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「明治謹製」大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性(3)

 0 冒頭断わり


 
「本稿(3)」は以下の2稿を受けている。


 1 鹿島 曻関係の天皇・天皇制「論」から,ドナルド・キーンと伊藤之雄のその「論」へ-


 ここでは最初に,鹿島 曻という人物を紹介しておく。とりあえずごくふつうに,ウィキペディア--なお,2025年1月29日 00:41 UTC 版を参照したので,2026年7月19日時点では記述内容に関しては異同もある)に書かれている概説を,のぞくことから始める。

 皇室御用達,現代風に装飾・化粧された皇国史観的な天皇・天皇制に関する,つまり,自称で本史を気どったつもりである「皇室史に偏倚した歴史観」からは完全に離れて自由に,日本古代史を考究・解明した人物の1人として,この鹿島 曻を挙げることができる。 

 この鹿島 曻以外にも,国定・官許的な歴史観を一生懸命に説く,たとえば,伊藤之雄のようなに,鹿島と好対照にある立場を採る人物もいた。この伊藤も人物紹介しておこう。

 伊藤之雄(いとう・ゆきお,1952年9月26日- )は,京都大学名誉教授である。伊藤は結局,旧来の明治史観を根っこでは踏襲したのか,「日本の天皇・天皇制」を,あたかも至上・最善であるかにようにも解釈されるほかない,いわば体制派ベッタリズムからの史論でしか講じていなかった。

 外国人として著名な天皇(明治天皇)研究者としては,ドナルド・キーン(Donald Keene,1922年6月18日-2019年2月24日)がいたが,このキーンは,明治天皇に関する研究を深めた外国人歴史研究家としては,結局,いいたいことのうち「もっとも肝心な部分」を,公に講述することは,賢明にも回避してきた「疑い」がもたれる。

 キーンは,ニューヨークと東京に半年ずつ交互に棲む生活を約35年間続けていたところに,2011年3月11日の東日本大震災を契機に日本国籍を取得し日本に永住する意思を表明した。

鬼怒鳴門=ドナルド

      ◆ キーン・ドナルド- 1922-2019年の概歴- ◆

 ドナルド・キーンは姓を日本語(漢字)でを鬼怒鳴門と表記し,日本国籍取得後の姓名をキーン・ドナルドとした。冒頭ではひとまず,日本文学研究者,文芸評論家,コロンビア大学名誉教授と紹介しておく。

 1922年 ニューヨーク,ブルックリンに生まれる。

 1940年18歳の時,アーサー・ウエーリ訳『源氏物語』に感動。以来,日本文学や日本文化の研究を志し,第2次世界大戦終了後,コロンビア大学大学院で角田柳作のもとで研究を再開,ケンブリッジ大学に留学。

 1953年 京都大学大学院に留学。

 1955年 アメリカへ帰国,コロンビア大学で日本文学を教えながら古典から現代文学にいたるまで広く研究し,海外に紹介。日本文学の国際的評価を高めるのに貢献。

 2002年 文化功労者に選ばれる。

 2008年 文化勲章を受章。

 2011年3月 東日本大震災後,日本国籍取得を表明。

 2012年3月 帰化申請が受理され日本人となる。日本国籍取得後の正式名はキーン・ドナルド。

 2019年22月24日,家族に見守られて逝去。享年96歳。

ドナルド・キーン略歴  

 「キーンの研究概歴」 ドナルド・キーンは,これから論及することになる鹿島 曻が,日本の天皇・天皇制,とくに明治天皇に関して探索・解明してきた問題点,そして,自身が感知しえた「核心の論点」に言及したり解説したり,ましてやその付近に関してさらに控えっせていた自説(おそらくなにかを秘めていた)を,表だって開陳することは,いっさいしなかった。

 というのは,東京は葛飾柴又出身だとされる〈あの寅さん〉が,「それをいっちゃあ,おしまいよ」という名ゼリフ(もちろん映画のなかでの場面での話であったが)を得意にしていたが,キーンのほうでは,日本の天皇・天皇制の研究を深めていく途中で,天皇・天皇制に関して,その「それをいっちゃ,おしまいよ」という勘所を,よく心えていた「外国人研究者」であったことを,ここではあえて明快に指摘しておく余地がある。 

 前段のごとき,キーンの研究内容に関する若干の指摘は,広義の観点からだと,やはり官許製であるほかなかった「彼の学問蓄積」の土台に対しても,妥当するほかない点であった。

 以上に指摘した本ブログ筆者の「問題意識の前提提示」は,鹿島 曻を初めとする,いわば「官許的な歴史観」にはまったく囚われずに自由に,歴史を探索するための冒険精神と,このための自分なりの研究起点をよく踏まえていた人びとの立場の場合に通じる,いわば,しごく当然というか自然な発想に依るものである。

 そうした問題意識じたいを「香ばしい」と形容する人たちもいるが,官許的な学問の存在形態を大事にしていなければ,自身の研究者・学識者としての地位保全に動揺を来たすと懸念しすぎるのでなければ,「歴史学のなかに包摂されてしかるべき《思想史》の存在理由」を,満腔の自信をもっていっさい認めないかぎり,

 神武天皇の末裔であるなどと「明治や大正,昭和,平成,令和」の各天皇たちを位置づける「天皇・天皇制」研究の視点・立場は,「砂上の楼閣」の頂上に立って「蟷螂の斧」を振りまわすだけであって,

 昭和天皇自身が「自分は神武天皇の子孫」だと信じていたごとき,しかもその「自家製の明治謹製」になる「天皇教の熱心な信者ぶり」は,これを批判的な考察の対象にする以外,いったいいかほどに社会科学的な含意がありうるというのか? この種の疑念を抱かぬほうがそもそもおかしかった。

 21世紀になってからの「天皇・天皇制の研究状況」は,その昭和天皇の「明治謹製」式になる皇室神道の歴史本源的な由来に向かっては片目どころか両目を,みずからふさいだような問題認識の圏域から出られないでいる。

 この1の最後で断わっておくが,つぎの皇居内に明治になってから建造された宮中三殿にはそれぞれどのような神々が,どのように神々として祀られているかについて,ごくふつうに理解できている人であれば,

 自分たち(歴代天皇)の祖先が神武天皇どころか天照大神にまでさかのぼれるかのように〈信心している一族〉が,現に日本国憲法の第1条において
「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」と書かれているのだから,まともな日本語力がある人にとっては,まさしく驚くべき内容になっている。

