国家神道精神にもとづく靖国神社は宗教機関ではないなどといいたがる「虚偽の愚昧と欺瞞」(3)
【前記】 本稿全体の記述中でもちいられた(振られていた)見出し連番は,「本稿(1)」の1から「本稿(2)」の2,3へ続いていた。本日のこの「本稿(3)」は,その連番は4から始まることになる。
以下は「本稿(1)」と「本稿(2)」のリンク先住所である。
4 キリスト教徒であるはずの石破 茂が首相として靖国神社に「真榊奉納」をした事実
a) キリスト教徒だ〔った?〕と自称する〔間違いなくそうであるが〕石破 茂首相が,神道神社で元陸海軍国営の靖国神社--督戦と勝利のための死神・亡霊としての〈英霊〉が合祀されている神社--に「真榊を奉納する」という行為は,この自民党総裁が本当のクリスチャンたりえないことを,不承不承にも自認したことになる。
国家神道・皇室神道に連なる伊勢神宮や靖国神社に参拝にいく行為は,明確に指摘できる点は「道徳や倫理」の範疇に属するその行為ではなく,あくまでも・どこまでも明治以来に再定義的に帝国主義国家体制のなかに統合される宗教的な意義を付与された伊勢神宮,そして,死神神社,つまり敗戦の結果として世界政治:国際環境の枠内では賊軍神社になりはてた靖国神社に参拝にいく行為は,
とくに正月(新年明け)に伊勢神宮に参拝に出向く行為,および敗戦の日(記念日?)にわざわざ靖国神社に頭を垂れに参拝しにいく行為は,『国家神道と皇室神道』の「明治維新に構想・構築されてきた」帝国主義日本の残像を追想するものだ,という政治的意味合いに照らせて思うに,
とりわけ,その時代観念的に「時計を針を逆回させるがごときその種の行為」,しかも完璧に実行している事実そのものについて,なぜか無頓着であったこの国の多数派の人びとは,国際的感覚の「無意識的な排除」でなければその「意図的な無視」の立場を,敗戦という事実などなんのそのというような姿勢で,堅持してきたことになる。
【参考記事とこれへの寸評】

2022年2月28日にトランプが開始した「イラン戦争」のせいで
日本の経済・産業・企業は大迷惑を被っている
ところで,2024年10月27日の出来事であった。衆議院の解散総選挙を当時,控えていた石破 茂首相は,靖国神社に真榊を奉納するという宗教的行為,いいかえれば神道式の手順に則したその記録を残した。石破のこの行為の意味は,まともなキリスト教徒であれば絶対にできないし,元来,するはずもないものであった。
ここで紹介するつぎの画像資料は,『テレ東』の報道は前段の日付(2024年10月27日)より半年前の4月21日に,同じ行為をしていた「石破 茂首相の靖国神社への『真榊奉納』」をニュースにとりあげたときの,その一コマである。

この画像は合成されているが,左側には拝殿が写っていて,そして右側に写っているこの真榊は,拝殿の奥(裏)に位置する本殿「脇」に奉納されている。つまり,この拝殿からだと一般の参拝者はこの真榊は直接みることができない。
ここでは参考にまで1942〔昭和17〕年10月16日,昭和天皇が靖国神社の「本殿」に参拝した時の画像を示しておきたい。

「大元帥」として陸海軍の最高司令官であった
元帥は一軍人の最高称号・階級でる「大元帥」とは君主であった
昭和天皇だけ独自に有した地位である

『靖國神社創立百二十年記念』新人物往来社 1989年・口絵から
敗戦後になると大元帥はすでに象徴天皇である立場に移行(萎縮)したが
敗戦までの記憶に「死ぬまでこだわったのが彼」であった
なにせヒロシマ・ナガサキに投下された原爆のことを含めてとなったが
記者会見の場で戦争責任を問われたさい
裕仁はそのことを「ことばのアヤ」といいぬけた
被爆者側からの批判がないわけがなかった
もっともつぎに紹介する原爆被災者の事実は彼の念頭にはいっさいなかった

朝鮮人のそれは「万単位」に丸められたままだからまるで十把一絡げである
しかも敗戦後史においては長いあいだ朝鮮人被爆者を救済することすらせず放置してきた
