「明治謹製」大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性(2)
【断わり】 「本稿(2)」は以下の「(1)」承前であるので,できればこちらをさきに読んでもらえると好都合である。
0 最初に,本日の報道-『毎日新聞』2026年7月18日朝刊1面と見開きで2・3面を紹介する

このような結末が生まれるように画策してきた

日本はタコイチ政権流のアホエノミクス運営で
いよいよ沈没船も同然の国家になりつつある
高市早苗は首相としての仕事・役目を担える能力がないことだけは明確になったいま
政治も経済もよく理解できていないこの首相がしかも「オンナの立場」から
わざわざ女性・女系天皇の登場可能性を排除した指導性はカリカチュア以前の〇〇芝居であって
この国の品位・品格をあたかも地に叩きつけるようにまでして貶めた
世界は日本をどう観ているか?
先進国とはもういえなくなったこの国は,「明治謹製ならぬ,つまり実質で,完全に似て非なる・疑似の古制」のつもりであったが,「女性・女系天皇」の可能性を排除した「男女差別(ジェンダーギャップ)」を,昨日(7月17日)の参議院国会で正々堂々(!)と可決した。
全世界に向けてこの日本は,わざわざ「女性は天皇にしない国だ」と宣言したことになる。これは,大恥(赤恥・青恥を問わない)を晒したことになる。だが,その意識を完全に欠落させていた事実からして,まったく恐ろしいほどに「低空に飛行する水準の人権感覚『国』である事実」を,嬉々(鬼気?)として告白したことにもなる。
けれども,ジェンダー差別など屁ととも思わず,参議院でも今回のより明白にしていながら「恬と恥じないでいられる」その態度がまた,末恐ろしいくらいの人権意識の無感覚を披露したからには,国連からは早速「日本はナニやってんだ!」という勧告(非難・批判)が飛んで来るはずである。
【参考記事】
1 東京国立博物館に小倉武之助が寄贈した朝鮮遺物:『寄贈小倉コレクション』
この1の記述は,舘野 晳編著『36人の日本人 韓国・朝鮮へのまなざし』明石書店,2005年,南 永昌稿「小倉武之助-善意の仮面を被った朝鮮遺物のスーパーコレクター」を参照した内容となる。この種の人物はいったい,どのように歴史において評価されるべきかが問題の核心となる。
a) 東京国立博物館は,1981年に財団法人「小倉コレクション保存会」が寄贈した1030点の朝鮮文化財を,国有品として所蔵している。
このなかには,高句麗・新羅・百済など朝鮮三国時代の古墳から出土した金銅透彫冠帽,金製太環式耳飾などの重要文化財指定品が8点,青銅器時代の獣文飾板,騎馬人物土偶など重要美術認定品31点が含まれている。そのいずれも原所在地の朝鮮に残されていたならば,国宝に指定され,民族の貴重な文化遺産として末永く守り伝えられるべきものである。
国立博物館が1982年に発行した『寄贈小倉コレクション目録』は,「朝鮮遺物としてこれほど広範囲な,しかもここまでまとまったコレクションは他に類のないもの」であり,朝鮮・日本・中国の関係を考古学的に研究するには「まことに多くの事柄を語ってくれるものが,はなはだ多くまことに貴重なもの」と称賛している。
その目録を一覧すれば,膨大な数量に圧倒され,考古遺物のみならず書画・工芸品・生活道具など,実に多彩なコレクションであることに驚かされる。また,コレクターの貪欲な収集意欲と執念が伝わってくる。
b) このコレクター(収集家)が小倉武之助(1870~1964年)である。小倉は1904〔明治37〕年に朝鮮に渡航した古参の日本人植民者であり,現地で電気会社を興し「朝鮮の電気王」ともてはやされた人物である。
植民地での事業成功者としてしられ,他方で豊かな財力を駆使し,宗主国民としての権益を振るって朝鮮文化財を漁った人物である。
小倉は「遺物の『散逸』を防ぎ,歴史・考古学の資料に供するための善意の取得だというのだ」が,「小倉のいう動機なるものが,偽善に満ちたきれいごとであることは,その後の収集品の扱いをみれば歴然としている」
