第62話 ブッダの教えと、イエス・キリスト。|私はなぜ、「悟り」ではなく「救い」で満たされたのか?
私は以前、Buddhaの弟子だった。
61話で私は、「福音って、結局なんなの?」という話を書いた。
Good News / 良い知らせ
それは、人間が神様のところまで登っていく方法ではなく、神様の方から、人間のところへ来てくださったという知らせだった。
そして最後に、こう書いた。
Buddhaの弟子として真理を探していた私のところへ、先にGood Newsが来た。
イエスさまが、私を見つけてくださった。
では、私がそれまで探していた「真理」と、イエス・キリストから受け取った「真理」は、何が違ったのだろう。
今回は、ずっとこのnoteのタイトルにも掲げてきた、
Buddhaの弟子から、キリストの弟子へ。
その真ん中にある話を、真正面から書いてみたい。
最初に一つだけ。
これは、仏教を悪く言いたい記事ではない。
私は実際にブッダの教えを学んできたし、そこから学んだこともたくさんある。今振り返っても、「悪いものを学んでいた」とは思っていない。
だから、「仏教はダメ。キリスト教の勝ち。」みたいな宗教対決を書きたいわけではない。
これは、
両方に触れた一人の人間が、なぜ最後に「悟り」ではなく「救い」で満たされたのか。
その、私自身の証だ。
ブッダが見つめた、人間の「苦しみ」。
ブッダの教えを学んでいた頃、私が惹かれたものの一つが、人間の苦しみをものすごく論理的に見つめていくところだった。
苦しみがある。
苦しみには原因がある。
苦しみには終わりがある。
そして、その終わりへ向かう道がある。
いわゆる「四諦」。
そして、その道として説かれる「八正道」。
正しく見る。正しく考える。正しく語る。正しく行う――。
私は、こういう教えが好きだった。
「苦しいです。」
「では原因を見ましょう。」
「原因があるなら、それを理解して、正しい道を歩んでいきましょう。」
なるほど。
すごく論理的だった。
自分の内側を見ること。欲望や執着に振り回されないこと。自分の感情を客観的に観察すること。
当時の私には、とても魅力的だった。
でも。
今だから正直に言えることがある。
私は、ずっと勉強していた。
「覚えなきゃ」が、たくさんあった。
四諦、八正道、自灯明、法灯明。
ほかにも、たくさんの言葉や考え方を学んだ。
もちろん、それ自体が悪いと言いたいわけではない。
ただ、当時の私自身は、
これを覚えなきゃ。
これを理解しなきゃ。
こう考えなきゃ。
こう生きなきゃ。
もっと正しくならなきゃ。
そんなふうに受け取っていた。
学んで、覚えて、理解して、また学んで。
だんだん知識は増えていった。
そして私は、少しずつ「頭でっかち」になっていった。
それだけじゃない。
スピリチュアルの世界にも深く入っていた私は、
「自分は、ほかの人より少し分かっている。」
そんな意識まで持つようになっていた。
自分は悟りに近づいている。
自分はほかの人より意識が高い。
自分は次元上昇している。
周りの人とは、少し違う。
今振り返ると、真理を求めていたはずなのに、
その「知っている」という感覚が、いつの間にか私を人より上に立たせていた。
母に、イライラしていた。
これは、私にとってすごく分かりやすい実例だと思う。
実の母親と話している時、
「なんで分からないんだ。」
と思っていた。
私はこれだけ学んできた。
こういう仕組みがある。
だから、こう考えた方がいい。
こうしなきゃダメなんだ。
そうやって、自分が知っていることを一生懸命伝えようとしていた。
でも、伝わらない。
すると、
「なんで分かんねえんだよ。」
とイライラする。
今考えると、不思議だ。
人を幸せにするために学んでいたはずなのに、
目の前にいる、自分を産んでくれた母を愛せなくなっていた。
正しいことを伝えようとして、
その人の心を見ることを忘れていた。
知識は増えていた。
でも、
愛は増えていただろうか。
そして私は、聖書を知った。
イエス・キリストに出会い、聖書を読むようになった。
もちろん、聖書にもたくさんの御言葉がある。
最初は分からないところもたくさんあったし、今でも学び続けている。
