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土佐をゆく(7)「岡豊城の歴史」その4  安芸郡・幡多郡での戦いと土佐統一



安芸郡の安芸氏との戦い

本山氏を滅ぼした後、長宗我部元親の次のターゲットは土佐国の東部、広大な安芸郡を支配する安芸氏でした。

永禄6年(1563年)、安芸氏の軍兵が長宗我部氏の支配地域だった香美郡上夜須(かみやす:香南市夜須町上夜須)に侵入して田畑を荒らすという事件が発生しました。長宗我部家臣で上夜須城の城主の吉田重俊はこの犯人を捕らえ、安芸氏の下に送り、処罰を求めましたが、安芸氏の当主安芸国虎は何の処罰もしませんでした。そこで、吉田重俊は、手勢の兵を農民に化けさせて安芸氏の支城の馬ノ上城(安芸郡芸西村馬ノ上)に侵入させ、一気に攻め落としました。その年、重俊が本山城攻めに従軍するために城を留守にした時、安芸国虎は馬ノ上城を奪回しようと攻め寄せましたが、留守を守っていた重俊の妻が薙刀を振るって家臣を鼓舞してこの城を守ったという逸話が残っています。馬ノ上城の奪回に失敗した国虎は、今度は長宗我部元親が本山城攻めのために留守にしている岡豊城に、国虎の手勢2000に国虎の正室の実家の土佐一条氏の兵3000を加えた5000の軍勢で攻め寄せました。岡豊城の兵は本山攻めに出ていて手薄でしたが、福留親政を始めとして少ない守備兵でよく守り、さらに攻城軍の背後から吉田重俊が襲い掛かったため、安芸・一条の連合軍は敗走しました。

本山城攻めから帰還した元親はただちに安芸氏攻めの準備をしますが、このときは、中村の一条兼定が両者に対して和解をするよう仲立ちをしました。とりあえずこの時点では、元親もまだ本山氏攻めが終わっていなかったこともあり、両者は和睦をすることで合意に至りました。

しかし、永禄12年(1569年)、本山氏瓜生野城で降し、後顧の憂いがなくなった長宗我部元親は本格的に安芸氏に向けて牙を剥きます。4月はじめに安芸国虎に対して、「永禄6年の和議の時は本山攻めに忙しく、お会いすることができなかったので、ここで改めて直接お会いして和議の誓約を固くしたい。ついては、岡豊城にお越しいただきたい」と招待状を送ったのです。しかし、安芸国虎は土佐の中でも領地の多い安芸氏の当主を自分の城に呼びつけるというのは無礼千万と怒り、重臣の黒岩越前守が、今、勢いのある長宗我部と事を構えるのは避けるべきと諫言したのも聞かず、この使者を追い返してしまいます。

この拒絶を恰好の出兵の口実として、長宗我部元親は同年7月7000の兵を率いて安芸領に進軍します。
この7000という動員力は、長宗我部国親・元親の二代で生み出した「一領具足」(普段は農耕をしている農民だが、動員がかかると一領の軽装の鎧を着て従軍する兵)を入れた数なのですが、他領の者からするとそうした事情は分からないので、その見た目の兵員数だけで、度肝を抜いてしまいます。この長宗我部の大軍は、馬ノ上城の近くの和食(わじき:安芸郡芸西村和食)に一旦陣を敷きます。これに対して、安芸氏は、家老の黒岩越前守らに軍勢をつけて穴内城新城城(いずれも安芸市穴内新城)に陣を張り、この前衛部隊で山が迫る海岸線沿いの進路を閉鎖して、安芸城のある安芸川の流域平野への長宗我部軍の進入を防ぎ、残りの軍勢が安芸城周辺を防備するという体勢を採りました。

