サリヴァン「現代精神医学の概念」における言語使用とコミュニケーションの3段階
私の統合失調症の女性クライエントとの事例記事で、サリヴァンが「前思春期」における同性との性的ニュアンスを含む交流に特別の意味を見出していることについて触れました。
そのこととの関連も出てくるので、サリヴァンの主著(というか、生前に本人が正式に出版した唯一の書物だったと思う。講演録に本人が手を入れたものですが)である「現代精神医学の概念」の核心部分というべき、言語使用の3つの次元と、それに対応する対人関係様式について、簡単に説明しておこうかと思います。
プロトタクシス(prototaxis)
自閉的(autistic)な言語使用の段階です。仮に他者を前にして話していても、他者に伝える、他者に「通じる」かどうかを全く意識しておらず、ひとりごとを言っているのと同じです。
本人は、フィーリングのままに言葉を発しているだけ。
そのことによって多少なりとも開放感を得られれば、どんなうわごとでも断片の羅列でもいいわけです。
言語の全く個人的かつ刹那的な利用の様式。
純粋に統合失調症状態にはまっているだけだと、この言語使用の状態にあるとみなすことができます。
ですから他の人には全く了解不能。性的にみれば、完全に「自体愛」の世界にいるということになります。
つまり、オナニーに没頭してまわりに全く関心が向かない状態。しかも自分の身体が自分の刺激で快感を得る状態に引きこもっているともみなすことができるかと思います。いわゆる「オカズ」すら不要。
自分の身体を刺激する快感自体に酔えてしまう状態とも言えます。
いわば、言語使用は、自分の身体をイカせるためなら何でもいいや、の断片的な叫びのようなものになります。
パラタクシス(parataxic)
他者とのコミュニケーションの場にいるという認識はあります。
しかし、自分の欲求は、内的なイメージとしての他者像相手に、情け容赦ないまでに相手に投影・転移されている、徹底的な思い込み空間です。
これが相互的にそのような状態にはまっている場合、二人のプロセスは、実は「並行的(="para")」に存在するだけで、現実の他者とのコミュニケーションに全然なってはいない。
お互いに、相手に「通じた」つもり、「わかってもらった」つもりになっているだけ。実は、自分の中の他者についての「内的イメージ」とだけコミュニケーションしている。
実は外側の「他者」と、「通じて」いるかどうか、相互に確認しあうことをまるでしていないわけですね。ですから、これを性的な次元で言えば、仮に実際に性的交渉をしていても、両方が相手の身体を使ってオナニーしているだけ、ということになります。そこにはお互いにやりとりしながら相互確認、相互調整の過程が全く欠落していることになります。
完全に快感原則だけの状態であることには変わりがありません。正確に言えば、ふたりの快感原則が果てしなくぶつかり合い続けるがゆえの混乱が実際には延々と悪循環的に続くことになります。
しかし、純粋な二者関係以上のものがなければ、両者はこの状態を超えることは、自分たちだけではできない。フロイト的に言えば、プレ・エディプス的な段階、メラニー・クライン的な意味での「内的対象関係」だけを相手にしていることになります。
シンタクシス(syntaxic)
人は三者関係になって、はじめて「社会」的存在になるとも言えます。
フロイトで言う、エディプス・コンプレックスの段階であり、母子関係に、父親による社会的な禁制が介入することによってはじめて現実原則が台頭します。
だだし、現代的な理解によれば、これは性別と無関係になります。つまり、母子関係「的」な二人関係であれば、養育者が父親だけでも実際にはパラタクシス的状態にしかいなかったことになります。
やはり、(性別関係なく)審判者・調停者としての「3人め」の介入が必要ということになります。
この「3人目」の介在によって、残り2者が「お互いに通じ合う」コミュニケーションが妥当にできていたかどうかの検証が具体的になされるようになります(「共人間的有効妥当性確認」="consensual validity")。
この「3人目」は、フロイト的に言えば、「取り入れ」によって内在化され、「超自我」として機能するようになれば、調停する3人目がいちいち介入しなくても、二者関係の中でも機能するようになるわけですが、これをカウンセリング場面に実践的に置き換えれば、仮に初心者のカウンセラーがクライエントとの関係をナイーブに形成すると、転移・投影空間を現実原則で検証する能力はないまま、パラタクシス状態のまま抜けられないということになります。
双方がうまくいっていると感じても、実は、「わかってあげた」「わかってもらった」という幻想(illusion)を双方が抱いて、共有しているだけということになります。その幻想は当然容易に破綻します。
ケーススーパーバイザーなしではこの状態を脱するトレーニングはできないことにあります。性的に言えば、相手が満足しているかどうか、相手がどうして欲しいか、加減はどうか、相互に配慮し、確認しあう、相互性の段階にはじめて入ることになります。
このためには、それぞれが、単にしたいようにしてみるのを超えた「観察者としての自己」を主体的に形成しての、自己コントロールをできるようになっていることが前提になります。
一方が完全に相手のペースに任せていてもダメということになりますね。
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このように説明して行くと、プロトタクシス状態が一番原始的で、シンタクシス状態に向けて成長していくことを「達成」していく、そしてそれを「達成」すれば後戻りしないというモデルとして受け取られかなないですが、実はそうではないと思います。