 仏教徒はそれでいいと考え,済ましてきたとは思えない。キリスト教徒はそもそもそれでいいと考えるはずがない。イスラム教徒になると,真っ向から否定するに違いない。民間の教派神道の立場にとっても非常な緊張感をもたらす,その文句である。

 2 中山正暉がかつて国会のなかでこういったのはなぜだったのか? 以下の引用は『国会会議録』から「第147回国会 参議院 国土・環境委員会 第17号 平成12年5月18日」https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/114714314X01720000518 からである。

 国務大臣(中山正暉君) どうも,私なんかも昭和七年生まれでございますので,アバンとアプレ,両方に足をかけておりまして,郷愁があるみたいなところがあるんですね。

 補記)アバンもアプレもフランス語。ここでは,中山正暉が「アヴァンギャルド,Avant-garde,前衛の省略」の「アバン」,および「アプレゲール(après-guerre=戦後)」,戦後派の若者を意味する「アプレ」を指して使っていたことばだが,国会の当該委員会において,すぐには理解できなかった議員たちが,おそらく何人かはいたかもしれない。

〔本文・記述に戻る→〕 しかし,政治家は,政というのは,神と人の心の間をつる,祭りというのはそれが語源だと言われていますが,神様に近づいてもいけないし,人に近づき過ぎてもいけない。神様に聞かれても恥ずかしくないことを人のためにするというのが私は宗教だと思っておりますが,これは行政の場に持ち込んじゃいかぬと。

 政治家が神を信じているかどうか。だから,閣議の前に私は総理にも言ったんです。家の中にもおかみさんがいるだろうと,日本は山の神というのが一番大事な神様だということを最後につけ加えておけばよかったのになと言って,閣議が始まる前に,森総理と私は同期なものですから,若いときから,我,おれでやってきていますので,そういう私は言い方をしました。 

 先生はお若いですから,また余計なことを申し上げて恐縮でございますが,明治維新に,余り一般の民衆は天皇のことを知らなかったようでございます。

 歴代天皇,今まで百二十五代の天皇がおられます。私は,昔,建国記念日をやるときに神社本庁三十五団体に呼ばれまして,何としても二月十一日に建国記念日をやるのならば,ここで神武天皇を言え,それから天皇陛下万歳をやれと言われましたので,私はそのとき言いました。神武天皇にはお父さんもおられたでしょうし,おじいさんもおられたから,神武天皇で切るわけにはいきませんと。

 大分県の国東半島から出た「ウエツフミ」の話を聞いたことがありますが,その「ウエツフミ」の中には,神武天皇以前の七十二代の天皇の名前が隠されているという話も聞いたことがございました。今から二千六百六十年前に橿原宮で神武天皇が即位されたということですが,確かにそれまでの先祖がいらっしゃるはずでございますから。

 しかし,やっぱり英国とかフランスに明治維新は影響されたようで,伊藤博文はドイツに憲法を習いに行っているようでございますが,そのとき,ウィッテに明治維新後の日本をどうして統一したらいいだろうということを相談しております。そうしたら,ドイツの人が,あなた方のところには氏神様というのがあるじゃないか,その氏神様の集中した中心が天皇だと言ったらどうだと。これが大きな間違いにつながった。

 つまり,明治憲法ができる四年前に内閣制度ができておりました。明治憲法の中には総理大臣という名前が一切ありません。今でも大臣と言いますが,大きな臣というのは天皇の臣ということになっておりました。ですから,首相という名前が明治憲法では一切出てきておりません。

中山正暉がこのように語った意図はなにか?

 「首相という名前が明治憲法では一切出てきておりません」という旧大日本帝国憲法内の大問題はさておいての話となるが,「その氏神様の集中した中心が天皇だと言ったらどうだと。これが大きな間違いにつながった」という中山正暉の指摘については,本ブログ内ではすでに紹介したことがある「三土修平作成になる図解2点」を,ここでも参照しておきたい。

米欧型と日本型の相違に注目したい

 これら図解は漫然と観て済ましてはいけなかった中身になっている。2026年という21世紀のいまになっても,とりわけ大手紙やテレビ局が皇室番組で報道したり特集したりする番組は,このような図解に指示されている「天皇・天皇家」と「一般国民」との社会関係的な位置づけ(別言するとこの奇っ怪な決めつけぶり)のなかで,

 すなわち,「天皇と天皇系,この一族」が「一般国民」の上部=頂点に鎮座する「21世紀における日本政治社会」のありようを,それこそ毎日の報道体制のなかで終始一貫した基本姿勢をもって維持・教化しようとしている。

 まさか,「天皇家一族」と「自分たち」が同じ政治社会の次元世界に位置しているなどと思いこめる「日本国籍人」などいるわけがない事実は,上の図解2点が上手にその関係性を描いていた。

 現在はインターネットの時代である。けれども,19世紀末期のころからととのえられてきた「日本国民に対する洗脳態勢」の持続性は,いまの憲法が位置づける国民の政治生活にあっても,つまり「天皇が〔君主ではなく〕象徴として存在する〈国〉」へと変化したなかにあってもなお,「これに統合されるべき〈民〉」が『国民国家』の核心を構成するほかない現状をもってすれば,この国が「封建遺制」の残骸を後始末しえていたとはとうていみなせない「真相」(実際の姿容)を体現したままにある。

        ◆ 福沢諭吉「言論」の明治初期的な限界 ◆

かつて,福沢諭吉が文明化論で説いていたはずの「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らず」という有名は一句ではあった。だが,そうはいっても福澤諭吉は,皇室の存在を否定していなかったし,権力闘争を終えたところに皇室があることで,日本は安定するなどと考えていた。政治は,秩序を整理するための道具にしかないとしていたのに対し,皇室の問題になるとその存在を深く理解したつもりで特別あつかいした。

そもそも福沢諭吉は尊王論者であり,米欧の民主主義がこの国に本格的に普及することは期待すらしていなかった。その点は,諭吉が1882〔明治15〕年に発行した『帝室論』も正直に語っていた。この本は「近代日本思想史」における〈皇室の存在意義〉を論じたの初期の論文の一つであって,その議論はのちに『尊王論』に継続されたゆえ,

福沢諭吉が文明化論で説いた「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らず」とは,ある意味「西洋事情」を解説しておくためにもちだした「便法的な成句」であったに過ぎない。というしだいで当然のこと,天皇・天皇制に対する諭吉の時代認識を貫いていた「天上天下」論も,おのずとそのゆきつく先も高がしれていた。

