土佐をゆく(2)土佐日記の地をゆく
日本で最初の私的日記
土佐という地名が日本史の教科書で最初に出てくるのは、おそらく紀貫之の「土佐日記」(原本の表記は「土左日記」)だと思います。
中学校の古典の授業で「をとこもすなる日記といふものを をむなもしてみんとてするなり」という冒頭の一節は習ったのではないでしょうか。
平安時代、延長8年(930年)から承平4年(934年)にかけて土佐国の国司として赴任していた紀貫之が任期満了で土佐から京都に帰任する過程を女に扮して日記にしたものです。日本では現存する最古の私的日記でしょう。
紀貫之=女装男子VTuber説
もっとも、男の紀貫之自身が帰国する過程を、それに同行する女性が語っている形での日記なので、ちょっとクィアな感じがあります。いまでいう「女装男子VTuber」×「旅行系YouTuber」みたいなものですね。
また、「土佐日記」というのだったら、普通は、土佐での在任中のことを書いていそうなものなのに、この「土佐日記」は、実は、あくまでも土佐からの帰任時の日記なのです。
師走(12月)21日に始まるのですが、いきなり冒頭で国衙を出発する場面です。数日間、人々がいろいろなことをして別れを惜しんでくれるのを描いています。いわば送別会日記です。
紀貫之が住んだ国司の館跡と国衙跡
この紀貫之の時代、土佐国の国衙(国の役所・国守のいるところ)は、今の南国市比江(ひえ)という場所です。ここには、現在、紀貫之もいたであろう国司の館があった場所が国守館跡として公園として整備されています。このあたりは地名として「内裏(だいり)」と言われていたようです。都で天皇が住む区画を「内裏」というのに倣ったとのだと思われますが、いわばここが「ミニ平安京」だったのでしょう。
ちなみに平安京の中に天皇の住まいと行政機関などが集まる区画(宮城:きゅうじょう)を「平安宮」(へいあんぐう)といい、その中の一画が天皇の住まい「内裏」です。「大内裏」という言葉もありますが、これは「内裏」よりも広い区画という意味で使われており、「平安宮」のことを指します。


この国司館跡には、数々の碑が建っています。
最も古い碑が「紀氏舊跡碑」で江戸時代中期の天明5年(1785年)に書かれ、寛政元年(1789年)に竣工したもの。この時代の京都公家(名家)の当主で従一位権大納言となった日野資枝(ひのすけき)の歌が刻まれています。
「あふく世にやとりしところ末遠くつたへんためとのこすいしふみ」
(多く世に 宿りし所 末遠く 伝えん為と 残す碑(いしぶみ))

「千載不朽(せんざいふきゅう)」の碑は、大正9年(1920年)に建立されたもので、説明板によれば、土佐藩主山内家の子孫、山内豊景侯爵が題額を揮毫し、文章は文化6年(1809年)に右近衛少将源定信が撰したもの(おそらく老中で白河藩主の松平定信のこと。ただし、松平定信は左近衛少将である)。本文の文字は大江正臣筆とありますが、これは大正・昭和期の書家として有名な阪正臣(ばん まさおみ)の筆になるものと思われます。

「土佐日記の碑」は平成元年(1989年)国府史跡保存会創立30周年記念に建立されたもので、「土佐日記」の中で詠まれている紀貫之の歌が二首刻まれています。
みやこへとおもふをもののかなしきはかへらぬひとのあればなりけり
(都へと 思うをものの哀しきは、帰らぬ人の あればなりけり)
さをさせどそこひもしらぬわたつみのふかきこころをきみにみるかな
(棹させど、底ひも知らぬ わだつみの 深き心を 君に見るかな)

また、昭和6年(1931年)4月2日に俳人高浜虚子は、この地を訪れています。そのときの句が「土佐日記 懐にあり 散る桜」というもので、この句碑も建っています。

また、この国守館跡から370mほど南に行った田畑の中に国衙跡があり、さらにそこから東に750mほど行くと聖武天皇の時代に諸国に作られた国分寺の一つ「土佐国分寺」があります。

