【映画】「PEACOCK/ピーコック」感想・レビュー・解説
なかなか面白い作品だった。で、本作は、日本の「友達代行サービス」を徹底取材して作られた作品のようだ。少し前も、ブレンダン・フレイザー主演の『レンタル・ファミリー』という映画があったが(監督は日本人だったと思うが、恐らくこの映画も外国資本だろう)、恐らく外国人の目にはかなり奇異なサービスに見えるのだろうし(というか、日本人の僕だって奇異なサービスだなと思う)、それがサービスとして成立していることが興味深く見えるのではないかと思う。ただ本作を観る限り、欧米とかでも全然成立しそうだけどな、と思ったりした。少なくとも、需要はあるだろう。
なのだけど、供給側のスタンスが少し違うのかもしれないなぁ、と観ながら感じていた。
日本人の場合、基本的に「個を出す」より「場に合わせる」みたいなことの方が求められる(求められている気がする)し、だから多かれ少なかれ、誰もが「自分を演じる」みたいなスタンスを持っているんじゃないかと思う。
僕は割と明確に持っていて、基本的に「今この場では、僕はどういう役割として存在するのが一番ベストだろうか?」みたいなことを考えている。喋った方が良さそうなら喋るし、聞き役に回った方が良さそうなら聞くし、最初に発言する人がいなそうならするし、全体の大きな流れを変えた方が良さそうな雰囲気を感じたら変えられるように動く。大体において「僕自身がどうしたい」みたいなことはあまりないので、「その場に不足していそうな役割」をなるべく担おうという意識で生きている。
まあ、僕のようなスタイルは極端かもしれないが、日本人であれば多くの場面で、「このコミュニティではこういうキャラ」「この人の前ではこういうスタンス」みたいな使い分けをしてるんじゃないかなと思うし、だからこそ、「友達レンタル」の供給側の適性をそもそも有しているみたいにも言えるんじゃないかと思う。
でも、全然詳しくはないが、欧米人の場合はやっぱり違う気がしている。基本的には「個を出す」ことが求められているだろうし、本人としても「自分らしさ」みたいなものをいかに持ち続けるかを重視しているんじゃないかと思う。だから欧米人の場合は、供給側になる適性は元々持っていないことになりそうだし、だからこそ、本作で描かれるような「アイデンティティクライシス」みたいな状況に陥ってしまうんだろうな、という感じがした。
「いやいや、欧米人だって役者をやってる人はたくさんいるし、そんなの関係なくない?」と感じるかもしれないが、ここには大きな違いがあるように思う。
作中で主人公のマティアス(友達代行会社の優秀な社員)が、「数分ごとに休憩が入る役者とは全然違う」みたいに口にする場面がある(これを役者が口にしているのも面白いのだが)。確かに役者の場合、演劇の主役だとしてもMAX2~3時間といったところじゃないだろうか。しかし友達レンタルの場合は、相手の要望に応じてその時間はいくらでも長くなる。そしてその間ずっと、役のままでいなければならないのだ。
さらに、個人的には「演じているように見られているかどうか」というポイントの方がより重要ではないかと感じた。役者の場合は基本的に、「役を演じている人」という見られ方になる。もちろん役者は、「そうじゃなくて、本当に存在する人間として見られることを目指している」と思うのだが、まあそれはともかく、よほど特殊な状況でもない限り、「あなたは今演じているんですよね?」という見られ方と共に演技をすることになるはずだ。
しかし友達レンタルの場合は違う。依頼人は演技であることを知っているが、それ以外の人はそうではない。つまり、基本的に「演じている人」という見られ方にはならないのだ(というか、なったらそれは失敗だろう)。そして僕には、こちらの方がより大きな問題に感じられた。
役者の場合は、どれだけ役に没入しようとも、「演じてる人だよね」という見られ方になっている以上、やはり「現実とは違う」という意識を取り戻しやすくなるだろうと思う。しかし友達レンタルの場合は、役に没入すればするほど現実との境が曖昧になっていくんじゃないかと思う。そういう意味でも友達レンタルというのは特殊な存在だなと思う。
本作では、「マティアスが恋人(妻だと思ってた)から『距離を置こう』と言われる」という展開から色々おかしくなっていくのだが、恋人のソフィアがそう感じるに至った描写がなかなか繊細に描かれていて興味深い。
最初は、友人宅での会食の場面だ。友人が「電車の中で揉めている人がいて、何だかんだ仲裁できなかった」みたいな話をすると、ソフィアが「私なら、役に立つかは分からないけど、何かは言うんじゃないかな」みたいなことを口にする。しかしその後マティアスは、しばし自分の意見を口にしないのだ。
ソフィアが出会った頃のマティアスがどんな人なのかは描かれないので分からないのだが、ソフィアの反応からは、「どういう意見にせよ、マティアスはすぐに自分の主張をする人だった」みたいな印象だったんじゃないかと思う。しかしマティアスはしばらく「なんて言ったらいいかなぁ」みたいな表情を見せた後、ソフィアの意見に全乗っかりするようなことを口にする。恐らくこういう出来事がソフィアの中で積りに積もっていったのだろう。
で、極め付きが、ある日マティアスが帰宅した直後にソフィアと交わした会話である。とまずはその前段として、ちょっと前の出来事に触れておこう。マティアスはアートが好きなようで、玄関に飾ろうとシロクマの割と大きめの置物を買った。ソフィアは「いいね」と言ってくれるが、なんとなく乗り気ではない雰囲気を感じたマティアスは「まだ返品できるよ?」と聞く。で、そんなやり取りの中で彼は、「ウチに来るゲストも喜ぶよ」とソフィアに言うのである。
