短編ドラマ「名もなき主役たち」第3話「夜のメロンパン問答」
2年半前。文字通り心身を削るような日々を送っていた会社を辞めた夜のこと。
いや正確に言えば、「辞めた翌日の夜」だったかな。解放感はあったものの、長年の習慣からか、ぽっかりと空いた時間を持て余し、まるで抜け殻のようだった。
何かせずにはいられないような気がして、意味もなく近所の道を歩き回って、最後にたどり着いたのが24時間営業の近所のコンビニだった。
夜の20時00分。蛍光灯の下、冷蔵ケースの白い光がやたらまぶしくて、自分の顔を映し出したときに、「ああ、これが無職の顔か」と、どこか他人事のように思った。あのときの俺は、疲労の色が濃いのに、どこか安堵したような、複雑な表情をしていた気がする。外から見たら、ただの顔色が悪くてうろついている男だろうけど。
で、入ってすぐ気づいた。パンの棚の前に、紺色のブレザーにチェックのスカート、という見慣れた制服姿の女の子。少し大きめのリュックを背負い、前髪をピンで留めて、メロンパンとカレーパンを、まるでその選択が一日の気分を左右するかのように、交互に、真剣な眼差しで見つめていた。
本気で悩んでいる顔だった。その真剣さが、なんだかちょっと面白くて、同時に、彼女の日常の一コマに触れたような気がして、少し切なくなった。
そしたらその子が、意を決したように顔を上げて、こちらを振り向いて言ったんだ。
「あの、すみません。どっちが正解ですかね?」
今思えば、あの時の俺は、疲弊した心で「人生に正解なんてないんだよ」っていう、薄っぺらいテンプレを喉まで出しかけていた。でも、その小さな顔に浮かんだ、まるで哲学者のような真剣な眼差しに、なぜか言葉を失い、思わず口をついて出た。
「……メロンパンかな」

特に深い理由があったわけじゃない。ただ、その時の気分と、語感だけで答えた。でも、今もあれで正解だったと思っている。少なくとも、あの瞬間においては。
彼女は、俺の言葉に少しだけ安心したように笑って「ですよね」って言って、メロンパンを手に取り、レジに向かった。会計を終えて、ビニール袋に入ったメロンパンを提げて店を出るとき、一瞬だけこちらを振り返って、少し照れたようにこう言った。
「じゃあ、お先に“おつかれさまでした”」
あの時の“おつかれさまでした”は、いまだに俺の中でトップクラスに沁みている。だって、誰にも言われなかったから。会社を辞めた翌日、送られてくるのは退職の手続きに関する事務的なメールばかりで、労いの言葉なんて一つもなかった。ただ、無情にも日付だけが“次の日”になっていくそんな孤独な時間の中に、彼女の温かい一言がじんわりと染み渡った。
あの子の何気ない一言で、俺の中で滞っていた何かを解き放ってくれた気がした。やっと、長くて重い一日が終わったんだ、と。
今でも、夜中にふと目を覚ますと、あの夜のコンビニの光景を思い出すんだよね。メロンパンの甘い香り、あの一言の温かさ、そして、小さな顔に宿っていた、あのまっすぐで真剣な眼差し。
たかがパンの選択。でも、誰かの一日の終わりを、そして新しい始まりをそっと後押しするには、それくらいの、ささやかな優しさでちょうどいいのかもしれない。
俺?
そのあと、失業保険の手続きやら、転職活動やら、いろいろなことがあって、今はまあ、おかげさまで、あの頃の苦労が嘘のように、それなりに元気にやっている。
でも、コンビニのパンコーナーでメロンパンを見かけると、いまだになぜか気後れしてしまう。だってあれは、あの夜の、彼女との特別なやり取りが生んだ、“正解”だったから。安易に手に取ることは、あの時の感情を薄めてしまうような気がしてしまうんだ。
あっそういえば、この前、ファミレスで「会社辞めた」って言ってる男を見かけた。声はかけなかったけど、なんか、懐かしかった。
あの夜、誰かのささいな一言が、確かに俺を前に進ませてくれた。
だから、あの人の前にも、きっと転がってると思う。小さな“正解”が。
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