「四神相応の地」につくられた土佐国府
ここは北側に比江山という小山があり、東側らから南側を通って西に向かって国分川(おそらく国府の川の意味でしょう)が流れています。おそらく南側は川の蛇行で三日月湖や湿地帯ができていたと思われます。西側にはおそらく国分寺のあたりに南北に高知平野を渡る道があったのでしょう。こうなると、北に山・東に川・南に湖沼・西に街道という、いわゆる陰陽道の「四神相応」の地ということになります。京都(平安京)がまさにこの地勢に基づいて作られた都なのですが、地方政庁である国府もこのような土地に作られるたのかもしれません。
また、比江山は、ちょうど国司館の北西(鬼門)にあり、これはちょうど比叡山が平安京の鬼門にあたるところにあり、延暦寺はその鬼門除けとして作られたというものに倣ったもので、比江山という山の名前も比叡山から来たのかもしれません。実際、比江山の南には比江大寺跡という白鳳時代(645~709)の古瓦が発見された高知県下では最古の寺院跡が残っています。現在でもこの塔心礎石(塔の中心柱の土台)が残っているそうですが、縦3.2m、横2.2mというこの礎石の大きさから、塔の高さは32.4mと推定されているそうで、相当大きな寺があったことが偲ばれます。これがこのミニ平安京における比叡山延暦寺の役割を果たす寺だったのかもしれません。

土佐日記:大津からの出発
さて、「土佐日記」に戻ります。
27日になって、ようやく大津から出航して、浦戸(今の桂浜の近く)に向かいますが、このときにまた、鹿児の崎というところに新任の国守の兄弟や他の人たちが酒をもってやってきて、磯におりてきて、名残を惜しみます。この日は浦戸につき、翌28日には浦戸を出て大湊(場所は不明だが、おそらく南国市前浜のあたりか)に至ります。
そして、29日から元日、2日と正月を大湊で過ごしますが、そのあとも風が強くて出航できず、9日の早暁にようやく大湊を出港します。なんと、この間9日間、同じ場所にいたため、27日の大津から出発して、ここまで11日間で現在の地図での直線距離でいうと8㎞しか進んでいません(笑)今なら歩いても2時間で到着しそうです。

紀貫之舟出の地はどこか
大津は「大きな港」という意味です。大津という地名は、舟入川の川端にあたります。現在の舟入川は、現在は国分川に高知県立美術館の南で合流し、その後は国分川として浦戸湾の奥の高知港まで流れています。しかし、平安時代のころは、現在は浦戸湾の奥の高知港までしか入り込んでいない海が上の地図の水色部分のように今の高知市内のかなりの部分まで入り込んでいました。この広さは浜名湖より少し狹いくらいの大きさです。
現在、高知市立大津小学校の校門前に「紀貫之舟出の地」の石碑が立っています。大津という地名からすると、この辺りという見当になるかもしれませんが、この小学校は舟入川の堤防より低い位置にあるので、間違いなく往時は水の底だったと思われる場所です。


おそらく実際に、紀貫之が船を出した大津の港は、小学校からみると舟入川の対岸「白太夫神社(しらだゆうじんじゃ)」のある岩崎山とその少し下流の「鹿児神社(かこじんじゃ)」のある丘に囲まれた高知中央高等学校のあるあたりではなかったかと思います。
この辺りの地名は「舟戸(ふなと)」であり、もともとは「船による渡し場」(船渡)又は「舟の出入り口」という意味であったのではないかと思われます。
また、「白太夫神社」は菅原道真公(天神様)に仕えた忠臣「渡会春彦(わたらいはるひこ:松本春彦ともいいます」を祀る神社ですが、延喜3年(903)2月25日、太宰府で薨去した菅原道真公の遺品、袍、剣それに持仏の観音像を、渡会春彦は、土佐に土佐介として左遷されていた道真公の長子、菅原高視(すがわらのたかみ)朝臣に渡すためにこの地に来ましたが、老齢と遠路の航海に苦しんで体を壊し、たどりついた長岡郡大津村船戸の霊松山雲門寺で病に倒れ、延喜5年(905)12月9日ここで亡くなりました。渡会晴彦は俗に白太夫(しらだゆう)という名で知られ、ここ大津の岩崎山にその墓と祠堂があるそうです。おそらく菅原高視が土佐介であったためにその勤務先である土佐国国衙に向かおうとしてこの港に辿りついたということではないかと思います。
さらに舟戸の入口にあたる鹿児神社のある小山が、「土佐日記」に新たな国司の兄弟が酒をもって追いかけてきたという「鹿児の崎」だったと思われます。当時はこのあたりの平地が水面だったために、小山がちょうど、海につきでた崎(岬)のようになっていたのでしょう。「鹿児」は水夫(かこ=ふなのり)のことだったと考えられますし、この神社の祭神として海運の神である住吉三神(底筒男神、中筒男神、表筒男神)を祀っているのも、この神社のある場所が港であった証拠といえるでしょう。

