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「明治謹製」大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性(5)

【冒頭断わり】 「本稿(5)」は以下の(4-2)承前である。なお,冒頭の画像は戦前・戦中までの日本の国家体制を「図解」してみた一例である。なかでも( )内の機関・組織は制度上,もともと置かれていなかった。内閣と内閣総理大臣の地位は未整備であった。また必要とされたにせよ,本来は余分の存在しての「元老・重臣のこと」の介在が,それなりに重要な機能を担っていた。


 1 水野 祐『日本古代王朝史論序説』私家限定版,1952〔昭和27〕年,『増訂 同書』小宮山書店,1954〔昭和29〕年,水野 祐著作集第1巻『同書 新版』平成4〔1992〕年)に関する論者の関連議論など

【前 言】 「本稿(5)」は,要するに「明治謹製」(簡易に表現するとしたらいわゆるデッチ上げだった)大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性をめぐる考察の,さらなる続編である。

 a) 古式(いにしえだとするこの出所じたいがそもそも不明であったこれ)を真似たつもりだったが,事実:本当はそうとは全然いえなかった,まさに前近代的に半封建的な国家もどきの単なる捏造行為であった。そうであっただけに,それこそ絶えず皇祖皇宗という呪文を唱えながら,1868年に発足させられていた「明治政府(のちの明治帝政)」の本体に注入すべき国家イデオロギー,

 すなわち,旧皇室典範を表地とし,これを指示するための大日本帝国憲法の裏地とが合体させられた形を採り,まさに白日夢ごときこの神聖政治観念体系が正式に1人歩きしだしたのは,1889年(明治22年)2月11日に公布されたのち,1890年11月29日に施行された時からであった。

 19世紀も終わりを迎える時期,主権を天皇に置き,天皇大権や陸海軍の統帥権などを定めた「アジア初の近代憲法」だと,この近代法としての位置づけを称賛する評価もある。

 だが,思えばその総決算が21世紀もこの四半期が過ぎたいまどきになってもまだ,女性天皇はおろか女系天皇は不可だと決めた「新法」の成立(現「皇室典範」の改正ならぬ改悪)は,世界のまともな先進諸国に向けて,

 いうなれば,「わが国は男女不平等国家である事実を『国民の統合の象徴である』天皇」には,女性は就かせないという高市早苗の狂態政権の基本姿勢が,堂々と「国会で決定される形」で「皇室典範改正案」を披露したことによって,いいかえれば,ゴリ押しで麻生太郎一族のためになるように成立していたものの,結局は「国民の総意」にもとづく賛同は,基本的にえられない顛末になっていた。

 b) 篠田博之月刊『創』編集長「高市内閣支持率急落を招いた滅茶苦茶な国会運営,特に皇室典範改正は多くの反発を招いている」『YAHOO!JAPAN ニュース』2026年7月20日 20:54,https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/e23b5c77b75472304c2573127b38fd7d1da8f5b1 が,関連してわかりやすい解説・分析・批判を書き連ねていた。

 本稿の筋書きにとって太い補助線になりうる記事であったので,以下に篠田博之のいいぶん「全文」を紹介しておきたい。長い引用となる。

 市内閣の支持率急落を招いたものは…

 高市内閣の支持率が急落している。朝日新聞が〔2026年7月〕20日付で報じた世論調査では内閣支持率が53%と初めて6割を切ったとされたが,それどころではない。テレ朝系の調査では49・2%,毎日新聞の調査ではなんと41%。つい先日まで6割をキープと報じられていたから,まさに急落だ。

 原因はいうまでもなく,会期末での無茶苦茶な国会運営で,そのひどさが度を超えていた。どうみても民主主義の破壊としかいいようがない。国の基本にかかわる象徴天皇制のあり方にかかわる皇室典範改正法案も,ほとんど議論らしい議論もないまま成立させてしまった。

 国旗損壊罪成立法案も,再審法改正法案も,多くの批判や反対意見があるのに,早期成立を優先して「聞く耳持たず」。どんどん可決成立させていった。普通の感覚を持った国民であれば誰もが疑問を持たざるをえないだろう。
 
 そのなかでも恐らく支持率急落をもたらした最大の要因は皇室典範改正だろう。

 女性天皇を容認する世論に真っ向から反する男系男子に固執した法案,しかも当初は皇族数確保が目的と強調しながら法案成立の過程で皇位継承問題に踏みこみ,女性天皇成立の道をとざすという乱暴なやり方だった。

 しかも衆院では7月10日に審議入りして即日可決,参院では立憲民主党が修正案を提出して反対に回るというので少しはまともな審議がなされるかと思ったら,16日に実質3時間余の審議で可決された。

 「国論を二分する法案」などと事前にいっていたにもかかわらず,議論する時間も与えず強引に可決していくという高市政権のやり方はひどすぎるとしかいいようがない。

 ひどすぎる皇室典範改正に一斉に反発が…

 会期末を控えた段階で週刊誌は『週刊文春』7月23日号「ゴリ押し皇室典範改正が愛子さまを苦しめる」などと一斉に批判した。もともと週刊誌は昨年来,愛子天皇待望論ないし女性天皇容認のキャンペーンを張ってきたから当然の反応だが,ここへきて『週刊女性』7月28日・8月4日号が表紙に「愛子さまは天皇になれない」と見出しを打つなど,批判のトーンをいまひとつあげた感じもする。

 国会ではまともな議論はおこなわれなかったが,国会終盤になって皇室典範改正問題をめぐってはちょっと新たな潮流も現れた。前述したように週刊誌やネットでは,昨年来の愛子さま人気を背景に,女性天皇容認論が多数を占め,与党中心の改正論への批判も「国民の多数が女性天皇を支持しているのに…」という内容だったが,ここへ来てフェミニズムの立場からそれと異なる批判が目につくようになった。

 新たに目に付くジェンダーの視点からの批判

 『週刊金曜日』7月17日号の特集は「皇室典範改正を問う」。巻頭で田中優子さんが「皇室問題の核心」と題して書いている。女性・女系天皇への道を封じる改正であることは「それは確かに問題だ」と断ったうえでこう主張する。「議論の核心は『天皇制はこのままで良いのか』にあるのではないだろうか」「私たちは天皇制のありかたから,議論すべきではないか」

