見たいものしか見たくない時代の文芸コラム(第九回)
2月 大きな物語の復活?・熊と天皇・25年周期説・ギミックとゲーム・文芸批評大賞2025
東京は快晴の一月二日、皇居での新年一般参賀のエピソード。現時点では天皇の座が約束されている悠仁の参賀デビューの日でもある。二十代の男が服を脱ぎ捨て奇声を発しながら最前列の柵を乗り越え、しまいには排泄までしてみせたとのこと。捜査関係者によると、SNSで予告までしていたとの話もある。逮捕後、不起訴になったという以外の続報がないので、政治的な動機などなかったのだろう。
この「不敬」な一件を知ったとき、ちょうど読み終えたばかりの畠山丑雄「叫び」(『新潮』2025・12)のラストが呼び起こされたのだった。大阪・茨城を起点にした戦時下の記録にまつわる物語である。主人公は、土地の足跡を調べていく中で、かつて国家の戦時政策に翻弄された青年の存在を知り、わが身を彼の姿に重ねていく。青年は当時の天皇に淡い恨みを抱いている。その思いを令和を生きる主人公が妄想の中で引き受ける。それは物語のラスト、大阪万博に現れた天皇皇后に直訴するという形で試みられるが、警護の列を抜けたその間際に妨害の容疑で逮捕されるのだった。
大阪の青年も一般参賀の青年と同様に動機らしいものが一切見られない。まして令和の天皇には政治的権力はいうまでもなく、三島由紀夫がよりどころとしたような文化的な意義さえあるかも疑わしい。その程度のことも両青年が知らないわけはないだろう。それなのになぜ、彼らはかくも天皇に接近したがるのか?
「叫び」は芥川賞受賞作だが、今回の芥川賞候補作は、記憶・記録というフレームから切り取ることもできる。同時受賞した「時の家」(『群像』2025・8)は、ある家屋をめぐる居住者たちの――いくつかの震災の記憶とともに――積み重なる記憶が語られる。「へび」(坂崎かおる、『文學界』2025・10)は、息子(発達障害児)のために購入したへびのぬいぐるみが、ときおり息子に憑依しながら、崩壊する家族の顛末を呪物のように父に語りかける物語。「叫び」が、戦時下の幻の万博と令和の大阪万博を起点に、過去と現在を行き来する物語だとすれば、舞台が北海道の「貝殻航路」(久栖博季、『文學界』2025・12)は、北方領土をめぐる戦後日本に翻弄されたある家族の過去に焦点化してみせる。「BOXBOXBOXBOX」(坂本湾、『文藝』2025・冬号)は、一転、土地のみならず記録も記憶も存在しない抽象的な時間が舞台だ。その抽象性ゆえに時間の操作にむしろ意識的であることを感じさせる。
今回の芥川賞候補作にはもう一点特徴がある。大きな物語に依拠している点だ。「時の家」は、明確に名指しはしないものの、阪神淡路大震災や東北大震災が物語のプロットとして採用されている。被災者にスポットを当てればアイデンティティ政治だが、本作は共同体が共有する記憶として震災を呼び寄せており、大きな物語の面が際立つ。「貝殻航路」は北方領土、「叫び」は万博と戦争、それに天皇。配送業の労働事情にフォーカスを当てた「BOXBOXBOXBOX」を令和版プロレタリア文学とするなら、大きな物語の枠組みにあるといえる。小さな物語は、発達障害のアイデンティティ政治を採用する「へび」のみだろう。
文学はこのところマイノリティ当事者などアイデンティティ政治を主題に採用しがちだったが、少し様相が変わったと感じた。だからこそ大きな物語をどう語るのかその語り口に注目して読んでみたのである。結論は芳しいものではない。いずれもなぜいまこの主題なのかが伝わる作品がなかった。
主題と手法が緊張関係をもって成立している作品をあげるとすれば、おそらく「へび」だろう。父は発達障害のある息子のケアに自負を持っている。他方、息子は不満を抱いていても父にうまく語れない。その不和を呪物としてのへびに託し、二人称で父に語りかける手法を採用している。息子に寄り添うへびの語りには、父に対して批判的な呼びかけの意図が含まれ、不自然になりがちな二人称(文学っぽさの演出として活用されがち)の採用も説得的である。アイデンティティ政治を主題とする当事者文学の、成熟したひとつの達成といってよいと思う。これと比較してみると、大きな物語チームはいささか精彩に欠ける。