でも、私にとって決定的に違ったことがあった。
スタート地点だった。
「これを全部覚えたら、神様に愛される。」
ではなかった。
「もっと正しくなったら、神様に認めてもらえる。」
でもなかった。
先に、
愛されていた。
聖書には、
「神は愛です。」
とある。
ヨハネの手紙第一4章8節。
私は、
愛を完成させて神様のところへ行くのではなかった。
愛である神様が、先に私を愛してくださっていた。
そこから始まった。
「自灯明」と、「世の光」。
ブッダの教えで有名な言葉の一つに、「自灯明・法灯明」がある。
自らをよりどころとし、法をよりどころとして歩む。
私は、こういう教えが好きだった。
自分の足で立つ。
誰かに依存せず、自分自身を見つめる。
自分の内側に答えを探す。
格好いいと思っていた。
でもその後、聖書の中で、こんな言葉に出会った。
「わたしは世の光です。」
ヨハネの福音書8章12節
衝撃だった。
自分が光になって、自分で道を照らすのではない。
光である方がいる。
そして、
その方について行く。
さらにイエスさまは、
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
ヨハネの福音書14章6節
と言われた。
「私は真理を知っています。」
ではなかった。
「真理を教えてあげます。」
でもない。
わたしが、真理です。
私はずっと「答え」を探していた。
でも聖書の中で、
答えではなく、
「お方」に出会った。
私が探していたのは、「方法」だった。
どうしたら苦しみから自由になれるのか。
どうしたら心を乱されなくなるのか。
どうしたら執着を手放せるのか。
どうしたらもっと高い意識になれるのか。
どうしたら悟れるのか。
私はずっと、
「どうしたら?」
を探していた。
つまり、
方法を探していた。
でもイエスさまに出会って、
問いそのものが変わった。
「どうしたら?」から、
「誰と生きるのか?」へ。
私は、私を造った父なる神を知った。
私を知っている方。
私が失敗しても、迷っても、それでも愛してくださる方。
私が探していたのは、究極の法則だと思っていた。
でも本当に必要だったのは、
愛してくださる「お方」だった。
仏教と聖書には、似て見えるところもある。
欲望のままに生きないこと。
お金や物だけを人生の中心にしないこと。
憎しみに憎しみで返さないこと。
外側だけではなく、内側を見ること。
へりくだること。
こうして見ると、
「あれ?結構似ているじゃん。」
と思うところもある。
私も昔は、
結局、宗教って山の登り方が違うだけで、最後は同じ頂上に行くんじゃないか。
そんなふうに考えていた。
でも、聖書を読めば読むほど、私はそう思えなくなった。
なぜなら、
そもそも問題の根っこが違ったからだ。
聖書が私に見せた、「罪」。
ブッダの教えでは、人間の苦しみや渇愛、無知などが深く扱われていく。
でも聖書を読んだ時、私はさらに根っこの問題を突きつけられた。
人間最大の問題は、
ただ「苦しんでいること」ではなかった。
私を造った神様から、離れていること。
聖書は、それを「罪」と呼んでいた。
罪と聞くと、犯罪とか、ものすごく悪い行動を想像するかもしれない。
私もそうだった。
でも、聖書を知っていく中で、
神様なしで生きること。
自分自身が人生の主人になり、自分で善悪を決め、自分の力で自分を完成させようとすること。
そこに、罪の根があることを知った。
▶ 第31話 漫画『七つの大罪』と、聖書が語る『罪』。
必要だったのは、
自分をもっと上手にコントロールすることだけではなかった。
神様との関係そのものが、回復されることだった。
私は、自分で自分を完成させようとしていた。
もっと学ぶ。
もっと知る。
もっと意識を高める。
もっと執着をなくす。
もっと正しく考える。
もっと自分を整える。
もっと良い人間になる。
もちろん、成長することが悪いわけではない。
今だって私は成長したい。
でも、
自分の完成度が救いの基準になるなら、
私は永遠に自分を採点し続けなければならない。
今日はできた。
今日はできなかった。
今日は穏やかだった。
今日は怒ってしまった。
今日は愛せた。
今日は愛せなかった。
じゃあ、