福沢諭吉「帝室論」


 3 鹿島 曻とはどのような人物か


 鹿島 曻(かしま・のぼる,1926年-2001年)は,日本の弁護士,在野の歴史家である。

 1926年に神奈川県横浜市に弁護士を父として生まれ,早稲田大学法学部に進学し,在学中に司法試験に合格して弁護士になった。弁護士業の傍ら,古代東アジア史,日本史の研究を進めて,独自の史観を展開し,多数の著作を発表した。

 とくに,鹿島の著作の「明治天皇すり替え」説は,インターネットで「田布施システム」と呼ばれる陰謀論のネタ元のひとつを提供した。また,鹿島は,出版社「新国民社」を創設し,自著の多くも同社から出版したが,その事業は2007年に,太田 龍を代表とする新国民出版社に引きつがれた。

 「鹿島史観」とでも呼ぶべき “鹿島が展開した独自の史観” の定説は,以下のように説明できる。

 ★-1 幕末に伊藤博文らが,長州藩の影響力を保つために孝明天皇を暗殺し,田布施村(現田布施町)出身の奇兵隊士,大室寅之祐という人物が替え玉となって即位し,明治天皇となった。以降,田布施出身者が日本を動かしている。この主張についてはとくに,鹿島 昇『裏切られた三人の天皇』新国民社,1997年参照されたい)

 ★-2 『日本書紀』に書かれていることは,古代朝鮮史の出来事の焼きなおしであった。

 「明治維新で,天皇は北朝から南朝に変わった」

 「孝明天皇は,伊藤博文が刺殺した」

 「富士古文書のウガヤ朝51代・月夜見命の家系歴代・須佐之男命の家系歴代は,それぞれ『桓檀古記』の檀君48代「馬韓世家」「番韓世家」の焼きなおし」であり, 「古事記の猿田彦は『ラーマーヤナ』の猿の大群のこと」

 「邪馬壱国は,百済と共同した公孫氏の九州における植民地だった」

 「新羅が,九州の倭国と大和の秦王国を合わせて日本国を建国した」

 「『桓檀古記』の檀君48代「馬韓世家」「番韓世家」は,それぞれ『史記』の「趙世家」「魏世家」「韓世家」の焼きなおし,中国の『史記』は古代オリエント史の焼き直し」(この段落は前出とやや重複するが……)

  「メキシコのマヤ文明が倭人の遺産であること」

 「秦の始皇帝は,バクトリア王ディオドトス,兵馬俑はペルシャ軍団」

 「旧約聖書はバビロン神話の焼きなおし」

 「「魯世家」「宋世家」は,それぞれ「旧約聖書のイスラエル北王国史とユダ王国史の焼きなおし,『斉とエジプト』,「趙世家」はカッシート,バクトリアの歴史,「魏世家」はヒッタイト,キンメリアの歴史,「韓世家」はエラム,バビロニアの歴史。趙魏韓はアケメネス朝ペルシアのバクトリア州・ソグド州・サカ州でもある」

 などなど,世界史の次元にて大胆というよりは地球規模で,独創的な解釈にもとづく自説を展示してきた。

 補記)したがってこのように,地球規模で世界史的な観点から日本古代史からを論じる鹿島 曻の発想・立論・構想・体系のなかでの天皇・天皇制問題のあつかい方となれば,この広大で雄壮な論究のそのまた先に待ちかまえていたかもしれない「地球・世界史的な分析視点」など,並みの知識人・学識者にはとうてい理解がおよぶわけがなかった。

 そうした鹿島 曻への解釈は,なにもオカルト的,陰謀論的,狂想的な共感をともなわねば不可能ではなく,はたしてなぜ,鹿島がこの種の問題意識を抱いて「古代日本史」も,雄大な世界史的眺望のなかで議論・究明してきたのか,という受けとめ方くらいは一度関心を向けても,なんら損はない。

 ★-3 戦前・戦中までの「皇国史観」は明治以来でしかない,それはかなりのまがいものを裏地だけでなく表地そのものに当てていた「古代からの日本史〈創出作業〉」は,明治前半期に伊藤博文や井上 毅が必死になって造形してきた作品なのであって,これをただちに日本古代史をめぐる歴史学的に真摯に,つまり学術的に制作された成果ではありえなかった。

 そのところを「政府・体制側の人士・要人」の履歴・活動ばかりを取りあげて討究してきたドナルド・キーンや伊藤之雄の「明治天皇史研究」が,当初より〈正史に固有である眉唾性〉の混在を完全に等閑視できると思いこむのは,そもそも「歴史研究の視座・立場」に要らぬ偏倚を招来させたも同然であった。

 本ブログ筆者の見立てでは,ドナルド・キーンは明治史の裏舞台にまつわる真相までよくしりえた立場にまで,自分の研究を進展させえていたはずだが,その付近の論点はいっさい触れない。その意味では明治史以来の日本帝国:日本国のためにきわめて有用・有益・有為な学究たりえた。

 だから,日本政府は2008年,キーンに文化勲章を授賞していた。これ以上「いままでどおり本当の日本近代史の事実」に関してしりえた事実は,封印しておいて(ネ)という日本政府側の期待についていえば,キーンはその期待どおりに生き,そして死んでいった。

 われわれは,このドナルド・キーンよりももっとこのキーンらしかった,それも「明治維新期」において,同時にこのキーンのようにだったのだが,日本のために縁の下の力持ちになって非常な支援を恵んでくれた人物をしっている。それは,ギドー・ヘルマン・フリドリン・フルベッキ(1830-1898年)であった。

 このフルベッキは,明治維新の立役者として重要人物であった板倉具視(1835-1983年)を,全面的に助力・助言するいわば「お雇い外国人」の立場,それもあくまで黒子的な支援の立場に徹してきた人物であって,明治史のとくに前半期にあってはこの国の基本設計図を書いた人物だとまで評価されてもいる。 

 ところで,岩倉具視は以前,500円札の肖像画に採用されていたが,つぎのような,1951年から発行の日本銀行券B号券と1969年から発行のC号券があった。

1951年発行の日本銀行券B号券
1969年発行の日本銀行券C号券

 本ブログ筆者が若いとき,この岩倉具視の肖像画が刷られていた500円札を使ったことは,よく記憶しているが,上の1951年のB号券のほうはほとんど記憶に残っていない。

