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土佐をゆく(4)「岡豊城の歴史」その1  秦氏の土佐入りと鎌倉時代まで

前回は岡豊城の構造をできるだけ詳しく書きましたが、岡豊城についての歴史考察まで書くには紙面が尽きてしまいましたので、今回は岡豊城の歴史を長宗我部氏の歴史も踏まえながら、見ていきましょう。

ただし、この後の「岡豊城の歴史」の稿は、実際に今回の旅では行ききれなかった部分についての記載も多く、写真などは少ないです。地図で地形などを見ながらのバーチャル旅行を楽しむつもりでお読みいただけると幸いです。


秦能俊の土佐入り

長宗我部氏の先祖については、諸説ありますが、平安時代末期から鎌倉時代初期に信濃国更科郡(今の長野県千曲市)から土佐国(今の高知県)に移り住んだ秦能俊(はたよしとし)に始まるとされています。保元の乱で上皇方につき敗北したのを契機に土佐に来たという伝承もあるのですが、おそらく治承・寿永の乱(治承4年(1180年)~元暦2年(1185年):いわゆる「源平合戦」)か承久の乱(承久3年(1221年))の恩賞として地頭としてやってきた可能性が高いように思います。
(一方で、土佐には平安時代中期(11世紀前半)に土佐介・土佐権介に任じられている曾我部氏(そがべし)がいます。この地元土佐にいた曾我部氏が長宗我部氏と関係がある可能性もあります。長宗我部氏の先祖については、あらためて別の稿で書く予定ですので、今回はあまり論じません。)

この秦能俊が土佐において拠点を置いたのが「宗我部郷」(宗部郷とも書き、いずれも「そがべごう」と読む)とされています。この宗我部郷は、長岡郡にあり、現在の南国市岡豊周辺、特に岡豊城のある山の東から東南あたり(現在の地名では「南国市岡豊町八幡」)と考えられています。秦能俊は宗我部に拠点を置いたので「宗我部氏」という苗字を名乗りますが、土佐には隣の香美郡にも宗我部氏がいたので、長岡郡の宗我部氏ということで「長宗我部」という苗字を名乗り、香美郡の宗我部氏は「香宗我部」(こうそかべ)という苗字で呼ばれることになります。

岡豊城前史 鎌倉時代の長宗我部氏の館はどこにあったか?

現在残る岡豊城の遺跡は、考古学的調査の結果では13世紀~14世紀の築城年代と考えられていますが、伝承のとおり、秦能俊が平安時代末期から鎌倉時代初期(12世紀後半~13世紀初め)に長宗我部氏がこの地にやってきたとしたとしても、その時点で長宗我部氏がいきなり山城の山頂付近の現在の岡豊城の主要な城域部分に館を構えた可能性は低いのではないかと思います。

鎌倉時代のの地頭や土豪の館はいざというときに近くの山の上に逃れることは想定していたとしても、基本的に普段は、平地に堀と土塁で囲まれた館を築きそこに住んでいるのが一般的です。具体的に鎌倉時代から室町時代に長宗我部氏が館をどこに置いたかという点については資料がないのですが、交通の便がよく、領地があったと想定される岡豊城の南方に広がる平野が見通せる場所にあった可能性が高いと思います。

地図でみればわかりますが、現在の岡豊城の南側は、すぐ目の前を国分川が流れています。現在は川まで少しだけ平地があるものの、この時代にはそうした場所は、川の氾濫原の湿地で館を作るのには適していなかったのではないかと思われます。

岡豊城の北側(地図の①)には、岡豊城の山の麓に円弧状の山裾に囲まれた場所があります。地形的にも何らかの建物を作りやすい場所であることと、(伝)長宗我部一族の墓などがあり、昨今の発掘でも輸入陶磁器などが出土し、瓦葺で二層あるような建物があったことがわかる礎石も発掘されていることから、おそらく戦国時代などにはここに長宗我部国親の菩提寺「瑞応寺」があったものと考えられています。菩提寺が館や隠居所の跡につくられることはよくありますので、それ以前にここに館があった可能性はないとはいえません。

ただし、この場所は、岡豊城のある山の北側で、かつ両側を山の稜線に囲まれていますので、日当たりはよくなく、日暮れも早いので、本来は、住居に適しているとは言い難いです。さらに領地を見通せないという難点があり、地頭の館を作るにはあまり適当だとは言いにくい場所です。(隠居所としては適当な場所かもしれません)