いつになれば合格なんだろう。
どこまで行けば、
「もう大丈夫。」
と言えるんだろう。
そんな私のところへ、
Good Newsが来た。
神様の方から、来てくださった。
福音は、
「頑張って神様のところまで登ってきなさい。」
という知らせではなかった。
神様の方から、こちらへ来てくださった。
イエス・キリスト。
罪のない方が、この世界に来られた。
人を愛し、病む者に触れ、拒絶されていた人のところへ行き、そして私たちの罪を背負って十字架へ行かれた。
死んで終わらず、三日目に復活された。
だから救いは、
私が悟りの頂上へたどり着いたご褒美ではなかった。
私が十分に良い人間になった報酬でもなかった。
Giftだった。
恵みだった。
私は、
受け取った。
そして、不思議なことが起きた。
聖書を知って、私は自分が「この世のものではない」ということも知っていった。
聖書には、
「私たちの国籍は天にあります。」
ピリピ人への手紙3章20節
とある。
言ってしまえば、
「自分の住所は天にある。」
そんな感覚だ。
昔の私なら、
ここでまた勘違いしたかもしれない。
自分はほかの人より上だ。
自分は高いところにいる。
自分は分かっている側の人間だ。
でも、
イエスさまを知った後は、逆だった。
天に国籍があることは、
地上の人を見下す理由にはならなかった。
むしろ、
愛する理由になった。
「なんで分からないんだ」から、「分かるよ」へ。
聖書を知らず、罪の中で苦しんでいる人を見て、
「なんでそんなことするんだよ。」
と思うのではなくなった。
苦しいんだよね。
辛かったんだよね。
私もそうだった。
そう思えるようになった。
そこには、
裁きではなく、
憐れみが生まれた。
そして、母との関係も変わっていった。
以前なら、
「違うよ。こうなんだよ。」
「だから、こうしなきゃダメなんだよ。」
と、自分が知っていることを頭ごなしに伝えていた。
でも今は、
「そうだよね。」
「大変だったよね。」
「分かるよ。」
そうやって、まず隣に座れるようになった。
もちろん、そのあとに伝えるべきことがあれば伝える。
でも、
正しさをぶつけるためではなく、
愛するために。
これが、
私にとってものすごく大きな変化だった。
昔の私は、
真理を知るほど、人との間に高さを作っていた。
でもイエスさまは、
真理を知るほど、人の隣へ降りていくことを教えてくださった。
根っこは、ものすごくシンプルだった。
聖書にもたくさんの教えがある。
御言葉にとどまること。
赦すこと。
仕えること。
祈ること。
愛すること。
学べば学ぶほど、深い。
一生かかっても学びきれないと思う。
でも、
根っこは驚くほどシンプルだった。
神様が、先に私を愛してくださった。
だから、
私も愛する。
神様を愛し、
人を愛する。
「これを全部暗記できなければ愛されない。」
ではない。
愛されているから、
御言葉にとどまりたい。
愛されているから、
愛したい。
愛されているから、
赦したい。
愛されているから、
人に仕えたい。
順番が、
逆だった。
私に必要だったのは、「苦しみのない状態」だけではなかった。
私はずっと、苦しみから自由になりたかった。
不安から自由になりたい。
怒りから自由になりたい。
執着から自由になりたい。
孤独から自由になりたい。
心が静かであってほしい。
満たされたい。
そう願ってきた。
でもイエスさまに出会って分かった。
私に必要だったのは、
苦しみのない「状態」だけではなかった。
私に必要だったのは、
愛してくださる「お方」だった。
「もう苦しまない私」になること以上に、
苦しい時にも一緒にいてくださる方を知った。
「何にも執着しない私」になること以上に、
何があっても私を手放さない方を知った。
「完全に整った私」になること以上に、
まだ不完全な私を愛してくださる方を知った。
父なる神。
そこに、
私がずっと探していたものがあった。
永遠のいのちは、死んだ後だけの話じゃなかった。
昔の私は、キリスト教の救いと聞けば、
「信じたら、死んだ後に天国へ行ける。」
そのくらいのイメージしかなかった。
でも聖書を知って、
それだけではないことを知った。
神様を知り、イエス・キリストとともに生きる。