 その話はさておき,筆者にとってとくに気になっていたのは,この岩倉具視の顔:表情であった。はっきりいて「悪者の顔ダネ」という印象しか抱けなかった。だいぶ歳を喰ったころになって,あれこれをなしとげてきた「この岩倉具視の人相」である。現時点から回想してみるに,この歴史的人物がなしとげてきた業績というか,その生きざまは感心できない。

 繰り返すが,そもそも悪者であった人間が「自分の顔の隅々」にまで刻みこんできた「過去の履歴」であるからには,それが他者の視線によく映らないはずなどなかった。その痕跡はあますところなく,その顔面にはにじんでいたのである。この500円札の肖像画に採用されるほどに偉人になっていたにせよ,しょせん,日本銀行券が発行するただの《ごひゃくえんさつ》であった「このお札をみる」たびに,この人の形相はなんて悪相だったのか,という印象を受ける。

 上に挙げてみた新旧の500円札のうちでも旧B券に写っている岩倉具視の人相は,とくにヨリよくない。目線が気になる。旧C券のほうは目線がやや下方に向けられているせいか,その〈悪さの程度〉はやや緩和されているような感じを放つ。

 というしだいなので,AI君に向かい「岩倉具視が実際に犯した悪行を列挙すると」問うたところ,つぎのようにまとめてくれた。本ブログ筆者なりにさらに補正しつつ引用してみる。この人は結局,500円札の肖像画じたいを通じても,以下のごとき過去歴に淵源する悪臭を発散させつづけてきたかのように思わせる。その意味では,21世紀のいまになっても,まだまだ本当にウサン臭いことこのうえない人物である。

      ◆ 岩倉具視の人間的な暗部は否定できない事実 ◆

 明治維新の立役者となった岩倉具視は実は,目的のためには手段を選ばないマキアヴェリ的な政治家であった。彼が実際に,あるいは主導的にかかわった主な「悪行(権謀術数・非道な画策)」は,以下のように盛りだくさんあった。

 a) 1867年,偽の天皇命令「討幕の密勅」の偽造。

 徳川慶喜を武力で打倒するため,大久保利通らと共謀して「討幕の密勅」をみずから偽造・発給した。しかし,天皇の署名や花押はなく,形式的にも完全に異例な偽の最高公文書であった。国家の最高権威である天皇の命令を勝手に捏造した,日本史上の重大な公文書偽造罪に相当する。

 b) 自宅を「裏カジノ(賭場)」にしての資金稼ぎ。

 過激派(尊王攘夷派)から命を狙われ,京都の岩倉村に隠棲(蟄居)していた時期の悪行であったが,下級公家で困窮していたため,自分の邸宅に博徒(ヤクザ)を呼びこんで賭博を開帳し,そのテラ銭(手数料)で生活費を稼いでいた。

 当時は幕府によって賭博が厳禁されていたが,岩倉の家は「公家領」であったため,幕府の警察権(町奉行など)が簡単に入りこめない,という法外の特権を悪用した行為であった。

 c) 宮中クーデター(小御所会議)での徳川家への無理難題。

 1867年末の「王政復古の大号令」直後におこなわれた小御所会議において,すでに大政奉還を終えていた徳川慶喜に対し,一方的な政治的処刑を断行した。

 慶喜に対し,すべての官職の辞任(辞官)と,徳川家領地の朝廷への返上(納地)を一方的に命じて,完全に徳川家を無力化し,あえて新政府への反発(のちの戊辰戦争)を誘発させるための,強引極まりない挑発行為をしかけた。

 d) 孝明天皇「毒殺説」の黒幕という疑惑(※諸説あり)。

 公武合体(幕府と朝廷の融和)を唱えていた孝明天皇が1866年に36歳の若さで急死した件については,岩倉自身が毒殺を仕組んだ黒幕ではないかという疑惑が,当時から根強く囁かれていた。

 つまり,岩倉や薩長にとって,幕府に融和的な孝明天皇の存在は「討幕」の大きな障害であった。天皇の死後,幼少の明治天皇が即位したことで岩倉らは一気に政権奪取へ動くことが可能になった。

 孝明天皇の死因は,公式記録だと天然痘による病死であったが,岩倉の岩倉村隠棲時代の仲間(柳の図子党)に医師がいたことなどから,現在でも「暗殺説の容疑者筆頭」として名が挙がるほかない人物となっている

孝明天皇「暗殺説の容疑者筆頭」が岩倉具視である


 4 鹿島 曻式:日本天皇史「論」の独自分析


 このは,鹿島 昇『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎-(増補版)』新国民社,平成11年からの論点を拾いつつ,記述を進めたい。

 ▲-1「万世一系」

 「万世一系は明治天皇以降のこと」であり,すなわち「新王朝」を意味する(これは瀧川政次郎の見解である)
 
 註記)鹿島 昇『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎-(増補版)』新国民社,平成11年,148頁,195頁。この本は「曻」ではなく「昇」と表記。以下に限っては引用では「昇」と記しておく。
 
 歴史上「万世一系」の天皇家とは,多くの王朝が同じ神統に属する,すなわち同じく朝鮮人の子孫だったというにすぎない。それは朴・昔(ソク)・金の3部族から交替で王を出した新羅帝国と同じことで,「血統上の一系」とは実に,朝鮮人とシナ人が合作したデッチアゲであり,もしくは国民の求めた蜃気楼でしかなかった。

 註記)同書,149頁

 鹿島 曻の所論からいったん離れるが,瀧川政次郎は「明治憲法に万世一系と規定した意味は明治天皇を以て現皇室の始祖となす故に,それ以前は道鏡系天皇にしても,亦足利系天皇にしても敢えてその血統を問わず」と述べて,明治新王朝説を主張した。

 註記)http://snsi-j.jp/boards/sirogane/158.html このリンク先住所は現在不在(削除)。

 ここでは,瀧川政次郎が自著『日本歴史解禁』昭和25年をもって,天皇家が天皇家である由緒は,「3種の神器」を所有するものが「天皇家の天皇だ」,これを逆流させていえば「天皇家の天皇がもっているその3種の神器が〈本物〉だ」といったふうに,きわめて即物的というか,唯物的な発想(の想像)的推論をもって断定する口上を披露していた点のみ付記しておく。

 さらに,つぎの画像資料を参照されたい。この文章を,このまますなおに読んでみて,文字どおりに理解してみるに,なんだか吹き出しそうになった。

三種の神器の物神性は確かにあらたかなのか?

