35話 『千と千尋の神隠し』と、荒野の40日。
欲しいものを差し出された時、人は何を選ぶのか。―「神の子なら」と囁く、三つの誘惑。
私は、
昔からジブリが大好きでした。
『となりのトトロ』。
『天空の城ラピュタ』。
『もののけ姫』。
『ハウルの動く城』。
そして、
『千と千尋の神隠し』。
今は、
昔ほど映画を見る時間は減りました。
というより、
イエスさまが好きすぎて、
気づけば聖書ばかり読んでいる。笑
御言葉に、
とどまりすぎている。🤣
でも、
久しぶりに『千と千尋の神隠し』の物語を思い返していた時、
私は、
ある聖書の場面を思い出しました。
イエス・キリストが、
約30歳で公の働きを始める、
その直前。
40日間、
荒野にいた時のことです。
そこでイエスさまは、
三つの誘惑を受けます。
食べ物。
自分が何者なのかという、
アイデンティティ。
そして、
この世界の国々と栄華。
それを見ていたら、
私は、
『千と千尋の神隠し』の世界を思い出したのです。
もちろん、
『千と千尋の神隠し』が聖書をもとに作られた、
と言いたいわけではありません。
全く別の物語です。
でも、
「人は、
欲しいものを目の前に差し出された時、
何を選ぶのか。」
「自分が誰なのかを見失った時、
どうなるのか。」
そんな問いを通して見ると、
不思議なくらい、
荒野のイエスさまの姿が、
私の中に浮かんできました。
トンネルを抜けたら、知らない世界だった。
『千と千尋の神隠し』。
主人公は、
千尋。
ごく普通の女の子です。
引っ越しの途中、
両親と一緒に、
不思議なトンネルを抜ける。
すると、
その向こうには、
誰もいないように見える、
不思議な町がある。
そして、
食べ物が並んでいる。
おいしそうな料理。
でも、
店の人はいない。
千尋は、
不安になる。
でも、
お父さんとお母さんは、
食べ始める。
「後でお金を払えばいい。」
そんな感覚で、
目の前にあるものを食べていく。
そして、
千尋が戻ってきた時。
両親は、
豚になっていた。
「怖っ!!」
と思った場面です。🤣
でも、
改めて親になってみると、
ちょっと考えてしまう。
人間って、
目の前に、
自分が欲しいものを置かれた時、
どうするのだろう。
「食べたい。」
お腹が空いている。
目の前に、
食べ物がある。
食べる。
それ自体は、
悪いことではありません。
お腹が空くことも、
食べることも、
人間に必要なことです。
でも、
「欲しい。」
「今すぐ。」
「我慢できない。」
「自分のものにしたい。」
そんな思いが、
自分を支配し始めた時。
私たちは、
本当に自由なのだろうか。
ここで、
私は、
荒野にいたイエスさまを思い出します。
イエス・キリスト、40日間の荒野へ。
イエスさまは、
バプテスマのヨハネから洗礼を受けます。
そして、
父なる神から、
愛する子として語られます。
その直後。
イエスさまは、
荒野へ向かいます。
そこで、
40日40夜、
断食をする。
そして、
空腹になる。
40日。
私は、
一食抜いただけでも、
「腹減ったー。」
となるのに。🤣
40日。
想像もできません。
そんな、
人間として極限に近い空腹の中で、
誘惑する者が来ます。
そして、
言うのです。
「もし、
あなたが神の子なら。」
ここ。
私は、
ものすごく重要だと思っています。
「もし、あなたが神の子なら。」
少し前に、
父なる神は、
イエスさまが愛する子であることを、
すでに語っている。
でも、
誘惑する者は言う。
「もし、
神の子なら。」
つまり、
私はここに、
アイデンティティへの揺さぶりを見るのです。
本当に、
あなたは神の子なのか。
だったら、
証明してみろ。
そして、
最初の誘惑。
「この石を、
パンにしてみろ。」
第一の誘惑。「石をパンにしてみろ。」
イエスさまは、
お腹が空いていた。
しかも、
イエスさまには、
力がある。
後に、
パンと魚を増やして、
大勢の人を満腹にしたお方です。
だったら、
石をパンにするくらい、
できたのかもしれない。
でも、
イエスさまは、
その誘惑に乗らない。
ここで問題なのは、
パンが悪いということではありません。
お腹が空くことが、
罪なのでもない。
私は、
この誘惑を、
こう感じます。
「今すぐ、
自分の力で、
自分を満たせばいいじゃないか。」
「父を信頼しなくても、
あなたには力があるだろう。」
「欲しいなら、
今すぐ手に入れればいい。」
これ、