 『女性セブン』7月30日・8月6日号のインタビュー記事で作家・桐野夏生さんはこう語っている。「男系男子に皇位継承を限定する天皇制はもともと性差別的な制度です」「今回の改正案は…制度がさらに男尊女卑的なものに強化されています」

 桐野さんは日本ペンクラブ会長だが,その女性作家委員会が7日に「今一度,ジェンダー平等の理念のもとに再考すべきです」という抗議声明を発していた。

 天皇制とジェンダーの問題をめぐっては,上野千鶴子さんも,『世界』8月号「わたしが女性天皇を歓迎しないこれだけの理由」という原稿でこう書いている。

 「この制度がジェンダー非対称からジェンダー対称になって,女性天皇が実現したからといって,それを喜ぶ理由はフェミニストにはまったくない」と書いている。

 天皇制とジェンダーはそもそも大きな問題

 そもそも天皇制とジェンダーの問題というのは,眞子さん結婚騒動や,その後の佳子さまの一連の行動をめぐって絶えず問題になってきたことだ。大学でジェンダーの問題を学習したであろう眞子さんや佳子さまにとって,天皇制は明らかに時代とずれており,女性に自由を認めない制度だと映ったであろうし,結婚して皇族から離れることがそこからの脱出と見えたはずだ。

 桐野さんが語っているように,もともと天皇制はそういう矛盾を内包して時代と大きな乖離を見せつつあるのだが,今回の法改正はさらに男系男子を根本に据えて,さらに時代に逆行するものだった。

 男系男子に固執する時代錯誤があだに

 もともと極右ともいうべき政治的スタンスである高市総理ならではの改正で,小林よしのりさんらがいうように,彼ら右派は天皇制を守ろうとしているかに錯覚しているが,実は天皇制を崩壊させようとしているというのが正しい指摘だろう。この間,保守派の皇室研究者もごく一部を除いて政府の改正案に反対を表明していたのは当然だ。

 多くの国民が高市首相を支持したのは,「女性初の総理」だからなにかやってくれるのではないかという期待を背景にしたものだったが,今回の皇室典範改正問題が,その期待に冷水を浴びせたのは確かだろう。

 皇室典範改正という象徴天皇制の根幹に手を突っこむなら,せめてもう少しきちんと議論をおこなうべきだ。フェミニズムの視点からの批判も含めて,この問題の議論がもっとなされることを期待したい。

この引用枠内には画像は挿入できない仕組みなのでつぎの画像資料3点を
ここからの枠外に出して紹介しておく

 ★-1『週刊文春』2026年7月23日号(篠田博之・撮影)

麻生太郎と三笠宮のそれぞれ姪に当たる(麻生)彬子の画像が左右に浮かんでいるが
この2人が高市早苗と連携してゴリ押しの悪巧みをしたという情報が流れている

つぎの画像も参照しておきたい

三角関係として⇔で関連づいているこの麻生太郎の親族(血族)が
その別道部隊(隊員)である
皇室の私物化を狙っている
現代に生きる日本中世的なシーラカンスがこの太郎
なお中段の人物たちの顔つきはややとっつきづらいAI的造りである

 ★-2『女性セブン』7月23日・8月6日号(同上)

「差別的」「人間の尊厳を踏み躙るもの」とは
ある意味では「天皇・天皇制」に固有であった問題性

 ★-3『女性自身』2026年7月28日・8月4日合併号,
        および『週刊女性』7月28日・8月6日合併号(同上)

麻生太郎は愛子天皇の実現を阻止しようと必死であるが
この男の頭の中は中世期のゴミが分詰まっているのか?

 以上「他人の褌」を借りた記述段落となった。


 2 このところ,政治屋としての能力や知能や才能を,完全に近いくらい脱落させていた「日本初の女性首相」高市早苗のやることなすことは,そのすべてがこの国をますます崩壊・溶融させるための采配になっていた。この人物は,当人の自覚いかんとははまったく関係なしに,国家「解体業者」に映る


 さてここからはしばらく,昨今日本の国家そのものの「現状=あり方」について筆者なりに,つぎのように論じていきたい。あえて奇妙ないい方をするが,古代史的に想像してみたつもりの日本の姿が,実は「今世紀のこの国の姿」に連なる《なにか》を必要に彷徨させている,というふうに観察することも可能だとみなす議論となる。

 a) 米欧の先進帝国主義諸国に対して19世紀後半,相当に思いっきり背伸びをしつつ,いってみれば亜流帝国主義路線を構築していった「大日本」帝国であった。鹿鳴館時代の明治初期から1945年8月15日の「玉音(!)報道」に至ってしまったさい,負け惜しみを吐きながらも,その「大敗」を認めざるをえなかった「当時の天皇のために存在したかのようなこの国」は,

 敗戦後史も20年ほど経過するころからは,なんと「経済大国」への方途に向かい大いに発展,繁栄していく東アジアの一国となった。しかし,その内実はアメリカ帝国主義にいつも「▼玉」(急所)を握られたままであって,この21世紀が最初の四半期が過ぎた段階になってもなお,「宗主国米国」のしもべである奴隷根性から脱出(エクソダス,Exodus)できない国情が,いまだにいっさい変更できないといったふうな,実に情けない国家体制に置かれている。

 b) 2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災によって惹起された大惨事,東電福島第1原発事故は当初の一時期,この国は「東北地方・太平洋岸地域」を中心にした自国の一部を放棄せざるをえないかのような緊急事態に追いこまれた。

 当時,東京電力の会長勝俣恒久は(女婿の清水正孝が社長に付いていたのだが),その世紀における原発大事故の発生直後,この過酷事故を起こした東電福島第1原発事故現場:敷地から,一斉に撤退するという「国賊どころか」「国家破壊者の立場から大凶の役目」を果しかねなかった。

 しかし,当時の首相菅 直人が当時,その「完全に負け犬になりはてた根性を露呈させた東電の最高経営陣」を,強烈・激越に叱咤,罵倒し,激励したおかげでこそ,東電が現場から逃亡するという世紀の「大恥」が記録されないで済んだ「歴史の顛末」は,特筆大書されるべき価値があった。