だがかつては「一億火の玉」といわれた帝国臣民のなかには
植民地下の朝鮮人や台湾人も間違いなく含まれていたはずだが
8月15日を境にして彼ら・彼女はどこかに雲隠れ(原爆雲のなかに?)でもしたのか
原爆の被害もむごかったがそうした日本政府の基本姿勢も無責任のきわみであった
【参考記事】
b)〔前段の記述を受けてだが〕 その時点:1942年10月ころまでの「戦時日本の戦況」をネット上で検索すると,AI氏が早速,こう答えてくれた。平凡な説明だが入門的な理解としては十分参考になる。
昭和17年10月単月の正確な戦争犠牲者数は不明ですが,太平洋戦争中の日本の戦没者総数は軍人・軍属約230万人,民間人約80万人とされるほか,戦争中の飢餓や病死者も多数にのぼるため,10月のみの数値を特定するのは困難です。
詳細「当時の状況」 ……昭和17年(1942年)10月ころは, 太平洋戦争 の初期段階にあたり,とくにソロモン諸島でのガダルカナル島の戦いが激化していました。
犠牲者の内訳 ……太平洋戦争全体で,日本側の戦没者には,軍人・軍属が約230万人,民間人が国外で約30万人,国内の空襲等で約50万人以上と,合計で310万人以上が犠牲となったとされています。
戦病死の多さ ……戦死者のうち,戦闘以外の飢餓や病死が非常に多く,太平洋戦争における日本軍の戦没者の多くが戦場で飢えと病気によって命を落としたことが指摘されています。
正確な数値の困難さ ……戦争中の犠牲者数は,戦闘による死者,病死,餓死などを分離して正確に把握することが非常に困難であるため,昭和17年10月単月の犠牲者数を特定することはできません。
絶対に許されない「困難さ」のいいわけである
補記)というわけで,昭和天皇が大東亜(太平洋)戦争を始めてから,まだ約1年ほどしか経っていないその時期,この靖国神社に参拝に出向き(親拝し),そこに合祀されているという無数の英霊「群」に対してだが,いったいなにを祈祷なり祈願なりしたというのか?
すでに「満洲事変」が1936年9月18日に始められてから(準戦時体制:非常時),日中戦争(「支那事変」:本格的な戦争状態であったのだが,そうは名乗れない国際政治の事情が絡んでいた)がさらに同年7月7日から始められており,その後は「泥沼となった中国戦線」で,日本軍はダラダラと絞まりもケジメもない戦争状態をつづけていった。
結局,1941年12月8日,当時首相になっていた東條英機は「清水の舞台から飛び降りる気持ち」で米英との戦争に突入した。そしてその後も戦争を継続していったのだから,戦死者・犠牲者ばかりが増えつづける過程になっていった点は,いまさら説明するまでもない。
〔本論に戻る ↓ 〕
c) 靖国神社における「真榊奉納」といった神道式の宗教行為が,なぜ「そういうあつかい」,つまり,なるべく秘儀でありうるかのように運用されている事実(のそのまた裏事情)については,この神社の関係者であれば,即座に難なく説明できるかもしれない。
だが,一般の国民・市民・庶民の側にあっては,そのような関心はなるべく抱いてほしくなかったのが,靖国側の密教的な本心であった。ここには「明治謹製」であった靖国神社の基本性格「戦争神社・官軍神社」,すなわち「勝利神社」でなければならなかった,歴史必然的に実に奇妙な由来,そのところを説明しろと要求されたら困ってしまう,この神社の歴史的な由来・事情が混じりこんでいた。
それゆえ,敗戦した大日本帝国のその後を考えるまでもなく,この神社の21世紀にまで存在する「神道的な意味」は,ますます求めにくくなってしまった。それがために,この問題点に関しては,トコトンに「断固とした韜晦〈心〉」がどうしても欠かせなかった。
だが,そうしたやせ我慢の精神だけでなく,その付近の問題点がなるべく世間の話題に上らないようにしておくためにも,絶えず特定の煙幕を張っておかねばならなかった。いってみれば,靖国神社にだけ特有であったある種の「苦渋の過去」が「敗戦後史として否応なしに同居させられきた」のが,この九段下の元国営神社であった。
