【ドラクエ3】繰り返す16歳の朝。何度もアリアハンで目を覚ます理由(GBC版とスマホ版の思い出)
何度でも訪れる「16歳の誕生日の朝」
*「おきなさい。おきなさい
わたしの かわいい ゆぱ や……」
何度、この言葉に起こされてきたでしょう。
ブラウン管のテレビの前で。
教室の片隅で。
病室のベッドの上で。
ドラゴンクエスト3において、16歳の誕生日は「冒険の始まり」を意味します。
けれどわたしにとってそれは、人生の節目節目で立ち返る原点回帰のようになってました。
前回の記事では、1秒を削り、効率の極致を目指す「RTA」について語りました。
しかし、わたしのこれまでを振り返れば、その時間よりも、もっと日常の隣にドラクエ3がいた時間の方が、ずっと長いんじゃないかと思いました。
高校時代に再会した「ゲームボーイカラー(GBC)版」。
利き腕を負傷して不自由な入院生活の中で寄り添ってくれた「スマホ版」の記憶です。
ワクワクしたかった高校時代
高校生という時期は、人間として少しずつ「こなれてくる」時期じゃないでしょうか。
子供の頃のような無垢な驚きは薄れ、少し冷めた視点で世の中を見始めるものです。
当時、わたしの周りは「ポケモン金銀」や「クリスタル」に熱狂していました。
そんな中、わたしはあえて、もう何度もクリアしたはずの「ドラクエ3」をGBC版で買い直したんです。
ノスタルジーに浸るには、まだ早すぎる。
物語の結末も、大魔王の倒し方も、知り尽くしてる。
それでもわたしは、もう一度アリアハンで目を覚ましたかったんです。
その背中を押したのは、GBC版の「ポップでキュートなパッケージ」でした。
ファミコン版の覚悟のある精悍なイラストや、
スーパーファミコン版の洗練された王道ファンタジーとは違う。
どこか軽やかで楽しげなラーミアのイラスト。

このイラストを見た時、世界を救う重圧ではなく、
ただ「この世界を旅するワクワク感」を味わいたいのだと気づきました。
授業の合間、短い休憩時間中に小さなゲーム機。
液晶の中の線は細くてどこか頼りなかったのを覚えています。
けれど、あの小さな画面から流れるBGMは、教室の喧騒を消し去り、わたしをいつもの世界へと連れ出してくれました。
結局、モンスターメダルをコンプリートする前に飽きてしまったのも、今思えば高校生らしいですね(笑
当時のわたしは、最強の勇者になりたかったのではなく、ただ心地よい冒険を散歩のように楽しみたかったんだと思います。
右腕の不自由と指一本分の自由
それからさらに時が経ち、予想だにしない形でアリアハンへと帰省することになりました。
右腕の骨折。
利き腕をギプスで固められた窮屈な入院生活です。
4日間という短い期間でしたが、その不自由さは精神をじりじりと削るに十分でした。
そんな時、スマホで起動したのが、スマホ版ドラクエ3でした。
スマホ版は縦画面で、片手でも操作できます、
ギプスで固定された右腕。
それでも十分に操作することができました。
静寂の病室を越え、アリアハンの大地へ降り立ちます。
パーティには、いつものように「自分と友達の名前」をつけました。
友人の名前、そして当時の彼女の名前。
今振り返れば苦笑してしまうパーティ編成。
でも、孤独で静まり返った病室において、画面の中に友達がいることは、ちょっとだけ救いでした。
スマホ版という手軽さが、あの時の私にとっては、何よりも欲しかった自由そのものだったんです。

なぜわたしは何度もアリアハンに帰るのか
高校時代の軽やかなワクワク。
入院時代の切実な願い。
全く異なる状況で、異なるハードを手に取りながら、わたしはいつも同じアリアハンのベッドで目を覚ましていました。
なぜ、何度もここに戻ってしまうのか。
それは、現実の世界が変わっても、どれほどボロボロになっても、アリアハンの母は変わらずに「おはよう」と迎えてくれるから。
「役割」を演じ「極限」を追求し、そして「日常」。
ドラクエ3は、わたしにとって単なるゲームではなくて、
どんな時でも勇者になって冒険に出かけられる世界なのでした。
あとがき
こうして思い出を辿るたびに、またあの朝に目覚めたくなってきました。
次は、まだ見ぬ「HD-2D」という新しいアリアハンで、どのような朝を迎えるのでしょうか。
いつかまた、目を覚ますその日まで。
ぼうけんのしょは、まだ続きます。