 補記)東電関係者が政府(自民党)の関係者は,当時,民主党首相の立場から世紀の記録に残る「超大原発事故の現場」まで出向き,前段のごとき指揮を振るった菅 直人のことを,その後すっかり「悪者化」するという小賢しい工作を重ねてきた。だが,もしも菅のそうした即時対応がなされねば,いまの日本はなかったかもしれなかったという想像力を,原発事故の問題次元に乗せて再考する余地があった。

〔本文・記述に戻る→〕 この国は「3・11」という原発の超大事件発生について回顧すると,だから「第2の敗戦」だとまで指称されているわけで,いまだに「原子力エネルギーを電力生産のために利用する」という「自然科学的な応用に固有である危険性」が,そのほかすべてのエネルギー源とは本源から完全に異質である「理化学的な特性」を軽視しつづけている。

 c)「原子力の平和利用」などという具合に,形容矛盾もはなはだしい「技術観」そのものが元来,能天気の標語であった。それどころか「危険だらけのエネルギーでしかありえないる原子力」を,単に電力生産のために振りむけるという「科学技術の悪魔的な利用」を定着させた,まさしくこの「人類・人間側の浅知恵」こそが,根本からの反省が必要なエネルギー獲得方法であった。

 だが,21世紀のいまごろ,現時点になってもいささかもその心配が絶えないいる問題が,あのチェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)と東電福島第1原発事故(2011年3月11日)に連続するような,その「3発目の大事故」が起きてしまう可能性である。この点は誰であってもとうてい否定できない「確率論的に予見しておくべき懸念」である。

 昔,「原発の安全神話」が盛んに宣教されていた時期にあったものの,その事故の発生確率をゼロに措定(仮定)することじたい,不可能であった。しかも,その確率を驚異的な低水準の数値に設定していた点が,もともと大ウソであるほかなかった事実は,旧ソ連とこの日本の原発が2度つづけて超大事故を発生させたがために,しごく簡単に「反証」された。

 その原発の安全神話はあくまで「はかない期待」であって,確率論の教科書のなかで「原発事故をめぐる確率論的な考察」するとかしないとかいった理論的な言辞とは,完全に無縁のご宣託:おまじないに過ぎなかった。

 d) その現実的・確率論的に全面否定など絶対にできない「原発技術の世界における深刻かつ重大な失敗発生」の可能性が,しかも実際には,原子力という非常なる厄介モノを原因とする事故のそのものの発生の現実となるからには,いまもなお原発を使用しつづけるという基本の態度そのものに固有である「絶対的な危険」に鑑みれば,あの「安全神話」はまさしく,どうしても必要不可欠な「原発への信仰心」であったといえなくはない。

 なかでもとくに,ろくでもなかった発想は,当初は30年の耐用年数を想定(予定)していたはずの原発を,40年からさらに60年までも延長させたことであった。さらにはしかも,その間において稼働していなかった時間の累積は,その期間から除外して耐用年数に振り分けて計算するといったふうに,まさしく,「設備管理の基本原則」さえ完璧に無視した「トンデモ(ない)どころではない原発技術観」が,本当にみごとなまで発露されている。

 そうした発想(現実における技術政策の観点)の問題点は,原発政策に関して断わっておくべき最新の事情であった。そもそも,機械工学そして安全工学の初歩すら,頭から等閑視したこの種の立場はもはや,科学以前どころか常識との別離したごとき,トンデモもきわまった,いってみれば,人類・人間が記録してきた技術史のなかでは「もっとも破廉恥で,傲岸不遜で,専横そのものである」頑迷さを露見させた。しかも,そもそも,そのデタラメさ加減を恥じることにすら無縁の立場にあったゆえ,事態は深刻だと表現して済まされるわけがなかった。

 e)《悪魔の火》を燃料に使い電力をえるための原発は,電力生産の方法論として科学技術の観点から評価すれば,もっとも割りの合わない装置・機械である。この事実はすでに,核燃料サイクルの成立・実用化の至難さをもってすでに実証済みであった。だが核兵器の生産・保有と直結する技術体系を裏地的に維持させるためには大いに有用である原発は,どの国でも一度利用し出すと,どうしても「止められない」技術実情が生まれる。

 ドイツは2023年4月15日,すべての原発を廃炉にしていたが,原爆(核兵器)関連の研究・工業部門を完全に廃絶させたわけではない。この事実は報道されにくい内容であって,原発の廃止に比較したらごく小さいあつかいしかなされなかった。

 日本は,核燃料サイクル関連施設をいつも建設中だという事情を抱えながら,前世紀から今世紀の現在まで,その実際の稼働は実現させえないままにきた「過去歴」を記録しつづけてきた。

 同施設は,実に壮大なる国家予算の無駄遣いを,いまもなお延々と持続させている。その裏事情に言及するとしたら,要は,核兵器保有への願望がむき出しになっている日本の欲望は,いまさら格別に強調して指摘すべき「日本の政治」の一端でもなかった。

 f) 21世紀の現時点になってみれば,しかも2022年2月24日に「ロシアのプーチン」が開始した「ウクライナ侵略戦争」が,いまだに終結しないまま進行中である。おまけに2026年2月28日には,あの老人痴呆症を発症させたがごとき「半狂乱のアメリカ大統領」が「イラン戦争」を開始したために,燃料・エネルギの需給関係に大混乱が発生させられてきた。

 宇露戦争の現状に関しては,つぎのような最新の報道がなされた事実を挙げてから,本日の「本稿(5)」に話題を戻すことにしたい。前後する記述のあいだをいくらかは橋渡ししているはずの記事である。

     ★[ウクライナ侵攻]原発変電所標的か 
             ウクライナ ロシアが集中攻撃 ★

  =『沖縄タイムス』2025年11月10日 3:57,
        https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1710004=

【キーウ共同】 ウクライナのインフラ施設に7日夜から8日朝にかけてロシア軍の集中攻撃があり,ウクライナのシビハ外相は8日,同国のリブネ原発,フメリニツキー原発に電力を供給する変電所が標的になったとの見方を示した。国際原子力機関(IAEA)に緊急会合の開催を要請するとした。