なんといっても,1945年8月15日に決まった敗戦は,この靖国神社の枢要な使命をすでに途絶させていた。にもかかわらず,昭和天皇の「ある意味,戦争責任を極秘的にだが明白に淀ませた」,あの九段下に存在する,「非常に多くの死神たち(「英霊」と無理やりいいかえてはいるが)」に対する「国家神道としての皇室神道の立場」は,彼の身に絡みついた《敗戦後的な負い目》となってしまい,そう簡単には解消できない政治的本性を包含させていた。
それゆえ,靖国神社の当面はひとまずともかく,現状のままにその存続を維持いく体裁を採っていくほかなく,自社に固有であった歴史問題の浮上を抑止していくほかなくなっていた。
昭和天皇は,自身が背負っていたはずの「戦争責任の問題」は,そのすべてを東條英機ら「A級戦犯」になすりつけたあげく,その後になってもなお,つぎのようにまで無責任な発言をした。もっとも「尊皇精神としてのお上意識」が脳髄に浸透していた東條英機は,そうした昭和天皇の意思を喜んで受容したゆえ,そのオメデタサも極上であったに違いあるまい。
d) さて,昭和天皇は1975年10月31日,訪米の日程を終え帰国してからもたれた公式記者会見の場で,こういってのけた。
「広島市民には気の毒だが原爆投下はやむをえなかった」
「文学方面について研究してないので戦争責任などといった言葉のアヤについては答えられない」
『X』上にもあれこれみつかる発言のなかには,この彼の文句は「挑発的発言を連発した」とまで受けとめられるくらい,それはもうひどい責任転嫁のいいぶんであった。それでは,その転嫁させておくべき代人(スケープゴート)としてもっとも適当であったのが誰たちであったかといえば,いうまでもなくA級戦犯たちであった。
ところが,昭和天皇がその直後の1975年11月21日,靖国神社に参拝に出向いたあと彼は,この元国営神社(陸海軍管理)にはもう参拝にいけなくなった。というのは,1978年10月17日,靖国側がそのA級戦犯たちを昭和殉難者(国家犠牲者という意味)だとみなし強引に合祀した結果,昭和天皇にとってみれば「自分の立場が絶体絶命の状態」に追いこまれてしまったからである。

敗戦後の日本においては,昭和天皇がA級戦犯の絞首刑を担保になお「天皇の座」を保持できたのは,このA級戦犯が代身になってくれた事実そのものの上に成立しえていたからである。だが奇怪な事実も登場していた。このA級戦犯も靖国の「英霊」となって合祀されたとなれば,昭和天皇の立場はそれこそ,完全に「立つ瀬がなくなった」
換言すると,昭和天皇にとってみれば,「自分の立場や面目が失われ,弁解の余地すら掴めない,自己の正当性を担保できる状態がない状況」に追いこまれたことになったのである。
裕仁個人の立場からしたら,GHQのマッカーサー元帥が敗戦後史のなかで,新しく日本国憲法を制作していくなかで差配してくれた「天皇・天皇制は残す」(が同時に「封建制度はなくす」といっていた)という意義が,敗戦後30年が経過した時点で発生した出来事,つまり,靖国神社側の要らぬお節介:「A級戦犯合祀」をおこなった結果によって無意味となった。
e) 誰かが仮にでも(百歩ゆずってもだが),八百万の神々が降臨しているこの国では許されるのが,その靖国神社に対する「真榊奉納」だなどとゆるく考えていたとしたら,これはキリスト教途の立場での宗教原理(使徒信条)に照らして判断するまでもなく,単に異端どころか背教となる行為を意味した。この程度のことは,キリスト教の牧師に教わるまでもないごく基本の理解である。
そこでである,石破 茂が2024年10月1日,首相に就任したさい,人物紹介としてはあらためてキリスト教徒である事実が明確に世間に広く報道されていた。この事実を踏まえてつぎの段落の記述に進む。
明治になってからだったが,神道宗派の一形態ととして正式にその路線が敷かれたとみなせるのが「国家神道」神社・群であった。
