第64話 「天国」って、死んだ後に行く場所なの?|「ここは天国」と歌っていた私が、イエスの「御国」を知った。
天国って、死んだ後の話だと思っていた。
昔の私が「天国」と聞いて思い浮かべていたのは、基本的には死んだ後の世界だった。
閻魔大王のような存在がいて、死んだ後に裁かれる。輪廻転生があって、また別の命として生まれてくる。そんな日本人らしいというか、仏教や昔から聞いてきたいろいろなイメージが、私の中では混ざっていた。
一方で、お葬式や戒名などに大きなお金がかかり、それが死後の安心と結びついているように見えることには、当時から違和感があった。
「神様とか、天国とかって、お金でどうにかなるものなの?」
そう思っていた。
だから結局、死んだ後に何があるのか、自分はどこへ行くのか、本当のところは何も分かっていなかった。
それなのに私は、「ここは天国」と歌っていた。
面白いことに、まだイエスさまを知らなかった頃、私は「ここは天国」という曲を書いていた。
美しい緑。鳥が歌い、風が歌い、人々が手を取り合って踊っている。そんな世界を歌っていた。
私は当時、天国とは、ある意味「自分の意識によって作るもの」だと思っていたのかもしれない。今ここを天国だと思えば、ここが天国になる。目の前にある美しいものを見て、感謝して、良いことを考えて、幸せを感じる。
それ自体は、とても素敵なことだと思う。
でも現実は、なかなか私の思い描いた天国にはならなかった。
家には何度も泥棒が入った。人間関係にも巻き込まれた。思い通りにならないことが次々に起こった。
すると私は、「自分が何か悪いことをしたから、これが返ってきているのか?」と考えるようになった。
天国だと思い込もうとしているのに、目の前の現実は全然、天国じゃない。
そんな矛盾があった。
そして聖書で、「御国」を知った。
イエスさまを知り、聖書を学んでいく中で、私の「天国」に対する考え方は大きく変わっていった。
もちろん聖書には、死後のことも、裁きのことも、永遠のいのちのことも書かれている。
でも、それだけじゃなかった。
イエスさまは弟子たちに、こう祈るよう教えられた。
「御国が来ますように。
みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」
マタイの福音書6章10節
ここで私は気づいていった。
御国って、「死ぬまで待つ場所」だけじゃないんだ。
神様の御心が行われる。神様の愛が現れる。神様の平安が現れる。神様の生き方が、この地上に現れていく。
御国は、
今ここから始まるんだ。
私は、御国を「人」の中に見るようになった。
今の私が「御国」と聞いて思い浮かべるものの一つが、JTMの神の家族だ。
JTM(Jesus Tribe Ministries)
もちろん、「JTMそのものが御国です」と言いたいわけではない。そうではなくて、私はそこで「御国の文化」をたくさん見てきた。
奪い合わない。与え合う。自分だけが幸せならいい、ではない。相手の幸せを本気で願う。
誰かが苦しんでいたら、「祈ろう」と言う。自分だけでは抱えきれなければ、「助けてください」と言える。そして誰かが助けを求めたら、自分にできることを持ち寄る。
私は以前、こんな世界を頭の中で想像していた。
でも今は、人と人との間で、実際にそれを見るようになった。
朝起きた瞬間に、御国がある。
そして御国って、何かものすごい奇跡が起きた時だけ感じるものでもない。
朝、目を覚ます。隣を見る。Davyが寝息を立てて眠っている。
時には私より先に起きて、「パパ、パパ、起きて!」と言ってくる。
それだけで、もう幸せなんですよね。
「神様、本当にありがとうございます。」
以前なら、当たり前すぎて通り過ぎていたような瞬間。でも、神様が私たちに良くしてくださったことを忘れなければ忘れないほど、日常の中に奇跡が見えるようになった。
妻がいる。息子がいる。一緒にご飯を食べられる。一緒に笑える。一緒に祈れる。
ふとした瞬間に、感動して涙が出てくる。
私は今、こういう瞬間にも御国を感じている。
「ここは天国」と、思い込む必要がなくなった。
以前は、何とか自分の意識を変えて、「ここは天国なんだ」と思おうとしていた。
今は違う。
思い込まなくていい。
実があるからだ。
30年近く吸っていたタバコをやめた。お酒もやめた。妻との関係が回復した。母に対する怒りが変えられていった。心にぽっかり空いていた穴が埋まっていった。
そして、「もう一度ラップがしたいです」と神様に祈った私は、再び音楽を作り、ステージに立つようになった。
宗教の知識が増えただけじゃない。
私の人生に、実際に変化が起きた。
だから私にとってこれは、ただの「宗教論」ではない。
生きた命なんです。
私は、
体験した。
家族の中にも、御国の文化が入ってきた。
今、私たち家族は、何かを始める前によく祈る。
食事の時。出かける時。車を走らせる前。一呼吸置いて、父なる神に祈る。
天の父さん感謝します。今日も守ってください。私たちの心に平安がありますように。あなたの御心が分かりますように、私たちを導いてください。