原発・変電所が標的か


 3 鈴木靖民『増補 古代国家史研究の歩み-邪馬台国から大和政権まで-』新人物往来社,昭和58年における議論(および評価)


 水野 祐『日本古代王朝史論序説』は,『記紀』の天皇崩年干支・諡号(おくり名)を中心に,まことに詳密な分析により,いわゆる三王朝交替論を繰りひろげた。

早稲田大学文学部教授であった


 序論は「吾が皇室は初代天皇以来『万世一系的神聖皇統』が継承せられてゐたといふのは,史実に反する」とし,

 「吾が古代に於いても,少なくとも大化改新以前に既に血統を異にする3つの王朝が更迭してゐると思われる。その3王朝は互いに系譜的には無血縁関係にあったものと思はれる。それが血縁関係に於いて一系的に説かれるに至ったのは,律令制官僚統一国家機構確立機に於ける,社会秩序の基本を系譜的なものに求めんとした,系譜的擬制に基づくものである」と指摘した。

 その3王朝の構成における主柱は,以下のとおりである。

 註記)前後して,鈴木靖民『増補古代国家史研究の歩み-邪馬台国から大和政権まで-』新人物往来社,昭和58年,115頁,116頁。

  イ) 古王朝の呪教王朝として「先王朝から崇神王朝」。天皇は不詳から崇神,成務,仲哀へ。

  ロ) 中王朝の征服王朝として「仁徳王朝から後仁徳王朝」。天皇は(応神),仁徳,履中,反正,允恭,軽,雄略から飯豊へ。

  ハ) 新王朝の統一王朝として「継体王朝」。継体以下の各天皇。

 水野によるこうした考察は,それまでの研究を大幅に推進し,古い時代の天皇の諡号を後世の反映とみなすなどの方法はもとより,またそれぞれの王朝論についても学界に甚大な影響を与えた。日本古代史の全体にわたって,王朝交替論を展開した研究は水野以外にみあたらない。

 ところで,明治天皇と大正天皇の2人の場合だと,はたして関心じたいからしてあったのか不詳な話題になるのだが,昭和天皇は天皇家にとって1代目「神武天皇」の実在を信じていて,自分はその子孫だと本気で思っていたゆえ,まともな歴史感覚の持主には理解不能。

 その種の話題は,神話の世界に親和性を強く抱いていた裕仁の皇室神道的な信仰心の発露に関連していた。この人などとその後の天皇たちも,日本国憲法をもってこの国の象徴になっているというだから,前段のごとき事実を本気で聞ける人であれば「即座にのけぞる」気分になるのは,当然・必至であった。


 4 井上光貞『日本国家の起源』岩波書店,1960年における議論


 水野 祐の所説は,ひとつの大胆な,しかし示唆的な見解である。

 皇室系図は応神まで〔さかのぼって〕はほぼ信用できるが,水野はこれを一歩すすめて,崇神に始まる王朝,すなわち崇神王朝は,応神に始まるいわゆる仁徳王朝によって滅ぼされた,という独自の構想を立てる。

 さらに水野は,いわゆる仁徳王朝は,北九州に勢力を伸ばしていた狗奴国(くなこく / くぬこく)の東征したものであったと述べる。仁徳から武烈にいたる諸天皇にだけ朝鮮の王号と通ずる独特な名があることは,この王朝が朝鮮系の征服王朝であったことを暗示している,というのである。

 水野説は,その外来王朝は渡来してすぐに大和を征服したのでなく,いったん九州地方に侵入して倭人を征服し,ひとつの小原始国家=狗奴国を形成したのち,何世紀かあとに,九州から興って大和に入り,征服王朝を開いたと唱えた。

 この学説は,三上次男の考えと通ずるところがあり,また征服者を崇神ではなくて応神であるとした点で,江上波夫説と大いに違っている。それは「ネオ騎馬民族説」ともいうべき学説である。

【人物紹介】 

 三上次男(みかみ・つぎお,1907-1987年)は,日本の東洋学者・考古学者,日本学士院会員,東京大学名誉教授,出光美術館理事,中近東文化センター理事長。

 専攻は東洋史(とくに東北アジア史)および騎馬民族国家の研究であるが,東洋陶磁器史が著名である。とくに後者は,東西交流の研究(海のシルクロード)における「陶磁貿易史」を開拓した。

 江上波夫(えがみ・なみお,1906-2002年)は,日本の考古学者,東京大学名誉教授,文化功労者・文化勲章受章者。1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題するシンポジウムで騎馬民族征服王朝説などを発表。

 その要旨は,「日本における統一国家の出現と大和朝廷の創始が,東北アジアの夫余系騎馬民族の辰王朝によって,4世紀末ないし5世紀前半ごろに達成された」と推論している(著書『騎馬民族国家』より)。

識者紹介


 しかし,以上に概略を説明した水野学説は,立論の過程においてところどころ飛躍があるように思われ,その全構想にはにわかにしがたい。とはいえ,応神は征服者であり,九州に興った豪族であった,という2点には同感できる。

 註記)井上光貞『日本国家の起源』岩波書店,1960年,204頁,205頁,205-206頁。

 「騎馬民族説」は,古墳時代の前期と後期が異質である点に確実な証拠を求めようとするかのごとくである。しかし,「後期」古墳文化が4世紀末から5世紀はじめにかけて,応神・仁徳のころ確立したことは,応神・仁徳陵の存在そのものと並んできわめて重要である。

 なぜならば,古墳時代の前期から「後期」への推移は,民族的なるものから大陸的なるものへと,これまであまりにもしばしば問題にしてきた相違のほか,「司祭者的」なるものから「支配者的」なるものへと推移した点も語っている。

 応神・仁徳陵は天皇の墓であるが,ここにいわれているのは地方族長層の墓のことである。地方族長層は,共同体の首長としての性格を脱し,精霊の支配する自然に打ちかちながら,共同体を政治的に支配するものにかわっていったのである。英雄時代はそこでその終末期を迎えたと思われる。