 この瀧川政次郎のいいぶんを聞かされると,これを読む方としては脱力感に陥るような気分が湧いてこないではない

 ▲-2「桓武天皇」

 桓武の百済系王朝が亡命地の日本で焚書し,その子孫である明治王朝がのちに,本国の朝鮮でも焚書した。このように考えると,日本は朝鮮から教科書問題などで告発されているが,朝鮮こそ焚書の原点であった。

 註記)鹿島 昇『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎-(増補版)』新国民社,平成11年,368-369頁

 孝明天皇父子を殺害した岩倉〔具視〕,中山〔忠能〕,大久保〔利通〕,木戸〔孝允〕,伊藤〔博文〕らが起用した壮士たちが実行した閔妃の虐殺を朝鮮合併の原点とすれば,この焚書は侵略の原点であり,従軍慰安婦の問題はその終着駅であった。

 註記)同書,369頁。ここでは孝明天皇の暗殺首謀者は岩倉具視だと断定されている。

 補記)前段に登場した5名の「名」を正確に確認したいので,AI君に尋ねたところ,こういう答えが返ってきた。なお,前段においては〔 〕内に,それぞれの個人名はさきに補足しておいた。

 --孝明天皇とその後継者である明治天皇の父子を殺害したとされる人物は,歴史的な記録や研究において公式には,特定の人物を指して「殺害した」と断定されていない。

 しかし,明治維新を主導した岩倉具視,中山忠能,大久保利通,木戸孝允,伊藤博文といった人物たちは,孝明天皇の死後,明治政府の中枢を担い,明治維新を推し進めた中心人物たちになっていた。

 岩倉具視(いわくら・ともみ) 公家出身で,明治維新の立役者の1人。明治政府では内大臣を務め,岩倉使節団を率いて欧米を視察した。

 中山忠能(なかやま・ただやす) 公家出身で,明治天皇の生母である中山慶子の父。孝明天皇の外戚として,明治維新に大きな影響力をもった。

 大久保利通(おおくぼ・としみち) 薩摩藩出身で,明治政府で内務卿を務め,富国強兵政策を推進した。

 木戸孝允(きど・たかよし) 長州藩出身で,明治政府で参議を務め,版籍奉還や廃藩置県を主導した。

 伊藤博文(いとう・ひろぶみ) 長州藩出身で,明治政府で内閣総理大臣を4度務め,大日本帝国憲法の制定に尽力した。?

 補記)伊藤博文の死後,残された遺品のなかには,大刀の3分の1ほどを落とした,それも血糊の付着した刀身があった。この刀がなにに使われたは,博文自身が一番よくしるところだったが,故人が語ってくれるわけもないから,ここでわれわれは,想像力をたくましくしてあれこれ考えみるもよし。博文はとくに若い時期は実質テロリストまがいの人物として暗躍していた。

 なかでも,孝明天皇の死因は公式には「天然痘」とされているが,一部には毒殺説も根強く,その背景には明治維新をめぐる政治的な思惑があったのではないかという見方も存在する。しかし,これらの人物が直接的に天皇を殺害したという確証はない。

 補記)この段落についてもっとも有名な見解(その一説)が,ねずまさし『天皇家の歴史(下)』三一書房,1973年,第28章「光明天皇の毒殺」に披露されている。ただし,このねずまさしの意見が完全に正しいかというと,あれこれ異説・別論があって,議論が交叉しているところなので注意したい。

〔本論に戻る→〕 明治維新を推進したこれらの人物たちが,それぞれの立場で孝明天皇の死後,明治政府の中枢を担い,日本の近代化に大きな役割を果たしたことは,事実であった。

 だが,伊藤博文はとくに若い時期にはテロリストまがいの人物だったという以上に,その種の裏工作を得意とした人物である事実は,この博文をまともに掘り下げて研究した学究であれば,気づかないはずがない。

 前段で,ドナルド・キーンの明治天皇研究者としての立場に関して,ある種の疑念を提示してみたのは,これほどの学究がまさかその付近に関した幕末史の舞台をめぐってとなれば,その裏面史にかかわる事情を,なにもしらないわけなどありえない,と推察するほかないゆえが十二分にあったからである。

 まあそれでも,臭いモノにはフタがやはり必要であったかというべきか,人間としてそれなりに機知を利かせる立場を,キーンも当然,それも賢明な外国人の日本研究者としてもちあわせていた,というふうに解釈できなくはない。キーンが授賞された文化勲章はだから,「いったい誰のために授賞されたのか」という問いかけが放たれても,なんらおかしくはない。

 京都大学名誉教授の伊藤之雄の場合だと,それ以前に基線として引かれていた「歴史研究の守備範囲」のなかには,以上のごとき思考のもち方に幅をもたせ,疑念を広く投じてみる余地は,初めから閉め出されていたと観るほかない。

 ▲-3「大室寅之祐」

 明治天皇はみずから南朝の末孫であるのに,その事実を隠すことを求められた。すなわち,自分が政治を委託した人びとに裏切られて,一生涯鉄火面をつけ,いつわりの人生を強要されたのである。

 それは格子なき牢獄の人というべく,家族と絶縁させられ,まったく自由がないという意味ではさながら,囚人と変わらないものでもあった。天皇がみずからの出自をかくし,家族や旧友たちと絶縁したら南朝革命は存在しなかったことになる。

 註記)鹿島 昇『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎-(増補版)』新国民社,平成11年,〔はじめに〕3頁。

 補記)明治も末期が近づくころには,睦仁は天皇の系図は南朝が正統であると,自身が天皇である立場から判断を下すといった,まことに珍妙な対応をした。この事実は,げに奇っ怪きわまった「連綿たる皇統史」の混迷ぶりを意味した。

〔本文に戻る→〕 伊藤〔博文〕たちがイギリスの差別政策と帝国主義を手本として,解放という「革命の大義」を中途で放棄したこと,そして自分たちの孝明天皇父子殺しを隠すために,必要以上に天皇を神聖化してあらゆる情報を独占し,天皇家の歴史に関する中国史と朝鮮史の部分を抹殺したことにあった。もともと朝鮮人だった天皇家をカミサマだといって朝鮮を侵略するのはマンガでしかない。

 註記)同書,351-352頁。なお,以上の引用個所については「文章修正の要あり」という事情が残されていたので,その「修正文」を次段に紹介しておく。(なおさらに,鹿島『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎-(増補版)』の115頁,159頁にも同旨の記述があった)。

 倭人が外来者であり,日本民族が複合民族であり,天皇家が朝鮮から逃亡した亡命者であったという歴史的事実を承認し,そして明治天皇が大室寅之祐であった事実をも公開すべき条件は整ったはずであった。戦後の日本の解放は,歴史学の解放によってはじめて終わるべきであろう。