そのように祈ってから動き始める。
すると、心に平安がある。感情にそのまま流されなくなる。
もちろん、私たちは完璧な家族じゃない。でも、一呼吸置けるようになった。怒りのまま言葉をぶつけるのではなく、「神様はどうされるだろう」と考えられるようになった。
母との関係もそうだった。Davyとの関係もそうだった。
以前なら頭ごなしに怒っていたような場面でも、まず愛することを考えるようになった。
神を愛し、隣人を愛する。
イエスさまが教えられたことの根っこは、驚くほどシンプルだった。
「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
マタイの福音書22章37節、39節
神様を愛する。そして、目の前にいる人を愛する。
妻を愛する。子どもを愛する。母を愛する。父を愛する。神の家族を愛する。困っている人を愛する。
これが、御国の文化なんだと思う。
夫婦もそうだった。
私たちはもともと、「礼儀・尊敬・思いやり・やさしさ」みたいなものを夫婦共通の理念として大切にしていた。そこへ、イエスさまが中心に入った。
二人で神様を見上げるようになった。
聖書が夫婦を「一体」として語っている意味も、少しずつ実感するようになった。
二人が同じ父を見上げる。
これは、本当に大きかった。
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
創世記2章24節
御国に生きても、問題はなくならない。
ここは、絶対に勘違いしてほしくない。
イエスさまを信じたら、人生の問題が全部消えました。
そんな話ではない。
経済的な問題だってある。将来について考えることもある。困ることだってある。
それでも、以前とは決定的に違う。
一人で抱えていない。
神様に聞ける。祈れる。神の家族にも、「今、こういう状況なんです。祈ってください」と言える。
問題の真ん中にいても、不思議と平安がある。
ヨナが大魚の腹の中にいたように、「ものすごい状況にはいる。でも、神様の手の中にはいる。」
そんな感覚に近い。
▶︎第43話 聖書が語る、ヨナから学ぶ“逃げても終わらない生き方”。|神様から全力で逃げた預言者が、巨大な魚に飲み込まれるまで。
少し砕けた言い方をすると、ロギオンが語る「スターマリオ」みたいな感じ。
私のイメージなら、
スーパーサイヤ人です。笑
問題が存在しなくなるわけではない。でも、聖霊様がおられる。一人じゃない。強くされる。
私が以前言った、「聖霊の加護、レベル99。」
そんな感覚だ。
少なくとも私自身は、信仰生活に入ってから大きく体調を崩すことがなく、妻もそうで、子どもたちも以前より病気が減ったと感じている。
もちろん、「イエスさまを信じれば誰も病気にならない」と単純な法則にしたいわけではない。
ただ、これは私たち家族が実際に歩んできた中で感じていることだ。
私の「教会」のイメージも、全部ひっくり返った。
昔の私にとって教会は、何かを教わる堅い場所。宗教をやっている人たちが集まる場所。
そんなイメージだった。
道路沿いなどにある、「神と和解せよ。」みたいな看板を見ても、正直、
「怖っ。」
と思っていた。笑
でも今なら分かる。
私に一番必要だったのが、神様との和解だった。
そして私が実際に教会で知ったのは、「教えてもらうこと」だけではなかった。
愛し合うことだった。
今JTMでは、国づくりプロジェクトにも取り組んでいる。
そこでも感じる。
一人じゃ、国なんて作れない。
一人ひとりに違う賜物がある。できることが違う。
だからこそ、助け合う。
誰かが祈り、誰かが作り、誰かが歌い、誰かが伝え、誰かが支える。
一人では完成しない。
それを、神様が一つにしてくださる。
私は教会で、「神の家族」というものを知った。

御国は、日曜日だけじゃない。
だから私にとって、御国は教会の建物の中だけにあるものではない。
家にもある。仕事にもある。スタジオにもある。音楽にもある。noteにもある。映像にもある。
誰かのために作る一曲にも、一人の人にかける言葉にも、御国の文化は流せると思っている。
私が音楽や文章や映像を残している理由も、結局ここにつながっている。
昔の私は、「何のために生きてるんだろう」と思い続けていた。
親しい同級生が突然亡くなったこともあった。家庭の中にも大きな痛みがあった。未来が見えず、生きることそのものに希望を持てなかった時期もあった。
だから今、同じように暗闇の中にいる人へ、少しでも光を届けたい。
ネグレクトの中にいる子ども。愛された経験がなくて、自分の子どもをどう愛したらいいか分からない親。生きる意味が分からない人。孤独な人。
「この世界って、何なんだ。」
と思っている、昔の私みたいな人に届いてほしい。
闇の中に、光を。
ヨハネの福音書は、初めから「ことば」について語り、そのことばに「いのち」があり、そのいのちは人の「光」であったと語っている。
そしてヨハネの手紙第一には、神は光であると書かれている。