 註記)井上,同書,220-221頁。
 

 5 金沢庄三郎『日鮮同祖論』刀江書院,昭和4年,成甲書房,1978年


 なお,この本の成甲書房版は「新版刊行に際して」という序文を,林 英樹が執筆している。

 日鮮同祖論とは,日本帝国が明治維新以降に徐々に構想しだした「皇統・神国主義の立場」に立つ古代「史観」をもって,1910〔明治43〕年に朝鮮を合併し〔当時は大韓帝国と称していたから「日韓併合」と称された〕,植民地にした東アジア国際政治事情を,正当化・合理化するための理屈を繰りひろげた立論である。

 1929〔昭和4〕年に公刊された金沢庄三郎『日鮮同祖論』もむろん,日帝による朝鮮支配を歴史的に理屈づけるための著作であった。ところが,この日鮮同祖に関する議論は敗戦後,著者である金沢自身によって「間違いであった」と告白されている。

 鈴木武樹(明治大学教授)は,金沢が自分の甥にもらした「不本意ながら『日鮮同祖論』とか『日韓両国語同系論』などで,日本が本元であったと書いたが,ほんとうは逆に思っている」という話を受けて,『日鮮同祖論』を再検討し,金沢がやむなく皇国史観の通説を採ったと思われる箇所に注を付け,現代語訳にして読みやすくしたかたちで出版することを実現した。

 1978年に成甲書房から再刊した同書がそれである。その意味では『日鮮同祖論』成甲書房,1978年は,金沢が旧著の過ちを認め反省した著作に衣替えしたともいえる。

 註記)金沢庄三郎『日鮮同祖論』刀江書院,昭和4年,成甲書房,1978年から,林 英樹「新版刊行に際して」ⅰ頁。

 金沢は「朝鮮は神国なり」と宣言し,「神の国なる朝鮮で神の子として生れた方々が我国に渡来し,神として祀られたことを述べねばなりません。それはまず天日矛(アメノヒボコ)である」と記述している。

 また「私が甚だ不思議に思うことは」「徳川時代の学者が日本から新羅に渡ったということを無理にも主張したのは,神々が高天原からアジア大陸のこの朝鮮を経て,わが国に渡来したという結論になることを快しとせず,極力これを回避したに過ぎない」ことである,とも記述している。

 註記)金沢,同書,〔同所〕ⅱ頁。

 林は「日本が『神の国』なら朝鮮も当然『神の国』であるというべきであり,新羅によって滅亡した百済の遺民を受け入れた倭国は,国名を「日本」とかえることで韓半島から「独立」し,日本書紀と古事記を編纂した。

 この2書は,いわば日本独立の書ともいえ,その編纂者は百済人の安万侶であった。いまの日本の史学界では太安万侶(おおのやすまろ)というが,「太」というのは苗字ではなく尊称であったと思われる。百済は同じ半島内の新羅・高句麗とは敵対し,倭国とは兄弟国であった。

 註記)金沢,同書,〔同所〕ⅲ頁。

 百済〔くだら〕という字は,「クンナラ〔韓国語:큰나라〕」(長兄の国・本国・内地)から転訛した呼び名である。つまり,百済王家と倭王家は血縁関係でむすばれていた。

 白村江(はくすきのえ)の戦いに援軍を送った倭国の斉明天皇は,みずから老躯をたずさえて北九州までいき,百済の国運回復に心労した結果,その地で崩じたという事情も,天皇の実家が百済であったことによると理解するのが合理的である。

 百済が滅んで世がずっと下がったのちも,桓武天皇の母后の和新笠姫(ヤマトノニヒカサヒメ)は,百済聖明王の後裔であったほどである。

 倭王家にも三韓〔馬韓・辰韓・弁韓〕からいろいろの血が混じっていた。

 『三国史記』にも,倭王家から新羅王家に請婚があったので,大臣の娘を王女と偽って送ったと記してある。また,『神皇正統記巻六』には「昔日本は三韓と同種なり」と述べたと,金沢は触れてもいた。

 しかし,皇国史観は本末を転倒しており,現在ではいくぶんか修正されたとはいえ,日本の史家は現在の日本と朝鮮の力関係から類推して,天地開闢の古代から倭が韓(カラ)よりも強大であったかのような錯覚にとらわれている部分がある。

 要するに,林はこう結論する。金沢は戦前の時代でさえ,この『日鮮同祖論』のなかで「上古の韓漢は我国より見て先進国であった……」と明言していた。後進国が先進国を永く統治し,経営することができたのか疑問を抱いて当然である。

 註記)金沢,同書,〔同所〕ⅳ-ⅴ頁。

 以上,金沢庄三郎『日鮮同祖論』に関する林 英樹の解説を踏まえて,この書物を目次をあらためてみてみると,戦前はもちろん戦後まで根強く残っている日本側の皇国史観が,いかに古代史を意図的に歪曲したどころか,故意に転倒させていたかも分かる。

 金沢『日鮮同祖論』は,序説の冒頭でわざわざ「朝鮮は神国である」と断わったのち,第1章の題名を「神国朝鮮」と付けていた。まず「序説」に聞こう。

 「昔の朝鮮は文明国である。わが国から見て特にそうであった」

 「朝鮮を豊国〔とよくに〕とも呼んだかと思われることもある」

 「朝鮮との由来はさらに古く,韓国〔からくに〕の名はすでに天孫降臨の時から九州の地にあらわれている」

 註記)金沢庄三郎『日鮮同祖論』1頁,2頁,5頁。

 金沢はこのように日朝古代史を描いておきながらも,日本が朝鮮をみくだすのに都合のよい記述をつづけて提示する。

 「桓武天皇の治世は朝鮮関係の記録を焼き捨てたのも,皇太后が百済の帰化人の出身であることをはばかったものであろう」

 補注)2001年12月23日,平成天皇の誕生日,この日にもたれた記者会見の場で,明仁がその事実,桓武天皇の「皇太后が百済の帰化人〔正確にいうと渡来人もしくは韓来人〕の出身である」事実を話題にしたところ,日本のマスコミ・メディアの反応はいたって冷たかった。

 というのは,日本人側からすると「もっとも明らかにはいってほしくない歴史の事実」を,当時,天皇であった彼自身の口からいわれたものだったから,それはもうたいそう不愉快事になっていたと推察できる。