 だから,あえていえば,筆者ら〔鹿島ら〕の史論が認められないかぎり,日本の戦後はいまだ終ったとはいえない。しかし戦後50年経っても,歴史学は学問として樹立されず,日暮れて道遠しの感がある。

 註記)同書,363頁。なおいまは2026年であり,戦後はすでに81年目となる日付が近づきつつある。

歴史の正史と野史は紙一重


 孝明天皇暗殺の前後はまさに狂気の時代であり,暗殺は日常茶飯事であった。薩長は孝明天皇を暗殺したのだが,薩摩は睦仁側近の田中河内介を虐殺し,長州は同じく睦仁と一緒に育てられた中山忠光を暗殺した。忠光の暗殺は彼が睦仁を暗殺することに反対したからではなかったか。大室天皇になればこれらいっさいが水に流れる。

 このとき,孝明天皇周辺にいて江戸時代から生活に苦しんだ「列参」の公卿たちが孝明天皇の父子に見切りをつけ,あながち育ちがよいとはいえない小利口な寅之祐に入れこんで,維新ののち皇族や華族としての生活の安定,情報独占の特権と引きかえに,暗殺を追認して沈黙を守ったという推理は十分可能であろう。

 註記)鹿島『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎-(増補版)』298頁。

 当時の「この時代,天皇と接触するものはごく少数の側近だけだったから,天皇をすりかえても,その側近の口さえ封じれば取りあえずは可能であった。あとは暴力によっておさえればよい」。

 註記)同書,298-299頁。
 
 孝明天皇を暗殺して(天皇をとりかえて),さらにそのことを国民の眼から外らすために,討幕戦につづく東北征伐という残酷な戦争をやってみたところ,国民は「生命あってのものだね,長いものにはまかれろ」となって,なんでもいうことをきいた。「しめしめ,思いのほかにうまくいった」というのが,明治革命の真相であろう。

 同書,149-150頁。

 ▲-4「孝明天皇と明治天皇(大室寅之祐)」

 明治10年〔(1878年)であった〕……,明治天皇はその年に,有栖川宮に命じて「纂輯御系図(さんしゅうおんけいず)」という皇統表をつくらせ,そのなかで,北朝天皇家のルーツであった貞成親王を「母西御方,父不詳」としている。

 孝明天皇が北朝天皇家の末裔で,貞成の子孫であることは疑いない事実であるが,この天皇家のはじまりであった貞成をあえて,「父不詳」というならば,北朝の天皇家はおよそはじめから正系の皇統ではなかったことになる。

 北朝の血統であった孝明天皇にケチをつけたわけだから,こんなことをさせた明治天皇が孝明天皇の実子であることは疑わしくなるではないか。明治天皇が皇統でないということは,ある意味では国家の一大事であるのに,なんの目的でこんなことをやったのだろうか。

 註記)鹿島『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎-(増補版)』21頁。

 長州忍法の伝世の毒薬と孝明天皇を厠で殺した刺殺,そして変身すりかえの術等々を駆使しておこなわれた明治の忍法革命はひとまず成功したが,その結果,

 将軍家茂と孝明天皇を暗殺し,さらにひそかに睦仁の明治天皇をも暗殺して長州の大室寅之祐とすりかえ,北朝第7王朝を滅亡させたうえに,その犯人たちが「天皇神聖,万世一系」と強弁して革命に関するすべての情報を独占管理し,誇るべき南朝革命を秘匿した維新政府の実体は,

 秘匿することによって不法なる暴力による圧政がはじまり,情報を管理するものが無知の国民をさながら,犬か豚のごとく酷使するというアンシャン・レジームに回帰してしまった。日本の忍法はもともと破壊はできても,建設は得意ではなかった。……

 しかし,天皇ヒロヒトは敗戦後忍者のごとく変身して,口に平和を唱え,死後大葬によって葬られた。

 註記)同書,304頁。

 ▲-5「欽定明治憲法」の本性

 明治22〔1889〕年に伊藤博文が制定した欽定明治憲法には,「天皇は神聖にして不可侵であり,万世一系である」と規定してある。

 この条文は,かつて本国から逃げてきた朝鮮人が創作した『記紀』などの官撰史を盲信した国学の徒が,日本国の歴史を正当に理解できなかったために強弁した「神がかりの幻想」を,

 孝明天皇の暗殺に加担した伊藤博文たちがやがて来るべき暗殺事件の追求を免れ,そしてかれらが逃げかくれするどころか,逆に国民を犬が豚のように使役しようと,まったく利己的な意図によって憲法として成文化したものであった。

 しかし,伊藤はみずから天皇を殺している。皮肉ないいかたをすれば,伊藤にとって天皇は神聖ではないからこそ殺し,それを国民から隠すために,「神聖である」と強弁したのではないか。自分たちが神聖な天皇を殺すわけはないというのである。

 伊藤は岩倉と共謀して孝明天皇を暗殺した大逆犯人である。その犯人たちが「天皇は神聖不可侵である」というのはいったいどういうことか。
 
 註記)同書,36頁。

 明治の伊藤憲法は,伊藤博文や岩倉具視が孝明天皇を殺したことをひたすらかくして,国民にその批判を許さず,かえって国民の絶対服従を求めんとして天皇を「神聖不可侵」としたため,歴史家は大逆罪を恐れて「天皇暗殺」にはあえてふれなかった。

 すなわち,明治以降の国史学は天皇暗殺,天皇すりかえという維新のはじまりを隠蔽し,その犯人たちを免罪し,さらにその犯人たちが好き勝手に国民をあたかも,犬が豚のごとく使役することに協力した。

 かくして国史学は偽史シンジケートの支配するところとなり,無益にして不法なる流血によって権力を手中にした革命家たちの権益を擁護した。国民は何らの情報をも与えられず,国史学はひたすら天皇家を美化するための奴隷史学と化してしまった。

 註記)鹿島『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎-(増補版)』92-93頁。

 補記)ここまで前段のごとき引用部分は,時代を変えてであっても,21世紀の現在にそのまま当てはまる事象を指摘している。本ブログのこの記述は初めのほうで,大手紙やテレビ局が天皇・天皇家の雅(みやび)性を,この国が2千6百年近くもの永きにわたるものだと喧伝しきりな〈現状〉に言及してみた。