「みずから積極的に収集したといいながら,収集方法を非難する人には『現地の朝鮮人が売りこみにきたので買ってやったまでのこと』と弁解している。〔しかし〕小倉が収集の捕獲網を広げるため,電気会社の支店・出張所を収集窓口にしていた事実からも,その弁解を額面どおりに受けとることはできない」
「たとえ,一部の朝鮮人がもちこんできたとしても,入手経路に不正疑惑のある(盗掘品)歴史的遺物を金銭で購入する行為そのものが不法行為だからである。それ以前に朝鮮民族のかけがえのない民族文化遺産を金銭取引の対象にし,骨董趣味で所蔵するのは,朝鮮民族とその文化に対する冒涜行為にほかならない」
小倉コレクションの大半は,新羅・百済・高句麗など朝鮮古代国家の古墳から出土した考古遺物である。市中に出まわっていたこれらの遺物は,間違いなく盗掘品であった。
c) 当時の朝鮮総督府は(総督府自身も文化財の最大の略奪者である)朝鮮人にきびしく,日本人にはザル法であったとはいえ,遺物の所持と届出をとりしまる「古蹟及び遺物保存規則令」を制定し,施行していた。とくに古墳の盗掘は現金はもちろん,出土品の深刻,遺物の移転と処分に当たっては,「警察処長を経て朝鮮総督府に許可を求めること」としていた。
小倉の収集行為は,この規則にも抵触する不法行為であった。現地の朝鮮人の証言によると,小倉は「白昼堂々,人夫を引き連れて古墳の盗掘を敢行した」という。彼は炭坑経営もしていたから,採掘のプロである坑夫を使ったのかもしれない。
小倉は遺物の「散逸を防ぐ」どころか,敗戦(1945年)直後の10月に,早々と密航船で日本に引き揚げている。小倉は敗戦前から東京湯島出張所の堅固な倉庫に,収集品を運びこんでいた。その口実は大邱で収集を競っていた日本人医師が,小倉の収集方法を中傷するので,わずらわしくて日本に運んだというのである。
まさに「散逸を防ぐ」どころか,その〔逆を地でいったところの〕張本人であった。帰国後は千葉県成田に居を定め,敷地内に収集品倉庫を建て,秘かに収集品を保管していた。彼はとてつもない朝鮮遺物のコレクターのそぶりはまったくみせず,そのことをしる人も多くはなかったようである。
小倉の旧宅を調査した松本松志は,住宅の一角に「貴重な文化財が人知れず20年以上保管されていた事実はまったく忘れ去られており」,地元の公共機関にも記録がほとんどないと書いている。小倉コレクションの全貌が明らかになったのは,それが東京国立博物館に寄贈されてからである。
かつて「有数の朝鮮遺物蒐集家」と自負した彼が帰国後は隠棲に近い生活を送り,沈黙を守ったわけは,本人のみがしるところである。あえて推測すれば,追及されると不都合なことがあったからではないか。ただはっきりいえるのは,小倉にはなんの罪の意識もなく,反省心もなかったということである。
d) 韓国紙〔『韓国日報』1994年3月27日付〕のインタービューで,小倉は自分の収集品を韓国に返還する意思はなく,むしろ大邱の旧宅に遺してきた4千余点の消息のことを案じている。
日本帝国は,朝鮮人の文化と歴史を抹殺するため国家的に文化財の破壊・略奪を強行したが,小倉の事例は,まさに公権力の略奪に便乗した民間人による不法収集の典型といえる。
東京国立博物館が所蔵する『寄贈小倉コレクション』に関しては,韓国の国立文化財研究所「海外所在文化財調査書第12冊」として『小倉武之助コレクション韓国文化財』(2005年10月)という冊子が公表されている。
これは,韓国の国立文化財研究所が日本の東京国立博物館の協力をえて,韓国「国外所在の韓国文化財に対する学術調査事業の一環として,1999年から2002年まで4次にわたって実施した」「日本の東京国立博物館所蔵小倉コレクションの韓国文化財に関する現地調査の内容を収録したものである」
日本の公的機関が所蔵することになった「過去に朝鮮から略奪された文化財」ではあっても,今日的な視点に徹して「過去うんぬんを口にはしない」のが,その「海外所在文化財調査書第12冊」としての『小倉武之助コレクション韓国文化財』である。