しかし、この時、すでに長宗我部勢側からは、安芸氏の武将たちに向けて調略の手が伸びていました。特に安芸氏の譜代の家臣だった小谷四郎右衛門(おだにしろうえもん)は、安芸平野の北側にある小谷(おだに)を本貫とする武将でしたが、彼は穴内(あなない)から小谷(おだに)に抜ける山中の間道を熟知しており、このルートの存在を長宗我部勢に報せました。そこで長宗我部勢は軍勢を二手にわけて、福留親政が率いる本隊5000は海岸沿いをそのまま、安芸城下にむけて進軍、別働隊(長宗我部元親はこの別動隊に入っていたそうです)2000は、途中まで海岸に平行して山際を行くものの、途中の穴内(あなない)で穴内川を遡り北上し、山中を横切る形で、安芸川平野の北部の小谷(おだに)というところに出るというルートをとったと言われています。

福留親政が率いる本隊はそのまま、海岸沿いを進軍すると、矢流(今の地名は八流:やながれ)という海岸沿いの地で安芸勢の前衛部隊と衝突して、戦端が開かれました。しかし、長宗我部勢の軍兵の多さに怖気づいており、また、すでに調略の手が伸びていた安芸勢は、内応者も出て戦線が瓦解してしまいます。崩壊した安芸勢は、海岸沿いを安芸城をめがけて退却しますが、勢いに乗った長宗我部の本隊はこれを蹴散らして進軍していきます。

一方、小谷から安芸平野に入った長宗我部の別働隊は、北方から安芸城に迫ります。安芸勢はやむなく安芸城に立て籠もりますが、安芸城は平野の中の丘城で標高40m、比高26m程度しかない防御力をそれほどもたない城でした。長宗我部勢はこの小さな城を完全に包囲してしまいました。

やがて小さな城に大勢の兵が立て籠もった安芸城は糧食が尽きはじめます。また、内応した横山民部井戸に毒を投げ入れたという噂が流れ、城内に動揺が広がります。期待していた国虎の実家の一条氏からの援軍も来る気配もありません。

籠城24日目の8月11日、ついに譜代の家臣である横山紀伊守らが内応して搦手から長宗我部勢を安芸城内に招き入れます。これで、安芸勢の抵抗も遂に力尽きました。領主の安芸国虎は長男の千寿丸(弘恒)を重臣の畑山元氏に預け、隣国阿波(徳島県)の三好氏を頼って落ちるよう命じ、正室の一条氏は家老の黒岩越前守に一条氏の本拠中村に送り返すよう手配をした上で、籠城将兵の助命を条件に菩提寺の浄貞寺に入り、そこで自害して果てました。なお、国虎の自害を介錯した家老の有沢石見守もそこで殉死、中村に正室の一条氏を送り届けた黒岩越前守も、のちに旧主の墓前で切腹して果てました。(三人の墓は今も浄貞寺にあるそうです)

永禄12年の安芸城攻め

安芸郡の東方の諸城は、安芸城落城後も、安芸勢の残党が籠り、戦いを継続しますが、天正2年(1574年)には奈半利城(城主は姫倉右衛門尉:安芸郡奈半利町乙)岡城(安岡出雲守:安芸郡奈半利町乙)などが降伏し、天正3年(1575年)には野根城(惟宗右衛門国長:安芸郡東洋町野根)甲浦城(惟宗長門守:安芸郡東洋町甲浦)など、阿波との国境線近くの城も降し、長宗我部氏は土佐国の中央部から東部の阿波国境までをほぼ制覇しました。

土佐国で残る敵は土佐国の幡多郡・高岡郡を支配する土佐一条氏のみとなりました。

「疎開」してきた摂家・土佐の「国司」土佐一条氏

土佐一条氏は、もともと、京都の五摂家の一つ一条家の出身で関白にまでなった一条教房(いちじょうのりふさ)が、応仁の乱が始まり、京の町が戦場になった混乱の中、応仁元年(1467年)に京都を脱出して一条家の荘園である「幡多荘」のある土佐に下向してきたことに始まります。いわば「疎開」ですね。「幡多荘」は、土佐国の幡多郡だけではなく、その隣の高岡郡の西部も含む広大な荘園でした。

