土佐をゆく(6)「岡豊城の歴史」その3 国親の岡豊城復帰と勢力拡大・本山氏との対決
長宗我部国親の岡豊城への復帰と本山氏との同盟
永正6年に長宗我部兼序が自害し、岡豊城が落城したとき、包囲された岡豊城から、その時わずか6歳であった兼序の子「千雄丸(せんゆうまる)」は家臣に伴われ、脱出します。その後、千雄丸は、土佐一条氏を頼って、幡多荘中村(今の四万十市中村)に赴き、土佐に入った太閤一条教房の次男で初代土佐一条氏の一条房家に匿われます。中村で成長した千雄丸は、永正の錯乱で細川政元が殺害された後、その三人の養子間での跡目争いの中で勝ち残り、管領に就任した細川高国から片諱を拝領し、長宗我部国親(くにちか)と名乗りました。
そして、長宗我部国親は永正15年(1518年)、一条房家の仲介により、本山氏・山田氏などの土佐国人と和解し、本領の江村・廿枝郷(はたえだごう)を返還されて岡豊城に戻りました。戦国時代、土佐の武力による支配体制が崩れ、国人たちそれぞれが実力でその支配地域を維持している状態の中で、一旦は自分たちが戦力で滅ぼした家を、元の(しかも土佐の中央という非常に有利な地勢的場所にある)城に戻すというのは、常識では考えにくいことだと思います。土佐一条氏は決して、戦力の点で本山氏らの国人たちよりも勝っていたわけではありません。地理的にも土佐一条氏が依っている幡多郡中村は、土佐国全体からすると西の外れですので、地政学的に有利な場所にいるわけでもありません。それにもかかわらず、このように国人たちを従わせて、常識的には自分たちには何のメリットもないこのような裁定に従わせたというのは、京都の摂家という土佐人からすると天の上の存在であるという絶大なブランド力だったのでしょう。この時代、京畿を中心に誰も本心では有難がっていないこのブランド価値に素直にしたがったというのは、土佐の国人たちが中央の現実や雰囲気について、地理的な距離の影響もあり、肌感覚を持てず、ある意味天真爛漫な殿上人への憧れが残っていたからかもしれません。


長宗我部国親は、その後、仇敵であった本山茂宗の姉妹(法名:祥鳳玄陽)を正室に迎え、さらに祥鳳玄陽と自分との間に生まれた娘(長宗我部元親の同母姉)を本山茂宗の息子本山茂辰(しげとき)の正室としました。土佐国人の中でも最も勢力のあった本山氏と二重の婚姻関係を結ぶことで、長岡郡の中で隣接する本山氏との間の安全保障を得ることに成功します。
本山氏と長宗我部氏による土佐平野の制覇
本山氏もこの長宗我部氏との関係改善によって、大永(1521~1527)年間に、山峡の奥深い本山城から高知平野に進出して、朝倉城(高知市朝倉)を築城し、ここに拠点を置きます。天文9年(1540年)にはさらに南進して吾川郡に兵を進め、吉良城の土佐吉良氏を滅ぼします。本山茂辰は吉良氏を名乗り吉良式部少輔茂辰と名前を改めます。そしてさらに、弘治3年(1557年)にはさらに西方に向かい、当時中村の一条房基が大平氏を滅ぼして奪っていた蓮池城まで占領します。
一方、長宗我部国親は岡豊城から南に行ったところにある天文16年(1547年)大津城を攻め、細川氏の支族である天竺氏(てんじくし)を滅ぼし、さらに隣接する介良城(けらじょう)の横山氏を降し、下田城の下田氏を敗死させ、十市城(栗山城)の細川宗桃、池城の池頼定も臣従させてしまいます。長岡郡の平野部はこれで長宗我部氏の版図となりました。
また、天文20年(1551年)には長年の宿敵でもあった山田城の山田元義を滅ぼすことに成功します。
なお、この時期、香美郡の香宗我部氏の当主香宗我部親秀は大永6年(1526年)の安芸氏との戦いで嗣子の秀義を戦死で失う大敗をしたため、勢力を失っていました。西の長岡郡を長宗我部氏が席巻し、東の安芸郡からは安芸元康が香美郡への侵入を伺っていたため、この圧力に耐えきれず、親秀は、弘治2年(1556年)長宗我部国親の三男の親泰を養子にして香宗我部氏を継がせることとし、長宗我部氏の配下に下りました。
このように天文年間の終わりまでには、高知平野は、現在の高知市西側にまで入り込んでいた浦戸湾の内海を境に西側は本山氏が制して、東側は長宗我部氏が制する状態になっていました。また、戦国時代の土佐の有力国人とされた「土佐の七雄」(中村の一条氏は七雄の内には数えません。俗に「七」雄とか「七」守護とかいいますが、どの氏を七雄に入れるのかは資料により変動があります)とされる家の内、この時点で、実質上、香宗我部氏、山田氏、吉良氏、大平氏が滅ぼされたり、他家の傘下に降って独立を失っていました。この結果、土佐七郡は、一番西の幡多郡と高岡郡の西部を支配する中村の土佐一条氏、高岡郡の東部から吾川郡・土佐郡・それに長岡郡の北方の山間部を支配する本山城・朝倉城の本山氏、長岡郡の南部の平野部と香美郡を支配する岡豊城の長宗我部氏、それに安芸郡を支配する安芸城の安芸氏の四氏が覇権を争う場になっていました。