 この種になるこの国の国家体制が有する「国民(臣民)」側の立場に特有であった,大衆側における無知・無関心が実は,いつまで経ってもまともな民主主義国家体制が根付かない根源の事由であった。

〔引用本文に戻る→〕 思うに,孝明天皇父子の暗殺グループといっても,長州忍者による実行行為に密接にかかわっていた岩倉,桂〔木戸孝允〕,伊藤などが,討幕に成功した以上,あらゆる情報を独占して天皇のすりかえをかくしたままにしたいと望み,みずからを北朝官僚のなかに埋没させることに満足したのに対して,

 外部から協力しただけであり,南朝革命と解放を理想とした西郷〔隆盛〕や,吉田松陰ゆずりの理論家の前原〔一誠〕は,南朝革命を発表しなければ成功したことにならないとして,革命の大義を考えたのであろう。

 しかし,暗殺を実行した人びとはつねにその発覚を虞れた。無益なる討幕戦争にはじまった日本のあいつぐ侵略戦争は,まさに不法なる暗殺事件の発覚をさまたげるためにのみ有効であった。 

 註記)同書,301頁。

 補記)西郷隆盛が反乱を起こしたすえ他界した出来事に関して,睦仁がたいそう悲しんだのは,それなりに特別な事情があったと推理されている。

 ★-6「万世一系」

 自分たちが暗殺した天皇を「神聖不可侵である」とし,「万世多系」であった天皇家の歴史を血統的に「万世一系である」とする詭弁は,革命家たちの,将来の歴史家による告発を免れようとする強固な意思のもとに学問の自由を完全に否定した。

 しかし,そのためには暴力的な支配が必要となり,かつて秦の重臣が「馬を鹿といいくるめた」と同じような,情報の独占と言論の弾圧が必要となった。そして,それは内にあっては弾圧となり,外に向かっては侵略となった。

 註記)鹿島 昇『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎-(増補版)』129-130頁。

 明治天皇が明治10〔1877〕年にすでに,北朝が足利天皇家であることを理由とする南朝正系論を採りあげたことは,天皇が北朝の孝明天皇の子であれば,まさに「自分は万世一系の天皇ではない」と自認することになり,「万世一系」を規定した伊藤憲法もペテンという結論になって,理屈に合わない。

 だから常識的に考えれば,明治天皇はこの『纂輯御系図』によって,みずから北朝の孝明天皇の子ではない,すなわち睦仁親王とは別人であることを表明したことになるであろう。

 註記)同書,266頁。

 かつて,欽定の伊藤憲法を公布して,天皇が「万世一系」であることに批判を禁じた元老たちの真実の目的は,自分たちが孝明天皇父子を殺して新帝をとりかえた事実を歴史的に抹殺することにあった。

 しかし,彼らは「神聖不可侵,万世一系」という美名のもとに,討幕戦,東北戦,徴兵,日清,日露戦争という国民総動員的な緊張を求め,これによって歴史的真実の研究を妨害し,後世にも自分たちの告発を逃れんとしたのであって,必らずしも吉田松陰の革命理論に従ったわけでもないし,また明治天皇もしくは革命後の天皇家の利益を考えたわけでもなかった。
 
 註記)同書,365頁。

 ▲-7「古事記・日本書紀」

 『記紀』は日本史の原典であるといわれているが,実はそれよりさき,聖徳太子,実は百済の威徳王が『百済本記』をつくり,のちに『百済新撰』『百済本記』などともに『日本旧記』となり,それさらに『日本書紀』に合わせて内容を改訂して『先代旧事本紀』とした。『旧事紀』の底本は聖徳太子,実は威徳王の『百済本記』だったのである。

 註記)鹿島 昇『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎-(増補版)』293頁。

 ▲-8「三種の神器」
 
 この問題は,記述済みということで,ここではとくに触れない。

 5 すりかえと華族の登場


 孝明天皇の子は明治天皇を除いて,全部幼少で死んだことになっているが,すりかえに異議をもちそうな,中川宮の関係者はほとんどが宮家をたててもらい,事情をしることができたはずの徳川家以下の有力大名も,朝敵となったものすらのちに華族として優遇された以上,生命の危険を冒してまで国民に真実を明かす必要がなかった。

 一度天皇すりかえに論が及べば,北朝を偽朝であるとして弾圧できる体制は整備されていた。さらに討幕戦,東北戦や江藤新平の謀殺など,無辜の国民に対する一連の驚くべき残虐は,その蛮性によって天皇すりかえの漏洩をとどめるのにきわめて役立った。

 かくて前代未聞の「沈黙同盟」が結成された。いい方を変えれば,華族制度は翌明治21〔1888〕年の大室家資産のばらまきと同じく,元老たちの天皇殺しの口止めという一面があったのである。

 註記)鹿島 昇『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎-(増補版)』新国民社,平成11年,299頁。

 公卿たちにしても,華族として大切に扱われるならば,南朝だ北朝だといっても,いまさらひどい目にあう必要はないし,だいたいほとんどの公卿たちは先祖が南朝にも北朝にも入っていたから,明治天皇が仮に南朝だとしても,南朝再興を唱える勤皇家たちの主張と妥協する方法はありえた。

 もともと公卿たちは朝鮮やシナから来た人びとの子孫で,かつては足利系天皇に反対しなかった連中だから,萩天皇または奇兵隊天皇に反対することを期待するのは,どだい無理だったのである。

 註記)同書,300頁。

 このような皇国史観を擁護して,朝鮮人であった天皇家の子孫を「神聖不可侵」であるとし,多系なる天皇かを「万世一系」であるとしてウソを強制した伊藤憲法は,あるべき国家の理念とはまったく関係がない。

 そして南朝天皇家の理想を忠実に追い求めて長州忍者によって孝明天皇を暗殺した岩倉,木戸,伊藤たちは天皇制に内在するカースト制の打破こそなすべきであったのに,「討幕」という自分達の身分の昇格を狙った不法なる闘争に成功する
や,

 なおも天皇暗殺とすりかえの事実を隠しつづけ,みずから情報を独占してその犯罪を追及させないために伊藤憲法をつくり,その悪法によって皇国史観と国家神道を生み出し,さらに吉田松陰の南朝再興思想にすがって侵略戦争の絶えざる緊張によって自分たちの告発を逃れようとした

 註記)同書,370頁。

 明治天皇すりかえの原点は7卿の亡命と岩倉たちの将軍家茂及び孝明天皇の暗殺であったから,イラク輪〔(原文どおりなので〕岩倉?(と推定しておいて間違いなし)〕,大久保,伊藤らと西郷の対立について,天皇の直接の下手人であった前者を支持したのは人情としてやむをえなかったものであろうが,