大湊からの行路
「土佐日記」に戻ります。
ここから先は今回の旅では行っていない場所ですので、ざっと流します。
高知県はやはり大きく、今回は時間が足りませんでしたので、高知県の東側には行けませんでした。時間があれば、岩崎弥太郎が生まれた場所でもあり、戦国大名安芸氏の居城安芸城のあった安芸市、それに中岡慎太郎が生まれた場所でもあり、話題になった「モネの庭マルモッタン」のある北川村などにも行きたかったところです。
1月9日の早暁から夜にかけては、順風に乗ったのか、いきなりスピードアップします。半日で45㎞ほど進んで、奈半の港(今の奈半利町)に到着。10日はこの奈半の港に泊まって、11日の早暁に出発。
羽根崎を通って室津(室戸市室津)には12日に到着します。
しかし、またここで足止め。天気が悪いとか日が悪いとかで、結局16日まで室津に留まります。17日になると夜明け前、雲がないので出航してみると、夜が明けるころになると雲が出て来て水夫たちが、船を室津の港に引き返してしまいます。18日は天候が悪く、19日は日が悪く、20日も昨日と同じなので舟を出さない。このころになるとさすがに乗客たちも憂鬱になってきてしまっているようです。
21日卯の刻(午前6時ころ)に出航。22日には夕べの港とは別の港に向かうとしています。23日と24日は同じ港に停泊しているようです。25日には北風が悪いと楫取りが言ったので船を出しませんが、海賊が追ってきているという噂が入ってきます。26日には海賊が迫っているということなので夜中に船を出します。神に祈ったところ、追い風が吹いて船が進んだようです。
27日になると今度は風が強く吹き、波が荒く船を出せず、また28日は一日雨だったのでこの日も停泊したようです。29日には出航して新たな港に着きます。港の名前を聞くと「土佐泊」だとわかります。「土佐泊」とは、現在の徳島県鳴門市土佐泊、徳島から淡路に渡る「淡路大橋」がかかっている場所です。
御覧のとおり、21日に出航する「室津」を出た後は、具体的な地名が記されずに、29日にはいきなり徳島県の「土佐泊」に着いています。
おそらく、室津までの室戸岬の手前までは、紀貫之も任国の土佐国の主要部に当たるのでよく知った地名だったのでしょう。22日に語られている「夕べの港とは別の港」から25日に「北風が悪い」という理由で出航していないということは、この港からの航路は、すでに室戸岬を回って、海岸線を北上する航路(=北風は向かい風になる)に入っていたということがわかります。
おそらく22日ころには、室戸岬をまわり、その先の土佐国の東岸か阿波国に来ているのでしょう。ここから先は土佐国でもあまり馴染みのない場所で、さらにその先は阿波国に入るので紀貫之に地理的な知識がなかったので地名が書かれていないのだと思います。
この後、一行は、土佐泊から淡路に渡り、淡路の沼島(ぬしま)から紀伊水道を渡り、和泉国(大阪府泉南郡)を経由して、大阪住吉から淀川を上って京都に向かいます。ここでは、川の水位が低いので、船が川を上がれないので難渋しています。現代的な感覚では、もうここまで来れば、陸路を行けばよいのにと思うのですが、高貴な方々ですから、そうもいかないのでしょうか。それでも船で行こうとしているのが面白いですね。
それでも山崎(大山崎町)まで来ると、さすがに都に車(牛車)を呼びにやらせました。この車で2月16日の夜に貫之は、都のわが家に戻ってきています。2月16日なので月が満月なのですね。月明りで家の様子が夜でもわかると書いてあります。出たときと比べて荒れた家の様子をみて、歎きます。また、昔の松は枯れてしまっているが、小さな若い松が新たに生えているのをみて、この家で生まれた娘が土佐で亡くなったことを思い出して、貫之は歌を詠み悲しみにくれるのでした。

短いけれども「土佐日記」は結構おもしろい作品です!
「大鏡」が「権記」などの歴史資料的なものを除くと、平安文学は、「源氏物語」と「枕草子」くらいしか読んだことがありませんでした。「土佐日記」も中学・高校時代に古文の教科書と参考書で読んだ覚えがありますが、当然に有名な箇所だけですので、全文を読むことなどはこれまで考えてみもしませんでした。
でも、この文章を書くために改めて「土佐日記」を全部読んでみたところ、とても短い作品ですし、中学・高校時代のように文法とか古語とかを気にしないで読み進められるので、簡単に読めてしまいます。実際の土地と対照しながら読むとなかなか面白い発見もあり、楽しかったです。古文もこういう楽しみ方ができれば、中学・高校時代、もう少し成績が良くなっていたのかもしれないな。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
次は土佐の戦国を彩った長宗我部氏の城「岡豊城」を訪れます。
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