元陸海軍国営の靖国神社(督戦と勝利のための死神・亡霊が合祀されている神社)に対して「真榊を奉納するという行為」は,この「現在〔ここでは石破 茂〕自民党総裁」が本物のクリスチャンではありえなかった事実を,つまり当人が「意識していると否とにかかわらず」,その事実は「不承不承にも自認されたことを,公的に堂々と宣言した」も同然になった。
歴代首相のなかでは石破 茂と同じようにキリスト教徒であった大平正芳(第68・69代の内閣総理大臣としての任期,1978年12月7日~1980年6月12日)は,学生時代,高商に入学した春,元東北帝国大学教授で宗教家の佐藤定吉が講演に訪れたことがきっかけで,キリスト教に出会いその後,自身の病や父の死を立てつづけに経験した大平は,キリスト教に傾倒し,1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた(ウィキペディアの解説)。
この大平正芳はかつて,1979年4月21日「春の例大祭」時, “自身で靖国神社に出向き参拝した” 記録がある。当時,首相による靖国参拝が「外交問題化することはなかった」と日本側は強調するけれども,そもそもそれまで東アジア諸国は,靖国神社をめぐり起きていた事実そのものを正確に察知できる国際政治状況を与えられていなかった。この点は日本国内では反面でその点を利用していた要因になっていた。靖国側の秘密主義がそこには控えていた。
f) つまり,日本国内のそれも九段下の元国営神社でこそこそおこなわれていた,それも「東京裁判史観」に従えない気分を横溢させていた「靖国神社の構成員たち」(宮司,禰宜,氏子総代,宮委員および奉賛会代表者など)が,A級戦犯たちは「戦争犠牲者ではなかったにもかかわらず」,第2次大戦の殉難者(昭和殉難者)だと勝手にみなしたうえで,靖国の本殿祭壇に合祀した。
靖国神社側が1978年10月17日,A級戦犯を合祀してから事後,その事実が海外でもしられるようになってからだが,国際政治次元での大問題に発展していった。昭和天皇裕仁は1975年11月21日,最後の靖国参拝となった「親拝」をおこなって以降,前段のごとき靖国神社側の対応のために発生したその大きな影響を配慮し,九段下のこの元国営神社にはいっさい出向けなくなった。
その裕仁以来となった天皇家側の堅い意志(靖国不参拝)は,明仁天皇,徳仁天皇の代にまでつづいており,あたかも父・祖父から伝えられた〈絶対的な遺言〉であるかのように守ってきている。だから,時々の首相が参拝したとか真榊を奉納したとかいった報道に類した天皇家関連の報道がなされることは,まったくなくなった。
g) 以上の記述に関してだが,つぎのように瞬発的に反応した日本人側の意見開陳が記録されていたので,これも紹介しておこう。出所は『NEWSPICK』https://newspicks.com/news/6274419/ の2021年10月17日であったが,この時点においては,つぎのような「コメントのやりとり(意見の交換)」がなされていた。なお〔 〕内補足は引用者である。
★ 注目のコメントから ★
★その1 2021年10月17日〔日本国内にしか目を向けない狭い意見〕
1979年にいわゆる「A級戦犯」の合祀が明らかになってから1985年7月まで大平正芳,鈴木善幸,中曽根康弘の3氏が総理として参拝しているが外交問題になることはなかった。
1985年8月に朝日新聞が「靖国問題」と称して報道。すると初めて中国政府が抗議した。朝日新聞は弱者,少数者に寄り添うといった良い側面もあるが,この問題に関しては明らかに国益を毀損しており同紙の負の側面といわざるをえない。
★その2 2021年10月17日〔日中戦争では中国との戦争に結局負けた日本の立場を踏まえる意見〕
いちいち報道してわざわざ外交問題にもっていこうとするクソメディア。戦後,日本の独立を認めたのは,サンフランシスコ講和条約です。そこには,東京裁判の判決受諾が条件となっています。