なお、現在、岡豊城のある山(標高97.5m)とその北北東にある岡豊別宮八幡神社(おこうべっくはちまんじんじゃ)のある山(標高112m)との間は県道384号線が通っており、山なみが分かれていますが、往時は低い稜線で繋がっていたのではないかとも言われているようです。

岡豊城の西側(地図の②)には、岡豊山の稜線が少し続いて、二つほど小さなピークがあり、それが途切れるとかなり広い平地があります。現在ここには高知大学岡豊キャンパス(医学部と医学部付属病院がある)があり、県道384号線を渡った先にも平地が続いています。ここは確かに平地が広く、大学キャンパスが建築される前は田畑が広がっていた場所ですので、館の候補地としては可能性があります。この国府川に向かって開けた広い谷全体が、長宗我部氏の重要な領地だったと考えれば、この谷のどこか(可能性が高いのは北側の山裾)に長宗我部氏の館があったとしても不思議ではありません。ただし、少し岡豊城や長宗我部氏が崇敬したという岡豊別宮八幡神社からは離れてしまっているのが気になります。

比較して考えてみたときに僕が一番可能性が高いと思うのは、岡豊城の東(地図の③)岡豊別宮八幡神社(おこうべっくはちまんじんじゃ)の南側で国分川の支流「笠ノ川川」(かさのかわがわ 川の字がついた地名にさらに川という字がついた珍しい川名ですね)に囲まれた場所(特に県道383号線と県道252号線に囲まれた場所)です。特にこの場所には丘が二つあり、そのうち東側の比高25m(標高36m)くらいの古墳のような少し大きい丘の上は現在墓地になっているようなのですが、この丘の上あたりに館があったのかもしれないなと地図を見ると感じます。

このように考える根拠ですが、まず、最近の研究で岡豊城の城の大手があったのが、城の南東側であったことが挙げられます。現時点では整備されていないので、今回、岡豊城の南から東に降りて行く道に踏み込むようなことはしていませんが、城域の南側には、現在、「(伝)家老屋敷」と呼ばれている曲輪があるそうです。大手へはこの曲輪からさらに東に降りて行くようになるようです。

また、長宗我部氏が崇敬したという岡豊別宮八幡神社へのアクセスが良いというのも、この場所関係が館跡として有力な理由の一つです。岡豊城のある山もそうですが、この八幡宮がある山は標高で112mあり、ここに上ると南方に高知平野(香長平野)を見通すことができる場所にあり、土佐国の中心地(国府周辺やその後、細川氏が守護代所を置いた田村館、その南の大湊(物部川下流にあった太平洋に臨む港)」などが見下ろせる(※田村館と大湊は後免駅の北側の野中にある標高76.9mの山の上にかろうじて見えるようです)この場所は情報収集の拠点として非常によい立地だったので、この2つの山への登山口へのアクセスが近いことは館の立地としては重要だったのではないかと思います。

また、この場所であれば、舟運の経路として笠ノ川川と国分川が利用できることも重要です。江戸時代以前は、今は浦戸とその北の高知港のあたりまでしか入っていない内海(浦戸湾)が、現在の高知市の市街地東部や南国市域まで高知平野にかなり入り込んでいました。おそらく往時、岡豊城の南側から2㎞くらい国分川の下流あたりは、この海が入り込んだ沼沢地だったのではないかと思います。つまり、この場所から2㎞くらい川を下るとその後は、船でかなり早いスピードでこの内海の沿岸や外海に出ることによって土佐の各地に繋がっている舟運の交通アクセスがよい場所だったと考えられます。

鎌倉時代の長宗我部氏館の候補地推定図

岡豊別宮八幡宮の谷家と谷家の子孫 谷秦山と谷干城

ちなみにここに出てきた岡豊別宮八幡宮(おこうべっくはちまんぐう)ですが、大和國三輪山を御神体とする大神神社(おおみわじんじゃ:奈良県桜井市)を谷左近(たにさこん)という人が勧請したものと言われています。谷氏は大和の大神神社の神職と同じ大神朝臣(おおみわあそん)を姓としており、大和からの勧請以来、この八幡宮の神職をその子孫が代々務めてきました。この八幡宮神職の谷家の屋敷は、現在の県道252号線と県道384号線が分かれる三叉路の付近にあったようで、墓地はさきほど、僕が長宗我部氏の屋敷の跡の可能性を指摘した比高25m(標高36m)くらいの小さな丘にあるそうです。

