しみにくいが3月20日まではすぐに読みとれる。(本連続の記述中ではすでにこの画像は紹介してあったが)

その記事の内容は「日本人はみな同質で,人種的にも混じり気がないという『自画像』を真っ向から打ち砕く」かのように,「日本人の3分の1から半分が,朝鮮人と血縁関係にあると指摘する学者もいる」と述べている。
註記)『ニューズウィーク 日本版』2002年3月20日号,「天皇が結ぶ日韓の縁」18-23頁。とくに21頁,22頁。
明仁天皇はわざわざ,「万世一系」「単一民族」の神話に浸っていたい日本国民にはとても衝撃的な,そしてまた「家父長的天皇制」を支持するはずの右翼国粋主義集団には不満の大きい話題を,故意にとりあげた〈節〉がある。
なにせ,日本の皇室関係者が「韓国・朝鮮との縁」を公に認める発言をしたことは,いままでなかったのである。
明治維新以来,日本帝国は「日鮮同祖論」を盛んに流布させ,日本が朝鮮・韓国を植民地支配・統治する正当な歴史的事由として利用した。だが,いまとなっては恥ずかしいくらい「やぶへび」であった事実が,明治天皇の曾孫の口を借りてあらためて明らかにされた。
これでは,日本帝国の優秀性・卓越性を,わざとらしく,かつくだくだしく高揚させてきた国粋主義者にとっては,まったくもって,けしからぬ妨害や攪乱にしかならない発言を,しかも明仁天皇がわざわざ放っていたことになる。
かといってまさか,この天皇を「国賊呼ばわりする」わけにもいかず,彼らの観念のなかに控えている国家思想(?)にとって非常に面白くない事実が,現職〔当時〕の天皇の口から飛び出ていたのである。
h) 一般的にいえば,天皇家の人間たちにかぎらず日本人のほとんどは,自分たちが遺伝学的に「朝鮮人の血を引くなどという」「古代から連綿たる歴史的な真実」を想像すらしたくないのである。
そのあたりの歴史の事実をめぐっては,ひたすら口汚く,まるで罵倒するかのように「日本人の先祖には朝鮮人の血統が混じっている」,と非難(?)する「ネトウヨ的単細胞の人びと」が少なからず居た。
韓国の俳優,ペ・ヨンジュンたちなどの韓流スターは,うちの女房がとても好きだといい,しかも大のファンともいっていた事実はさておき,あのゴールド・ジョンイルとかいう21世紀風の北朝鮮式・デブ独裁者ともまた,遠い昔にあっては親戚同士だったなどとは,夢にも思いたくもない。
冗談にもならないけれども,これが,狭窄的で卑小な皇室崇敬意識をもっている,一部の日本の人々の正直な(?)気持かもしれない。
最後に「『百済王の子孫が桓武天皇の生母』明仁天皇,韓日の縁を強調」という記事が,韓国紙『中央日報』に2001年12月23日 21:34,https://japanese.joins.com/JArticle/22347 に掲載されていた。この記事に対する読者側からの感想として,中央日報側が各記事ごとに用意しているものだが,その回答項目・選択肢ごとに寄せられた各数字を紹介しておく。

その後,2025年12月7日になった時であったが,この回答をあらためて確認してみたところ,「興味深い」がひとつ増えて12になっていた。結果,「腹立つ 12」に対する「興味深い 12」になっていた。それにしても,日本人の読者からの回答だと思うほかないのだが,なにゆえ「腹立つ」のか理解しがたい。もっとも,その見当はおおよそつく。
本ブログ筆者はたまにしか,この韓国紙『中央日報』の日本語版を読む機会がない。けれども,どの記事に対するその「読者からの感想」をみても,だいたい「腹立つ」が多いように記憶している。
もちろん,筆者が自分の関心がある記事をのぞいての印象であって,かなり主観的な感想になるが,明仁天皇の言動に関したその感想であっただけに,今回に限ってはいささか〈異常値〉が浮上したか,といってみたらよい場合であった。
『中央日報』が報道した,それも日本・日本人側に関係した記事に対するその感想に限った印象に過ぎないのだが,ともかく全般的には「日本側の採点」は,おおよそ辛いものが多いはずだったものが,この記事の場合はけっこう好意的な反応が多めに含まれていた。
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【付 記】「本稿(6)」の続編(7)は以下である。
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【参考文献】
