宮崎駿監督は、なぜ「君たちはどう生きるか」で事前の宣伝をやめてしまい、受賞後に本格的記者会見もしなかったのか?
※以下のコンテンツは、
のコメントとして私が自己レスしたものをコピペし、多少増補したものです。
******
宮崎さんも、自分の語った言葉だけで、それにあてはめて、自分の作品が理解されていくことを、むしろ物足りなく思っていたはずだ。
言葉でなくて「映像」で伝えたくなったことの意味を忘れるべきではない。
言葉で伝えれば済むことだったら、宮崎さんは教育者か政治家になればいいのであって、映像作品から「読み取って」もらうなどという、まどろっこしいことをする必要はない。
だから、宮崎さんは、自分の作品について「言葉」で語ることを次第に空しく感じ始め、記者会見も避けるようになったのだろう。
「君たちはどう生きるか」については、ついに事前の宣伝をゼロにした。
アカデミー賞受賞後ですら、非常に簡単な記者会見で済ませた。
映像それ自体を身体で虚心に「味わう」なかから、観客ひとりひとりが、自分なりの、作品を体験した「意味」を探りだすことを、最終的には求めたのだと思う。
だから、作り手は、観客からの、新鮮で、思いもよらない理解を受け取れることをむしろ歓迎している。
言葉で表現し尽せない「何か」があるからこそ、「映像体験」をする意味があるのだ。
作り手自身が、作品作りの中で自問自答していく、終わりのないプロセス中に居て、できつつある(”ing")作品と「対話」しながら、果てしのない修正をしていくプロセスの渦中にいるのであり、自分自身の作品が特定の意味付けに還元できないことに実は気づいていることが多いはずだ。
映像作品とは、作った作品への、作者自身に可能な「意味づけ」を「超えて」いる"something"。作者自身、そのことに気づいている。
ましてや、宮崎さんが、作品作りを本格的に始める前に書いた「企画書」など、ただの「設計図」段階での発言だ。
作品と「対話」し作品を完成させた時、宮崎さんの「体験過程(experiencing)」ははるか先まで進んでいたはずではないか?
作品への「取りあえずの」、暫定的な意味づけすら、はるかに深化していたはずだ。
そして、それが、監督自身にとってすら、完成後も、「終わりなき」探求になることも。
恐らくこの論文単独で理解できる人は限られているとは思うけれども、一言でいえば、人間は、言語化可能なはっきりした「意味」という記号化された世界でものごとを「体験」し、理解しているわけではなく、「身体で感じた」実感という、複雑で曖昧な漠然とした「感覚」の次元で体験し、行動している。
個人が、そこから読み取る「意味」というのは各人異なるし、実は無限に展開できる、終わりのない、弁証法的な「プロセス」(過程)として進行していく、”ing"。
それを特定の「意味」として言語化しておしまいということは実はない。
そのことをわきまえていないと、作品批評は、結局作り手が「とりあえず」言語化「してみた」言葉に支配されてしまう。
"Life is Prosess."
・・・・映画「アルタード・ステーツ」、主人公の最後のセリフ