東京裁判での有罪とされた戦争犯罪人が合祀されている宗教施設に,日本の総理大臣がかかわるということは,講和条約を認めていないことにつながるもので,大きな問題といわざるをえません。
また,サンフランシスコ講和に参加をしなかった中国が,国家賠償権を放棄したとき,不満を抱く国民に対して,軍国主義者と一般国民を分けて論じるべきだとし,〔中国の人民を〕説得しました。
日本の戦後,戦後日本と建国の枠組みを否定するなら,国際社会に,国民に,説明責任を果たす必要があります。
自民党の支持基盤が,社会変化,高齢化で後退するなか,固定化している右翼的な支持層や組織に支持を依存しなければならないからこその,このような行動なのか。
「中国が日本に対する国家賠償権を放棄してくれた」がために
日本側は19世紀末葉における「日清戦争の顛末」を忘れただけでなく
20世紀に敗戦国として当面させられた戦責問題までそのすべてが
水に流されたかのように勘違いできた
5 昭和天皇がA級戦犯合祀という出来事をたいそう悔しがっていた事実
以上,4の記述全体に関連する報道が,2006年7月20日の『日本経済新聞』朝刊に出ていた。経済紙としては珍しく1面冒頭記事として,この政治問題をとりあげ報道していた。その内容は,元宮内庁長官・富田朝彦(1920-2003年)の遺品「富田メモ」のなかに具体的に描写されていたのだが,「A級戦犯合祀の問題」が発生した直後,昭和天皇が富田に語った話であった。

この報道の事実性を認めていなかったが
彼女のこの意見が出された立場・イデオロギーそのものが本来
客観性・公平性・信頼性を欠如させていた
a) この富田メモの存在については,2006年7月20日の『日本経済新聞』朝刊が,経済紙としては珍しく1面冒頭記事として報道していた。
昭和天皇の立場にとってみれば,A級戦犯が合祀された靖国神社にみずから参拝に出向いたら,いまでは英霊になっているA級戦犯の彼らに「いちおうでも頭を垂れて礼拝する行為」を,否応なしにするほかなくなる。
そういった靖国神社内に生まれる「天皇裕仁 × 英霊集団」の拮抗関係は,彼の敗戦後史における立場としては我慢ならないどころか,本来であれば自身の戦争責任をそれこそ東條英機以下「A級戦犯たち」が代替してくれたはずの,その「戦責問題」が一挙に「東京裁判」の舞台(以前の時期)にまで巻き戻されてしまう事態の再現となる。
東條英機は東京裁判の最中に,無意識にだったがうっかり,「お上のご意志に自分が逆らうことなどありえない」と断言して,判事や裁判官たちを大あわてさせた。事後,東條英機にあってはその意見を変更するように調整を済ませたうえで,裁判そのものがA級戦犯とは直接には「なんら関係のありえない〔とされた〕昭和天皇の立場」が確保されたのである。
b) 昭和天皇の話はここでいったん停止させておき,自民党総裁として日本国首相を務めていた石破 茂総理大臣の場合(任期:2024年10月1日-2025年10月21日),就任前に「真榊」を奉納したことはなく,岸田文雄前総理大臣や菅 義偉元総理大臣らの「靖国神社参拝問題」の対応を踏襲したという話題に触れておきたい。
前段のごとき説明だとなると,「前・元首相たちの靖国関連行為を真似たという石破の説明は主体性ゼロ」であった。まがりなりにでもキリスト教徒の立場を公人として明らかにする政治家が,「死神神社に真榊を奉納するという信仰告白」と「キリスト教徒として洗礼を受けている信仰告白」とは完全に矛盾する。この指摘はまともなキリスト教徒の立場であれば,説明の余地がないくらい「明白な宗教心」のありようである。
石破 茂は総理大臣になるためには,自身の信仰の立場とはあいいれない「靖国神社への真榊奉納」を,本殿への参拝の代替におこなった。これは,背教の行為を意味するけれども,日本の政治家は,とくに石破の場合は自民党総裁=総理大臣の立場を維持するうえでは,不可避にしかたのない妥協をしていたことになる。
また宗教上の立場については,もとより「私人も公人もない」にもかかわらず,日本の政治家たちは「〇〇首相は私人の立場で奉納と理解する」とか「参拝する」とかなどと,詭弁そのものでしかありえない理屈にこだわってきている。
