短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(76) ハルシネーションドリーム エモ山夢十把・前編
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6月27日(土)
紫色の円盤型の雲が、浮かんでいた。
東京の夜空の、巨大なかさぶたのようだった。
再生しかけた皮膚の濁った白色が、その下の血の色を透かして見せていて、
けれども夜が、その全体の彩度を激減させ、
雲は紫色に見えた。
俺はその雲を、はじめは遠くから眺めていた。
そのうち雲のほうが、俺に近づいて、
俺の頭は雲の動きに合わせ、どんどん顎を上げていく。
もうこれ以上仰向くことができない位置で、雲はひたりと動きを止めて、
俺を見ていた。
雲が俺を見ていた。
首の付け根に、頭の重さがのしかかり、肩が強ばったので、
俺は顎の関節をゆるめた。
すると唇のすき間から、
すかさず夜気がしみこんできて、
俺のすき間を塞ぎ、
体から、あたたかい息が漏れ出るのをひたりと止めた。
俺は塞がれて、息苦しくなってきて、涙が出そうだった。
俺は塞がれて、脳天から空に助けを求めた。
それが俺の脳天から、一本の長い針になって伸びようとしたそのとき、
雲のほうでも、真ん中に黒い点がうまれ、
黒い点は広がって、その中心から、一本のなにかが出てくるのが見えた。
尻尾みたいなものだった。
それは勢いよく降りてきて、
魚が川面から跳ねるみたく、
雲の黒い中心の真下で、その体をねじった。
そして降りてきた。
落ちてくる感じはしなかった。
それが、つながっているからだった。
それは、
紫色の雲の黒い中心から、
あとからあとから出てきた。
鼻先を、粗い繊維で撫でられて、
俺の鼻先は、細かい傷がついたようだったんだけど、
鼻先から眉間、眉間から鼻先へと、
それが執拗に俺を撫でるので、
やがて俺の鼻筋は、日焼けみたいにヒリヒリしだした。
俺は紫色の雲の、黒い中心を見ていたんだ。
あとからあとからそれを出す、黒い中心を見ていたんだ。
だから尻尾の先っぽが、いつの間にか鼻先まで降りてきたことに、
すぐには気づかなかった。
出来立ての道路みたいな、灰皿みたいな、
焦げたにおいがして、
俺は息をしていて、
それがタールのにおいだということに思い当たり。
ロープだった。
紫色の円盤型の雲から、
俺の目の前に、一本のロープが降りてきていた。
それはちょうど、
俺の片手がそれぞれに、しっかり握りしめられる太さだった。
俺はそれを両手でつかんで、
油じみたような、固くねじられたそれを、
はじめはそっと、
そのあと思い切り、
ひっぱってみた。
タール臭くなりながら、俺がいくら体重をかけても
ロープはびくともせず、
ぴんと張ったまま、
その見返りに、それ以上の力で、
俺をひっぱりあげようとした。
きっと紫色の雲のなかに、
ロープの根っこみたいなのが張りめぐらされているんだろう、
と、俺は思った。
6月28日(日)
俺はトロッコ列車に乗っていた。
蓋のない箱みたいな、ひとり乗りのトロッコ列車。
ひとつの箱に、ひとりずつ乗っていた。
えんじ色の箱がいくつも連なって、
カーブした時に見えたのは、
その箱が、俺のいる箱よりはるか前に、何台も続いている様子だった。
先頭は、米粒より小さい。
俺のうしろにも続いていた。
振り向いてないけど、
レールのつなぎ目で箱が跳ねるたび、
固い椅子の背もたれが、
うしろの箱に引っぱられる。
それは重く、
連なる箱がひとつだけでないことを知らせる。
俺は膝に、エゴ山の頭を載せていた。
鉄の球かと思うほど重い、頭だけのエゴ山は、
俺の膝枕で目を閉じて、
眠っているのか死んでいるのかわからなかった。
6月29日(月)
トロッコ列車で山を走っていた。
山の中の遊園地みたいな場所だった。
線路の両脇には花が植えられて、
生い茂った木々のあいだから、灰色の斑を持つキリンが顔をのぞかせる。
俺は景色どころじゃなかった。
膝の上のエゴ山の頭が、がたぴし揺れるトロッコに翻弄されるから、
気が気じゃない。
トロッコが跳ねると、エゴ山の頭も跳ねる。
いびつな頭と耳やら鼻やら、
揺れに合わせて、落ち着きなく向きを変えるし、
なにかときおりふと軽くもなるので、
油断すれば、膝から落っこちそうになる。
それが心配で、
キリンだろうが何だろうが、
見ているようで、見ていない。
床はスノコのような木組で、
すき間から見える線路の枕木が、床のスノコと直角に交わって、
俺にときどき、小さな長方形を見せるが、
それは一瞬で、すぐ消えて、
俺の目には、
枕木のあいだに転がる、先の尖った石の残像が重なっていく。
俺の膝とトロッコの箱とのすき間は、エゴ山が落ちるほどの幅ではないが、
それでも心配なのである。
俺は袋が欲しいなと考える。
エゴ山の頭を入れる袋。
レジ袋でちょうどよい。
買ってきたスイカのように、入れておけばよいと考える。
しかしレジ袋はない。
6月30日(火)
