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短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(55) だいじなところが立たなくなった

この記録は(54)の時間線に接続されていると同時に
参照系(35)と高い一致率を示す。
ただし、完全一致には至らない。
位相が、わずかに外れている。
そのため、ここにあるものは同一ではない。

俺は忘れてない。
あの日のこと。

息をしていた。

はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ

ときどき口を閉じ、舌を湿らせていた。
俺は憶えている。
思い出せるということは、まだ逃げていないということ。

綱。
憶えている。
これは握るもの。

これを握ってないと、逃げてしまうものがある。
それを逃がしてはいけない。
いったん逃げてしまったら、帰ってくる保証はない。

芝生公園が枯れていた。
白っぽくなった芝生が、空のオレンジ色を、必死に吸っていた。
しかし芝生というものは、ひとつひとつが小さいため、
空から吸えるオレンジはすごく少ない。
いつまでも、かさかさ音を立てるのみ。

女子トイレと記された、白っぽい、小さな建物の前で、
俺は、嗅いでいた。
さっきまで。
におってくるものを、嗅いでいた。

今はもう、においはない。
俺はまだ、ここにいるというのに。
いったん逃げてしまったら、帰ってくる保証はない。

はっははっはは。

息をしている。

基本、口でしている。
口は開けるものか閉じるものか。
なにかを入れる場所か、なにかを出す場所か。
開こうと思って開くものか。
閉じようと思って閉じるものか。

開いてしまうと乾いてしまう。
だから、ぺろりとやる。
そのときだけ鼻で息を吸う。
においが入ってくるのは、鼻で息をする時だけだった。

においはもう、しない。

鼻はまだある。

たぶん。

はっははっは。

ぺろり。

大丈夫。鼻はまだある。
綱をしっかり握っているからね。
俺がここで力を緩めれば、逃げてしまうものがある。
いったん逃げてしまったら、帰ってくる保証はない。

確実なのはオレンジ色。
綱の先にあるもの。
この色は空と同じだった。
空もオレンジ色。
ところで、
地平線というものは、どこにあるのだろう。
俺は芝生広場を見渡して、
空と芝生広場の境目をさがしたけど、
今日ここに、そういったものはないようだった。

はっははっは。

困ったね。
女子トイレの前に、立ってるね。
なぜだろう。

俺と女子トイレとのあいだは、じゃっかん遠かった。
俺が綱を離したくない理由の多くは、
この女子トイレが占めていた。
俺と女子トイレのあいだを繋ぐのは、
俺が握っている綱の先にあるそれ。

俺は待っていた。
女子トイレというか、女子トイレの中にいるものを待っていた。
それもまた、いったん逃げてしまったら、帰ってくる保証のないもの。
それが万が一、離れていくことを考えたら、俺の心臓は、どきりとひとつ、
強く波打った。

は。

息が止まり、そのまま縮かまってしまった心臓が、元に戻らないので、
俺は無理くりに、よそ見する。

どこかの親子が、ラケットのようなものでスポンジのようなボールを打ち合って
バドミントンのようなことをするのを見守った。

空の色を吸って薄オレンジ色になった芝生に、
バドミントンのようなことをする親子の影が、斜めににょーんと伸びていた。

影は実物よりだいぶ背が高く、腕も足も長い。
子どもの腕は、親の方の腕よりも細く地面の凹凸に沿ってうねっていた。
そのうねった腕に持つ、細長いラケットが、ぎこちなく動く。

ぽーん。

と来たボールを、子どもの影が追っかけて、
ぎりぎり追いついて、

ぽわわわーん。

ようよう打ち返し、
親のほうはそれを、ごく軽く、高く打ち返す。

ぽーん。

それをまた子どもが追いかける。

ぽわわわーん。

親子の影を行きかうボールの影。
それだけが、ゆがみなく、なぜだかまん丸だった。
そこにだけゆがみがないので、俺はボールばかり見てしまう。

ボールを見て想うのは、トイレの中にいるもの。
ボールがほかの影と同じように、斜めににゅーんと伸びてしまわないよう、
どこかに行ってしまわないように、
ボールを執拗に、見つめていた。

