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土佐をゆく(3)「高知県立歴史民俗資料館」と長宗我部氏の拠点「岡豊城」

岡豊」と書いて「おこう」と読みます。
戦国時代に土佐国(今の高知県)を統一して、さらに阿波(今の徳島県)、讃岐(今の香川県)そして、伊予(今の愛媛県)に攻め入り、四国制覇まであと一歩というところで、畿内、中国地方を制覇した織田信長、羽柴秀吉によってその野望を打ち砕かれた長宗我部元親。その長宗我部氏累代の戦国時代の拠点が「岡豊城」です。

この稿では、この「岡豊城」とその城域にある「高知県立歴史民俗資料館」について書いていきます。


岡豊城域にある「高知県立歴史民俗資料館」

岡豊城は、高知平野を見渡せる場所にある山城で、比高は90m(標高97m)くらいですが、山頂の城の中核部分の下にある「高知県立歴史民俗資料館」まで車で行けるので、楽にアプローチすることが可能です。(こうした道路整備はかつてこの山城がレジャー施設として整備開発されてしまったときに行われたものを踏襲して再整備したもので、この博物館建設のために城域を破壊して作られたものではないようです。)

高知県立歴史民俗資料館
高知城城下町の展示
岡豊城のジオラマ展示
(南西側から 手前から「四の段」、その奥に「三の段」、「詰」が見える)
岡豊城ジオラマ展示(南西側から 手前に見えるのが「伝 厩跡曲輪」)
長宗我部元親本陣の実寸大模型(記念写真撮影スポット)


「高知県歴史民俗博物館」は、1室が企画展 1室が長宗我部氏の展示、比較的大きな1室が常設展という構成の博物館です。

歴史と民俗の両方を展示する博物館にありがちですが、常設展は民俗資料の展示がスペースをとっていて、歴史展示はどうしても資料収集が難しいためか、やや貧弱になりがちです。
さらに、高知県独特の事情としては、高知県立の歴史関係の博物館として、ここの他に「高知城歴史博物館」と「高知県立坂本龍馬記念館」があるという事情もあるでしょう。高知の歴史といえば、やはり高知城を含む江戸時代の高知(土佐高知藩山内家20万2600石)と幕末の動乱期に坂本龍馬・中岡慎太郎・武市半平太・後藤象二郎・板垣退助といった志士を出したという輝かしい2つの歴史の大テーマがあり、そのためにわざわざ一つずつ独立した博物館を作っているといるのは、高知県として素晴らしいことだと思います。しかし、そのために、それ以前の「土佐日記」やこの地に配流になった「土御門上皇」や「尊良親王」のこと、戦国時代の守護代「細川氏」、「御所」といわれた「土佐一条氏」、「安芸氏」・「本山氏」・「吉良氏」を始めとする「土佐七雄」のことなどについて充分にこの博物館の常設展示で学ぶ機会がないのはとても残念です。

わざわざ長宗我部氏についての展示用の部屋を1室特別に用意しているのは、せめてもの罪滅ぼし(?)かもしれませんが、長宗我部氏だけでももっと展示は充実させられるはずだと思います。せっかく岡豊城の城域内という戦国歴史ファンには絶好の立地であるにもかかわらず、歴史好きが訪れたときには、この博物館の展示内容は、少し残念に感じざるをえない内容になっているような気がします。

ちなみに今回の企画展はこの博物館の資料収集などの仕事を紹介するもので、それほど興味はわきませんでした。キュレーターを目指す人にはいいのかもしれませんが・・・。

地方の博物館や資料館こそ、資料の撮影を可能にすべき!

