書き渋っていたことについて(創作的な文学的⑰)
仕事が立て込んでいたのもあったが、書くことについて少し小難しく考えてしまい、更新が止まっていた。
書くということは、表現をするということである。
表現をするということは、少なからず他人に影響したい/するということである。
小川哲さんの言い方を借りれば、「小説はコミュニケーションである(『言語化するための小説思考』)」。
AIと一緒に小説を書いて、Kindle出版をしてみた。(この記事に詳しい、『ASMR』という小説である。)
続けてAIと小説を書いていくつもりだったが、実は私には過去に書いた小説のストックがあって、そのうちのひとつが『手首の中の』という小説なのだが、まずそれをKindleで出版しようとしたところ、自殺未遂について書いた小説だったので、はたと立ち止まってしまった。
生について考える時、その対局にあるものについて考えざるを得ないのは仕方がないし、つまり死について考えることは、メメント・モリ、必然なのだけれど、
この小説を読んだ人が、ことを実行してしまうというのは、自分の望むところではない。
ドラマ『なんで私が神説教』の主人公は、ネットでの交流を通じて、ある少女の自殺に加担してしまう。
この頃では、AIと相談して、自殺に及んだ例の話もあった。
日本は自殺大国で、毎年2万人以上の人が、自殺で命を落としている。
でもだからといって口をつぐむことは違うので、このことについて自分はそれなりに考えてきて、今生き延びているんだから、ひとつの生き証人として、自殺について言及した小説を公開すること、そうした表現をすることについて、禁じられる筋合いはない。
むしろ自殺が少ない社会を実現したい。
ノルウェイの森、大学時代に仲間を失ったこと、エトセトラ、エトセトラ。
自由意志を認める社会では、自分の生死を自由にしていいのかモンダイ。
書いたこと、話してしまったことは取り返しがつかないけれど、書いたことを修正することはできる。
公開しているものについて、少しずつ推敲を加えていくこともできる。
とりあえず今、最大限の配慮をして表現すること。
でも、どうしても誤解されたりすること、思いも寄らない影響を及ぼすこともあろうこと。
でもだからと言って口を閉ざすことは違うということ。
その問題を見過ごすことにしかならないということ。
そんなことを考えて、再び投稿をはじめることにした。
小説は、近いうちにアップする予定である。