この報告書を読むかぎりで受けた印象をいえば,小倉武之助はかぎりなく朝鮮・韓国の文化財保護のために尽力した日本の民間人篤志家ということになりかねない。つまり,歴史のなかで小倉が果たしてきたという話を鵜呑みにしたら,「朝鮮文化財の保護」の本旨を破壊する行為をしてきた小倉の人生を美しくばかり描くほかないことになる。
e) 前述,南 永昌稿「小倉武之助-善意の仮面を被った朝鮮遺物のスーパーコレクター」(舘野 晳編著『36人の日本人 韓国・朝鮮へのまなざし』明石書店,2005年)が指摘・批判するとおりであって,小倉の私人としての朝鮮文化財の強奪・窃盗に近い歴史的な記録は,けっして褒められるべきではない。
〔かつまた〕それでも結果的に,朝鮮文化財が日本の国立博物館に収蔵されることになったからといっても,その歴史的な経緯に充満していた国際犯罪的な収奪行動が許されるわけはない。
アジア・アフリカの文化財が欧米の博物館に所蔵されてきた歴史を回顧するまでもなく,こちらの方面においては日本帝国も,公私を問わず,熱心に先輩帝国主義の収奪路線を忠実に後追いしていた。
「古代朝鮮王朝の発掘物・出土品」をみた日本人が,「これはエジプトでの出土した財宝に匹敵する」とまでいった。帝国主義の時代に日本は朝鮮からそれほどの文化財を奪ってきたのである。
f) 以上の記述に関しては以前,「日本への流出文化検証 高麗博物館が展示・講演」という公演会の開催があった事実を,追記しておく。その案内は後段の引用枠内に掲出しておく。
いまから17年前になる。高麗博物館(東京・新宿区)の企画展「失われた朝鮮文化遺産-植民地下での文化財の略奪・流出,そして返還・公開へ」が,その年〔⇒2009年〕11月29日まで,同館で開かれていた。
日本の博物館や美術館,大学所蔵の朝鮮文化財は2万9000点ともいわれ,個人コレクターの所蔵を含めると,その数は計りしれない。多くは植民地時代などに,不法に日本へもちこまれた。同展では展示パネル(約35点)や関連書籍,資料を通して,朝鮮文化財の歴史的経緯と現状,今後の課題を検証していた。
李 成市早稲田大学教授の講演「近代朝鮮の啓蒙史家と総督府の文化政策」は,26日14~16時 / 信濃町教会(JR信濃町駅)。参加費1000円(予約不要)。
開館12~17時。休館月曜・火曜日。入館料400円。中高生200円,小学生無料。問い合わせは同館(℡03・5272・3510)。
註記)以上は,前段の枠外「本文・記述」も含めて,在日本大韓民国民団中央本部発行『民団新聞』2009年9月2日,http://www.mindan.org/search_view.php?mode=news&id=11699 より。
2 「帰化」・渡来人の日本受容をめぐる歴史概要について
a) ここの話題は,つぎの引用から始める。
「応神より雄略を経て,大化改新を終え,奈良朝直前にいたる期間において日本は,異種族異人種を融合して,単一の日本民族を鋳出すことに成功し,朝鮮動乱を避けて移住し来った帰化者,後漢滅亡後の紛乱を避けた大陸からの渡来者らを,天孫族を中心とする大和民族が,その抱擁力と統制力とで,あらゆる異種的なものを政治的に統一して,未来ゆたかな一民族を鋳出したのであるが,それと同時に,日本は,その帰化,渡来民族によってもちきたされた文化に恵まれたのであった」
註記)金 正柱編『韓来文化の後栄 中巻』韓国資料研究所,1962年,〔藤沢衞彦「韓来文化の歴史」〕137頁。
前段の記述は,日本への渡来文化を韓来文化と称する識者,金 正柱の編著が「韓来文化」と称する認識方法,いいかえると,そうした歴史観をもって表わした編著『韓来文化の後栄』という書物(全3巻)をもって,韓国(朝鮮)から渡来した文化を,日本があたかも「韓半島(朝鮮半島)を母親の乳房」(垂乳根という言葉もあったが)のようにして,滋養をもらってきた視座に立脚して書かれていた。
もっとも,この編著・記述のなかには「帰化」という用語も出ており,論旨の徹底において編者である金 正柱の方針が徹底できているのではない。執筆者が日本人であれば,そしてこの全3巻になる書物が公刊された時代であればこの制約上,「天孫族を中心とする大和民族」が「朝鮮動乱を避けて移住し来った帰化者」をウンヌンという話法にならざるをえなかった。