c) どだい,中国外務省の立場からは「歴史問題で言動を慎むよう求める」という批判が,「石破総理大臣が靖国神社に『真榊』を奉納した行為」について語られるのは,当然である。中国外務省にいわれなくとも「靖国神社が明治以来,日本の軍国主義が起こした侵略戦争の精神的なシンボルだ」という歴史認識は,日本の神道のきわめて特殊な異型1種としてのこの神社に関してとなれば,どこの誰であっても認めざるをえない事実そのものであった。
だから「日本側は,侵略の歴史を直視して反省するとともに,靖国神社などの歴史問題で言動を慎み,軍国主義と決別して平和発展の道を堅持するよう求める」などとまで,中国側からは指導されたりもしてきた。
もっとも,日本国内側では「靖国神社は,日本の軍国主義が起こした侵略戦争の精神的なシンボルだ」という事実など完黙したうえで,明治史以降の存在物として元国営神社そのものとして位置づけたうえで,彼ら・彼女なりの内弁慶的に閉塞した評価を堅守したい人びとが大勢いる。
したがって,石破 茂にせよ誰にせよ,首相の立場にあった日本の政治家が,かつてとくに侵略戦争をしかけ,たいそうな損害を与えてきた中国や韓国からの批判を,わざわざ惹起・誘引させるごとき靖国神社関連:「国家神道」側の宗教行動は,それこそ「火を見るより明らか」に,東アジア諸国間との政治情勢・交流関係ををこじらせる基本要因になるほかなかった。
いってみればそのたびに,あえて「外交問題に〈火に油を注ぐ〉ような行為」を,それも過去において日本の首相たち(など)が繰り返してきた行為は,ある意味〈愚の骨頂〉の連続戦線(宣戦)であった。
「明治謹製」になるエセ「古来神道史的な靖国信仰」を後生大事に護っているかぎり,どうにも合理的に説明できないような「いつもの稚拙な行為の反復」となるほかないのが,政治家それも最高権力者による「靖国神社参拝」とこれに相当する「真榊奉納」の行為であった。
d) というよりは政治家たちの実益にとってみれば,あくまで「死神になって合祀されている〈英霊〉」に「清き1票」があるわけでもないから,むしろ現実的な期待としては,いま生きている日本人有権者のその1票1票がほしいがために,靖国神社に出向いてあるいはそれと同じ意味を有する真榊奉納といった方法を代替に使うかたちを採って,国家神道由来の靖国神社における宗教行為をおこなっては,そのつど衆議院の解散総選挙や参議院選挙での御利益を期待している,という案配になっていた。
しかし,神道式のそうした「御利益期待」(「花より団子」精神)とキリスト教の基本的な宗教精神として「期待される信仰心」とは,まったく別物であった。この事実は,敗戦前の旧大日本帝国時代に「国家側がキリスト教徒たちに対してくわえた苛烈な宗教弾圧の歴史的な記録」に刻まれてきた諸相からも理解できる。
石破 茂の母方の祖父は内村鑑三の弟子であったがゆえ,茂はキリスト教徒として洗礼を受けていたはずだが,靖国神社に真榊を奉納するという神道式の宗教行為が「キリスト教の基本精神と合致しうるなどと答えてくれる」研究者は,1人としているはずがない。
いずれにせよ,以上の議論に登場するごとき毎年のごときに発生する,日本と韓国や中国との恒例行事みたいな「靖国問題をめぐる応酬」は,いつも日本側が燃料を供給(投下)する立場となっていた。
6「靖国神社の例大祭で奉納される真榊(まさかき)とは何? どんな意味があるの?」『Niche Station ニッチステーション』 http://nichestation.net/457/ ,2016年4月21日,更新 2019年7月10日
東京・靖国神社でおこなわれる春季例大祭および秋季例大祭に合わせて内閣総理大臣が真榊(まさかき)を奉納した,というニュースをよく耳にする。その靖国神社に奉納される供え物「真榊」とは,いったいなにか? そして,真榊を奉納することにどのような意味があるのか?
