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努力の「量」や、努力の「質」より大切なこと、それは努力の「向き 」

「努力は量か、それとも質か」

自己啓発やビジネス書では、よく語られるテーマである。

「努力とは時間。とかく頑張ることが大切」と言う人もいれば「どうせ努力するならば、効率よく努力することが重要」と言う人もいる。

ほいでも、僕は、その議論に以前から少しだけ違和感を覚えているのよね。

そりゃあ「努力の量」も大切だし「努力の質」も大切だけれど。しかし、その二択だけでは本質的な視点が抜け落ちているように思う。

その抜け落ちとは「努力の向き」である。

どれだけ努力しても、向かう方向が違えば目的地にはたどり着けないのだ。


僕は、努力っちゅうものを「量・質・向き」の三つに分けて考えとる。この三つは別の概念なんだわ。

う~ん自分で書いていて自分が難しいな。そうだ、これは座標で考えると分かりやすいと思う。

● 努力の量=どれだけ進んだか(距離)

● 努力の質=どれだけ効率よく進んだか(速度・技術)

● 努力の向き=どちらへ進んだか(方向)

たとえば、東京から大阪へ行きたい人がいる。

● 毎日12時間歩く → 努力の量

● ランニングシューズを履き、最短ルートを歩く → 努力の質

● しかし北へ向かって歩いている → 努力の向きが違う

量も質もじゅうぶんであっても、これでは目的地には着きません。

逆に、南西へ向かっているけれど、遠回りや道草をしながら歩く人は、量も質も十分ではないかもしれませんが、南西という向きは正しい。少なくとも大阪(目標)には近づいています。


この考え方は、キャリアを語るうえで、とても重要だ。

営業成績が伸びないのに、営業時間だけを増やす。資格が評価されない職場で、さらに資格を取り続ける。SNSの読者が増えないのに、分析をせず毎日同じ投稿だけを繰り返す。

本人は努力している。人一倍努力しているつもりなのだ。しかし、その努力は本当に目的へ向かっているのだろうか?

もっと分かりやすい例え話をするでよ。

明日が漢字テストなのに、徹夜で英単語を覚え続ける。本人は努力している。だが漢字テストの点数は上がらない。努力不足なのではない。そもそも努力の向きが違っているのだ。


世の中には「努力は裏切らない」という言葉がある。

ぼかあ、自分を典型的な努力型人間だと思っているので、基本的に努力を軽んずる考えは嫌いだ。しかし「努力は裏切らない」という言葉は、半分賛成で、半分反対ってスタンスです。

努力そのものは人を成長させる。それは間違いないのだけれど、ほいでも努力が必ず結果に繋がるとは限らない。

結果を生むのは文字通り「結果にに繋がる努力」だ。「量」と「質」だけでは足りない。重要なのは努力の「向き」。

では、その向きを見つけられる人は、生まれつき頭が良いのだろうか。センスのある人だけが持つ才能なのだろうか。のんのんのん。違う。努力の向きを見つけること自体が、ひとつの努力だったりする。

本を読む。人に会う。挑戦する。失敗する。振り返る。人の意見を聞く。そして「この方向ではなかった」と認める。その繰り返しによって、人は少しずつ努力の向きを修正していく。


例えば「甲子園へ行きたい」という夢を追う高校球児がいたとしよう。

毎日千回の素振りをする。フォームを録画して研究もする。努力の量も質も申し分ない。 ところが二年生の終わり頃「どう考えても自分は四番打者にははなれない。そもそもレギュラーも危ういかも」と気づいた。

ここで意地になって「もっと素振りだ」と同じ練習を続ける人もいる。 もちろんそれも一つの生き方だ。 しかし結果に繋がる努力をする人は別の問いを立てる。

そもそも、自分の目標は、レギュラーになることか?

それとも、チームが甲子園へ行くことか?

前者なら「四番打者」になるとう努力の向きを「下位打者でレギュラーになる」に修正すればよい。

後者なら、マネージャーや分析スタッフとしてチームに貢献する道がある。

「甲子園へ行きたい」という目標は変わらない。変わるのは努力の向き。 変えるべきなのは夢ではない。 夢へ近づく方向なのである。


ここで思い出すのが、キャリア理論の一つである「計画的偶発性理論」である。(いちおーキャリコンなので、キャリコンっぽい話をするでよ)

この理論は「成功する人は、最初から正しいキャリアを知っている人ではない」と考える。

偶然の出会い。思いがけない失敗。予想外の出来事。

そうした偶発的な経験を前向きに受け止め、そのたびに進む方向を修正する人ほど、自分らしいキャリアを築いていくという理論である。

僕は、この考え方にとても共感しとるがや。これは、努力の向きを修正するという発想とも相性が良い。

人生はカーナビのように、最初から最適ルートが表示されるものではない。

一度走り出してみる。道を間違える。渋滞に巻き込まれる。通行止めにも出会う。そのたびにナビは、新しいルートを検索する。

方向を変えることは敗北ではない。目的地へ近づくために新たに舵を切り直しただけである。本当の努力家とは、根性だけで走り続ける人ではない。失敗したら立ち止まり努力の量や質が足りなかったのか、向きが違ったのかを冷静に考えられる人である。

もし向きが違うと判断したなら、意地を張らずに方向を変える。それは逃げではない。良き結果を得るための戦略である。

僕がこれまで仕事で出会った人の中にも、頑張っているのに報われない人は少なくなかった。彼らに共通していたのは、努力を怠ることではなく、努力の修正を怠ることだった。

やみくもに、頑なに、意地になって「これだけ頑張ったのだから」と同じ場所を掘り続ける。

でも、水脈のない場所を百メートル掘っても水は湧かないよ。

本当に必要なのは、さらに深く掘ることではなく「掘る場所を変える」という決断だで。


努力は尊い。しかし努力そのものが結果を保証するわけではにゃあで。

努力には量も質も大切だが、同じくシビアに問うべきことがある。

この努力は、本当に目指す未来へ向かっているだろうか?

すなわち、努力の向き。

人よりたくさん努力をすることは大切。人より上手に努力することも大切。

そして、自分の努力の向きを、何度でも問い直し、何度でも修正することも同じように大切。

しがない努力家の端くれとして、ぼかあ、そう思うよ。


わーわー言っとります。時間だで……

ぅおっと、そうそう、2026年の年明けから始めたノートですが、7月末でフォロワー500人を達成しました。ありがとね。みんな。愛しています。これからも死に者狂いでボチボチ書くでよ。

ちゅうわけで、わーわー言っとります。時間だで。さいなら。


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