ちなみにここでは資料は原則、撮影禁止(ここに掲載しているものは撮影可能とされているものです)。いつも思うのですが、かつてのようにフラッシュを焚かないと撮影できない時代、資料保護のために撮影禁止をしていたのは理解できますが、今の時代にはあまり意味がないと思います。むしろ、来客を少しでも多くしたい地方の博物館や資料館は、むしろ積極的に資料撮影を解禁して、SNSで発信してもらうことこそが、せっかく集めた資料の存在を世間に知らしめて、来館者を増やしたり、地域の歴史に関心を持ってくれる人を増やすという文化的意味があるように思うのです

現在では、東京国立博物館でも常設展示は国宝でも撮影可能です。おそらく現在、撮影禁止にしている博物館でも、なぜ撮影禁止なのか、ちゃんとした説明はできない筈です。おそらく、「これまでそうだったから」という昭和の伝統を無批判に続けているだけだと思います。ぜひ、文化をしっかり発信して来館者を増やすためにも、再考してもらいたいものだと思います。

「赤い彗星」ばりの「長宗我部元親 飛翔之像」

「高知県立歴史民俗資料館」を出たところには、「長宗我部元親 飛躍之像」があります。実は長宗我部元親というと、実際に残っているよく知られている肖像(秦神社所蔵のもの)は老人になってからのものなので、若い頃の姿がどのようなものだったのかはイメージが掴めません。幼少の頃は、長身だが色白で、大人しい性格で女性のようだということから「姫若子」(ひめわこ)と言われていたという逸話が残っています。別に女性のようだからといって、美女のように美しかったかどうかは別問題なのですが、「姫若子」という言葉から連想されて想像で描かれる若いころの長宗我部元親は、秦神社所蔵の画像とは比べものにならないくらいハンサムな美男に描かれることが多いように思います。高知にはこの「高知県立歴史民俗資料館」の前のこの「長宗我部元親 飛躍之像」と後日、訪れる予定の若宮八幡宮の参道にある「長宗我部元親 初陣之像」と二つの有名な長宗我部元親の像があるのですが、どちらも「赤い彗星シャア・アズナブルかと思うようなシャープな甲冑姿の美男子として描かれています。

「長宗我部元親 飛躍之像」
長宗我部元親像(絹本著色長宗我部元親像 秦神社蔵)
長宗我部元親といえば、基本はこの顔

いざ、岡豊城へ!

シャアの像、もとい!長宗我部元親の像をあとにして、目の前の階段を上っていきます。この先が、岡豊城の本格的な縄張りが施された城域となります。階段をのぼりきったところで、山城らしい石段が現れ、それを登っていくと、まず到着するのは「二の段」という曲輪です。

城の縄張りは最も高い所に本丸に相当する「(つめ)」があり、東に「詰下段」、「二の段」、南から西に「三の段」、「四の段」、更に西側丘陵に伝「厩跡曲輪」という出丸が配された連郭式となっています。

岡豊城縄張図 出典:平成24年度 岡豊城跡 伝家老屋敷曲輪 第3次調査 現地説明会資料より

土佐・南予独特の城郭用語

今回、土佐と南予の城を訪問して思ったのですが、この地方には独特の「城郭用語」があるようです。城(特に平城や根小屋のような山城の山麓の日常の城館)を「土居(どい)」と言ったり、他の地域では、本丸と呼ぶ場所を「(つめ)」と呼んだり、「二の丸」「三の丸」という代わりに「二の段」「三の段」と「(だん)」という呼び方をするなどのことが見られます。
土佐や南予の山城の場合には、曲輪に高低差があります。岡豊城も本丸に相当する「詰」が最高地点となっており、その脇に帯郭として「三の段」と「詰下段」があり、「三の段」からさらに一段低くなった場所に「四の段」、「詰下段」から堀切を土橋で渡った場所に一段低くなった「二の段」があるというように「段状」になっていることから、このような名称がつけられたのだと思われます。他の地方ではあまり、このような呼び方をしているようにはおもわないのですが、どうでしょうか?

