土佐をゆく(1)守護代細川氏の城跡「田村城跡」と菩提寺「天高山 細勝寺」
高知龍馬空港の近くでレンタカーを借りて、まず行ったのがここ「田村城館跡」です。ほとんど空港の滑走路の横。農耕地と農家の間に発掘調査後残された土地に土塁と説明が記された石碑があります。


(樹木が生えているところ)
室町時代、土佐国(現在の高知県)の守護職は、細川氏の宗家となっていた細川右京大夫家(京兆家)が代々任じられていました。しかし、この家は三管領の一つという幕府の重責を担う家でしたので、在京している必要がありました。そこで、細川氏の分家の細川尾張守家(尾州家)が守護代として土佐に入っていました。
天授6年(康暦2年 1380年)に細川尾張守頼益がこの城館を守護代所として築いたといわれており、その後、その子孫の満益ー持益ー勝益と四代が土佐国守護代としてこの地に拠点を置いていました。
しかし四代目の勝益は応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))のとき、細川勝元(京兆家当主であり、土佐国守護でもあったため、細川勝益の名目上の上司に当たるわけです)に味方するため上洛しました。
この間に都から土佐には、五摂家の一つ一条家の当主の一条教房が逃れてきました。この一条家に取り入ったのが長岡郡岡豊城の長宗我部氏でした。長宗我部氏は、一条家の権威も楯に土佐国内で力を持ち始めていました。細川氏が土佐を留守にする間に、長宗我部氏を始めとする土佐の各地の土豪たちは、それぞれが居城を築いてそれぞれ郡単位規模で地域を支配するようになっていきます。
ちなみにこの田村という土地は、その後の時代も、重要な場所だったようで、のちほど訪れる高知県立歴史資料館に細川氏時代よりも後(16世紀長宗我部氏がこの場所を支配した時代)の村の様子(環濠集落)のジオラマが展示されていました。

細川勝益は、応仁の乱が終わると一旦は土佐に戻り、文亀元年(1501年)には田村城館の南西に初代守護代の曾祖父・細川頼益の追善のために「桂昌寺」という寺を建立して、その菩提を祈願しています。「桂昌寺」という寺号は、細川頼益の法号「桂昌院殿常陸居士」から取られたものです。
この「桂昌寺」は、江戸時代になると、5代将軍徳川綱吉の生母、桂昌院と寺号が重なるのを避け、「細勝寺」と改めています。おそらく開基の細川勝益の名前から二字を取ってつけられたのでしょう。平成14年(2002年)高知龍馬空港の滑走路拡張工事により、寺の境内がこの範囲に当たってしまうので、北東430mくらいの現在の場所に境内を移しています。

この寺の境内には細川頼益の墓碑があると言われているようなので、探してみたところ、本堂の裏手に「二引両」の家紋のついた墓碑が2つとその後ろに「妙法桂昌院殿常陸居士」という法号を彫った墓碑がありました。「二引両」の家紋は足利氏の支族である細川氏も使っている家紋ですので、もしかすると細川氏のものかもしれませんが、墓碑の文字が削れてしまっていて判読が難しい状態です。

もう一つの「妙法桂昌院殿常陸居士」という墓碑は、非常にはっきりと読み取れ、これが細川頼益の法名であるとする郷土史の資料もあるようなのです。ただし、とても、細川勝益の時代のものとは思えません。おそらく江戸時代以降に細川頼益の菩提を願って、新たに彫られたものだと思われます。

この寺の建立の翌年、文亀2年(1502年)6月4日に細川勝益は死去します。息子の細川政益が土佐守護代となりますが、永正4年(1507年)に京兆家当主の細川政元(勝元の子)が暗殺される「永正の錯乱」が起き、政益は息子(弟という説もあります)の国益と共に上京して、以後、土佐は守護代が不在となり、戦国の混乱期を迎えることになります。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次は、紀貫之の「土佐日記」に関係する平安時代の土佐国国衙跡を訪れます。
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