【明治文豪、令和を歩く】第27回:ジェントルに筋トレ
ガラス張りのスポーツジムの前を通りかかった二人。中のランニングマシンやダンベルで汗を流す人々を、奇妙なものを見る目つきで眺めている

おい、荷風君。あれを見たまえ。まるで回し車の中の鼠だ。あるいは、賽の河原で石を積む亡者か。重たい鉄の塊を持ち上げては下ろし、持ち上げては下ろし……。一体全体、現代人は何と戦っているんだね。

先生、あれこそが現代の『自己陶酔』の極致でございますよ。私が『裸体談義(※)』で書いたように、西洋では裸体をさらすことが一種の芸術であり、習慣でありましたが、どうやら現代の日本人は、その外見(そとみ)だけの西洋化に熱心なようです。
己の肉体を彫刻のように磨き上げ、鏡に映して悦に入る。……まあ、吉原の遊女が化粧に精を出すのと、根底にある心理は変わらんのかもしれませんが、いささか汗臭くて無粋ですな。

無粋どころの話じゃない。あれは『労働』だよ。それも、生産性のない虚無的な労働だ。『それから(※)』の代助なら、きっとこう言うに違いない。『食うための労働すら神聖だとは認めないのに、食うためですらない労働に金を払うなど、狂気の沙汰だ』とね。
だいたい、あんなふうに筋肉を膨らませて、何になるんだ。僕のように胃弱で青白い顔をしていても、立派な小説は書けるし、文明批評もできるんだぞ。

おや、先生。そうはおっしゃいますが、若き日の血気というものは、とかく体を動かしたがるものではありませんか?
私も今の枯れ木のような体からは想像もつかないでしょうが、中学時分には、築地の船宿からボートを借りて、友人たちと大川(隅田川)へ漕ぎ出したものです。『日和下駄(※)』にも書き残しましたが、千住の方まで遠漕して、帰りに高瀬船と衝突しそうになり、櫂を折ってしまったこともありました。

ほう、君がボートとは珍しい。てっきり若い頃から三味線を弾いて、お酌でもさせていたのかと思ったが。

ふふ。あの頃はロビンソン・クルーソーの冒険談に憧れましてね。広い海へ乗り出す夢を見たものです。……ですが先生、あの時のボート漕ぎには、川面の風や、移り変わる岸辺の景色という『情趣』がありました。
しかし、あのガラス箱の中の運動には、季節もなければ風景もない。ただ機械の数字と睨めっこをして、己の筋肉といふ『物質』を管理しているだけです。あれでは、江戸の情緒もへったくれもありません。

その通りだ。君の言う『情趣』の欠如こそが、僕の言う『精神の空虚』に通じるんだ。
彼らは体を鍛えることで、精神の不安を誤魔化しているんじゃないか? 現代社会という強迫観念から逃れるために、自らを痛めつけているように見えるよ。……まったく、あんな重いものを持ち上げる元気があるなら、家で寝転がって漢籍の一行でも読んだ方が、よほど人間としての『筋力』がつくだろうに。

御意。結局のところ、我々に相応しい運動とは、せいぜい『日和下駄』を突っかけて、路地裏をあてもなく歩き回ることぐらいでしょう。
変わりゆく東京の町並みを嘆き、古き良き面影を探して歩く。これだけで十分に足腰は鍛えられますし、何より心の保養になります。……さて先生、あのような汗臭い場所は早々に立ち去って、どこぞで熱い茶でも啜りましょうか。

賛成だ。あそこを見ているだけで、どうも胃の具合が悪くなりそうだ。……おい、あそこでプロテインとかいう妙な粉を飲んでいる男がいるぞ。あれは薬か? 全く、現代というのは健康になるために病人のような真似をする、おかしな時代だな。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!