私たちの世界にも、
たくさんある気がしませんか。
「これさえあれば、満たされる。」
お金。
異性。
お酒。
タバコ。
薬物。
人気。
フォロワー。
成功。
承認。
「これさえ手に入れば、
私は満たされる。」
私自身、
そうやって生きてきた時期がありました。
若い頃の私は、
女性からモテることで、
自分の価値を確認しようとしていた。
お酒を飲んだ。
タバコを吸った。
薬物にも手を出した。
ラップだって、
最初は、
神さまのためではなかった。
自分が認められたい。
自分を大きく見せたい。
満たされたい。
でも、
満たしても、
また欲しくなる。
食べても、
また腹が減るように。
手に入れても、
また次を求める。
まるで、
終わりがない。
『千と千尋の神隠し』の中で、
目の前の食べ物を食べ続ける両親の姿を見ながら、
私は、
自分自身の人生も、
思い出してしまうのです。
でも、イエスさまは「パンだけではない」と答えた。
イエスさまは、
御言葉で答えます。
人間は、
パンだけで生きるのではない。
つまり、
人間には、
食べ物以上に必要なものがある。
身体を満たすだけでは、
人は、
本当の意味では生きられない。
私は、
そう受け取っています。
私も、
いろいろなもので、
心の空洞を満たそうとしました。
でも、
埋まらなかった。
そして、
最後に出会ったのが、
天の父の愛でした。
千尋は、「千」になる。
『千と千尋の神隠し』には、
もう一つ、
私がとても興味深いと思うテーマがあります。
名前。
湯婆婆は、
千尋から名前を奪い、
「千」
という名前を与える。
千尋は、
「千」になる。
でも、
名前を失うということは、
ただ呼び方が変わるだけではない。
この物語の中では、
自分が本当は誰なのかを忘れてしまうことと、
深く結びついています。
ここで私は、
また、
荒野の言葉を思い出す。
「もし、
あなたが神の子なら。」
第二の誘惑。「だったら、証明してみろ。」
次に、
誘惑する者は、
イエスさまを神殿の高いところへ連れていきます。
そして、
こう迫ります。
神の子なら、
ここから飛び降りてみろ。
神が守ってくれるはずだ。
しかも、
ここで非常に興味深いことが起きます。
誘惑する者まで、
聖書の言葉を使うのです。
私は、
ここ、
ものすごく大事だと思っています。
「聖書に書いてある言葉を使っている。」
それだけで、
必ずしも、
その使い方が正しいとは限らない。
御言葉を、
自分の都合のために使うこともできる。
だから、
御言葉そのものを知ること。
そして、
その文脈を知ること。
神さまを知ることが、
大切なんだと思います。
「本物なら、証明してみろ。」
この誘惑、
私は現代にも、
ものすごくあると思います。
「本当に価値があるなら、
結果を出してみろ。」
「本当に才能があるなら、
売れてみろ。」
「愛されているなら、
証明してみろ。」
「神に愛されているなら、
奇跡を見せてもらえよ。」
私たちは、
いつの間にか、
自分の価値を、
パフォーマンスで証明しようとする。
でも、
イエスさまは、
証明ゲームに乗らない。
なぜなら、
荒野に入る前から、
すでに、
父に愛される子だから。
奇跡を起こしたから、
愛されたのではない。
大勢の人を癒したから、
神の子になったのでもない。
十字架を成し遂げたから、
初めて父に喜ばれたのでもない。
その前から、
愛されていた。
ここに、
私は、
ものすごく大切なアイデンティティを見るのです。
「千尋」という名前を忘れない。
千尋の物語を見ていると、
名前を覚えていることが、
自分自身を失わないことと重なって見えます。
誰かに、
何と呼ばれても。
社会から、
何と評価されても。
失敗しても。
成功しても。
私は、
誰なのか。
聖書を知った私は、
ここに、
一つの答えを持つようになりました。
私は、
神さまに愛されている。
私の価値は、
人気だけでは決まらない。
お金だけでは決まらない。
成功だけでは決まらない。
過去の失敗だけでも決まらない。
父なる神が、
私をどう見ているのか。
そこから、
私は、
自分を見るようになりました。
そして、三つ目。
最後に、
誘惑する者は、
イエスさまに、
この世界の国々と栄華を見せます。
そして、
条件を出す。
自分を拝むなら、
これらを与える。
つまり、
権力。
栄光。
支配。
全部、
手に入る。
ここで私は、
『千と千尋の神隠し』の、
あの世界に渦巻く、
「欲」