一条教房は幡多郡中村(現在の四万十市中村)に来ると、町の中心の小高い小さな丘に作られた「御所」(現在の一条神社の境内)と呼ばれる館に住みました。土佐の国人(国侍)たちは、見たこともない高貴な血筋の人が京都から下って来たということで、(なんとも素朴で純真な反応ですが)一条教房を大切に扱い、幡多荘のトップとして推戴するとともに、この一条氏が土佐に土着すると、なんと土佐国全体の「国司」と呼ぶことになったのです。

土佐中村に下向した元関白 一条教房の墓

一条教房は中村で文明12年(1480年)10月5日、死去します。京都の摂家としての一条家は、教房の弟にあたる一条冬良(いちじょうふゆら)が継ぎましたが、一方、土佐中村の土佐一条氏は、教房の次男の一条房家家が継ぎます。この房家をもって土佐一条氏の初代と数えます。この房家の時代、本拠地の中村は「小京都」と呼ばれるほど京都の文化が持ち込まれて、栄えました。なお、一条房家は、永正5年(1508年)、長宗我部兼序が本山氏ら国人の連合軍によって滅ぼされたときに、その遺児・長宗我部国親を保護するとともに、のちに本山氏や吉良氏を説得して、国親の岡豊城への帰還と長宗我部氏の再興を助けました。このように土佐一条氏は、骨肉の争いをするような国人領主間の対立に対して、和解に持ち込むような影響力を持っていたことがわかります。

一条房家は天文8年(1539年)11月13日に薨去し、房家の跡(2代目)は長男の一条房冬(ふさふゆ)が継ぎました。一条房冬の時代、和泉国堺の商人との交流も深め、京畿を始めとする各地との文物の交流が盛んにおこなわれました。また、房家は伏見宮親王家第5代の伏見宮邦高親王の娘玉姫を正室からもらい、側室には周防国(今の山口県東部)の戦国大名大内義興の娘を迎えています。大内氏が館を構え拠点とした山口も、この時代、「西の京」といわれるような京文化が薫る町でした。このように安芸一条氏は、土佐の片田舎に居ながら、京都・堺・山口など当時栄えていた都市との関係をもち、経済的・文化的に中村は非常に潤っていたようです。

土佐一条氏が館を構えた中村御所跡 現在は一条神社が鎮座しています
小京都と呼ばれた土佐中村の町並

戦国大名としての一条氏

一条房冬が天文10年11月(1541年)に亡くなるとその跡は、長男の一条房基が3代目を継ぎました。房基は、天文13年(1544年)には長宗我部国親と本山茂宗の縁組と和平の仲介を行います。また、土佐における一条氏自身の支配圏の拡大にも力を尽くし、天文11年(1542年)~天文15年(1546年)には、高岡郡の北部を抑えていた姫野々城(ひめののじょう:高岡郡津野町姫野々)の津野基高(つの もとたか)と戦い、天文15年(1546年)にはこれを降伏させます。また、同じ頃に大平氏の本拠地の蓮池城を奪いとります。津野氏も大平氏も、かつては「土佐の七雄」に数えられるほどの有力国人でしたが、これらを倒して領土を拡大するのは、単なる「国司」として権威をもって国人に対して影響力を働かせるだけではなく、自身も戦国大名として、実力で支配地を広げていく動きと言えるでしょう。これにより、高岡郡一帯が一条氏の支配下に入ることになりました。また、土佐国だけでは飽き足らず、伊予国(今の愛媛県)南部の宇和郡への進出にも乗り出しました。

ところが、天文18年(1549年)4月12日、房基は28歳の若さで突然、自殺してしまいます。急な自殺の理由は明らかでなく、戦いに疲れて精神を病んだとも、暗殺されたとも言われているようです。

