【映画】「A Window of Memories」感想・レビュー・解説
変な映画だったなぁ。「監督が、自分の祖母2人の記憶を文章にして、それを役者に朗読させる」っていうドキュメンタリー映画。
僕にとって「記憶」というのは不思議なものだ。不思議というか、よく分からない。
僕は30歳ぐらいの時に、自分がアファンタジアだと気づいた。アファンタジアというのは「頭の中に映像が浮かばない」という性質で、だから僕には基本的に映像記憶がない。そんなわけで、昔のこともビックリするぐらい覚えてないのだ。
小中高大学のことは大体記憶にないし、20代30代のことも概ね忘れてる。だから本作のように「大昔の記憶を語る」みたいな状況は全般的に「ホントかよ」って思ってる。僕には「昔のことを覚えている」って状態が普通ではないから、それがどういう状態なのか上手く想像できないのだ。
その感覚をさらに補強するような経験もある。というのも、両親と記憶が合わないのだ。
僕は子供の頃、「足を骨折して松葉杖をついてた」という記憶があるのだが、その話をしたら両親から「そんなことはない」と否定された。また、「歯の矯正のために歯医者でレントゲンを撮った(結構歯の矯正はしなかったが)」という記憶についても、両親は「そんなことない」と言っていた。
間違いなくどちらかの(あるいは両方の)記憶が間違ってるわけで、だとすれば僕の記憶が間違ってる可能性が高いとは思うのだが、歯の矯正の方はともかく、足の骨折の方は記憶違いとは思えないんだよなぁ。
ただ、前に読んだ心理学だか脳科学だかの本に、興味深いことが書かれていた。アメリカの実験だと思うが、9.11の直後に、多くの人に「あの日何をしていましたか?」と質問し、記録しておく。で、その10年後に、同じ人に同じ人質問をするという実験の記録があるのだが、なんと多くの人が10年前に自分がした回答と違う返答をしたと言うのだ。さらに、実験者がその事実を指摘すると、多くの人が「今の自分の記憶の方が正しい」と主張したという。
なんてことがあったりするので、僕は基本的に、「写真や映像などの裏付けのない記憶は正しくない可能性が高い」と考えている。記憶というのはホント、それぐらいファジーなものだと思っておいた方がいい。
ただその一方で、「それが事実であるかどうかはともかく、自分の内側にある記憶がその人を形作る」というのもまた確かだろうなと思う。そして、そういう意味で「記憶を語ること」は興味深いよなと感じる。
監督が、役者に読ませる原稿をどのように作ったのかはよく分からない。2人の祖母の話をすべて盛り込んだのか、監督が聞いた話を取捨選択したのか。監督が何か質問をしたのか、あるいは好きなように喋ってもらったのか。そういう「聞き方・まとめ方」によって、出力される記憶にも変化があっただろうなと思う。もちろん、「孫が話を聞いている」という事実も影響するだろう。
だから、この映画で語られる祖母2人の記憶は、この映画だから語られた記憶である。違う状況であればきっと、違う記憶が語られたんじゃないかな。
で、監督が取捨選択してるのかによって捉え方は結構変わるのだが、祖母2人の記憶には「妻・母であることの憤り」みたいなものが多分に含まれていたなと思う。「女性性として生きることの苦労」みたいな要素は本作の直接のテーマではないように思うが、とはいえ、話し手も聞き手も語り手もすべて女性であり(たぶん、撮っているのも女性だろう)、「女性性としての人生」みたいな部分は自然と浮き彫りにされていったのだろうなという気がする。
で、少し前に『美しく、黙りなさい』というドキュメンタリー映画を観たのだが、僕が観た回の上映後のトークイベントに、本作監督の清原惟も登壇していた。『美しく、黙りなさい』は、1960年代とかの、映画業界における女性の扱われ方、権利のなさみたいなものをインタビューで浮き彫りにする作品なのだが、トークイベントの中で「『美しく、黙りなさい』のテーマは、『A Window of Memories』のテーマに通じるものがありますね」みたいな話になった。
その時点では本作はまだ公開前だったのでよく分からなかったが、本作を観終えた今、なんとなく分かるような気がする。
『美しく、黙りなさい』では、「男だったら役者を目指していたか?」「女性同士の親密なシーンを撮影したことがあるか?」という2つの質問を様々な女優に投げかけてその返答を記録していくのだが、特に後者の質問に対して「なるほど、それはいい質問ね」「メモして、家で考えなきゃ」など、「今までそんなこと考えたことなかった」みたいな反応をする女優が結構いて、僕にはそれがとても印象的に感じられた。
で、本作で自身の記憶を語る祖母2人にも、人生のどこかで同じような感覚になった瞬間があったんじゃないかという気がする。実際、朗読される文章の中には、「その時はそんな風に感じてなかったけどね」的な言い回しが結構あった気がする。『美しく、黙りなさい』でインタビューを受けた女優たちと同じく、「その時には疑問にすら感じていなかったが、後から振り返ってみるとおかしなことだったと気づく」みたいな経験の積み重ねだったんじゃないかなと思う。
で、穿った見方をすれば、そういう視線を向ける度に記憶は変容していったはずだ。だからそれらは「本当のこと」からかけ離れているんじゃないかと思う。ただそれはそれとして、「私の記憶ではこうだった」という感覚こそが、今の彼女たちを作っている。そして、「今」を軸に考えるなら、その事実の方が、「『本当のこと』かどうか」なんてことよりも遥かに重要だ。
さて、本作においては、「2人の女優が朗読をする」という点がかなり特異な構成になっていると言えるだろう。僕はすぐに、『王国(あるいはその家について)』のことを思い出した。状況は全然違うが、「役者が与えられた文章(セリフ)を朗読することによって作品が構築されている」という点は共通していると言えるだろう。ちなみに全然知らなかったが、本作は『王国(あるいはその家について)』などと同じく、愛知芸術文化センター・愛知県美術館のオリジナル映像作品として制作されたのだそうだ。
最初の内、「語るのが役者でなければダメだったのか?」という必然性についてはよく分からなかった。いや、別に観終わった今もちゃんと分かっているわけではないが、しかし、まず1つラストシーンの展開を挙げられるだろう。それまでは朗読すべき文章が書かれた紙を見ながら読んでいたのだが、最後だけ紙を見ずに話をしていたと思う。そういうラストを想定していたのであれば、「覚えて発すること」を日常的に行っている役者の方が適役と言えるだろう。
また、『王国(あるいはその家について)』的な捉え方をするなら、「祖母の記憶を語らせることで、その人格的なものをインストールさせる」みたいな意図もあったのかもしれないし、だとすれば当然役者の方がいいだろう。朗読する文章が口語っぽく綴られていたのも、そういう意図だったのかもしれない。
となれば、最後の「紙を見ずに喋るシーン」は、「語る役者が祖母そのものとして映る」みたいなことを目指した、みたいにも捉えられるだろう。
で、「記憶が曖昧なものだ」という僕の捉え方をさらに踏まえるなら、そんな女優2人が語る本作を観た祖母2人の記憶がまた変形していくんじゃないかな、という気がする。「そうじゃなかったな」みたいな感覚が湧き上がってくるんじゃないか。そうして延々と記憶は不定形のまま移ろうのだろう。
みたいなことをあーだこーだ感じさせられた。
メチャクチャ良かったということはないが、観たことのないタイプのドキュメンタリー映画であることは確かで、記憶には残りそうだなと思う。
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