を思い出します。
金を出せば、みんなが寄ってくる。
カオナシ。
最初は、
静かです。
でも、
やがて、
金を出す。
すると、
周りの人たちが集まってくる。
もっと。
もっと。
金。
食べ物。
欲望。
どんどん、
大きくなっていく。
でも、
千尋は、
その金に、
飛びつかない。
周りのみんなが欲しがっているものを、
千尋は、
「私はいらない」
とする。
ここ、
昔みた頃は、
そこまで深く考えませんでした。
でも、
今見ると、
ものすごい。
みんなが欲しがるものを、
「いらない」
と言える。
それって、
簡単なようで、
実は、
ものすごく難しい。
第三の誘惑。「世界をあげる。」
サタンは、
イエスさまに、
世界の国々と栄華を差し出した。
でも、
条件がある。
「私を拝め。」
イエスさまは、
拒否します。
私は、
この場面を見る時、
一つの言葉が浮かびます。
「十字架のない王冠。」
イエスさまは、
王です。
Messiah。
でも、
イエスさまが歩む道には、
十字架がある。
拒絶がある。
苦しみがある。
自分の命を、
人のために差し出す道がある。
そんなイエスさまの前に、
別の道が差し出されたように、
私は感じるのです。
苦しまなくてもいい。
十字架へ行かなくてもいい。
今すぐ、
世界を手に入れればいい。
近道。
でも、
イエスさまは、
選ばなかった。
十字架のない王冠を、イエスさまは選ばなかった。
私は、
これが、
めちゃくちゃかっこいいと思います。
人間なら、
王冠が欲しい。
拍手が欲しい。
力が欲しい。
有名になりたい。
認められたい。
できれば、
苦労はしたくない。
私にも、
そういう気持ちはあります。
でも、
イエスさまは、
自分を拝ませて王になろうとしたのではない。
人を支配して、
王になったのでもない。
人のために、
自分の命を差し出した。
この世界の王たちとは、
まるで逆。
だから私は、
イエスさまが好きなのです。
イエスさまは、三回とも「御言葉」で立った。
石をパンに。
神の子なら、
飛び降りて証明してみろ。
私を拝むなら、
世界をあげる。
三つの誘惑。
でも、
イエスさまは、
すべてに対して、
御言葉で答えた。
「書いてある。」
私は、
ここにも、
ものすごく学ばされます。
イエスさまが、
荒野で誘惑を受けた時、
感情だけで戦ったのではない。
「私は強いから大丈夫。」
でもない。
自分の能力を見せつけたのでもない。
御言葉に立った。
だから私は、
聖書を読みたい。
御言葉を知りたい。
神さまが何と言っているのかを、
知りたい。
誘惑が来てから、
慌てて探すのではなく。
普段から、
御言葉にとどまりたい。
……。
まあ、
私は今、
とどまりすぎているくらいですけどね。🤣
でも、
それくらい、
私は聖書が好きになりました。
誘惑は、角を生やして来るとは限らない。
私は以前、
悪魔の誘惑という言葉を聞いたら、
ものすごく怖いものを想像していたかもしれません。
でも、
荒野の物語を読むと、
差し出されているもの自体は、
一見すると、
人間が欲しがるものです。
パン。
安全。
証明。
力。
国。
栄光。
だから、
誘惑は、
いつも、
「これは悪ですよ。」
という顔をして来るとは限らない。
むしろ、
自分が一番欲しいものの姿で、
来るのかもしれない。
「これくらいいいじゃん。」
「今すぐ満たせばいいじゃん。」
「あなたには、その権利がある。」
「証明してみろ。」
「近道すればいい。」
私は、
そんな囁きに、
何度も負けてきました。
私は、イエスさまの側ではなく、むしろ誘惑に負ける側だった。
ここが、
私にとって大切なところです。
この記事を読んで、
「じゃあ、
イエスみたいに完璧に誘惑に勝ちましょう。」
だけで終わるなら、
私には、
希望がありません。
なぜなら、
私は、
何度も負けてきたから。
欲望に負けた。
承認欲求に負けた。
快楽に負けた。
怒りに負けた。
誘惑に負けた。
間違った選択をした。
だから、
私は、
イエスさまのように、
一度も罪を犯さなかった人間ではない。
私は、
救われる必要がある側です。
でも、Good Newsは、「負けたら終わり」ではなかった。
これが、
福音のすごいところです。
イエスさまは、
荒野で誘惑に勝利した。
そして、
その後も、
父なる神に従って歩まれた。
最後には、
十字架へ向かわれた。
私たちが、
何度も誘惑に負け、
罪を犯してきた、
その罪まで背負うために。
