土佐をゆく(5)「岡豊城の歴史」その2 南北朝の争乱と岡豊城の落城
南北朝時代から室町時代の長宗我部氏
長宗我部氏11代目の長宗我部信能(のぶよし)は、「建武の親政」が始まったばかりの元弘3年(1333年)6月、足利尊氏から、伊豆走湯権現(今の静岡県熱海市の伊豆山神社)の荘園だった介良荘(けらしょう:高知県高知市介良)の年貢米を何者かが強奪したのを受けて、香宗我部秀頼(隣の香美郡の地頭。甲斐武田氏の支族)とともにこの狼藉を平定し、代官を置いて年貢米を徴収して納め、またこの犯人が誰であるのかを報告せよとの指示を受けています。さらに南北朝の動乱になると、北朝方の四国での戦線を担当した足利氏の一族細川氏(おそらく細川顕氏)の命令に従い北朝方として戦い、その軍功によって高知平野の各地に領地を得ました。
信能の息子の12代長宗我部兼能(かねよし)は、康永4年(1345年)頃、夢想疎石(京都の天龍寺や西芳寺(苔寺)などを創建した足利尊氏が崇敬した臨済宗の禅僧。名園をいくつも作った作庭の名人としても知られる)が五台山に創建した吸江庵(ぎゅうこうあん)の寺奉行となりました。
北朝政権において、土佐国の守護は細川顕氏の後、細川宗家の細川頼之、ついでその弟の細川頼元が継ぎました。この家系は、細川家の宗家で、室町幕府で将軍に継ぐ重職である「管領」に就任できる三管領(細川・山名・畠山)の一つでした。また、土佐国だけではなく、他の国の守護職も兼任することも少なくありませんでした。この家の当主は代々が「右京大夫(うきょうのだいぶ)」という職(ただし名目上のもの)に任じられたので、その漢訳である「京兆」から「京兆家(きょうちょうけ)」と呼ばれます。
しかし、この家は管領になる家として、基本的に京都に在住していなければならないため、土佐にいることはできません。そこで細川家では分家の細川尾張守家(「尾州家(びしゅうけ)」といいます)を守護代(しゅごだい)として土佐に送りこみ、実質的な土佐国の守護の役割を果たす形をとりました。
最初に土佐国守護代として入ったのは、細川尾張守頼益で、康暦2年(1380年)のことでした。細川尾張守頼益は、すでにこのシリーズの(1)で紹介した田村に城館「田村城」を築き、そこを守護代所としました。長宗我部氏はその指揮下に入り、細川氏の土佐統治に協力し、14代の長宗我部能重(よししげ)は至徳3年(1386年)に香美郡吉原(今の香南町吉川町吉原)を加増されています。
応仁の乱後の長宗我部氏と岡豊城の落城
応仁元年(1467年)、京都で応仁の乱が始まりました。応仁の乱は、細川勝元が東軍の総大将、一方、山名宗全(持豊)が西軍の総大将として、京都の市中や畿内のさまざまな場所での戦闘が行われ、その争いが10年も続いた戦いです。この東軍の総大将細川勝元は、細川京兆家の当主で、土佐国守護だったこともあり、その家臣にあたる土佐国守護代の細川勝益も京に上り細川勝元の軍勢に加わりました。

一方で、応仁2年(1468年)、応仁の乱で混乱する京都から太閤(関白に就任後退任した人のこと、元関白)一条教房(いちじょうのりふさ)が一条家の領地のある土佐国幡多荘(現在の高知県南西部)に避難してきます。このときに長宗我部氏16代当主の長宗我部文兼(ふみかね)はこの一条教房の土佐入国に力を砕き、一条家が土佐中村(今の四万十市中村)に定着するのに協力をしたようです。一条家といえば、貴族階級のトップである藤原氏の五摂家の一つです。土佐国の人々からすれば、見たこともないような高貴な立場の一条家の信頼を勝ち取ったことによって、長宗我部氏の土佐における権威は高まりました。
応仁の乱が終わった後、文明2年(1470年)に長宗我部文兼は長男の長宗我部元門(もとかど)に一旦、家督を譲りますが、文明3年(1471年)になると文兼は元門を追放して、その弟の長宗我部雄親(かつちか)に改めて家督を継がせます。この勘当は、応仁の乱のとき、元門が長宗我部氏が歴代強い関係を持っていた細川勝元率いる東軍ではなく、山名宗全が率いる西軍に味方しようとしたというのが理由であるという説があります。ちなみに「元門」という名前(諱)の「元」の字は細川勝元によって「偏諱(へんき:伊諱の一文字)」を与えらえたものと考えられます。いわば、細川勝元は、元門にとってはゴッドファーザー(名づけ親)ともいうべき存在です。その勝元を裏切るようなことを考えたのでしょうか?いずれにせよ、真相は闇の中です。
文明10年(1478年)、雄親は亡くなり、その子の長宗我部兼序(かねつぐ)が19代目として家督を継ぎます。兼序は最初、元秀(もとひで)という名前を名乗っていましたが、「元」の字は土佐国守護である細川京兆家の当主の歴代に共通する諱の一字(通字)です。おそらくこれも当時の京兆家当主の細川政元から「偏諱(へんき)」として与えらえたものだと思われます。これはこの時点で長宗我部氏が土佐国守護の細川政元を尊重する立場を持っていた一つの証拠だと思います。しかし、この兼序の時代、永正4年(1507年)に、なんと、この細川政元が、京兆家の後継者問題を始めとする混乱などが原因で暗殺されてしまいます。(永正の錯乱)