 そのときばかりは,ふだんは天皇に対してとなると,なにごとに関しても平身低頭して耳を傾ける尊皇主義者たちが〔そしてくわえては多分,一般の人たちも〕,明仁のその発言を徹底的にかつ完全に黙殺するがごとき対応をみせたのは,意味深長であった。すなわち,ある意味,非常に興味深い光景がそのさい,日本社会の内部では密かに現象していたことになる。

〔記事に戻る→〕 「帰化人がすでにそのようであったから,ましてわが国の人々はこれを潔しとせず,武烈天皇の治世に韓国に派遣され,その復命の日,韓国〔からくに〕の連の姓を授かった物部の韓国の連(姓氏録,和泉国神別)は,韓国という姓が新たに来た帰化人とまちがえられるからといって,その居住地に因んで高原の連〔むらじ:臣(おみ)とともに高位の豪族が保持した称号〕を改めて授かるよう願って許された」

 「昔はまだ見ぬ金銀の国と憧れた朝鮮は,次第次第に人々の心から離れて遠ざかるようになった。今の世間が朝鮮の事に無理解で冷淡であるというのも,その根拠をたどればずいぶん昔のことであるといわねばならない」

 註記)金沢,同書,22頁,25頁,26頁。

 つぎに,金沢庄三郎『日鮮同祖論』,第2章「神国朝鮮」に聞こう。

 「朝鮮は神国である」

 「韓国の始祖がスサノヲの尊であることをもって皇国がこれを治めるべき根本の理由であるとしている」

 「神功皇后の『神の国』・『神兵〔みいくさ〕』・『天皇〔すめらみこと〕』,そして応神天皇8年紀の『天朝〔みかど〕』などは,いずれも韓人がそう呼び始めたものであると論じている(中外経緯伝)が,古事記伝にも『神国と韓人の申せりしも諾にぞありける』といっている」

 「このように日鮮同祖論であることは,すでに先賢が考えていたところで,決してわれわれの創見ではない」

 註記)金沢,同書,27頁,29頁,37頁,45頁。

 金沢庄三郎がこのように,「先賢が考えていた」(!)という逃げ口上も準備して表現した「日朝古代史に関する歴史認識」は,「日本が本元であったと書いたが,ほんとうは逆に思ってい」たと,のちに反省する言葉として表白されていた。

 そうであったとすれば,一方では桓武天皇が百済出身の一族を重用したにもかかわらず,他方でまたその出自を隠そうとして経緯とは,いったいどのように関連づけて理解したらよいのか。

 というのは,日本が倭国という段階を経て飛鳥・奈良から平安の時代へとすすんだころ皇位に就いた桓武は,日本の天皇としての独自の立場をより堅固に確立しておきたかった。

 百済が自分の祖先の国であり,この日本を造ってくれた褥のような母国であったとすれば,なおさらのこと「乳離れ」をしたくも思い,あるいは「父殺し」というべき生物学的な克服の段階を踏んでおく必要もあった。だからこそ,故国の刻印をあえて抹消させるような措置をほどこしたとはいえないか?

 金沢は第1章の末尾で,「朝鮮民族は南面して太陽の方向に進んだが,わが日本民族は日の出の方に向かって東進した」と記述した。

 註記)金沢,同書,60頁。

 前段のごとき記述じたいに限っていえば,日朝関係を秩序づけようとする意図は,簡単に感得できない。ただ,朝鮮から日本へと人びとが移入し,日本国内でも東日本への人びとが移住していた流れを,漫然と指摘するだけであった。

 「日鮮同祖論」はいうなれば,どちらへでも転びうる,危うくもきわどい古代史観であった。けれども,そのころ歴史の順序からいえばあくまで「朝鮮・韓国から日本へ」という流れ=上流と下流の関係が基本であった。

 古代朝鮮の任那においては「倭国が朝鮮を経営」していたとする「朝鮮と日本の国際関係史」観は,無理を承知であえて,本末転倒を工夫行した歴史解釈であった。つまり,それは,旧大日本帝国流に人為的に料理・加工された,いわば「逆転を意図した修正の歴史観」であった。

 結局,「日鮮同祖論」の危険性は,現実と遠くはなれた古代にひとつの幻想世界を造って,そこから自己に都合のよい論理だけをもちだし,それを現実における日朝関係に便宜的に使用したことにある。そして,そこからは現実とはなはだ乖離し,あるいは現実を無視した論調が生まれた。

 註記)金 光林『日鮮同祖論-その実体と歴史的展開-』富士ゼロックス小林節太郎記念基金,1998年,43頁参照。

 金沢「日鮮同祖論」もしょせんは,この「現実無視の論調」に否応なく同和し,歴史捏造の作業に具体的に加担した。ただし,戦後における彼の話を信じるかぎり,戦前の状況のなかで自身も参与した「日朝古代史の改編」に関していえば,これが学問の立場に反する本性をよく自覚していた。

 日朝古代史の事実もまた,文明が高きから低きに流れるという歴史上の必然法則に外れるものではなかった。しかし,日本帝国主義の朝鮮支配のためであれば,為政者の視線に恐怖するあまりか,金沢庄三郎もまた,歴史学者である学問の立場を枉げるほかない軌跡を残してきた。

 金沢も,皇国史観に対して全面的に譲歩する学問を営為した。その負の成果が『日鮮同祖論』昭和4年であった。はたして彼も,「『彼から我へ』の渡来を重視していたが,韓国『併合』に観取できた,『我』中心になる『彼』への圧迫と侵略の実態を見抜くにはいたらず,現実を無視した『復古』の賛美へと回帰する」#) 姿勢を保持しつつ,「戦前体制のなかでの歴史家の任務」を誠実にまっとうした。

 #:註記)上田正昭「『日鮮同祖論』の系譜」『季刊三千里』第14号,1978年5月,36頁。

 というような論旨になっていたので,ここではさらに,吉野 誠『明治維新と征韓論』明石書店,2002年に聞いてみる。

 明治以来,日朝古代史を歪曲・捏造していく「日本帝国の侵略路線」に不可避に発生した矛盾は,なんであったのか。

 戦前体制において,原理的に万世一系という血の継承のほかに正統性をもたない天皇制は,国民統合のイデオロギーとして機能するためには,家族国家というかたちで国民を擬制的な血縁意識のもとにとりこむほかなかった。単一民族国家への志向は不可避であった。