前段に引用紹介した段落の記述は,古代史歴史学の採る視座によっては「オセロゲーム」のように,その石(=物語)がいくらでも裏返しの中身に急転しうる点に留意が必要であった。なお,直前に出ていた「朝鮮動乱」とは,現代韓国・朝鮮史にくわしくない人でも容易に,1950年6月25日に北朝鮮が起こした「朝鮮戦争」を思い浮かべる。
韓国では「朝鮮戦争」という史実は「韓国戦争」とか「6・25戦争」とも呼称しており,ときには「韓国動乱」と表現してもいたので,前段の大昔の古代史に関した「朝鮮動乱」という用語にいきなり接したいさい,歴史概念的に倒錯が生じないではないので,注意したい。
さて,ここでの話題は古代史から一気に,明治時代にまで下ってくる。話題は「明治天皇すり替え説に関する高橋信一の批判」にひとまず聴いてからの議論に転じる。
b) 明治天皇すり替え説については高橋信一が,その説じたいが自作自演の陰謀説と主張している。明治天皇の大室〔寅之祐〕氏が「南朝の落としだねだ」として,戦後に熊沢騒動で対立構図を作ったという。しかし,この認識を高橋は「認めることはできない」と断わり,また熊沢〔寛道〕問題は,小さな事件ではあっても本質的な問題にはなりえない,と評定している。
この熊沢問題は戦後,マッカーサーが裕仁天皇に対して放った嫌がらせのカードであり,駆け引きに使っただけだ〔と高橋信一は〕指摘もした。問題は,明治天皇がすり替えかどうかである。たとえば,彼がいつの間に馬に乗れるようになったのか,いつから相撲好きだったのか,どうして死ぬ間際に南朝を正統としたのか〔などから湧いてきて当然〕である。
補記)ここは分かりにくい記述なので説明しておく。明治天皇睦仁は前代の孝明天皇の息子であるが,乗馬したことはなく,相撲を取るような若者でもなかったので,このような疑問が当然残されたままであった。ここではつぎの表を参考にまでかかげておく。

「香ばしい」という感想を述べるべき対象にするのか訊きたいところである
「北朝ではなく南朝が正統」だと,睦仁が死ぬ寸前にいったのであれば,明治維新史以降における日本の近現代史のなかでの「南北朝論争」は,明治天皇が棺桶に入る前に,まるで「ちゃぶ台返し」よろしく引っかきまわしたことになる。
〔記事・本文に戻る→〕 私〔高橋信一〕も鹿島〔曻〕氏の説により,大室寅之祐が南朝の落としだねと信じていた。しかし,これはガセであり,単に被差別部落の男だったのが真相のようだ。〔だが〕明治の首脳たちはそれを十分承知のうえで,お飾りとして利用したのだ。もちろん,生まれた子供たちが明治天皇の子供だと思うのはロマンチストだけだろう。
註記)以上の記述は,http://mayonokuni.web.fc2.com/kenkyu09.htm,2009年7月31日検索による。ただし,このリンク先住所の文章(記述)には標題関係の表記が皆無である。
ここでは参考にまでとりあえず,その最初の書き出し部分を引用しておく。それは「高橋五郎氏の『天皇の金塊』,あっという間に読み終えました。」という文言である。
上のリンク先住所は,本日 2026年7月18日にもあらためて検索してみたが,閲覧可能のリンク先住所であった。ただし,あいかわらず〈記述の基本情報〉が判明しない体裁のままである。
そのの明記がないから当然であるが,読むほうの立場としては困惑させられる。引照用の典拠も明示されておらず,文章じたいの信頼度を揺るがす要因となりかねない。ともかく困るのは,標題そのものがなにも明記されていないこと。
c) 吾郷清彦・鹿島 曻編『神道理論体系』新国民社,1984年を読む
この本は百科事典のような分厚い書物で,細かい文字で本文690頁,全体で700頁近い。文庫本にすると5冊,2000頁ほどの書物であるが,なかなかおもしろい。この書物の出版には,出雲神社を始めとした全国の神社が多数,費用を出資し協力している。