本山氏との対決/戸の本の戦いと国親の死去
お互い婚姻関係を結んで、当面の相互不可侵を確保していた長宗我部氏と本山氏ですが、内海を挟んでそれぞれの領域で勢力を拡大することで、両者の勢力範囲が接するようになってしまいました。こうした状況下では両者の蜜月状態は長くは続きませんでした。
弘治元年(1555年)、本山茂宗が病死し、嫡子の茂辰が跡を継ぐと、長宗我部国親は本山氏を討つべく兵を挙げます。まずは内海の北岸にあたり、内海を挟んで対峙する本山氏の勢力圏と長宗我部氏の勢力圏の境界にあたる秦泉寺城(じんせんじじょう:高知市東秦泉寺)にいた秦泉寺氏を攻撃します。これに対して、現在の高知城の場所にあった大高坂城(おおたかさじょう)にいた大高坂氏、国沢城(現在の高知市市街地、はりまや橋付近)にいた国沢氏などが秦泉寺氏を支援をし、長宗我部氏はこれらの城も攻撃することになりました。秦泉寺氏はこのとき、長宗我部氏に降りますが、大高坂氏や国沢氏との戦いでは決定的な戦果は挙げることができなかったようです。

本山氏と長宗我部氏との対決が決定的になるのは永禄3年(1560年)のことです。この時点で、本山氏は、浦戸湾からの内海の西岸には、太平洋への出口に位置する浦戸城やその少し西側の長浜城(この城は現在は内陸ですが、当時はこの付近の瀬戸などの地名からわかるように海が入り込んでいて海に面していた可能性が高いと思います)、そして現在の筆山公園の山頂にあった潮江城などに城を構えてこの領域を支配していました。
これに対して長宗我部氏は、浦戸城の反対の砂洲に種崎城を作りこれを牽制していました。長宗我部氏は大津城からこの内海を五台山の麓にあった大寺「吸江庵」(代々長宗我部氏が寺奉行を務めています)の前を経由して、種崎と浦戸の間の狭い海峡を通過して太平洋に出るという舟運の航路で畿内との人や物の運搬をしていたものと考えられます。長宗我部氏からすると、浦戸湾の舟運を西岸の本山氏の城郭郡に脅かされることは経済的にも軍事的にも好ましいことではなかったと考えられます。
そんな中、この永禄3年(1560年)、兵糧を積んで種崎城へ向かった長宗我部氏の船が、本山氏側の潮江城の兵に襲われ、荷物が奪われるという事件がありました。これによって、両者の関係が悪化し、長宗我部国親は本山茂辰との対決を決意します。
同年5月26日、長宗我部勢は種崎城から浦戸湾を渡り、長浜城に夜襲をかけます。この夜襲で長浜城の城主の大窪美作守は城を捨てて朝倉城に逃亡します。これに対して翌日、この城の奪回を図る本山茂辰は2千5百の兵を率いて朝倉城から出陣。これに対して長宗我部軍も1千の兵を送り、長浜城の南で戦いが始まりました(「戸の本の戦い」)。この長浜城と戸の本の戦いについては別の稿で書く予定ですので、ここでは詳しくは書きませんが、この戦いに大敗した本山茂辰は、浦戸城・潮江城も失い、朝倉城に籠ることとなります。