ニュースでしばしば登場する「内閣総理大臣の真榊奉納」について,一般的には,いまいち意味を理解されていない点があったのので,このさい調べてみた。
a) 靖国神社に奉納される真榊とは,いったいなんであるのか
真榊は正式にはサカキという植物で,神棚や祭壇に供えられる植物である。ただ,サカキは温暖な地域で生育するため,関東以北では類似種の「ヒサカキ(非榊)」がサカキの代用として用いられている。
その「ヒサカキ」と区別するために,通常のサカキのことを「真榊(マサカキ)」と呼ぶ。サカキは,日本では古くから神事で用いられており,そこから国字としての「榊(木偏に神)」という字が生まれていた。
神事で用いられているといっても,それほど特別なものではなく,田舎では庭先によく植えられている。また,楽天市場では安いものでは3000円~4000円ほどで購入できる。総理大臣が奉納しているものでは,5万円ほどの真榊である。
b) 靖国神社の例大祭とは? そして真榊を奉納する意味は
例大祭靖国神社では例大祭は春季例大祭(毎年4月21日~23日)と秋季例大祭(毎年10月17日~20日)の2回おこなわれる。この例大祭とは,靖国神社独自のものでなくて,一般的に「その神社で定められた日におこなわれるもっともも重要な祭祀」のことをいう。
靖国神社の例大祭は,天皇陛下の使いである勅使が,天皇陛下からの供え物を届けるほどの重要な祭祀であるがゆえ,本来ならば内閣総理大臣は参拝すべきという意見も多くあるが,中国や韓国への配慮から,参拝の代わりに〈真榊を奉納〉,ということになっている。
補記)ここの「中国や韓国への配慮」と指摘する点が不可解である。政治問題が宗教問題に関与せざるをえない現実は,この種の説明には縁遠いといえそうであるが,あれこれ議論している立場からこの程度の説明に満足できないのは当然である。
c) そして真榊を奉納する意味は-まとめの議論-
靖国神社では真榊を奉納できるのは,春季例大祭と秋季例大祭のみと限られている。よって,靖国神社へ真榊を奉納することは,一般的なお供えと比較しても重要な意味がある。(引用終わり)
要は本殿への参拝と同質・同等である宗教的意味を有する「真榊奉納」については,このような説明されている。
そこで,それではもっと具体的にはどのような意味あいがあったのかが関心事,問題となる。これは神道の教義マガイの説明に依るほかないのだが,真榊には憑依する力があるという理解がとりあえず必要となる。
ここで論点は石破 茂首相の問題に戻る。はたして,石破 茂は神道教徒なのかそれともキリスト教徒なのか? 日本人・日本民族はその双方でありえてもいい,などと応えるなかれ。旧大日本帝国は植民地や支配地域に治めた場所場所にはどこであっても神社を建造していた。異国の異民族の異教徒たちをさんざんに抑圧し,命も奪ってきた。
なぜか? なんのためであったのか? 神道神社の建物を造ることは「日本の宗教としての神道」を宣教するためではなかったのか? もっとも敗戦した瞬間にたちまち,それも植民地にあった神社のなかには焼き討ちにあったり破壊されたりした。
石破 茂は,首相になるためにあるいは衆議院の解散総選挙や参議院宣教を意識していたと思われるが,庶民感覚にも訴えるつもりで,靖国神社に実際に参拝したも同然に,「真榊奉納」という行為を媒体に使い「神道という宗教」に対面してきたたとなれば,根源的に重要な宗教上の問題が生じる。
明治以来,内村鑑三の無教会派キリスト教徒が一定数,日本社会のなかには存在してきた。その流れのなかで石破はクリスチャンになっていた。ともかく,旧大日本帝国時代からの国家神道の代表的機関のひとつである靖国神社に参拝するための《代替の行為》としてだったが,今回ともかく石破は首相になってからは,真榊を奉納することにした。
当人の意図がどうあれ,キリスト教徒が護るべきキリスト教の教理に照らしていえば,その神道的な宗教上の行為は,背教を意味する。日本のキリスト教徒がとくに戦争の時代,つまり1945年8月以前において,どのように過酷な弾圧をこうむってきたか?