「高知県立歴史民俗資料館」のある曲輪

「高知県立歴史民俗資料館」とその駐車場の敷地は、その建築整備をする前、この岡豊城の山が公園娯楽施設として利用されていた時代にすでに開発されていた場所だったそうです。この資料館が建設された時にこの敷地も発掘調査はされましたが、すでにこの敷地の城郭時代の遺構は過去の開発により破壊されていたそうです。

しかしながら、この敷地の東側から北側にかけての斜面には畝状竪堀や竪堀が見られることから、この敷地も城郭時代に曲輪だったと考えられています。正確な形や広さは分からないものの、それより高度の高い場所に作られた城の中心の曲輪群に比べて、現状から想像しても広い面積の曲輪だった可能性が高いようです。

戦国末期においては、織田信長の安土城や浅井氏の小谷城に典型的に見られるように、山城全体が城主家族の居住空間(御殿)や重臣の居住空間や執務の場を山城の比較的高い位置に設置するということが行われた例が見られますので、その時代にこの場所がそのような目的で使われた可能性は否定できないと思います。(あとで考察するように戦国中期までは、一般的に城主の平時の屋敷は城の麓の根小屋と呼ばれるような平地に置かれることが多かったので、おそらく岡豊城においても最初からこの場所が城主の御殿だったりした可能性は少なく、むしろ、戦国末期、長宗我部元親の時代に畿内における城郭などの情報が入ってきた後に改修された結果ではないかと僕は想像しています。)

二の段

高知県立歴史民俗資料館とその駐車場の敷地から整備された直線状の階段を上がると一旦、元は帯曲輪であった可能性がある高度を変えずに城域を東から西にぐるりと囲む道があります。そこからは少し切岸を斜めに上がる石段を上っていくと「二の段」に至ります。この「二の段」は各角が30度・60度・90度の不等辺の三角定規のような形をしています。そして、北東に30度の角、南に60度の角、西に90度の角があるという配置になっており、30度の角から60度の角を経て90度の角に至る縁に土塁が見られます。この場所からは岡豊城の東側と南側の眺望が開けており、特にこの岡豊城を訪問する前に訪れた平安時代の土佐国の国衙跡や宿敵であった山田氏の山田城方面が見通せます。

二の段 あずまやの後に30°の角から60°の角に至る東側の縁にある土塁が見える
二の段から詰下段の切岸を望む(間に堀切がある)


二の段から東方面を望む 土佐国衙跡や宿敵山田氏の居城山田城を見通せる

堀切・井戸・詰下段・詰の下の帯曲輪(三の段)

二の段の90度の角の近くから南西に上る道は大きな堀切を渡る土橋になっており、「詰下段」と呼ばれる小さな曲輪に至ります。この堀切には岩盤を穿った「井戸」がありますが、この井戸は湧き水が出る井戸ではなく、雨水を貯めるものだったようです。(今も年間降水量が多い高知県ですが、当時も雨水を貯めるだけで水の確保ができたのでしょうか)

二の段と詰下段の間にある堀切と井戸

「詰下段」には建物が建っていたようで、礎石の跡を見ることができます(礎石の配置が復元展示されています)。この「詰下段」からもう一段上ると「詰」つまり本丸に至ります。なお、この「詰下段」からほぼ同じ高さを維持したまま、「詰」の切岸をぐるりと巡る帯曲輪(三の段)があり、この帯曲輪の下には竪堀や畝状竪堀が特に南東方面に向かって掘られています。

詰下段 奥に建物の礎石の跡 右側が詰の切岸 左側が詰下段の土塁
詰の下に見られる畝状竪堀
詰下段から二の段の南側の切岸を望む
詰下段から詰に上がる石段

詰(本丸)

詰は本丸のことで、この城で最も高い場所にある曲輪です。二の段が「不等辺の三角定規」なのですが、これを30度の角を中心にした二つの辺を2倍から2.5倍に伸ばした相似形を描くと、ちょうど、二の段と詰下の段、詰の三つの曲輪を上から見た形になります。(詰は、南に60度、西に90度、東に120度、北に90度の四辺形をしていることになります)この詰も二の段と同じように南東方向と西側の縁に土塁が施されています。