平成天皇が2001年12月23日,68歳となったこの誕生日の記者会見で,日本の皇室と朝鮮半島との歴史的なつながりについて言及した。テレビに出演して日本人は朝鮮半島から渡って来た民族だと発言したのである。明治時代にそのような発言をした者は,間違いなく「非国民」として警察に逮捕され,刑務所に入れられたはずである。だが,現在では,天皇自身がテレビで平然と,そうした発言をおこなった。
註記)その2001年12月23日,平成天皇68歳の「誕生日」の日付に,韓国紙『中央日報』が報じた当該記事は,「『百済王の子孫が桓武天皇の生母』明仁天皇,韓日の縁を強調」という見出しになっていた。
補記)前段の『中央日報』の記事に関連させては,つぎのように解説できる。
平成天皇が2001年12月18日に語ったのは,桓武天皇の生母が百済王の子孫であると,『続日本紀』に記されていることに触れ,韓国とのゆかりを感じると述べた点である。
つまり,宝亀1年(770年),称徳天皇の死によって壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は途絶え,新たに天皇となったのは,天智天皇の孫にあたる光仁天皇であった。その皇后・皇太子には,井上内親王と他戸親王母子が迎えられた。
ところが,新天皇のもと順調に進むかとみえた体制が,皇太子が早く天皇に即位しようとして,皇后とともに「のろい」をかけたことから一変した。ただちに,この2人は幽閉され,その地位を剥奪された。
その後,新たに皇太子に擁立されたのが,山部親王,のちの桓武天皇であった。
桓武天皇の父は光仁天皇,母は渡来系の氏族を祖とする高野新笠であった。母高野新笠が渡来系氏族であったことから当初,山部親王の天皇への即位には多くの反対があった。だが,時の実力者であった藤原百川らの後押しもあって皇太子へと進み,天応元年(781年),45歳で天皇に即位した。
〔本文に戻る→〕 本書,吾郷清彦・鹿島 曻編『神道理論体系』新国民社,1984年は,日本を代表する神道学者達が,平成天皇が一例として語った「皇族の祖先には韓国・朝鮮系の人物がいた」という事実に通じる,あるいは,それと同様の「日本人=朝鮮,中国起源説」の実在を理論的に語っている。
日本人が「オリジナルな民族である」という主張が,まったくの誤りであることが,天皇の信奉者によって語られている。
すなわち,「日本人がオリジナルな立派で偉い民族」なので,朝鮮,中国人より「偉く」,差別して良いなどという日本に根深くある差別の根拠となってきた「天皇制」の考え方が,天皇自身と天皇信奉者の神道学者により,「無知から来る誤り」であると否定される。
d) また,天皇が明治時代以降,日本国家の政治指導者となり,第2次世界大戦以降は国家の象徴となったことについて,神道学者の立場から,天皇が政治的に悪用され天皇自身が戦争に加担したことにつき,誤りであることも言及される。
それは,明治から現在までの天皇の「あり方」は,神道の「道」のあり方として間違っている,という非難である。これは,本書『神道理論体系』の出版に資金を提供した多数の神社と神主たちが,戦争に加担し,また象徴となった現在の天皇を,「間違った神道」と考えていることを示している。
補記)この個所の紹介は,つまり「国家神道としての靖国神社の根本的な倒錯性」「神道宗教としての立場として道理の本来的な不在」をとりあげ,批判する『神道理論体系』の立場から批判された,いうなれば通俗論的な日本神道流の誤論・謬説をとりあげたことになる。
〔本文に戻る→〕 また,かねてから神道学者のなかには,明治天皇が西南の役を前後して暗殺され,英国と日本の三菱,三井財閥の「あやつり人形」として,「なんでもいうことを聞くニセモノ天皇」が即位し,日清 日露戦争,第1次・第2次世界大戦をおこなってきた,と主張する者たちがいる。
つまり,昭和天皇,平成天皇は,暗殺された明治天皇に代わった「ニセモノ」の子孫であり,天皇の資格のないニセモノであるというのだ。こうした主張をする学者は,傍流と思われて来たが,本書では日本の代表的神道学者として,論陣を張っていた。