土佐一条氏3代目の一条房基の供養塔 土佐中村の町中の街角にひっそりと祀られています
中村の町を見下ろす中村城跡の二の丸にある四万十市郷土博物館(模造天守)

一条氏=大友氏同盟による伊予介入と毛利氏の伊予介入

一条房基の跡は第4代として長男の一条兼定が継ぎました。永禄元年(1558年)、兼定は伊予国(今の愛媛県)の地蔵ヶ嶽城主(今の大洲城)宇都宮豊綱の娘を娶りますが、永禄7年(1564年)には、これを離別し、改めて豊後国(今の大分県南東部)の大友義鎮の娘を娶りました。これは、先代の房基時代から敵対していた黒瀬城主(愛媛県西予市)の西園寺氏に対抗するため、豊後水道対岸の大友氏と組んで西方から圧力をかけるためでした。

永禄9年(1566年)になると、一条兼定は、大友氏の支援を受けながら、西園寺領への攻略に乗り出します。一方、かねてから西園寺氏と対立していた地蔵ヶ嶽城主(今の大洲城)の宇都宮氏は、南方の西園寺氏が一条氏と大友氏を相手にしなければならなくなった隙に北方の湯築城主(松山市道後公園)で伊予国の守護である河野氏を攻めようと企てます。

河野氏側では、これに対して、永禄10年(1567年)3月には家臣の村上通康・平岡房実が出兵し、宇都宮氏の周辺の諸城(上須戒城(現大洲市)の城戸氏など)を調略して降します。永禄10年(1567年)秋には、河野勢は地蔵ヶ嶽城主(今の大洲城)の南側に回り込み、西園寺氏領と宇都宮氏領の境界にあたる鳥坂峠を占拠して、ここに鳥坂城を築きます。この宇都宮氏の窮状を知った一条兼定は軍勢を伊予に送り、7月には西園寺氏の足元の武将を調略して味方につけながら、三間盆地に進出します。

一方、この頃、河野氏家臣の村上通康は、安芸国吉田郡山城(広島県安芸高田市)の毛利元就に使者を送り、毛利配下の小早川隆景の軍勢の伊予出陣と支援を要請しました。一条氏の勢いと大友氏の助勢は侮れません。伊予国内の図式が、いつの間にか、だけでの「河野=西園寺 対 宇都宮」の戦い「河野=西園寺 対 宇都宮=土佐一条=豊後大友」という、いままで経験したことのない国外勢力を巻き込んだ規模の戦いになったことに不安を感じたのでしょう。

鳥坂峠の戦いと地蔵ヶ嶽城の落城

永禄10年(1567年)12月までには、一条氏は、三間盆地までの西園寺氏の家臣をおおかた調略して味方につけていました。そして三間盆地から岩瀬川沿いを北上し、白髭峠を越えてタイマツ峠の上にある高島山に砦(高島山砦)を築き陣を張ります。すでに書いたとおり、鳥坂峠には、河野氏が鳥坂城を築いて兵を置いていました。

永禄11年(1568年)1月、鳥坂峠の河野軍は土佐一条軍の拠点となった高島山砦に攻撃を行ったものの撃退されてしまいます。一方、2月4日には今度は一条氏側が、河野氏の立て籠もる鳥坂城を攻撃します。しかし、鳥坂城はよく持ちこたえ、村上吉継が後詰として攻め寄せたこともあり、一条軍は大敗を喫してしまいます。その後も、鳥坂峠と高島山間でのにらみ合いが続きましたが、一条軍は大きな成果を得られず停滞します。

一方、毛利氏の小早川隆景は、3月中旬ころ毛利勢を率いて伊予国に入ります。毛利勢の進出により、宇都宮氏の居城地蔵ヶ嶽城(大洲城)は河野=毛利勢に囲まれてしまいます。こうした中で、地蔵ヶ嶽城(大洲城)の宇都宮豊綱は降伏して開城して、豊綱は毛利氏の捕虜となってしまいます。