罪のないお方が、
罪人のために。
私たちを、
「もう終わり」
と切り捨てるためではなく。
救い出すために。
千尋は、自分の名前を取り戻して帰っていく。
『千と千尋の神隠し』の物語で、
私は、
千尋が最初と最後で、
少し違って見えるところが好きです。
怖がっていた少女が、
不思議な世界の中で、
いろいろな出来事を通り、
人を助け、
自分自身を失わず、
最後には、
元の世界へ帰っていく。
私は、
そこから聖書へ思いを巡らせます。
神さまも、
私たちを、
本当の自分へ呼び戻してくださる。
「あなたは誰だ。」
「あなたの価値は、
何で決まる。」
「あなたは、何を拝む。」
「欲しいものを差し出された時、
何を選ぶ。」
荒野でイエスさまが受けた誘惑は、
2000年前の、
自分には関係のない話ではない。
今も、
私たちの人生に、
形を変えて、
同じような問いがあるのかもしれない。
あなたは、本当は誰なのか。
もし今、
自分の価値を証明することに疲れている人がいたら。
もっと結果を出さないと。
もっと成功しないと。
もっと認められないと。
もっと愛されないと。
そう思っている人がいたら。
私は、
伝えたいです。
イエスさまの歩みは、
父から愛される子として始まった。
奇跡を起こす前から。
大勢の人に知られる前から。
十字架へ向かう前から。
愛されていた。
そして、
イエス・キリストを通して、
私たちも、
天の父の愛へ招かれている。
欲しいものを差し出された時、人は何を選ぶのか。
パン。
証明。
王冠。
イエスさまは、
すべての誘惑を退けた。
でも、
そこで物語は終わらない。
イエスさまは、
荒野を出た。
人々のところへ行った。
病人を癒した。
罪人と食事をした。
子どもたちを抱いた。
泣いている人と共に涙を流した。
そして、
最後には、
十字架へ向かわれた。
サタンが差し出した、
十字架のない王冠ではなく。
父なる神に従う道を、
最後まで歩まれた。
私が、この王について行きたい理由。
力を持っているからだけではない。
奇跡を起こせるからだけでもない。
誘惑に勝ったからだけでもない。
このお方は、
力を、
自分のためだけに使わなかった。
自分を証明するために生きなかった。
世界を支配するために、
悪に膝をつかなかった。
そして、
私たちを救うために、
自分の命を差し出した。
だから、
私は、
この王について行きたい。
イエス・キリスト。
十字架の愛について、もっと知りたい方へ。
なぜ、
誘惑に勝利したイエスさまが、
十字架へ向かわれたのか。
なぜ、
罪のないお方が、
罪人である私たちのために死なれたのか。
その十字架の愛については、
こちらの記事でも書いています。
【特別編 イエス・キリストと十字架。】
「イエスさまって本当にいたの?」と思った方へ。
私は、
最初から、
イエス・キリストを信じていたわけではありません。
以前は、
Buddhaの弟子として歩んでいました。
そんな私が、
大切なお母さんへ、
ラブレターを書くような気持ちで、
Good News(福音)について書いた記事があります。
【26話 お母さん、イエスさまって本当にいたの?】
“ただの昔話”だと思っていたキリスト教を、ゼロから考えてみる。
最後に。
『千と千尋の神隠し』。
目の前に並ぶ、
食べ物。
奪われる、
名前。
差し出される、
金。
その物語を思い返しながら、
私は、
荒野のイエスさまを思います。
石をパンに。
神の子なら、
証明してみろ。
私を拝めば、
世界をあげる。
でも、
イエスさまは、
言った。
NO。
父を信頼する。
自分が誰なのかを、
証明ゲームに委ねない。
そして、
十字架のない王冠を、
選ばない。
荒野の40日。
そこには、
後に数々の奇跡を起こす前の、
イエス・キリストがいた。
そして、
そのお方は、
誘惑に勝利し、
荒野を出て、
人々のところへ向かっていった。
最後には、
私たちを救うために、
十字架へ。
そして、
復活へ。
誘惑は、
「あなたは誰なのか」
と囁く。
でも、
天の父は、
その前から語っている。
愛する子。
私は、
その声を、
信じて生きたい。
欲望ではなく、
愛を。
証明ではなく、
アイデンティティを。
近道ではなく、
父に従う道を。
そして、
イエス・キリストについて行く。
Buddhaの弟子から、キリストの弟子へ。
痛みは証に。
光は闇に勝つ。
スーパーヒーローはYOU。
Blessings to you.