詰 建物の礎石が展示されている

この場所は南側に眺望が開けており、ここから眺めると眼下には高知平野がほぼ一望でき、眼下の国分川の流れや太平洋まで見通すことができます。往時は、今の浦戸湾は、現在の高知市の市街地の東部の平野から、大津のあたりまで入り込んでいましたので、この場所からは、そこを行き交う船の動きをすべて把握することができたと思われます。

詰から南方を望む 山の向こうに太平洋が見える
手前に見える川は国府川

詰には建物跡の礎石と石敷遺構が見つかっており、こちらも復元展示されています。また、掘立柱の跡も見られることから二層以上の建物がこの場所にあったことが推定されている他、天正3年(1575年)の記載のある瓦の破片が見つかっており、またこの瓦には泉州堺の瓦職人の名前が記載されていることから、長宗我部元親がほぼ土佐国全土を手に入れた時期(天正2年に土佐一条氏の当主兼定を土佐から追放し、その世子の内政を大津城に移し傀儡化した時期)にこの岡豊城を大幅に当時の最先端の様式でリニューアルした可能性があるようです。

詰 建物の礎石が展示されている
詰 建物の礎石

三の段

詰の西側には「喰い違い虎口」があり、そこから一段下りると、さきほど詰下段から同じ高さで詰の切岸をぐるりと巡る形でつくられた帯曲輪がここだけ広くなっています。ここが「三の段」です。「三の段」にも建物跡の礎石があり、さらにこの三の段の西側の縁には、補強のための石積を伴った土塁が残されています。現在の石積みは復元されたものですが、石垣の城ではなく、レンガブロックよりやや大きいぐらいの石を1mから1.2mほど積み重ねて作られています。

詰から三の段に下りたところ、
西側(奥)に石積みで補強された土塁があり、
手前には建物跡の礎石が見える
三の段中央部、
西側(右側)に石積みで補強された土塁が続き、
手前には建物の礎石がみえる
東側(左側)には詰に上がる石段

四の段

「三の段」の北の角から西側に下りるとそこは「四の段」になります。「四の段」は「三の段」から下りてすぐのところにある土塁に囲まれた北側の部分と、そこから土塁と補強用の石積みで囲まれた屈折した虎口を通って出ることができる南側の部分に分かれています。この「四の段」にも建物跡の礎石が見られ、また「四の段」の西側と南側の縁には土塁が作られています。南端の土塁の上には「長宗我部氏岡豊城址」の大きな石碑が建っています。

四の段
四の段の虎口
四の段 右手に長宗我部氏岡豊城址の碑 左手は三の段の切岸
四の段の南側にある長宗我部氏岡豊城址の碑
四の段の南側にある長宗我部氏岡豊城址の石碑


(伝)厩跡曲輪

「四の段」の「長宗我部氏岡豊城址」の碑の横から、つづらおりの坂を下りて行きます。この坂道は往時のものではないと思われ、切岸のあちらこちらにほどこされた竪堀を横断している部分もあり、竪堀を左右に見学することができます。(ただし、普通の観光客には、この竪堀を見つけるのはちょっと難しいかもしれません。山城好きの城ファンならば、単なる山の崖の中のちょっとした窪みにしか見えない場所を竪堀として認識するのはそれほど難しくはないのです(笑)。ただ、この竪堀跡は写真に撮っても、正直後から見たのでは山城好きでも、何だかよくわからないことはよくあります(笑)

標高60mくらいのところまで下りてくると舗装された道に至り、そこがこの城山の鞍部になっていて、そこから稜線に沿って舗装道が東北東方面に登っていきます。この道を登って行くと「厩跡曲輪」と伝えられる場所があります。実際に厩跡として使われたとは考えにくい場所で、どちらかというと城の西部を守るための出丸として築かれた曲輪と考えるのが適当でしょう。この曲輪については、曲輪の縁からの切岸の一段下に横堀がぐるりと巡らされており、そこから下に竪堀が何本も施されています。