しかし、この直後、長宗我部国親は病に倒れ、6月15日に死亡します。
6歳のとき、本山氏・吉良氏・山田氏らによる攻撃で父兼序を殺され、岡豊城を失った国親は、以後、中村で一条氏に匿われ、その後、一条氏のとりなしで岡豊城に戻り、一から出直すことになります。そこからの再起で国親は、再び、長宗我部の名を挙げるのに成功し、ついに仇敵ともいえる本山氏を滅ぼせるかというところまで来たのですが、その直前、60年弱の人生を終えることになりました。
国親は死に臨み、世子の元親に対して、「自分の供養には本山を討つ他はない。死後17日を過ぎたらただちに喪服を脱ぎ甲冑を来て軍議を専らにせよ」と伝えたと言われています。本当は自分の手で父を殺した本山氏を滅ぼしたかったのでしょう。その無念が伝わるような遺言だと思います。
最大のライバル本山氏の滅亡
国親の後を継いだ21代目の長宗我部元親は、この後、破竹の勢いで、高知平野の本山氏の城を攻め落とし、また本山氏の家臣団に調略をかけて寝返らせ、永禄5年(1562年)夏までにはすでに本山氏の高知平野周辺での拠点は朝倉城と吉良城だけになってしまいました。
そしてこの年の9月16日、長宗我部元親は3000余の軍勢を率いて岡豊城を出立、朝倉城の攻撃に取り掛かります。しかし、この日は本山茂辰の子貞茂の活躍で長宗我部軍は撃退され、神田城(こうだじょう:現在の高知市鴨部の能茶山公園付近)に一旦撤退せざるをえなくなりました。その後も朝倉城を包囲して、一進一退の攻防が続きますが、お互い死傷者が増えるだけで、一向に進みません。朝倉城は土佐でも最大規模の山城でもあり、なかなか落とすことができないと判断した元親は、城内に立て籠もった本山氏のさまざまな武将に調略をかけていきます。この調略で次第に家臣団が切り崩されていきます。朝倉城の城内では将兵がお互い疑心暗鬼になっていき、士気も衰えていきました。このままでは戦争継続は困難と判断した本山茂辰は永禄6年(1563年)1月6日、朝倉城に火を放ち、城から退去、吉良城も放棄し、本城の本山城まで遠路、撤退しました。四国山地の険しい山道を行く退却でしたので、本山城に本山勢が到着できたのは1月28日になっていました。このようにして本山氏は茂宗の代に手に入れた高知平野の西側と浦戸湾の舟運をうしなってしまいました。

その年の5月には本山氏は、岡豊城への反撃を企て、軍勢を岡豊城の西側にあたる一宮(いっく)に送ります。ここで一宮にある土佐神社を焼くなどの狼藉を働きましたが、充分な戦果は得られず、泰泉寺氏・今泉氏・大黒氏ら、元親の家臣に追撃され退却しています。
一方、長宗我部元親は、本山城から西に4㎞ところの距離にある森城(土佐町土居)に森孝頼を入れて、本山攻めの準備をさせます。森孝頼の父、森頼実はこの地を代々本貫とする森城の城主でしたが、かつて本山氏に攻められて戦死し、この森城を奪われたのでした。
そうしたことから、森城から本山城の間の吉野川沿いの谷には森氏に心を寄せる者も少なくなく、本山城の城兵の中にも森氏の旧臣が多くいました。一方で暫くの間、本山から本拠を朝倉に移していた本山氏に対して必ずしも領民たちや地元の家臣が心を寄せているわけではありません。この状況で、森氏による調略によって城内の家臣団が内部崩壊してしまいます。やむなく、永禄7年(1564年)4月7日、本山茂辰は本山城も放棄し、さらに北方の山奥の支城である瓜生野城(うりゅうのじょう:長岡郡本山町瓜生野)に入り、ここに籠ります。
この瓜生野移転後、間もなくして、本山茂辰は死去したものとみられます。家督は茂辰の長子本山貞茂が継承しました。長宗我部氏もこの山奥の城は攻めあぐんだのか、その後、数年間、本山氏はこの城で持ちこたえますが、永禄11年(1568年)、ついに貞茂は元親に降伏します。貞茂や母の本山夫人(元親の姉)らは元親の本拠である岡豊に送られ、岡豊城下に居住地を与えられました。貞茂は元親に気に入られたのか、元親の偏諱「親」の字を与えられ、本山親茂と名を改め、長宗我部家中で信頼の厚い重臣となります。のちに天正14年(1586年)には、長宗我部元親・信親父子に従って豊後(今の大分県)の戸次川の戦いに武将として参加しますが、激戦の中で信親とともに戦死しています。

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本山氏を倒した長宗我部元親、この後は、東の安芸氏・西の土佐一条氏との戦い、そして土佐国統一です。
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