われわれがしりたいと思えば,その「歴史の事実」を記録した文献はいくらでもある。わずかな人数であったが死者(その犠牲者:殉教者)も出していた。
1869年に「靖国神社」が創建されていた。実質,国家神道のために必要なひとつの神社として,新しく創造されたのがこの神社であった。それも「人間の死の局面」に対面したとき悪用するための,したがって,明治以前の「従来型の神道宗教」からは完全に逸脱した,いわば畸型そのものとしか把握できない神社が創りあげられた。しかも,国教そのものにまで格上げされる宗教機関となっていた。
とりわけ大正後期からは,国民(臣民)たちに対して対面させた国家神道は,実は宗教としてみなされるのではなく,ただ「オマエたちが守護すべき誠心」としての「道徳・倫理」を説くにすぎないものだ,と思いこませるような「天皇教の教え」が,日本社会のすみずみまで普及させられていった。
端的にいえば国家神道としての靖国信仰は「神道の道として」かなり異端の存在であった。一般的には緩い「信仰信条の縛り」しかない,つまり「神道の宗教性である」にもかかわらず「道徳や倫理なのだ」と,神道という宗教の本性を勝手にいいかえ(換骨奪胎させて)おき,しかも天皇崇拝=「生き神様信仰」を疑似的に教化してきたのが,とくに明治憲法施行以来における日本政治社会の一大特徴になっていた。
最後に参考文献になりうる1冊して,つぎの書物を紹介しておきたい。アマゾン通販で参照する関係は末尾に挙げておくが,ここではこの本の売り文句(解説)を引用しておく。この紹介文を読むだけでも,かなりの事情が理解できるはずである。
稲宮康人・中島三千男『「神国」の残影 海外神社跡地写真記録』(非文字資料研究叢書),図書刊行会,2019年。
大日本帝国時代に創建された「海外神社」のいま……。
公園で遊具となる鳥居,ジャングルに佇む鳥居,あるいは学校や教会にかわっても,その参道,石灯籠はかつて神社であったことを物語る……。これは日本の風景ではない。かつて大日本帝国がアジア地域を中心につくった「海外神社」である。その数1700余社が残り,いまだ全貌は明らかではない。
写真家・稲宮康人は台湾,中国,韓国,北朝鮮,ロシア,フィリピン,サイパン島,テニアン島等,14の国と地域,200社にのぼる海外神社跡地を10年をかけて撮影してきた。大判フィルムカメラによる80社82点の写真からは,現在に残る「神国」の記憶がたちのぼる。またあえて,明治以降に作られた国内神社も収録し,“あった” と “ある” との比較に写真家としてのテーマを求めた。
かつて大日本帝国が,移住した邦人の安穏祈願のため,また版図拡大の皇民化政策として,台湾や朝鮮半島,南洋群島,満洲国,東南アジア等に創建したのが「海外神社」である。しかし1945年の大日本帝国の終焉とともに「海外神社」は廃絶した。
現地人の放火・略奪,またその混乱をさけて日本人の手で破却されたものもあったという。その後,それぞれの国の社会体制の中で,朽ち果てていくもの,一部が利用されるもの,再建されるものなど,独自の歴史を刻んでいった。ある種のキッチュさがうかがえるものもある。
本書は鮮やかな海外神社跡地写真とともに,長年にわたり海外神社跡地の調査を続ける中島三千男の最新の論考,あるいは在りし日の神社写真,詳細な神社解説により,戦前の植民地支配の実態,戦後のそれぞれの現代史,ひいてはカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズム研究への新たな手がかりとなるだろう。また大日方欣一による写真論を収録し,現代写真のひとつの在り方を問う。
「俗悪なもの」「安っぽいもの」「まがいもの」を意味する言葉
元々は低俗で悪趣味な芸術や日用品を指すネガティブな言葉であったが
現代では「あえてチープで可愛い」「遊び心がある」といった
ポジティブな意味としても使われているという
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【「本稿(3)」の続編は出来したい
ここに指示する。
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【参考文献】