確かに、順を追ってでないと、その言語能力、対象関係、コミュニケーション能力は育成できないのですが、それは先行段階の「克服」というモデルではなく、実は、いつまでたっても、この3つの「次元」が実は並行して存在する、相互浸透しながら行ったり来たりする、と見なした方がいいと思います。
人はいくつになっても「自閉言語」の領域は持っています。むしろ自閉言語の領域で内側で処理する過程を必要としていると、言えるかと思います。そうした上でしか「お互いに意図が通じあう」コミュニケーションをとる余裕などは生じないでしょう。
むしろ、クレージーとも言える、自分の中だけでの、人には決して口にはしない言語使用を自分自身には許しておくことの方が、精神的な健康は保てると思います。
同様に、自分の思い込みで他者を判断することがなくなるということはあり得ない(パラタクシス的他者認知とそれに基づく行動は継続されている)。
いったんは「思い込み」でいいわけです。とりあえずの「仮説」を立て、それを自分でとりあえず信じてみることなしで、人は足を地面に蹴って動き出すことはできない。その思い込みを、必要に応じて検証する以上のことはできない。
むしろ、他者や世界について、適当に思い込んでいるからこそ、その人の自我は保たれているわけです。
完全に「誤解を解こう」と強迫的になっても、お互いに消耗するストレスを増やすことになります。そもそも人は、自分の気持ちについて完全に「わかっている」わけではないですから、極度に「誤解を解く」ことにこだわれば、蟻地獄にはまるしかないでしょう。
時には、相手が自分を誤解したままであることをある程度引き受けねばならない。
ここぞという場面での、確かな共通理解をピンポイントで形成し、あとは「契約関係」であるかのように割り切るという側面は、親子関係でも、恋人との関係でも必要かと思います。
性的な次元で言えば、自体愛の次元を失うということはない。いや、自体愛の次元が維持されているからこそ、相互的な愛情調整の機能は果たせるわけです。
わかりやすくいえば、オナニーを卒業する必要はない。自分の身体を自分で愛おしみ、慰める能力とその感度をベースラインの物差しとしないで、お互いに性的に満足させあうコミュニケ―ションなど不可能ということになります。
そういう意味では、交際相手が実は今もオナニーをしていることを知り、失望するなど、もっての他ということになりますね。
人間は年齢と共に身体状態は変化します。しかし老化というマイナスだけではなく、いったん身につけた身体能力は更に変化し、成長していき、個体の中だけでも、多様性のある形に更にブラッシュアップされ、再統合されていくのは、スポーツのトレーニングでも実感できるかと思います(運動スタイルの変化、ということが自然と生じることはありますよね)。それが身体的な成熟を重ねるということです。これは終わりなきプロセスです。
これは個体単独の中でも進行します。もちろん他者との相互性の中で、更に成長し、促進できるわけですが。
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恐らく、通常の、サリヴァンの理論についての教科書的叙述では踏み込まないでいることもかなり書いたかと思います。
そこには、私なりの理解と、そこから発展した私自身の思想というものもかなり含まれているかと思いますので、皆さん自身がサリヴァンの本自体をご自身なりに読み解こうとし、ここで私が書いたことと照らし合わせて下さる方が、サリヴァン自身の主張と、私のオリジナルの発想の識別はできるかと思います。
ただ、いわゆる「教科書的叙述」は、原典の持つ持ち味の、現場臨床に役立つセンスとなる、一番鮮烈で深く含蓄あところに触れることをむしろ妨げ、表面的にしか読まなくなることに貢献するとしか、私は思っていません。
正直、良質の教科書的叙述に出会うことは稀です。原著者の意図を無視し、教科書的叙述をする人の、つまらない「常識」に置き換わっていることがいかに多いことか。
それなら、最初はとっつき悪そうでも、いきなり原典に挑む方が、よほど実りが多いでしょう。
これは特に、心理療法という、レジェンド療法家の人間臭さや個性に依存している側面が大きい、アート的な面がなくなることはない「技能(skill。techniqueに非ず)」の自分なりの習得には、避けて通れないことかと思います。
エビデンス、エビデンスとこだわる療法自体、実はその療法の開発者のクリエイティヴィティと個性によってはじめて編み出されとものであることが少なくないですし。
敢えて言いますが、私は、心理専門家の「ザク量産」は目指していません。
別にアムロのようなニュータイプ・パイロットになれとは言いません。
(皆さんにとって、私はそういうニュータイプ的存在に見えるかもしれません。別に己惚れるつもりはありませんが、他人には時にはそう見えてしまうらしいことに私は戸惑うだけです。私は自分なりに「普通の」ことを自分なりのそんなに根を詰めた勉強をしたわけでもない次元での、ささやかな創意工夫でしているだけです)。
でも、「平凡」は一歩抜け出して、技能を「自分に引き付けて」ちょっとだけカスタマイズできる程度にはなって欲しいですね。
敢えていいますが、「オリジナリティ」を追求しようなどという欲は待たない方がいいです。
「オリジナリティ」など、先行論文とは違う「業績」を示すための「虚構」に過ぎないと思います。
「オリジナリティ」=単なる自己愛的な幻想、とくらいに思っておく方が。
私のやっていることだって、実はすべて元ネタがあります。その組み合わせと、ちょっとしたカスタマイズに過ぎません。
決して万能にはなれないですし、一定の範囲での、そこそこ得意分野ができる程度にしか、たいていの人はならないでしょう。
私もその程度の存在だと思いますが。