子どもの影はボールを打ち返すのが下手で、
俺はハラハラしてしまう。

「удержать!」

子どもがなんか言ったけど、それは俺には「ウジェルジャーチ」としか聞こえない、
聞こえたって、意味なんてわからない。

こんな子ども、いつまでも見ていられない、と、
俺は反対側に、体を向けた。
そっちには裸の木が何本か立っており、すかすかの木の間はオレンジ色。
俺はホッとして、オレンジ色を見つめた。

ところでお日様ってやつはあったかいね。

あったかく、するね。

綱の先にいるものが、
ぶるっとひとつ、大きく動いた。
俺の握る綱は、そいつの動きにつられ、
俺の体は前のめりになって、
俺の革靴が、枯れた芝生を踏みしめた。
これでもしかすると芝生の一部は死んだかもしれないけど、
俺はオレンジ色の安心から、少しだけ目を覚ます。

俺は思い出す。
待っていたことを。

それはいつ出てくるかわからないし、
出てこないかもしれない。

ていうか、
誰を待ってたんだっけ。

遠い先に小さい点が見えた。
それはスポンジボール。
親子が打ち合ってたボールだった。
お互いの間を行き来するボールの方向に合わせて、
二人とも、いつのまにか遠くに行ってしまったみたいだった。

オレンジ色の芝生公園が、
急に広くなったように感じた。
俺は広大なオレンジ色のなか、
ひとつだけぽつねんとある点みたくなって、
綱だけは手放さないようにしていたけど、
よく考えてみたら、
綱の先になにがいるのか、わかってなかった。

わかってなかったけど、手放したくない。
いったん逃げてしまったら、帰ってくる保証はないから。

俺が忘れたら、
それはもう存在しないものになる。
綱を握ってないと、逃げてしまう。
俺は、それを逃がしたくなかった。

***

「あたしは産みだしたいのよ」

どこかから、沼田の声が聞こえた。

「わかりきったものはもういらない。産まれてくるものを拒絶したくない」

沼田の声がする。

俺は急に寒気を感じて、ぶるっと身を震わせた。
俺は自分が、上半身裸であることを、思い出し、

びえっくしょい。

くしゃみした。

芝生公園から、俺は、
車の中に戻っていた。

助手席にはいーだ課長がいて、
開いた扉の向こうに、沼田ミソギが立っていた。
いーだ課長の顔前に身をかがめ、沼田は言った。

「もう、始まっちゃってる、繋がっちゃってんのよ。あたしはここから逃げたくない。これはあたしの意志なの」

いーだ課長は、フロントガラスに向き、まっすぐ前を見ていたけど、
そのアルカイック・スマイルに、さしたる情報はない。
いーだ課長の心はここからずっと遠くにあって、
そこは俺から見えるような場所ではない。

フロントガラスの向こうには、
こっちに戻ってくるニックが見えた。
駐車場に停められた車の間をすり抜けながら、ニックは、頭の上で、
黒焦げになった布っ切れを振り回している。
ニックが振り回す布っ切れは、黒焦げになった俺のワイシャツ。
銀色の小さい円盤がくっついてて、
それをおもりがわりにして、ニックは勢いよくぶんぶん振り回す。

「もうぶるぶるしなくなったぞー」

ニックがニヤニヤしながら大声で言った。

黒焦げワイシャツの先端で、太陽光を反射して、ぎらっと光ったのは、
『概念の音姫』。

「あたしは決めたのよ」
沼田がいーだ課長の肩をぽんと叩いた。

いーだ課長がかすかにうなずいた。

沼田は体を起こし、車から去っていった。

車と車の間の、
狭い通路をすり抜けて、沼田とニックがすれ違ったとき、
ふたりの姿は、青空を背負っていた。

駐車場の上に広がっていた空の色は、
あったかく見えるようなオレンジじゃなく、冷たく見える青だった。

(続きはこちらです)




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