これにより、一条氏の伊予中部の喜多郡への侵攻は挫折してしまいます。

地蔵ヶ嶽城は現在の大洲城跡にありました


永禄12年~元亀2年ころの西四国の情勢

長宗我部氏の一条領侵食

一方、永禄12年(1569年)になると足元の土佐で長宗我部元親が本山氏を滅ぼし、土佐の中原は長宗我部氏のものとなりました。一条兼定は、妹聟にあたる土佐国安芸郡の安芸国虎と連携して、長宗我部元親を牽制しますが、7月に長宗我部勢が安芸国虎に攻撃を仕掛けた時には、援軍を派遣できず、8月には安芸国虎が自害し、安芸氏も滅んでしまいます。

こうして、土佐国の中部と東部をすべて手に入れた長宗我部元親は、いよいよ土佐の中で唯一残った一条氏の勢力圏に手を伸ばします。同年11月には永禄3年(1560年)に本山氏から一条氏が奪い返していた高岡郡の蓮池城(土佐市蓮池)が元親の弟の吉良城主吉良親貞によって奪われます。

さらに、元亀2年(1571年)、当時一条氏の傘下に入っていた高岡郡姫野々城(高岡郡津野町姫野々)の城主津野定勝に対して、味方になるよう調略の手を伸ばします。津野定勝はこれを拒否しますが、調略の手はすでに津野の家臣団にも伸びており、家臣たちは、城主定勝を追放して、嫡子津野勝興を擁して長宗我部に降ってしまします。

このようにして、高岡郡も長宗我部氏のものとなりました。

土居宗珊の殺害と一条兼定の追放

このような中、元亀4年(天正元年:1573年)には一条氏の重鎮の土居宗珊(どいそうさん)が一条兼定によって手討ちになるという事件が起きてしまいます。土居宗珊は家老でもあり、また名将として知られた人物で一条氏の屋台骨でした。これを一条兼定が討った理由は不明ですが、おそらく、長宗我部元親が一条氏の家中を乱すため、敢えて土居宗珊に進物などを贈り、兼定に宗珊が元親と通じているのではないかとの疑念を起こさせ、結果的にその手にまんまと載せられ、兼定は宗珊を手にかけてしまったのではないかと思われます。

家の屋台骨を支える重臣を手に掛けてしまった一条兼定への家臣の信頼は大きく損ねられてしまいました。7月には、本家である京都の一条家当主の一条内基(いちじょううちもと/ただもと) が土佐一条氏の家臣らの求めに応じ、混乱の収拾のため、京都から土佐に下向しています。9月には、一条内基の後見の下、土佐一条氏の家老と国衆の合議の結果、兼定は出家・隠居を強制され、内基が兼定の嫡子・万千代の元服を執り行い、一字を与えて一条内政(いちじょううちまさ/ただまさ)と名乗らせ家督を継がせています。

翌天正2年(1574年)2月、家老たちは、竜串海岸への遊覧と偽って兼定を御所から誘い出して、そのまま九州の豊後へ追放してしまいます。兼定は九州は豊後臼杵の大友氏の下にへ逃れます。この追放については、一条内基と長宗我部元親とが示し合わせて、一条氏の重臣に行わせたのではないかという説があるようです。

土佐一条氏三家老の滅亡と長宗我部氏による幡多郡制覇

この兼定の追放後、権力を掌握した土佐一条氏の三家老の羽生道成・為松若狭守・安並和泉守は、国衆に対して専横的な態度を見せるようになりました。これに加久見左衛門宗清国、大岐左京進正行、依岡左京進、小島出雲守政章といった幡多郡の国衆たちが反発し、挙兵して三家老を討伐してしまいます。