 補注)「万世一系」に関しては前段で,昭和天皇の場合,本当にこの「一系性」を信じており,自分は神武天皇の末裔だと思いこんでいたという事実に触れた。

 この夢物語としての古代日本史をわがもの同然にしえたつもりの,昭和天皇の祖先観念は,まあ,いってみれば「噴飯モノの歴史」理解を,あたかも金科玉条とみなしておかねばならない「不可欠の必要」が,どうしてもあったことになる。

〔芳野に戻る→〕 単一民族国家を大前提にして,日本人がさまざまな出自をもつ多様な要素で構成され,大日本帝国が多民族を包含しているという事実をいかに説明し,どのように植民地支配の正当化を図るのか。

 それが,明治以来における日本民族論にとって最重要の課題であった。しかしながら,単一民族的な家族国家観を崩すことができない以上,民族構成の多様性をそれじたいとして積極的に意義づけることは困難であり,鞏固な統合をめざすとすれば必然的に同化主義を強める以外になかった。

 註記)吉野 誠『明治維新と征韓論』明石書店,2002年,250頁・注44。

 当時なりの帝国主義的な同化主義,つまり他民族に対して一方的に同化を押しつけ強制したイデオロギーは,歴史的にも実証されてきたように,どこまでも “擬制によるみせかけの同化” 以上に,実りうるものがなかった。いまでも南太平洋のどこかの海洋国では,日本語を話せる人びとがいた小さな島々があったとかいって,喜んでいられるような話題ではない。

 

 6 洞 富雄編『論集パレオ騎馬民族説』大和書房,1976年「解説」


 洞 富雄は本書の「解説」で,佐野 学『日本古代史論』国民社,昭和21年に関連させて,こう論及していた。

 佐野が「日本国家の世界史的意義について」,「明治維新以後に突然かつ初めてはじまったものではない。実は我々の祖先は古代においてすでに世界史に登場していた経験をもってゐる」と,いったとき,「日本渡来の征服種族を蒙古族と推測していた,とみてよいようである」

 註記)洞 富雄編『論集パレオ騎馬民族説』大和書房,1976年,洞「解説」405頁。

 佐野はこのように,明治維新の時代評価にこだわって,古代史における日本の「世界史的意義」という「戦争中に頻用された日本帝国主義者の見地」を強調していた。

 明治の時代を出立させるに当たり日本という国は,それまでの時代とはちがい,世界の政治に直面して行動するための国家価値観を樹立させねばならなかった。その第1歩が,隣国の朝鮮・韓国よりも日本が勝っているという立場を,歴史的視点において実際に証明することであった。

 洞編の『論集パレオ騎馬民族説』1976年が,さらに紹介した喜田貞吉「日鮮両民族同源論」,山路愛山「日本国民史草稿」「上古史総論」「日本人民史」などは,明治の末年に問題となった「日鮮同祖論」に系譜を引くものであった。

 もとより日鮮同祖論は学術上の視点である。敗戦後じきに問題提起され,いまも強い影響力をもっている騎馬民族征服国家説や古代日本を朝鮮の分国をみる説は,同じ系譜につながっている。

 1910〔明治43〕年の韓国併合の前後に日鮮同祖論が盛んに唱えられたのは,日本政府の帝国主義的な侵略政策を合理化するためであった。日本帝国の植民地支配政策に対して,日鮮同祖論が無批判に奉仕する時局便乗ぶりは,当時の職業的歴史学者たちのあわれな姿を露呈していた。

 註記)洞,同書,〔同所〕415-416頁。

 とはいえ,喜田説は「天孫族をツングースの一種である扶余と近い関係にあるとみている」,「中にも高句麗・百済等と最も深い関係を有するものではないか」する点で,日鮮同祖論として筋がとおっている。江上波夫「騎馬民族国家説」もこの喜田説を継承している。

 註記)洞,同書,〔同所〕414頁,415頁,416頁。

 「日鮮同祖論」の基本性格は,東アジアにおける日本帝国の優位性・卓越性を,江戸時代における潜伏的な提唱者である本居宣長や吉田松陰の神国思想を介在させて,高唱するところにもあった。

 しかし,日朝古代史まで歴史を遡及させて両国国際関係史的な視座で,神話的な領域まで追究していくと,日鮮同祖論の同根領域が日本側ではなく朝鮮側からこそ,生出していたという現実史を認めざるをえなくなる。

 しかし,それでは,明治以来の帝国日本を進展させていくうえで不都合・不具合である。それゆえ,歴史学は,国家の目的=必要性に即して柔軟に適応する性格・立場が求められざるをえなかった。

 「神道は祭天の古俗」などと久米武邦のように断定してしまうと,神道の近代的な復活を帝国主義の露払いの道具に使うことにした明治政府にとっては,身も蓋もなくなる。だから久米は,明治政府からひどいあつかいを受ける目にも遭っていた。

 日本帝国は「文明開化」「殖産興業」「富国強兵」を推し進めると意図したものの,そこでは「神国日本」「天照大神」「明治大帝」とかの,いうなれば,国家的次元における「神学論争的な物材」をも,「共存共栄的に混在させて進行してゆかなければ」ならなかった。

 そうだったとなれば必然的に,ひどく「摩訶不思議的にであっても,ともかく疑似政治的たらざるをえなかった」「奇妙奇天烈の近代風の立国体制」が,当時は当時なりに出現したことになる。

 7 神功皇后の荒唐無稽について


 金 一勉『天皇と朝鮮人と総督府』田畑書店,1984年は,「神功皇后の新羅征伐」がやがて「神功皇后の三韓征伐」となり,さらに「神功皇后の朝鮮征伐」へと発展していく論理の飛躍ぶりについて,こう批判している。

 『古事記』には,神功皇后は新羅へ金銀を授かるために里帰りした,という意味で書かれている。ところが,たったそれだけのことがらが「新羅征伐」⇒「三韓征伐」⇒「朝鮮全土の征伐」となっている。