 そのとき西郷は決して征韓論を主張したのではなく,英米帝国主義に対抗して日韓解放同盟をつくろうとしたのであろう。忍法によって即位した明治天皇は忍者そのものの二枚舌を使ってその西郷を追放し,岩倉使節団の帝国主義路線に従った。

 註記)同書,371頁。

 以上,長々と,鹿島 昇『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎-(増補版)』新国民社,平成11〔1999〕年から,「明治天皇すり替え説」と「明治天皇・国家体制」のカラクリ的な素性を訊いてみた。

 そのように,ひとまずは野史的,稗史(はいし)的,外史的な観点に依った明治維新前後に時期に関する議論を,あえて前面に引き出し,「近現代天皇史」が秘めているというか,隠蔽してきたと唱える論者,鹿島 昇の見解を紹介してきた。

 本ブログ筆者はこの記述中以外においても以前,岩倉具視の人相・顔面に漂うところのただならぬ凶相を指摘してみた。たとえば,2025年6月25日に書いて公表したことがある,つぎの文章がその点にふれていた。

 前段でその姓名を一覧してみた「岩倉具視」「中山忠能」「大久保利通」「木戸孝允」「伊藤博文」という面々は,特別に聖人君子ではありえなかったどころか,その反極側に足場を置き,明治維新史「前夜・後夜」を,彼らなりに有意義だったあれこれを,しかも家ネズミにも似たしぐさでもって,こなしてきたつもりであった。

 彼ら個々人の特性にもよるが,岩倉具視の場合,もともと最貧公家の出身であっただけに,明治維新史の進捗のなかで一躍,国家の最高指導者の地位に跳び乗ることができたとしても,その出自そのもの時代精神的な残痕が,どうしても深い皺となって顔面に刻まれるほかなく,そのまま皮肉となって正直に固形化されていた。

 それにくらべてお調子者であった伊藤博文は,貧農の生まれであっても,その後はもちまえの〈機をみるに敏の世渡り上手〉が活きて,結局は大日本帝国の憲政上,首相を4度も務めるなど,そのほかにもあれこれの重職をこなしていった。

 伊藤博文はまた,明治天皇とは徐々に協調・連携しうる関係も構築できたことから,岩倉具視のように自分の顔面に「かつての暗い影」を残す精神状態とは,無縁でありえた。結局,明治政府で内閣総理大臣をなんども務め,もとより,大日本帝国憲法の制定にたいそう尽力しえた。

 もっとも,伊藤博文は1909年(明治42年)10月26日,清の吉林省浜江庁ハルビン市(現・中華人民共和国黒龍江省ハルビン市南崗区・道裏区)のハルビン駅で,韓国人の安 重根に狙撃され死亡した。

 その犯人,安 重根がその後の取調過程のなかで,伊藤博文が「孝明天皇の暗殺者である点」を,犯行動機に関連して述べていた事実が記録されている。安がどうしてその点をしりえたのか,まだ真相は未解明であるが,実に不思議な因縁がそこには介在していた。その「事実」をわざわざ教えた日本人側の関係者がいなかったとはいえまい。


 6「孝明天皇の暗殺説」に関するひとつの説明を紹介しておく


 ここまでの記述を読んでもらったうえで,以下にいくつか関連する文章を引用しておくことにする。これらの内容は100%信じてもらうために紹介するものではない。明治天皇にまつわる「あれこれの問題(疑問)を考える」うえで,参照してみたい材料として提示できる数例に過ぎない。

 甲論乙駁があって,内容も右往左往にも映るが,明治維新史をめぐってはそのように思わせるほかない権謀(陰謀)術数が,それこそ盛んにゆきかっていた。そうした事実経過そのものに注意して理解する努力をしなければ,そもそもが歴史の解明であったゆえ,単純明快さばかりを強く求めていてはその解明は無理である。

 いったいなにをいいたい論旨なのかすら,よく理解できないまま終わることにならないように,あの時代に特有の「混沌史」に真正面から対峙し,理解に務める努力を惜しんでいてはまずい。それでは,いつまで経っても,なにも「分からぬ歴史」が目前に「未解明」のまま残るだけとなってしまう。

 もっとも,明治維新「混沌」史が21世紀のいまになんら関係がないとはいえない。類似する事件は,いくらでも発生している。

 たとえば,最近の事件として刑事裁判(裁判員裁判)がすでに開始されているが,「山上徹也による安倍晋三銃殺事件」は,事件発生直後に狙撃された安倍の救命救急治療に当たった,奈良医科大学福島英資教授の「解剖所見」は公判に提出されず,奈良県警側の解剖所見(「鑑定書」または「鑑定処分許可状による解剖報告書」)のみが提出されるという,実に奇っ怪な出発進行となっていた。

 ちまたのネット空間に,飛びかうがごときに問題提起されている最低限の情報・知識であっても,その奈良県警側の「鑑定書」は,きわめてズサンという以前にデタラメ同然の内容である事実が,新聞紙・テレビ局の記事・報道からはいまひとつ明解になりえないものの,

 すでにネット空間や書籍のなかからは「山上徹也が安倍晋三暗殺の犯人なのか」という点については,必要かつ十分な直接と間接(状況)を問わない証拠(反証)が,しかもヨリ的確に指摘されている。

 それゆえ,この種の事実関係を完全に無視した警察側,そして検察側の裁判(裁判員裁判)に挑む姿勢には,単なる疑問には留まりえない「国家体制側全体」をさらに超越した次元からも,なんらかの未確定動因の恣意的な働きかけがないとはいえず,このままであれば,

 ちまたの素人たちによるけれども,その分析・理解の水準に関してはすでに,非常に高水準となった「専門家肌の素人捜査」を無視した状態でもって,今後,山上徹也「犯人説」の路線のまま,公判が裁判員裁判として進展していくようだと,またもや,日本の暗殺史における重大疑問を「暗部」としてまたひとつ積み上げ,結局は「大きな汚点」の塊を新たに付加することにしかなりえまい。

 裁判そのものに関しては,素人である裁判員たちが,以上に指摘した山上徹也=「犯人」という「現状」そのものからして,いったいどこまで裁きうるかは未知数だという以前に基本,疑問そのものとしてしか受けとれない。

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 【付 記】 「本稿(3)」の「続編(4-1)」は以下である。

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【参考文献】

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