【明治文豪、令和を歩く】第26回:サウナにうなづく
蒸気と熱気が充満するサウナ室の中。二人は雛壇のようなベンチに並んで座り、じっと汗を流している

……おい、荷風君。これは一体どういう了見だ。風呂というのは、湯に浸かって手足を伸ばし、一日の疲れを癒すものだろう。なぜ我々は、こんな木の箱の中で、灼熱地獄の責め苦に遭わねばならんのだ。

先生、これも現代の『粋』というやつらしいですよ。フィンランド式とか申しましたか。しかし、この乾燥した熱気は、どうも日本の湿潤な風土には馴染みませんな。まるで、西洋の合理主義で無理やりに汗を搾り取られている気分だ。
私がかつてフランスやアメリカへ渡った時も、向こうの風呂には閉口しましたが、まさか東京の真ん中で、こんな『我慢大会』に参加することになるとは。

全くだ。昔、長谷川君(二葉亭四迷)と銭湯で会った時、彼は『低気圧』が頭に居座っていると言って悩んでいたが、ここにいたら低気圧どころか、脳味噌が沸騰して蒸発してしまうよ。
見てみたまえ、周りの男たちを。皆、苦悶の表情を浮かべて沈黙している。まるで修善寺で僕が見た、あの『裸連』の素人落語会のような奇妙な連帯感じゃないか。

おや、先生の『思い出す事など(※)』に出てきた、あの騒々しい連中ですか。……確かに、裸で集まって、何やら儀式めいたことをしている点では似ておりますな。
しかし先生、彼らの目的はこの後の『水風呂』にあるそうですよ。熱せられた体を氷水に叩き込み、その後に訪れる恍惚感を『ととのう』と呼んで珍重しているとか。

ととのう? 妙な言葉を使うもんだな。……『三四郎(※)』の中で広田先生が、風呂の中で眠って『ハイドリオタフヒア』なんていう訳の分からん言葉を口走っていたが、現代人の言う『ととのう』も、それと同じくらい意味不明な呪文に聞こえるよ。
だいたい、極端から極端へ走るのは体に毒だ。熱湯の次に氷水とは、まるで神経衰弱の患者に、いきなり天下国家の大論争を吹っかけるようなものではないか。

ふふふ。おっしゃる通りです。私はどうも、あのような荒療治よりも、ぬるい湯に首まで浸かって、ぼんやりと過去の幻影を追う方が性に合っております。
かつて私が慶応義塾の文学部に誘われた時、森鴎外先生や上田敏君と、帝国劇場で芸術の夢を語り合いたいと思ったものですが……。このサウナという劇場には、詩情もなければ、ワグナアの音楽のような荘厳さもない。ただ、脂ぎった中年男の我慢比べがあるだけです。

君は相変わらず辛辣だな。……しかし、そう言いつつも、君はさっきから少しも動かずにじっとしているじゃないか。『彼岸過迄(※)』に出てくる森本という男のように、洗うでもなく、ただ快感を貪るために浸っているように見えるぞ。

ばれましたか。実はこの暑さ、思考を停止させるには丁度良いのです。余計な世間の義理や、文壇のしがらみを汗と一緒に流してしまう。……そう考えれば、この『木の箱』も、現代の隠居所としては悪くないのかもしれません。

やれやれ。僕はもう限界だ。思考が停止する前に、心臓が停止しそうだ。先に出るよ。……外の涼み台で、広田先生のように口を開けて寝ていることにする。

お気をつけて。私もあと少し、この現代の拷問を味わってから、参るとしましょう。
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