(伝)厩跡曲輪
(伝)厩跡曲輪から東方面を望む 
手前の川は国分川 河の向こうに見える小山は布師田金山城 画面左側に見える山は大津城

(伝)家老屋敷曲輪など

城域の曲輪としては、他に最近発掘された「(伝)家老屋敷曲輪」やその東にある削平地が二か所ほどあるようですが、こちらは、今回探索した主郭部分から国分川の方へと下りていく道が整備されていないようですので、今回は探訪するのは諦めました。(国分川の川沿いの道から「(伝)家老屋敷曲輪」に上がることは可能なようです。

また、「(伝)厩跡曲輪」から舗装道路を通って「高知県立歴史民俗資料館」の駐車場まで戻る途中、道路の左手の下の斜面にもいくつも竪堀や土塁を見ることができます。

(伝)香川五郎次郎親和の墓

「高知県立歴史民俗資料館」の駐車場まで戻ったら、そこから車に乗って、この岡豊城の山を下っていきます。二つ目のヘアピンカーブの手前で道の左側に白い「(伝)香川五郎次郎親和の墓」と書かれた標柱が建っています。この付近で一旦車を道路わきに停めて、この標柱のところから道を下りていくとコンクリートで囲まれた貯水池の手前に、「(伝)香川五郎次郎親和の墓」があります。もっとも、墓といっても五輪塔の一部が残っているだけで、おそらく他の人の五輪塔のパーツも組み入れてしまっているのか、不思議な形の塔になっており、標柱がなければ、とても長宗我部元親の次男の墓とは思えないようなものです。

香川親和の墓。
今まで見たことがない形の五輪塔(?)です。

香川五郎次郎親和は長宗我部元親の次男です。長宗我部元親が讃岐国(香川県)に侵攻したときに西讃岐4郡の守護代であった香川氏の当主香川之景(かがわゆきかげ)を味方につけるため、和睦の条件として親和を聟養子として送り込み、香川氏の名跡を継がせました。親和は長宗我部元親の讃岐平定には多大な貢献をしましたが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐によって長宗我部元親が降伏すると、香川氏は改易となり、親和は人質として秀吉の弟、豊臣秀長の居城「大和郡山城」に送られます。
翌天正14年(1586年)には、長宗我部元親も土佐一国の保有は許され、親和も無事、岡豊に帰国することができ、幡多郡山田郷(現在の宿毛市山奈町山田か?)に領地を与えられ、岡豊城の北側、東小野(現在の南国市岡豊町小蓮の中央部。高知大学岡豊キャンパスの北東付近か)に屋敷を与えられて住んだとみられます。
この年、長兄の長宗我部信親が薩摩島津家と豊臣家の島津征伐軍とが戦った豊前国戸次川の戦い(べつきがわのたたかい:大分県大分市中戸次)で激戦の中、戦死してしまいます。このとき、豊臣秀吉は元親に朱印状を出し、親和を世子として家督を継がせるよう計らいました。しかし、元親は溺愛する四男の長宗我部盛親に家督を継がせることを決めてしまいます。
間もなく、親和は病にかかり、天正15年(1587年)に死去しますが、一説によると家督を継げないことを気に病んで病に倒れたとも、自ら食を断っての覚悟の死だったとも言われています。

(伝)長宗我部一族之墓と瑞応寺(推定地)

香川親和の墓を後にして、再び車に戻り、岡豊山から下りたところで左折して県道384号線に入ります。そこから200mくらいすると左手に岡豊城の山腹が造成されている場所に入れる場所があります。(民家の敷地と考えられますので車は県道の脇に駐車しました)。そこに入っていくと、民家の南側にに、不思議な倒木などを加工した動物などが置かれている公園(?)のようなものがありました。その手前を右手の山の稜線に向かって少し上るとすぐ右手に「(伝)長宗我部一族之墓」の標柱と説明板が現れます。