で、ある日マティアスが帰宅すると、家にクソデカい犬がいた。マティアスはソフィアに「犬を飼うの?」と聞くと、彼女は「ウチに来るゲストも喜ぶわ」と返す。恐らくマティアスはこの言葉を、「うわっ、やっぱりあのシロクマはダメだったか」と瞬時に受け取ったんじゃないかと思うが、ソフィアの真意はたぶんそこにはない。彼女は、かつてマティアスが口にしたのとまったく同じことを言って、マティアスの”反応”を見ようと考えたのだ。
そう判断できる理由が、続くシーンにある。ソフィアはクソデカい犬をソファの方に呼び、そして彼女はなんと、犬のエサをソファにぶちまけたのだ。当然、犬はそれをバクバク食べる。マティアスは何も言わない。そしてソフィアはそんなマティアスに、「犬がソファでエサを食べてるのよ!」と強い口調で言うのだ。
ソフィアは要するに、「普通だったらすぐに怒りを見せるような言動」を繰り出すことで、マティアスの「本当の姿」を剥き出しにしようとするのだ。しかしマティアスは、恐らくそんなソフィアの真意を理解できなかったのだろう、ソフィアに何も言わなかった。で、マティアスに向かって「本当のあなたを感じないのよ」と口にするのだ(いや、実際の順番は、「犬についての会話」→「本当のあなたを感じないのよ」→「ソファに犬のエサ」だったが)。
恐らくだが、マティアス自身は自分の変化を認識できていなかったのだと思う。友達レンタルの時は「仮の自分」、そして仲間や恋人の前では「素の自分」のつもりだったのだろう。しかし実際には、マティアスは「『素の自分』という役」を演じてしまっていた。そしてそのことをソフィアに見抜かれてしまったということなのだろう。
で、さらに問題だったのは、「マティアスが『素の自分』を見失っていたこと」だろう。いや、正確に言えばそうではない。より正確に書くなら、「マティアスはソフィアと一緒にいる時の自分を『素の自分』だと思っていたが、それがそうではないと否定されたため、『じゃあ素の自分って何だ?』と自分でも分からなくなっている」という状態なんじゃないかなと思う。彼自身はそう指摘された後も自身の変化に気づいていなかったはずだし、だから「『素の自分』のつもりのものがそうじゃないと言われて困っている」というのが実情なんだろうなという気がした。
だからマティアスにはどうしたらいいのか分からないのだ。
マティアスが意識的に「素の自分」を演じていたのなら、全然問題なかっただろう。演じるのを止めればいいだけだからだ。しかしマティアスには、「素の自分」を演じているつもりがなかった。だから、ヨガ的なものに通ったりして「素の自分」を取り戻そうとするのだ。自分の中に、「素の自分」なるものがまだあるのだと信じて。
ただ、僕の解釈では、マティアスの中に「素の自分」みたいな領域が残っているみたいなことはないんだろうなと思う。役者とは違って友達レンタルの場合は「演じていることが悟られてはいけない」わけだから、それを高い精度で実現するには「『素の自分』の領域を広げる」みたいにするしかなかったと思うからだ。
つまり、マティアスとソフィアの「素の自分」の定義が異なっているだけで、マティアスはソフィアの前では「素の自分」でいたのだと思う。マティアスが言う「素の自分」は、「友達レンタルの仕事を通じて拡張し続けた自分」であり、ソフィアが言う「素の自分」は「知り合った頃のマティアス」を指していて、この両者が食い違っているから2人の認識もズレていったということなのだろう。
みたいなことを色々考えさせられた。「アイデンティティが崩壊する」みたいな物語はたぶんよくあると思うのだが、「友達レンタル」がベースになっているものはかなり稀だろうし、そしてそんな本作で描かれているのはかなり現代的な病であるように感じられた。面白いのは、本作では供給側のマティアスの病が描かれるわけだが、同じくらい、友達レンタルを必要とする側も何らかの病を抱えているはずで、「すべてがそこはかとない狂気の中で進行していく」みたいな雰囲気が面白かったなと思う。
さて、もう少し内容の話をしておこう。本作は全体的に「よく分からないな」という状況が結構あった。「呼んでもいないのに配管工がやってくる」とか、予告でも使われていた「『お前は誰だ?』『マティアスです』『違う』というやり取り」など、「何のためにこの描写が存在するのかよく分からないな」というシーンが結構あった。
普段の僕なら、ちょっとモヤモヤしてしまうのだが、本作ではあまりそうならなかったなと思う。どうしてなのかはよく分からないが、予告を観た際に「次世代のヨルゴス・ランティモス」みたいな表現を目にしたからかもしれない。確かに全体的に「ヨルゴス・ランティモス感」はあって(まあそれは、二番煎じ的な見え方にもなってしまうから良し悪しではあるのだけど)、だから「ま、よく分からない描写ぐらいあるよね」みたいな感覚になったのかもしれないなと思う。
まあ後はとにかく、ラストの展開がなかなか狂気的で良かったなぁ。このラストは結構好き。もうなんか「色んなものの終わり」って感じがして、ここが一番「ヨルゴス・ランティモス味」があったような感じもする。しかし物語の場合、「ここで終わりです」って出来るけど、現実世界だったら「この後どうなるん???」って感じだよなぁ。色々地獄だろう。
というわけで、結構良かったなぁ。設定的にはもう少し面白くなりそうな気もしたけど、十分満足である。
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