断っておくと、どれも芥川賞を受賞してもおかしくない程度によく出来た作品であることは間違いない。そもそも「時の家」や「貝殻航路」は大きな物語以外の主題で読まれるべきだろう。しかしそれらの条件をカットした上で、大きな物語のプレイの仕方に限って読んでみた場合、不満があるというわけだ。一言でいうなら、チームプレイができていない。個人プレイの技術が研ぎ澄まされるばかりで、大きな物語ならではの、歴史(文学史を含む)に参加しているという感覚が見られない。「時の家」の震災も、「貝殻航路」の北方領土も凡庸なイメージの域を出ない。
たとえば「叫び」は、上記した通り、ラストに天皇への「不敬」の試みを置く。それは大江健三郎の初期作や阿部和重『ニッポニアニッポン』を容易に想起させる。文学好きなら、久々の火の玉ストレートな王殺し描写に興奮するシーンだろう。にもかかわらず、天皇をめぐる青年(作家?)の動機があまりにも弱く感じる。昭和の天皇も令和の天皇も差がない展開。それは戦後80年ゆえのやむをえなさなのだろうか。三島や大江が左右に揺さぶりをかけ、不可能となったかに見える王殺しを「朱鷺」で代行してみせる『ニッポニアニッポン』のパスを受けた天皇描写と見た場合、「叫び」のラストに批評性があるとは思えなかったのだが、むしろそこにキラーパスの軌道を批評が読み取るべきなのかどうか。
『文學界』(2月)の特集「熊を考える」を読んでいると、いまや熊は国民が共有する大きな物語の主題を担っていると感じる。熊は崇高な対象として王であり、市民社会を脅かすテロリストでもある。特集では七名の作家や評論家がエッセイを寄稿している。久栖博季や沼田真佑が参加していることからも、北海道・東北発の主題といえる。恐がりながら見てみたい衝動に突き動かされている書き手のエッセイを読みながら、熊の方がよほど天皇っぽい――熊沢天皇…――じゃないかと思った。
「熊」は河崎秋子のタイトル「リアルとイメージの中の熊」にある通り、リアルな存在でありながら、象徴や寓意を伴って流通するイメージでもある。各エッセイは、リアルな熊について語るものもあれば、イメージとして流通する熊にフォーカスするものもあり、色々と勉強になった。
「熊」の小説もこの二つのカテゴリーに分けることができるだろう。たとえば佐藤友哉の『デンデラ』(09・6)がリアルな熊小説だとすれば、川上弘美の『神様』(98・9)はイメージとしての熊小説である。この特集に寄稿している河崎と木村紅美の作品も振り分けられそうだ。河崎の直木賞受賞作『ともぐい』(23・11)と、木村の谷崎賞受賞作『熊はどこにいるの』(25・2)。近代化を推し進める北海道――「貝殻航路」の釧路に近い白糠――を舞台に、日露戦前の猟師を主人公にした前者はリアルな熊を扱い、後者――身元不明の男児を熊と重ねて多義化する「熊」に翻弄される4人の女の物語――はイメージとしての熊を扱っている。熊はかくも文学史に足跡を残しているのである。
『新潮』(2月)の特集「素顔の丸谷才一」にもふれておこう。作家の生誕百周年を機に故郷の山形県鶴岡市で行われた催しが取り上げられている。松家仁之と川上弘美の講演と二人の対談「丸谷才一、人と仕事」がある。ハイライトは、一九七〇年前後の三島と大江と比べながら、丸谷の『たった一人の反乱』(72・4)を紹介する松家の講演だろう。三人の男性作家による文学史を打ち立てる松家に対して、『たった一人の反乱』を男をケアする女たちの反乱の物語と読み換える――わりと順当な解釈だとはいえ――川上の議論喚起も、丸谷の多面性を引き出してよかった。
『たった一人の反乱』は500ページの長篇だが、内容は四分の一程度に圧縮できるのではないか。同時期の作品として松家も言及している大江の『洪水はわが魂に及び』(73・8)は同じくらいのボリュームだが、圧縮することは難しい。丸谷の長篇がいかに些末なエピソードで占められているかということなのだが、江藤淳が「フォニイ(偽物)」と切り捨てた(「文学 73年を顧みる」73・12)のは、中間小説的ともいえるその冗長に対してだろう。『裏声で歌へ君が代』(82・8)に対しても、長いだけの冗長な語り口を批判している(『自由と禁忌』84・9)。一九七〇年前後は、「書き下ろし長篇」と銘打たれて作品が売られるなど長篇化の傾向が見られた時期である。中短篇を対象にした芥川賞が、原稿用紙400枚超の「伽倻子のために」(李恢成)を候補作にして物議を醸しもした(1970年下半期)。内向の世代と呼ばれる作家たちが中短篇を意図的に選択して私小説の更新をはかったのもこういった背景がある。