谷家の一族は、神職という役割とともに長宗我部氏の家臣としても仕えました。長宗我部滅亡後は、土佐藩主山内家に仕え、この家からは、江戸時代初期には儒学者として藩に仕えた谷秦山(たにじんざん)という人が出ています。この人は17歳のときに、当時有名な儒学者だった山崎闇斎(やまざきあんさい)・浅見絅斎(あさみけいさい)に師事して、朱子学・神道学・暦学を学び、32歳のときには天文学や暦学を渋川春海(しぶかわしゅんかい ※「はるみ」とも読みます)について天文・暦学を学びました。40歳のとき五代藩主山内豊房に召されて高知に移り藩士に講義をし、土佐南学を大成させますが、45歳の時、暗君として知られる六代藩主山内豊隆が家督を継ぐと、土佐山田の地に蟄居させられました。(谷秦山の墓は香美市土佐山田町秦山町2丁目にあり、国指定史跡となっています)しかし、彼の思想は子孫や門下生に受け継がれ、明治維新前の土佐の勤皇運動に影響を与えたと言われているそうです。

谷秦山を蟄居させた土佐藩六代藩主山内豊隆

また、この谷秦山の子孫からは、西南戦争のとき陸軍少将・熊本鎮台司令長官として活躍した谷干城(たにかんじょう 「たてき」とも読みます)が出ています。谷干城は、西郷隆盛率いる叛乱軍に包囲され、攻められた熊本城を52日にわたって守り抜き、政府軍の救援隊が熊本付近に近づくと、これと連携して叛乱軍を撃退しました。この功績により陸軍中将に昇進し、陸軍士官学校長・陸軍戸山学校長に任じられました。また、のちに学習院院長となり、子爵を与えられ、第一次伊藤内閣においては、初代農商務大臣となりました。さらに帝国議会が開かれると、貴族院議員に当選し政治家として活動しました。(谷干城の墓は高知市西久万の谷干城の旧宅の裏山(戦国時代の安楽寺山城)にあるそうです)

谷干城

鎌倉時代の長宗我部氏

平安時代末から鎌倉時代前期に秦能俊が土佐に来た後、鎌倉時代中期、七代目にあたるという長宗我部兼光の貞応年間(1222年~24年)までに長宗我部氏は江村氏・広井氏・中島氏・野田氏などの支族を出しています。江村氏は長宗我部氏初代能俊の三男宗貞が始祖、広井氏は七代目の長宗我部兼光の弟にあたる俊幸、中島氏も同じくその弟俊高、野田氏もその弟俊吉に始まるとされています。これらの支族は苗字としてそれぞれが岡豊城から見ると国分川を渡った対岸の平地の地名を冠しており、それぞれの地名の場所に居館を設けて周辺の土地を治めていたと推定されます。

なお、伝えられている系図上で、この時代に長宗我部氏から分かれたという家としては、久礼田氏が三代目の長宗我部忠俊の弟忠幸から始まるとされますが、居城は、岡豊からは少し北に離れた平野に臨む山際の久礼田城(南国市植野・久礼田)です。また、大黒氏が七代目の長宗我部兼光の弟の範宗が祖とされていますが、大黒の苗字の地がどこなのかは不明です。なお、大黒範宗が領したとされているのは杓田(しゃくた)・串田という場所ですが、この杓田の場所とされ、大黒氏の居城とされる杓田城があるのは、岡豊からはかなり離れた鏡川の上流、高知市上本宮町です。

この久礼田氏と大黒氏については、個人的な感想ですが、もしかしたら、後世にむりやり長宗我部氏の系図にくっつけたのかもしれません。もっとも、地頭が遠隔地の領地を与えられる時は、必ずしもその所領が近接して与えられるとは限りません。元々、飛地的に与えられた所領を長宗我部氏が与えられ、そこを支族に任せたということもあり得ます。

鎌倉時代中期の長宗我部氏の支族の苗字の地(居館跡)

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次は南北朝から岡豊城の落城までについて書いて行こうと思います。



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