そのいのちは、
今ここから始まる。
祈る。
父と話す。
御言葉にとどまる。
愛されていることを知る。
妻を愛する。
子どもを愛する。
母を愛する。
赦す。
仕える。
誰かのために祈る。
Good Newsを届ける。
人生からすべての問題が消えたわけではない。
苦しいことだってある。
泣くこともある。
困ることもある。
分からないこともある。
でも、
一人ではない。
父がいる。
イエスさまがいる。
聖霊がおられる。
私にとって、
これほど心強いことはない。
だから私たちは、「光、あれ。」と歌った。
妻Euniceと作った曲、
『LET THERE BE LIGHT/光、あれ。』
私たち自身が、
闇の中から光を見たから作った曲だ。
光を、自分たちで作ったわけではない。
私たちが光の源になったわけでもない。
光である方に出会った。
だから、
その光を指し示したい。
▶ Pistiss & Eunice
『LET THERE BE LIGHT/光、あれ。』
「自灯明」という言葉を学んでいた私が、
今は、
「わたしは世の光です。」
と言われた方について歩いている。
人生って、
本当に面白い。
私は、ブッダを否定したいわけじゃない。
この記事を読んでいる人の中には、仏教を大切にしている人もいると思う。
家に仏壇がある人。
お寺とのつながりを大切にしている人。
ブッダの教えに助けられた経験がある人。
私は、それを馬鹿にしたいわけでも、頭ごなしに否定したいわけでもない。
私自身、
そこを通ってきたから。
だからこそ、
一度だけ、
イエス・キリストの言葉も読んでみてほしい。
「キリスト教」という宗教のイメージではなく、
イエスという方そのものを、見てみてほしい。
私はそう願っている。
なぜなら、
私自身がそうだったからだ。
私はキリスト教を探していたわけではない。
クリスチャンになりたいとも思っていなかった。
むしろ、
別の場所で真理を探していた。
でも、
そこで、
イエスさまが私を見つけてくださった。
「悟り」と、「救い」。
どちらが優れているのか。
そんな勝ち負けを、私は決めたいわけじゃない。
ただ、
私自身についてなら、
はっきり言える。
私は、
悟りを求めていた時より、
救われたことを知った今の方が、
満たされている。
なぜなら、
「私はどこまで到達したのか」
ではなく、
「私は誰に愛されているのか」
を知ったから。
以前の私は、
知れば知るほど、
「自分はほかの人より分かっている。」
と思うようになった。
でもイエスさまに出会った今、
知れば知るほど、
人を愛したいと思うようになった。
上に立つためではなく、
隣に立つために。
正しさをぶつけるためではなく、
愛を届けるために。
私に必要だったのは、
もっと上へ行く方法ではなかった。
父のもとへ帰る道だった。
そして、
その道はもう開かれていた。
イエス・キリストによって。
Buddhaの弟子から、キリストの弟子へ。
今でも私は、学んでいる途中だ。
分からないこともある。
失敗もする。
怒ることもある。
不安になることもある。
それでも、
以前とは決定的に違うことが一つある。
もう、
自分一人で真理へたどり着こうとしていない。
真理である方と、
一緒に歩いている。
私は、
悟ったから救われたのではない。
良い人間になったから救われたのでもない。
イエス・キリストが、
私を愛してくださった。
十字架へ行ってくださった。
復活してくださった。
そして私は、
そのGood Newsを受け取った。
もし今、
あなたも何かを探し続けているなら。
もっと知れば満たされる。
もっと成長すれば満たされる。
もっと自分を整えれば満たされる。
そう思いながら、
それでも心のどこかが満たされていないなら。
一度、
イエス・キリストという方を、
見てみてほしい。
あなたが神様を見つけるより先に、
神様は、
あなたを見ておられる。
あなたは、
すでに愛されている。
Buddhaの弟子から、キリストの弟子へ。
痛みは証に。光は闇に勝つ。
Blessings to you.
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