大江と丸谷の長篇に共通する主題は、過激化する学生運動――市民社会を脅かすテロ――であった。大江作はテロの内側から、丸谷作は市民社会の側からテロを描き出している。一九七〇年前後は、戦後を総括するように王殺しを主題にした長篇群が現われていることも指摘しておこう。大江の『万延元年のフットボール』、三島の「豊饒の海」四部作、少し後になるが中上健次の熊野三部作がある。その傾向が再び現れるのが二〇〇〇年前後である。阿部和重の神町三部作の端緒を切る『シンセミア』、島田雅彦の「無限カノン」三部作、村上春樹の『海辺のカフカ』。男臭い文学史ではあるが、終戦から二十五年(もしくは三十年)間隔で現れるこの周期をさらに延長してみると、なんと現在がこの周期に当たっているではないか! 最近は中短篇ばかりが注目され、長篇は雑誌連載がまとまって刊行されるくらいで、コンテンツとしては死蔵している。注目されるとすれば、有名な文学賞の候補になるか、受賞するかしたときくらいだろう。文学+WEB版では、これらの作品も文学史に登録されるために、長篇にフォーカスを当てた企画を立ててみたい。
一月十四日には宮殿にて歌会始の儀が行われた。今年のお題は「熊」ではなく「明」。最近の皇室は、YouTubeやInstagramなどを用いて積極的に広報活動を行っており、その様子を観ることができる。二月に入ってすでに8万人もが視聴している(日本テレビのノーカット版は3,8万人)。
ちなみに、YouTubeでは、天皇家と秋篠宮家を対立させ、後者をバッシングし、愛子天皇を待望するコンテンツが人気を博している(週刊誌ジャーナリズムも似たようなネタを提供しているが)。とくに批判の的となっている悠仁は今年歌会始のデビューを果たしたが、そのとき披露された歌を、選者を務める永田和宏が絶賛している(『文春オンライン』1月22日)。
永田といえば、亡妻の河野裕子とあわせて金井美恵子が批判をしたことが知られている(「たとえば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」2012・5、『金井美恵子エッセイコレクション3』所収)。この揶揄をまじえた批判は短歌界をざわつかせたようである。金井は小説家として「短歌という巨大な共同体的言語空間」を批判するわけだが、いまや(いまも?)小説も批評を周縁化し、共同体を形成している。むしろ短歌の方が批評を取り込む傾向があるので、立場がすっかり逆転しているのではないか。
『短歌研究』(1+2月)のチーム評論による「「口語短歌の韻律」の研究」は、批評の活用の成果である。チーム評論とは聞きなれない言葉だ。チーム制でひとつの主題を評論するというものであろうが、チーム名が「評論」だとするとなんかかっこいい。プレイヤーは荻原裕幸・井上法子・奥村鼓太郎・阿波野巧也・平尾勇貴・髙良真実の六名。それぞれ簡単な評論を提示し、その後に皆が集まって座談会「韻律をめぐる座談会―それぞれの評論を読んで」を開くという構成。
評論はどれもユニークなのだが、とくに平尾の「韻律と口語の速度について」が現代短歌の韻律の問題を凝縮して、議論喚起するもので広く読まれるべきだろう。他の評論が扱ったトピックを混ぜながら要約すると、字余りや字空け、句またがりなどの破調を取り込んだ現代口語短歌の韻律はギミックとして――具体的にはテンポやビートを駆使して――多様に調律される。そこでは定型すら相対化されるだろう。だから定型にしたがって――あるいは抵抗して――私情や情念や情景を伝えるために短歌があるのではない。短歌はゲームや競技に見立てたほうがよい、ということだ。ギミックとゲーム性。「うたのことば」を特集した『文藝』(春号)でも、現代短歌の対談「「短歌ブーム以後」を俯瞰する」(瀬戸夏子×青松輝)が掲載されているが、そこで取り上げられた「ことばのテクスチャーの操作」よりもさらに突っ込んだ発想である。