トロッコ列車、停まっている。
ひとびと降りていく。
俺もついていく。
山の中腹の、受付所である。
ぞろぞろと、ついていく。
俺の前にいるだれかは、
クリームがかった緑色の、真新しいカーディガンを着ている。
平たい背中に、
こげ茶色のバッグの細いストラップが斜めに走っていて、
俺はその黒い縫い目を見つめる。
ガラス張りのチケット売り場に黄色い電灯がともっている。
大きな台帳のようなものが開かれて、置いてある。
白い紙が電灯を反射している。
よく見れば、灰色の細い罫線が引かれている。
か細いが、針金のごとく鈍く輝く罫線は、ざらざらしていて、
見ただけで触れたような気になる。
強い洗剤臭と、アンモニアと、
コンクリートにしみ出した水のひんやりした感じがして、
受付所ではない、どこかひっそりとした場所に、トイレがあるんだろうと俺は思う。
7月1日(水)
見せられているのは、撒く演舞である。
隣に座るのは、チンパンジーである。
俺は演舞より、演舞の行われる土俵が気になる。
土俵を囲むロープが、
ほとんど土に埋もれている。
土は乾いて白くなり、
そこに埋もれかかるロープまで、
乾いた砂にまぶされている。
演舞のものの裸足の踵が、
土俵のロープを踏んだ時、
俺の土踏まずには、
ロープの粗く硬い感触が伝わってきた。
「ロープがよじれている」
俺がつぶやくと、
隣にいるチンパンジーが、俺の顔を覗き込み、
歯をむき出して笑った。
歯は黄ばんでいたが、一本一本がとても大きくて、
きっちりと揃っていた。
客席から大きなどよめきが起こり、
土俵に目を向けると、
撒く演舞を終えたものがちょうど土俵を去るところで、
撒かれたものがまだ、空中をただよっていた。
客席から拍手が起こり、
俺の隣のチンパンジーも、長い腕をふりあげて、拍手した。
腕に生えた真っ黒い毛並みがそよいで、俺のほうにまで風が伝わってくる。
トロッコ列車に、
エゴ山の頭を置いてきてしまったことを、
俺は思い出す。
からっぽのトロッコ箱の固い椅子に、
エゴ山の頭が、
半ば斜めになって転がっているさまが、
俺に見えてくる。
そこでエゴ山は、
閉じていた目を開けて、
最初に目に入ってきたえんじ色の壁の意味を考える。
そのあとやがて、椅子に押しつけられていないほうの耳に、
山の中腹の静けさが伝わってくる。
無人のトロッコ列車は、ぴたりと時を止め、
頭だけのエゴ山は、頭を動かすことができない。
山はもしかするともうすでに、
日が傾きかけ、冷え始めている。
動けないエゴ山の頬を、影で椅子に固定して、
ゆっくりと、音もなく、影で飲み込んでいく。
俺の意識は土俵に戻り、
演舞の拍手は続いていて、
そこだけ毛の生えていない、浅黒い手のひらを叩き合わせながら、
「シコフンデッ!」
チンパンジーは叫ぶ。
喝采の喧騒に負けじと、体を揺らし、手を叩き、
俺の顔を見て、土俵を指さす。
「シコフンデッ」
言ったあと、歯をむき出して笑う。
上唇がめくれあがっている。
「シコフンデッ!」
「シコフンデッ!」
あちこちから声が聞こえる。
喝采が大きすぎて、そういうふうに聞こえる。
エゴ山の頭を気にする俺には、そうとしか聞こえない。
7月2日(木)
黄色い電灯をともした列車が走り過ぎていくとき、
その窓は連なって、つながって、
一本の線になる。
塾帰りの俺は、踏切で、
列車が通り過ぎるのを待っていた。
ランドセルと、テキストの詰まったサブバッグ。
腹はからっぽ。
踏切の横の、赤い看板を出した店の換気扇から、
焼き鳥をつくる煙が吐き出されている。
赤い電灯に照らされた煙のなかに、
ときおりきらりと、粒子が光る。
ときどき見える。
ときどき見える。
ときどき見えるから、
いつまでも見ている。
7月3日(金)
俺は絵を描いている。
俺は教室にいる。
俺は学ランを着ている。
教室に俺しかいないので、
みんな帰っちゃったってことがわかる。
俺にはわかっていた。
俺はその日ひとりで絵を描こうと思ったから残ったんだってことを、
俺は知っていた。
俺は描いておこうと思ったのだ。
忘れないうちに描いておこうと思った。
これは、俺がいつかこれを思い出す日のための絵だ。
それを描こうと思っていることが
俺にはわかっている。
俺がこれから描く絵は、俺にとってすごく重大なことで、
だいじなことで、
それを忘れたら俺は、今日の俺を忘れるってこと。
俺のことを俺が忘れるってこと。
そんなことがあったら大変だから、
俺は絵を描いておこうと思っている。
俺は絵を描いた。
シャーペンで、たくさん描いた。
芯の色がうつって手が真っ黒になった。
窓の外はオレンジ色。
カラスの声遠くひとつだけ聞こえて止み、
そのとたん、
窓際側に置かれた机の上に、にゅーんと黒く、斜めに伸びたのは窓枠の影。
俺はたしかに絵を描いた。
忘れないように描いた。
だいじなことを描いた。
だいじなことを描いた。
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