短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(61) イド山の井戸
前回のエモ山
起承転結を正義だと思ってるようなやつらが、
寓話の肩持って世界を閉じようとする。
イド山が、
むかしそんなことを言ってたんす。
俺はそれを覚えていた。
俺は手紙だから、
寓話じゃないから、
イド山からもう一度そのことばを聞きたくなって、
イド山に会いに行きました。
イド山は、井戸の中に住んでます。
その井戸がどこにあるのかは、親分には教えられません。
ま、知ったところで親分は、きっと行こうとは思わない。
それはすごく遠いところにあるから。
森の中です。
親分は知らないかもしれない。
ほんとに深い森ってのは、
草木が日光を奪い合い、お互いのすき間すき間に緑を伸ばしていくから、
地面に日差しなんか届かない。
どんどん高くなっていく木々に、
お日様の光が遮られちゃって、
地面の近くは、いつも夜みたいに暗いんです。
森はそういうふうにして、
閉じてしまおうとする。
日差しの届かない内側から
育たなくなっていく。
枯れていく。
外側だけどんどん大きくなっていく。
イド山の井戸ってのは
そういう深い場所にあって、
そこには、
日差しのおこぼれでほそぼそと生きてる
草たちが
絡まりあい、頼りあいながら
愚痴っぽく地面を這っている。
イド山の井戸は、
そういう草と草のあいだに
隠されるみたいにして、ある。
森っていうのは草木が動く場所だから
森の中で、
草よりも根よりも動けない井戸でいるってのは
確実に不利なんです。
植物は
時間はかかるけど、動ける。
けど井戸は動けない。
誰かに掘られたその日から、
一歩も動けずに
井戸ってのは、
時間の楔みたく地面に突き刺さってます。
石組みはいつでもひんやりして、
石と石のすき間には、
森で一番小さい種類の草が
蟻のハート型の葉っぱを広げてます。
滑車はもう壊れて使えない。
綱の千切れたつるべは、
井戸を裏切って、朽ちて土に戻りかけてます。
頼りになるのは、蓋だけです。
誰かがそこを閉じた日に
あちこちにとめた釘が、
白茶けた木の板に、
赤カビみたく色を広げてます。
どこに棘が出てるかわからないし、
体重をかけたら
ぶち抜いてしまうかもしれないから、
蓋には触れないほうがいい。
井戸を覗き込むときは、
崩れかけた石組みに手を当てて、
蓋のすき間に
目を近づけたり遠ざけたりして、
照準をあわせるといいです。
井戸の底に見えるのは、
タールみたいな黒い艶です。
そこは光の射さない場所のはずなのに、
艶はそれ自体が生きてるみたく、
なにか動きのようなもので、
それがあるってことを、俺に知らせます。
その黒い艶、
それはたぶん水。
水がまだ、少しずつ、底から湧き上がってるんだと思います。
艶が動くと、
水が動いたんだってことがわかる。
イド山は、その井戸の中に住んでます。
俺はけっこう井戸みたいなものは、
じつは嫌いじゃないつうか
興味はあるんだけども、
もしも俺が、この体も俺だったとしたなら、
イド山の井戸に
毎日だって行ってやりたいと
思うんだけれども、
問題は、女なんす。
この女の体連れて、
イド山の井戸に、行きたくない。
「半分は正解、もう半分は誤解よ」
イド山の前で、
得意げに囀られた日にゃあ。
それでイド山が、
もしも万が一、
俺みたく、そのことばを
半分でも信じちゃったりなんかしたら。
俺にはその先が予測できないなって
思うんです。
だから俺はふだん、その井戸には
なるべく近寄らないようにしている。
ほんとに必要な時にしか
行かないことにしている。
今回が、
その「必要な時」だったって
わけです。
「にいさん」
蓋が朽ちて穴になってるところから、
俺はイド山に呼びかけました。
「いるかい?」
俺の声が、つるべのかわりに
井戸の底へ、すこんと落ちていきます。
井戸の壁に響く俺の声は
震えて聞こえました。
それは俺に
俺の中にある
不安みたいな気持ちを
連想させたわけだけれども、
だからこそ、
イド山が井戸のどこにいたとしても、
すき間風なんかと間違えて、
聞き逃すことはなさそうでした。
やがて黒い艶から
声が跳ね返ってきた。
「にいさん」
井戸の底の冷たい空気と一緒に。
「いるかい?」
俺はすかさず答えました。
「いるよ」
イド山が逃げてしまわないように。
「俺だよ」
「いるよ」
声が返ってきた。
「俺だよ」
それは、まちがいなく、
イド山の声でした。
俺はホッとして、
実は、
すこし泣きそうにもなりました。
相手の声を聞けば、
俺は手紙でいることができるから。
俺はまだここにいるんだって気がして、
ここにいていいんだって思える。
勝手についてきた女は、
人間の真似をして、
爪で音を出していた。
女は赤い爪で
井戸の石組みをつつくんです。
こつこつ
こつこつ。
野生動物ってのは、
なるべく音を立てないようにして暮らします。
お互いに、
相手を驚かせないように、気を配る。
鳥は空に逃げられるから声を出せる。
飛べもしないのに大きな音たてるのは、
人間だけです。
こういう深い森で耳障りな音がすれば、
そこには必ず人間がいる。
こつこつ。
こつこつ。
女が人間の真似をして
音を立てました。
それは俺自身にとって、
覚えのあるしぐさです。
それはふだん
女が俺の額を叩くしぐさです。
女はいつも
そうやって、俺をせかす。
悪気なくせかす。
その時女は、井戸をせかしてるつもり
だったのかもしれません。
この女、
悪気はないんです。
そのへんの浅瀬から拾ってきたような
つまらないことば並べ立て、
それで済むと思ってるのが、
この女ですから。
遠浅しか知らないような女ですから、
悪意なんてものはない。
この女にとって
井戸は単に、
まったく違うものだってだけなです。
俺は女のことはほっといて
イド山とだけ話すことにした。
「にいさん」
俺の声は震えていた。
「手紙だよな、俺は」
「手紙だよな」
イド山は答えた。
俺は手紙だから閉じてない。
答えが返ってくる。
それは俺が手紙だってこと。
親分。
親分が変わってしまったら、
俺も変わってしまいます。
起承転結を正義だと思ってるようなやつらが、
寓話の肩持って世界を閉じようとしたら、
俺はもしかすると
消えてしまうかもしれない。
こつこつ。
こつこつ。
女の爪の音が止まった。
爪のあいだに詰まった土が
女は気に入らない。
「早く帰りましょ」
そう言って、女は爪をかじった。
「半分は正解、もう半分は誤解なんだから」
その時の俺には、
女の言った「半分」が、
どの「半分」なのか、
わからなかった。
俺は井戸の中に叫んだ。
「手紙だよな?」
声は返ってこなかった。
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