定型の韻律よりもテンポやビートに注目するということは、言語学でいえば、規律的なラングよりも個別発話のパロールを重視するということである。他方で歌会始の披講を視聴しながら、ラングをそれほど自由に相対化できるものなのかという疑念もなくはない。さしたる動機もなく天皇に接近してしまうように、ゲームを背後で規定しているのだとしたら? 最近は俵万智のような私情を伝える短歌が復活しているとも聞くのだが。
今月は他に『角川俳句』(1月)の座談会「これからの「場」――新しい俳句の世界へ」(堀田季何×堀本裕樹×神野紗希×西村麒麟)が面白かった。四十代前半から五十代前半のこれから俳句の場を作っていく世代が、従来からある結社や同人誌をどう改変しつつ組織していくかが話しあわれている。なんとなく想像はしていたが、俳句がいかに集団やアソシエーションを前提にしたジャンルであるかを痛感させられた。
小説家も同人誌を作ってアソシエーションみたいなことをすればよいのではないかと思うところがあったが、原理的に難しいということを悟った次第。メジャーな文芸誌と文学賞を軸にツリー状に組織されている現状が最適解なのかもしれない。そういう意味で小説はいまや文学の中で最も古いジャンルのような気がする。

最後に〈文芸批評大賞 2025〉をお届けしよう。2025年に出た文芸批評の単著を対象に、著書など出したことがない人が勝手にNO1を選ぶというものだ。読者としてのキャリアだけは無駄に長いので、文芸批評に限っては、紀伊国屋じんぶん大賞やサントリー学芸賞より自信があるつもりである。
文芸批評とは文学を対象にした批評のことである。作家論(工藤庸子『文学ノート*大江健三郎』、四方田犬彦『三島由紀夫を見つめて』、島崎今日子『富岡多惠子の革命』)は外している。研究との線引きが難しく(坂口周・金子亜由美・梶尾文武の著書は文学研究ともいえる)、私の好みが入っている。
2025年の特色は二つあるだろう。ひとつは、「世界文学」を駆使した成果が現れたことである。坂口周『「世界」文学論序説』、福嶋亮大『世界文学のアーキテクチャ』、鴻巣友季子『小説、この小さきもの』があげられる。それぞれ違うアプローチだが、従来からある「世界文学」という主題・方法論がより深化され、自家薬籠中のものになったと感じた。
もうひとつは文学史で、戦後文学の整理が進んだことである。坂口『「世界」文学論序説』、中島一夫『アフター・リアリズム』、渡邊英理『到来する女たち』、金子亜由美『中島梓と「やおい」の時代』、梶尾文武『戦後文学の相続者たち』がこれに当たる。與那覇潤『江藤淳と加藤典洋』、瀬戸夏子『をとめよ素晴らしき人生を得よ』、絓秀実『一歩前進、二歩後退』もくわえてよい。先ほど二十五年周期説を紹介したが、実は批評・研究ベースではその準備が整っているのだ。利用しない手はないだろう。
ここ数年注目されてきた当事者文学やケア論の切り口もコンスタントに発表されている(岩川ありさ『養生する言葉』、新井裕樹『無意味なんかじゃない自分』、小川公代『ケアの物語』)。中村拓哉『日本語ラップ――繰り返し首を縦に振ること』はヒップホップ/日本語ラップの成果だが、他のジャンルにも読まれるべきだろう。大滝瓶太『理系の読み方』のユニークな視点も貴重である。いずれにせよ、2025年の文芸批評は、近年マレに見る豊作年だった。これだけあって文芸誌でほとんど紹介されていないというのが信じられないくらいである。
では、大賞を発表しよう。矢野利裕の『「国語」と出会いなおす』である。時評の第一回でも取り上げている。何より文学と国語教育をセットで論じる視点が新しい。これまでもそういった議論がなかったわけではないが、たいてい文学を卓越化するために国語教育を対象化するというものだった。矢野はそういった議論も含めて相対化し、文学と国語教育の可能性を引き出している。
私は矢野のことを文芸批評界のリュウジとひそかに呼んでいる。誰もがなんとなくよくないものと信じている化学調味料も使いようによってはプラスになる。世界を広げる。ゲームのルールをチェンジする。矢野がエンタメ文学や国語教育に向ける視線もこれと似ている。舌を巻くほどの高度な理論、緻密な検証を組織するものが他にあったが、矢野の作品に何より批評の魅力を感じた。副賞はとくにない。
※当初は「大きな政治」と「小さな政治」の対比で記述したが、なじみのない言葉なので「大きな物語」と「小さな物語」に変更した。2月9日
▶中沢忠之。1972年生。凡庸の会。文学+WEB版編集人。