要するに,吾郷清彦・鹿島 曻編『神道理論体系』新国民社,1984年出版に資金を提供した多数の神社と神主たちが,本当の明治天皇が暗殺され,外資によるニセモノの「アヤツリ人形天皇」が即位し,その末裔が現在即位した経緯を理解・把握する点を説明したのである。
本書には,神道を数学を用いて分析し,その世界観を明晰に記述した論文が含まれている。神道が,明晰な数学的思考をもった世界観であることを示した,優れた研究である。
e)「万世一系」「神国」などといった,明治初期に「戦争実行のために作られた」デマを信じ,その裏返しとして「神国」でない朝鮮,中国民族を差別する人種差別に陥るのは,愚かな日本人の繰り返してきた過ちである。
神道が朝鮮の宗教儀礼・鬼道のコピーであり,神道がアジア全域に存在するシャーマニズムのひとつであって,欧州,中国,朝鮮全域を含むユーラシア史の一部としてしか,天皇史と日本史が成立しないこと,それを自覚することが,ユーラシア経済圏の東端の貿易港・日本が生き残るための唯一の「道」,日本の未来であることを,歴史は教えてくれる。
最後に,『古事記』『日本書紀』の記述が,朝鮮の百済国史の人物名を入れ替えただけの偽造文書であり,もともと,固有の日本史など存在せず,日本史が朝鮮史である事を明記しておきたい。
註記)以上の記述は2009年10月30日,http://alternativereport1.seesaa.net/article/50754499.html を,検索したのち,参照しつつおこなったものである。すでに,2025年10月24日時点〔以降〕,不在(削除状態,not found)になった。
3 エドワード・ベア,駐文館編集部訳『裕仁天皇-神話に包まれて-上・下巻』星雲社,平成4年に関していくつかの疑念
この本,エドワード・ベア,駐文館編集部訳『裕仁天皇-神話に包まれて-』の原名は Edward Behr, Hirohito : Behind the Myth で,Hamish Hamilton から1989年に発売され,日本語訳は1992年に公刊されていた。この3の記述は,とくに同書の「日本語翻訳についての疑問」を述べる。なお,同書の翻訳者は駐文館編集部となっていた点は,やや引っかかりを感じさせる要因であった。
a) この本を読みだすとすぐに気づく「ある表現の方法」があった。それは,裕仁天皇に関する記述部分にだけ「敬語」が,それも控えめな程度であるが,「される」「られる」「おられた」などというふうに使用されている点である。
これは,文法的に使役の意味で「される」に限定されたたぐいでの修辞ではなく,明らかに天皇用にのみ充てられた「尊敬の用法」である。日本語の訳書本として読むとき,英語である原書もそのように敬語を使用しているのか調べてみたが,けっしてそのような記述にはなっていない。
第1章「ご幼少時代」とか,同章の小見出しに「ご両親とは別住まい」「ご両親」とか,第2章「ご婚約」,第3章「欧州ご訪問」,第4章「ご成婚」とかなどに,日本語の敬語用法がいちいち配慮されている。
これも原文ではどのような表現であるのか調べてみたが,「ご」に相当する原語はない。あえてうがったみかたではなく,天皇に対して必要以上に異様な程度に,それも不必要でしかないのだが,なぜか〈不敬〉的にならしめまいとした運用にしたかったらしい(?),日本語訳を表現していた。
たとえば,第1章「ご幼少時代」(35頁)に「幼少のころ,裕仁天皇は,祖父の明治天皇の御所で成育された。明治天皇は,日本で最初の近代的な統治者であり,」と訳されている1節は,原文英語をみるとこうであり,英語そのものとしても「敬語風の語感」は,もとよりなにもない。the Court of Emperor は,のぞいての指摘である。
CHAPTER ONE,“As a small child, Hirohito grew up at the Court of Emperor Meiji, his grandfather, and Japan's first modern ruler.”