この後、長宗我部元親は一条家の当主となった一条内政を中村御所から、岡豊城にほど近い長岡郡の大津城に移し、自身の娘を嫁がせ、「大津御所」と呼ばせ、実質的な戦力を持たない事実上の傀儡としてこれを囲い込みました。
また、幡多郡の支配のために実弟の吉良親貞中村城主として送り込みます。また、小島城主(宿毛市山奈町山田字小島)の小島出雲守政章、伊予野城(宿毛市小筑紫町伊与野城ノ下)の依岡左京進など叛乱を起こした幡多郡の国衆たちを使い、長宗我部の支配に下るのを良しとしない国衆の城を襲いこれを滅ぼしていきます。これにより、小島出雲守と依岡左京進は、長宗我部氏から恩賞として加増を受けています。

おそらく、元親は三家老に兼定追放をさせるとともに、その一方で国衆に内々に手を回してこの三家老への叛乱をけしかけていたのでしょう。そして叛乱鎮圧の名目で出兵しますが、実際には、叛乱を主導した国衆たちを討つのではなく、かれらを利用して、むしろ長宗我部の介入に反対する国衆を滅ぼさせており、叛乱を起こした国衆を罪に問うようなことはしていません。いわゆる「マッチポンプ」というヤツですね。これにより、長宗我部元親はまんまと幡多郡を手に入れることに成功しています。

一条兼定の土佐再上陸と渡川の戦い・土佐統一

しかし、天正3年(1575年)2月7月、一条兼定は逃亡先の大友氏の助けを借りて、土佐の領地を奪還すべく、伊予国宇和郡法華津浜(ほけつはま)に上陸、法華津城(宇和島市吉田法花津)の城主法華津氏、常盤城(ときわじょう:南宇和郡愛南町城辺甲)の城主勧修寺(かじゅうじ)(この勧修寺氏は御荘殿(みしょうどの)と呼ばれていました)、天ヶ森城(宇和島市津島町岩松)の津島氏を始めとする南予の諸将を率い、十字架の旗を掲げて土佐へ向かいました。(一条兼定は、キリシタン大名である大友宗麟の下で洗礼を受けて、パウロという洗礼名を得てキリシタンとなっていました。)
一方、土佐の幡多郡内では長宗我部氏の支配をよしとしない土佐一条氏の旧臣らが協力する動きをします。これにより兼定は、宿毛(すくも)に入ることができました。そして、中村の奪還に向けて、中筋川沿いを東に向かい、四万十川を挟んで中村の町を望む具同(ぐどう)の栗本城に入ります。その数は3500余騎になっていたといいます。

この状況に中村城を守っていた吉良親貞は、急いで岡豊城の兄長宗我部元親に援軍を依頼し、元親はただちに援軍を派遣します。これによって長宗我部方は援軍を含めて7500騎。四万十川(渡川)を挟んで3500余騎の一条勢と対峙しました。長宗我部勢は軍勢を二手に分けて渡河に成功。一条方は戦意を失い、栗本城を捨てて宿毛へと退却してしまいます。長宗我部勢は、これを追撃し、途中の城を次々と落城させ、宿毛の手前の松田川河畔まで進撃しました。一条氏に味方した幡多郡の国衆は一条兼定を守って、宿毛の北方の山城「宿毛本城」に立て籠もりますが、多勢に無勢で敵うわけもなく、一条兼定を城から脱出させ、多くの城兵は城を枕に討ち死にしました。

本城を脱出した一条兼定は、内外ノ浦(宿毛市小筑紫町内外ノ浦)から漁民の舟に乗って海路、伊予の戸島(宇和島市戸島)に辿り着きました。兼定はそこで残りの人生を過ごしてこの島で亡くなったということです。(戸島には一条兼定の墓が残っているようです)

このようにして土佐はすべて長宗我部元親のもとに統一されました


渡川の戦い

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土佐を統一した長宗我部元親、次のターゲットは隣国の阿波国です。




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