だから私は、光を作り出したいわけじゃない。
光である神様を、指し示したい。
私たち夫婦が『光、あれ。』と歌ったのも、そこにつながっている。
自分たちが闇の中で、光を見たからだ。
「実」を見た時、私は分かった。
以前の私は、理想の世界を探していた。
次元上昇。新しい地球。高い意識。目に見えない世界。
いろいろなものを学んだ。
でも、少なくとも私自身の人生を振り返った時、求めていた実が残っていなかった。
心は満たされていなかった。母との関係も壊れていた。妻の気持ちすら理解できていなかった。自分が何者なのかも分からなかった。
でも、イエスさまに出会ってから、実が現れ始めた。
平安。愛。赦し。家族の回復。新しいいのち。与えたいという思い。仕えたいという思い。
私は、その実を見た。
だから今、聖書に真理があると信じている。
私は聖書しか知らないから信じているんじゃない。
いろいろなものを見て、いろいろな道を歩いて、その上で、ここにたどり着いた。
だからこんなにnoteを書く。音楽を作る。Instagramでも伝える。夫婦でも発信する。
みんなにも、この神様を知ってほしい。
最高なんですよね。
本当に。
王は、仕える。
御国について考えると、私はイエスさまの姿を思う。
イエスさまは王なのに、弟子たちの足を洗われた。
上にいるから、人を自分のために使うのではない。
王だからこそ、仕える。
これが、ものすごく格好いい。
私も、父に。母に。妻に。子どもに。神の家族に。そして出会う人たちに、良くしたいと思うようになった。
不思議なことに、誰かを喜ばせようとすると、自分の内側にも喜びが湧いてくる。
愛って、自分の中に溜め込むものじゃないんだと思う。
神様から受け取って、
流していく。
これも、御国の生き方なんだと思う。
天国は、死ぬまで待たなくていい。
もちろん私は、死後の希望も信じている。
いつかイエスさまに会いたい。父なる神に、「こんなに良くしてくださって、本当にありがとうございました」と伝えたい。
その日は、楽しみだ。
でも、永遠のいのちは、死んだ瞬間から突然始まるものではないと知った。
ヨハネの福音書17章3節で、イエスさまは永遠のいのちを、父なる神とイエス・キリストを知ることとして語っている。
だったら、
もう始まっている。
父を知った、その時から。イエスさまを知った、その時から。祈り始めた、その時から。
神様とともに生きる、このいのちが始まった。
ナチュラルハイの御国。
この記事を書いている前日、つまり昨日の夜に、ロギオンの誕生パーティーがあった。
そこにいる人たちは、誰もお酒を飲んでいない。
でも、テンションだけ見たら、
「みんな飲んでるの?」
というくらい盛り上がっている。笑
「うぇーい!」「おめでとう!」「わー!」
みたいな。
ナチュラルハイ。
私はそれを見ながら、「すごい世界だな」と思った。
昔の私は、お酒がなければ出せなかったようなテンションを、みんな素のままで楽しんでいる。
そして気づいた。
誰と一緒に生きるかって、ものすごく大切なんだ。
私がタバコをやめた今、普段一緒にいる神の家族にタバコを吸う人はいない。お酒がなくても、みんな楽しそうに笑っている。
環境が変わる。触れる言葉が変わる。一緒にいる人が変わる。
そして、自分自身も変わっていく。
だからこそ私は、「教会に来てみてよ」と友人にも言いたくなる。
でも日本では、「教会」「聖書」「キリスト教」と聞いただけで、ものすごく高い壁を感じる人もいる。
だから、このnoteを書いている。
その壁を、少しでも低くしたい。
御国は、今ここから始まっている。
私は以前、「ここは天国」と自分に言い聞かせながら生きていた。
今は、無理にそう思い込もうとしていない。
問題だってある。この世界には、まだ悲しいこともある。苦しんでいる人もいる。
聖書が約束する御国の完成を、私たちはまだ待っている。
でも、
そのいのちは、もう始まっている。
神様を愛する。隣人を愛する。赦す。与える。祈る。仕える。一緒に喜ぶ。誰かが泣いていたら、隣に座る。
家庭の中に。教会の中に。仕事の中に。音楽の中に。日常の中に。
神様の御心が行われるところに、御国の文化が現れていく。
だから私は今、こう言える。
天国は、
死ぬまで待たなくていい。
父なる神とともに生きるいのちは、
今、ここから始まる。
そして私は、その御国を、自分だけで楽しみたいわけじゃない。
家族へ。友人へ。まだイエスさまを知らない人へ。
愛を流していきたい。
では、その父なる神と、私たちはどうやって話すのだろう。
以前の私は、瞑想し、宇宙へ願い、見えない存在へ感謝していた。
でも今、私にとって祈りは、まったく別のものになった。
父との会話になった。
次回は、「祈り」について書いてみたい。
Buddhaの弟子から、キリストの弟子へ。
痛みは証に。光は闇に勝つ。
Blessings to you.
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