天皇にかかる述語部分に関してだけは,ほかの登場人物と一線を画し,特別に尊敬の念をこめた修辞で飾った体裁で,意訳的に翻訳していた。英語を日本語に翻訳する段階で,意図的に手を入れ,意訳の範囲を超え出た操作・工夫をくわえ,美的装飾をほどこす故意の作業を恣意におこなっていた。いってみれば限りなく誤訳に近い操作であった。
翻訳は当然,なんらかの一貫した方針を立てての知的作業になるほかないし,これは約束事としてもひとまず,不可欠の作業前提であった。しかし,そのようにまでして,天皇に関する記述部分だけに敬語を充てるやりかたは,公刊される書物として,それも専門的な研究書である,このベア『裕仁天皇-神話に包まれて-』を観察すると,学術性の確保(特定だがある種の公正性・公平性・客観性・中立性などの堅持)に関して問題含みであった,という以上に完全に脱輪していた。
b) 原著者のベアが,日本語の読解力をどのくらい有しているのか不詳である。ベアが英語で書き下ろしている段階からこの訳業に移ってからになるが,以上のように「批判してみた語感」で使われた「表現の方法」は,原著者が日本語の特性として承知するところであったか問うに,疑問が残っていた。
翻訳はけっして直訳そのままではありえず,意訳的な作業がまた必要不可欠な技術になるほかない。そうした要素を,多分に含まざるをえない翻訳である。しかしそうであるにしても,ここまで「原文にない語感」を,訳者が自由(好き勝手)に創造するのは問題ありと判定されて当然である。
翻訳は異言語への表現転換であるという事情の隙間を突いて,その原文にはありえない語感を注入させる,いわば密輸入的な飛躍的な翻訳手法は許されるわけがなく,「基本的な作業標準」からの逸脱であるゆえ,原著に忠実であった翻訳とはいえない。
以上のごとき疑問がよく理解しかねるという人は,逆方向で考えてみればよい。天皇を登場させて議論し,考察する専門書のなかには,まれであっても天皇とこの一族の人物たちに対しては,敬語を使用したがるごく一部のごく限られた場合もないではないものの,一般的な話になれば,
学術論文・著作において先輩の研究者を呼称するとき「〇〇教授」とか「 × × 博士」とか敬称を付ける者は,最近ほとんどみかけなくなった。しかし,いまから半世紀から以前であれば,学術的な著述物のなかであっても,敬称を必らず付ける留意が基本的な礼儀作法であったかのようにして,執筆する学究がいなくはなかった。
筆者は,学術論文・著作のなかでは,言及したり引照したりする相手の研究者の肩書や尊称が,いっさい不要であると指摘したことがある。というのは,日本人学者が外国人の研究者の氏名に対しては,ほとんどそれらを使わない事実に照らしても,そのように指摘してなんらおかしいとかあやしい点はない。
よりわかりやすくいえば,それもしりあいの先輩研究者には肩書や尊称だけでなく,文章の叙述方法まで敬語調になるという不思議,一歩踏みこんでいえば,学究として同じ平面に立っていないことをわざわざ自証するような〈不可解な人間関係〉が,学術刊行物の文面にまでよく出現していた事実は,ついこのあいだにおける出来事であったとはいえ,不可解であった。
c) ベア『裕仁天皇』は,日本政治史に関した学術的な,それも天皇史を描いた専門研究書である。そのなかに昭和天皇が「なになにをされた」「どこそこにいかれた」という修辞を,翻訳作業をした側がもぐりこませるのは,きわめて不適切な変更である。
本書の訳業を担当したのは駐文館編集部であった。出版社としての方針として,天皇に関する記述箇所について「敬語」を充てる『翻訳の方法』を,編集方針として採用したと推測される。筆者はいちがいにこのやりかたじたいに対して異議を申したてるつもりはない。
だが,要らぬ誤解を惹起させること必至である訳書を公刊したその責任は,今後,半永久的に書肆がきちんと背負っていかねばなるまい。ここでは,あえてそのように断定せざるをえない。とうてい意訳になりえていないような跳躍を意味する「その意訳になったら」,本末転倒どころか換骨奪胎にまで橋渡しするごとき,翻訳出版になるほかない。
そのあたりについては,せいぜい慎重に判断してほしいところであった。とはいっても,みかけだおしの尊皇精神にベチャベチャに漬かっている出版元の話題だったとなれば,なにをいっても馬耳東風なりと推察できそうなので,これ以上の注文はつけない。
付言するならば,もっとも基本的かつ重要な疑念は,著者のベアが訳者にそのように訳出させるような「天皇関連への言及・修辞」を,英語そのものの修辞としてもともと記述していたのか,あるいは,天皇に関する箇所は敬語調で訳出するというふうに,訳者側の申し出でも受けてこれに双方が合意したうえでの結果であったのか,などいった現実面のことがらに関しては,もっと冷厳な視線が投じられて当然である。
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【付記】 「本稿(2)」の続編(3)は以下である。
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【参考文献】