この永正の錯乱の前、土佐国守護代の細川尾張家当主、細川政益は息子(弟という説もあります)の国益と共に畿内に赴きます。これは、畿内における細川京兆家やその親族・家臣団が後継者問題で揉める混乱の中、おそらく細川政元に加勢するために京に上がったのだと思われます。しかし、これによって、土佐は守護代が不在となり、さらに永正の錯乱後、細川京兆家が家督争いでその家臣団を含めて分裂してしまったことで土佐における細川氏の守護・守護代による支配体制は崩壊してしまいます。
それまで長宗我部兼序は、この細川氏や一条氏との関係性の強さから他の土佐の国人領主たちに対して、優位に立っていました。これが他の国人領主からは「虎の威を借りる狐」のように見られており、反感を持たれていました。
長宗我部兼序が細川氏という後ろ盾を失うと、永正5年(1508年)、これを好機と見た周辺の国人たち本山氏(本山城:長岡郡本山町)や山田氏(楠目城:香美市土佐山田町楠目)、大平氏(蓮池城:土佐市蓮池)、吉良氏(吉良城:高知市春野町)らがに盟約を結び、岡豊城へと攻め寄せました。兼序はよく戦いましたが、大軍で岡豊城に包囲され、補給路を断たれると、長い籠城戦に耐えきれず、家臣団からも裏切りが出て、永正6年(1509年)、兼序は自害し、岡豊城は落城します。

兼序の遺子千雄丸、岡豊城から脱出して土佐中村へ
永正6年に長宗我部兼序が自害し、岡豊城が落城したとき、包囲された岡豊城から、その時わずか6歳であった兼序の子「千雄丸(せんゆうまる)」は家臣に伴われ、脱出します。
千雄丸は、その後、土佐一条氏を頼って、幡多荘中村(今の四万十市中村)に赴き、土佐一条氏の一条房家に匿われます。
土佐一条氏は、もともと、京都の五摂家の一つ一条家の出身で関白にまでなった一条教房(いちじょうのりふさ)が、応仁の乱が始まり、京の町が戦場になった混乱の中、応仁元年(1467年)に京都を脱出して一条家の荘園である「幡多荘」のある土佐に下向してきたことに始まります。「幡多荘」は、土佐国の幡多郡だけではなく、その隣の高岡郡の西部も含む広大な荘園でした。
一条教房は幡多郡中村(現在の四万十市中村)に来ると、町の中心の小高い小さな丘に作られた「御所」(現在の一条神社の境内)と呼ばれる館に住みました。土佐の国人(国侍)たちは、見たこともない高貴な血筋の人が京都から下って来たということで、(なんとも素朴で純真な反応ですが)一条教房を大切に扱い、幡多荘のトップとして推戴するとともに、この一条氏が土佐に土着すると、なんと土佐国全体の「国司」と呼ぶことになったのです。
この時代、すでに律令制の国の支配体制は無くなっており、国の役所である国衙も、そこで国を治めて徴税をするトップである国司もいませんでした。「土佐守」や「武蔵守」といった国司の称号は、残っていましたが、あくまでも一種の名誉官職名として与えられるもので、実際の国の支配には全く関係なくなっていました。実際、応仁の乱で室町幕府が混乱する以前に土佐を実質的に支配していたのは幕府によって任じられた守護の細川右京大夫家とその代理として土佐に在留していた守護代の細川尾張守家でした。このように細川尾張守家は、「尾張守」を名乗っているのに、尾張国(今の愛知県西部)を支配しているのではなく、実際に支配しているのは土佐国だったのです。
しかし、土佐国の人たちは、なぜか、この時代には最早ノスタルジックな名前になっていた「国司」という前時代の称号でこの一条氏を呼んだのです。もしかすると「土佐日記」などに描かれた雅びな京都の貴族の世界が、まだ存在していて、その人が土佐に実際に現れたと思ったのかもしれません。(「土佐日記」は平安時代中期に土佐国の国司(土佐守)として赴任した紀貫之が、土佐から都に帰任するときのことを描いたV Tuber 的な日記です)
一条教房は中村で文明12年(1480年)10月5日、死去します。京都の摂家(公家のうち、摂政を出せる家柄の家)としての一条家は、教房の弟にあたる一条冬良(いちじょうふゆら)が継ぎましたが、一方、土佐中村の土佐一条氏は、教房の次男の一条房家が継ぎます。この房家をもって土佐一条氏の初代と数えます。この房家の時代、本拠地の中村は「小京都」と呼ばれるほど京都の文化が持ち込まれて、栄えました。この一条房家が、永正5年(1508年)、長宗我部兼序が本山氏ら国人の連合軍によって滅ぼされたときに、その遺児・長宗我部国親を保護したのです。

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次回は、長宗我部氏がいかにして岡豊城に復帰したか、そしてその後の長宗我部氏の拡大について書いていきたいと思います。
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