 ちなみに,神功皇后は,もっとも古い渡来人とされる天日槍(あめのひぼこ)の6代の子孫になっている。その子孫の新羅 “里帰り” は考えられることであるけれども,それが後世にいたって,そのように皇国史観・侵略史観となって偽造されていた。

 註記)金 一勉『天皇と朝鮮人と総督府』田畑書店,1984年,199頁。

 もとより,「日本書紀の神功皇后紀から応神天皇紀にかけての記事が,実際の歴史的年代(絶対年代)より干支2運り,すなわち120年早い年代をあたえられていることを明らかにし,またよく知られた神功皇后の『新羅征伐』が歴史上の事実ではないことを手がたく論証された」とすれば,つぎのような論旨を提示することができる。

 註記)池内 宏『日本上代史の一研究』中央公論美術出版,昭和45年,三上次男「池内 宏先生-その人と学問-」190頁。

 --古代史におけるヤマト王権の支配権は,百済からの渡来人集団が実質で握っていた。

 だからこそ,新羅を征伐したことにする記述を,日本書紀から無理やり読みとったつもりの近代日本が,さらに高じては,朝鮮合併を正当化する理屈を立てるためだったから,時代の自然ななりゆきを一気に逆走させたうえで「朝鮮征伐」にまでいきつくためには,歴史的古書の読みこみにおける〈誇大妄想〉を,大いに膨らませるほかなかったことになる。

 それは,日本帝国に不可避であった国家的な民族イデオロギーの昂揚に煽られての作為であったというよりは,それを意図的に煽るための作為であったから,「歴史が造られていく時系列」はよほど慎重に観察していかないことには,簡単に嘘をつかれる結果は予防できない。


 8 朝鮮歴史書の没収・焼却について


 金 一勉『天皇と朝鮮人と総督府』田畑書店,1984年は,Ⅰ「朝鮮総督府と日本人植民者-憲兵政治の実体-」という題名をもって,「歴史書の没収・焼却」を,こう記述している。

 いくぶん美辞麗句の,いわゆる「合併詔書」が発布されると同時に,朝鮮総督府が設置された。その手足は凶暴な憲兵隊である。その憲兵とは,まさに強盗集団といって過言ではない。

 乗りこんできた総督府の統治とは「憲兵政治」のことだが,その最初の仕事というのは,朝鮮人の家々を襲って歴史書を奪取して焼却することであった。それは「合併」から4カ月後の11月ごろからである。

 総督府寺内正毅は,朝鮮人をすみやかに “完全な奴隷” の状態に追いこみ,朝鮮の民族性を奪い取る意図のもとに,まず朝鮮の古典とか歴史書の焚書にかかった。

 寺内総督は憲兵・警察を動員して,ソウル鐘路一帯の書店を襲い,全国各地の書肆,郷校,書院,旧家,上流階層の家を急襲して,朝鮮に関する歴史書,武勇伝,忠義録,偉人伝など略奪し,それを焼いた。その数は約20万冊といわれる。

 註記)金 一勉『天皇と朝鮮人と総督府』田畑書店,1984年,29頁。

 補記)2022年2月24日からロシアが始めたウクライナ侵略戦争は,プーチン風の大ロシア帝国思想史仕立てになる「発想」にしたがえば,ウクライナ側には,存在に値する国家の枠組,歴史と伝統,制度と文化,はては民族や人種そのものも存在しておらず,

 だから,ウクライナを絶滅したあとには,ロシア側のそれらをもって充填すればよいという程度の,非常に荒っぽい,超高度の侵略国家イデオロギーをもって提唱されうるごとき「独善・傲慢・専横・固陋の政治観念」しか有していなかった。

 ロシア側がウクライナに対して攻撃する戦法は,国際法違反などお茶の子さいさいから始まり,人権蹂躙の民族・人種差別どころか,生命の抹殺まで織りこんだ,だから彼ら側が相手国を批判するさい常套語として濫用される「ナチ呼ばわり」は,どちらが善い・悪いなどという以前に,

 自分たちの得意文句にする非難・罵倒のための用語・標語を,絶えず常用するといった,古ロシア帝国ばりの,封建遺制を丸だしした非人道的な,それこそ “悪魔を手本にした” かのような,人権侵害を国家次元にまで拡大再生産させたがごとき罪業を,平然と重ねつづけることができる。
 
 ロシアがウクライナへの侵略戦争をもっておこなっている,隣国の歴史・伝統・文化・風俗・習慣などの,つまり全体性に対する否定観は,かつて大日本帝国が旧韓国・朝鮮に対面したときに,あからさまに顕示・強行した「隣国の存在を全面否定する」植民地政策とも,共通の思惟に立脚している。

 だから,その「大日本帝国の朝鮮観」は,つぎのように正直に表現されてもいた。

 日帝は,古代からの伝統であった「朝・日」間の国際関係史に厳在してきた「優劣関係の継続」「その視覚的な具体的な明示化」を,ひどく嫌っていた。

 金沢庄三郎「日鮮同祖論」は,「日本と朝鮮と並べて」となれば,そのどちらの国が古代史からの大本になるかといったら,「日朝古代史に関する歴史認識」は,自分は「日本が本元であったと書いたが,ほんとうは逆に思ってい」たと,のちに反省していたくらいであった。

 そこまで話題が進んでの問題討議となれば,もうなにをかいわんやの次元に論点はすでに昇華してしまっていた。

 「戦前:当時のいま」における旧日帝的な隣国観は,朝鮮人の精神構造を徹底的に貶め,完全に骨抜きにしておくためにも,朝鮮の歴史・文化を徹底的に抹消・破壊しつくしたうえで,日朝関係において日帝に都合のよい歴史の側面だけを捏造・創作しておくことを,心底から欲求した。

 その意味でも,日朝古代史をめぐる「歴史観の換骨奪胎」のために日本側が蓄積してきた諸行為は,日本帝国による侵略行為の合理化にとって,必要不可欠の基礎作業であった。

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 【断わり】 「本稿(5)」の続編(6)は以下である。

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【参考文献】


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