その後ろには、1mくらいの高さのものから50㎝くらいの高さのものま20数基の五輪塔が散らばって立っています。これが「(伝)長宗我部一族の墓」のようです。説明板には、「岡豊山の西や北におりる谷間一帯には玄陽院・瑞応寺・東谷庵などの寺院跡があり、長宗我部氏代々の墓所が残っている。二十数基の墓はごく粗末なもので、連綿二十余代に及んだ長宗我部氏の歴史を物語るにはあまりに貧弱なものである。上段には国親又は信親といわれる墓碑があり、下段には累代の墓が立っている(後略)」とありますが、どこが上段なのかはよくわかりません。(もう少し西の山の稜線の方に一段上に上がると卵塔があるのですが、これは一般的には住職の墓なので、これではないと思います。いくつか大きな五輪塔を撮影したので、この中のどれかが説明板にある「上段の国親又は信親の墓」ではないかと思われます。

なお、長宗我部信親(21代元親の長男)は、豊臣秀吉の島津征伐軍に従軍し、「戸次川の戦い」で戦死しますが、彼の墓は現在高知市の雪渓寺にあります。信親が亡くなった時点(天正14年(1586年)12月)では、長宗我部元親は岡豊城から大高坂城に居城を移していた可能性があり、その点では、この岡豊に信親の墓が雪渓寺とは別にあるのはやや不自然かなと思います。

(伝)長宗我部一族之墓 墓域に沢山の小さな五輪塔が置かれています。
(伝)長宗我部一族之墓の説明板
二つ仲良く並んだ五輪塔 国親とその夫人(本山氏)のものでしょうか?
一番大きな五輪塔(比較的上段にあるので、これが国親の墓の可能性があるかもしれません)

さて、この墓地からもとの公園(?)にもどり、そこを南の岡豊城の山の麓に少し進むと、「瑞応寺(推定地)」の標柱が立っていました。2022年12月から2023年2月にかけて、この場所で南国市が発掘調査をして長宗我部氏の菩提寺「瑞応寺」の跡とみられる遺跡を発見した場所です。

豊臣時代の長宗我部氏が土佐一国の検地を行った「長宗我部地検帳」には「北谷」に瑞応寺があったとされる記述があります。「北谷」という地名は現在では失われてしまっていますが、岡豊城の北側の麓の山の稜線に囲まれた場所のことを指すのではないかと考えられてきました。
2022年12月から2025年2月までに3回に渡り行われた南国市の発掘調査で、この岡豊城の北側の北谷と想定された場所に、明らかに土盛りをして斜面を平らにして建てられた建造物の跡や庭園の跡とみられる遺構、建物の柱を据える礎石、建物を建てるために釘などを鋳造した炉の跡などが発見されました。また、ここからは海外から輸入されたであろう陶磁器や茶道具なども出土しています。
こうした豪華な出土品からみて、この遺跡が長宗我部氏の菩提寺「瑞応寺」の跡である可能性はかなり大きいとみてよいでしょう。

これまでの発掘調査の成果をもとに南国市では岡豊城に加えてこの瑞応寺も「国史跡」への追加指定を申請していく予定のようです。ぜひ指定を得られるように頑張ってもらいたいですね。

瑞応寺は、宝永5年(1708年)に長宗我部氏家臣の子孫だった吉田孝世が記述した軍記物「土佐物語」によれば、瑞応寺は19代長宗我部兼序(元親の祖父)を祀った「千歳山兼序寺」を21代元親が父の国親(法名:瑞応覚世大居士)と母(法名:祥鳳玄陽大姉)を祀るため、二人の法号から「祥鳳山瑞応寺」と改称して再興(おそらく一旦廃れたのではなく、改めて整備し直したということでしょう)したものだそうです。
その後、慶長年間(1596~1615)に元親が本城を岡豊から大高坂(現在の高知城のある場所)に移した際に、瑞応寺も岡豊から「猿が馬場洞島」(現在の高知市洞ヶ島町)に移したようです。今回の旅行では行き損ねてしまったのですが、その場所には、現在も瑞応寺が残っています。

瑞応寺の跡


ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次回からは、岡豊城の歴史(長宗我部氏の歴史)について書いていこうと思います。

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