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私はスパイの孫。「闇の世界」の住人の系譜に生きてきた、何でもあり人間!!

すでに何回か紹介してきたが、私の祖父は、満州国の高等教育機関(師範学校等)の視察をする「視学」という職務をしていた。

それについての著作も残している。五族協和を心から信じ、理想の実現を夢見ていたことがうかがえるが、これが建前のものとは感じさせない傾倒を感じた。

こうやって満州中を視察で飛び回るのが祖父の仕事だから、私の父は、祖父と接する機会に乏しく、祖父がどういう仕事をしているのか、わけがわからなかったようだ。

ただ、時々の休みに、よく、南満州鉄道のハルピン駅に連れて行ってもらい、有名な超特急亜細亜號の出入りをまんじりともせず一緒に眺めていた記憶はあるいう。

これが代々受け継がれる「鉄ちゃん」の系譜である。

超特急亜細亜號

またハルピン市内を流れる、冬になると凍結した黒竜江で祖父と一緒に繰りかえしてアイススケートをした思い出もあるという。

そのおかげで、私は父から子供の頃にスピードスケートの靴を買い与えられ、久留米のスポガのリンクでアイススケートを学んで滑れていた。

久留米スポガのアイススケートリンク

今の私もたまにだが滑りに行く。

おたくで運動苦手なはずの私が、実はサイクリングをたしなみ、フィットネスジムにも通う、意外なまでのスポーツマンという隠し技を持つルーツはこのへんにある。

西鉄久留米駅東口におけるメンタルヘルス相談スポット現場の愛機コメット(©️キャプテン・フューチャー)の勇姿
スポガ久留米内のバッティングセンターでホームラン次々かっ飛ばす私もたまにいたりするわけだ。

ロシアによって開拓された哈爾濱市街はモダンなビル街であった。

哈爾濱は城塞都市であった。

父の家族は、哈爾濱駅から4駅ほど離れた「阿城」という駅のある満州開拓民集落に住んではいたが、祖父たち一家は開拓団民のように農業には従事してはいなかった。ちょっと特別な家族という扱いだったようである。

哈爾濱市阿城區金上京歷史博物館。
父母は阿城を訪問、この施設も訪れているし、
父の旧宅も増築されつつ現在も住居として使用されていた。
さすが石造りの国、中国である。

父の兄3人はすべて徴兵されており、東京市で生まれた父は、祖父祖母と3人暮らしで、実質ひとりっこのように育っていたことになる。

終戦時に父は哈爾濱旧制中学1年の夏。入試は体育だけだったとのこと(ちなみに父はかなりの運痴)。

敗戦直前、日ソ不可侵条約を破り、ソ連軍の戦車隊が満州内部に侵攻をはじめる。

ソ連軍の戦車による満州侵攻

満州開拓民には日本本土、とりあえず南満州鉄道終点である大連の港に向かうことが関東軍により命令される。

このソ連軍戦車隊からの逃避行の中で数々の悲劇が生じたことはよく知られている。

戦車に轢死した例もあった。またいわゆる「残留孤児」の多くは、この時に生まれた(お金を渡して、子供を中国現地人に預けて行ったのである)。

祖父たちは、開拓民たちと集団で逃避行の一員となった。

南満州鉄道はすでにあちこちで線路が寸断されていた。

実は「脇線」があって、それも基本大連方向に向かっていたわけで、祖父たちは時には徒歩で不通区間を歩き、そうした支線を乗り継ぎ、大連へと向かっていたわけである。

そうした宿営地でのある晩。

祖父は、父に、

「お母さんのところに行っていなさい」

と言い渡す。

しばらくして、銃声。

祖父はピストルのたもとで、帰らぬ人となっていた。

おそらく、祖母も祖父の決意は聞いていたものと思われる。

満州国政府の役人とはいえ、「視学」という民間人がピストル?

・・・要するに、祖父の「おもての顔」は「視学」だが、満州中の高等教育機関の視察は「仕事」の一部に過ぎなかったわけだ。

満州国関連の、さまざまな施設を極秘裏に密偵していた可能性が高いことになる。

旧制の東京大学出身の超エリート(阿世賀家ヘは入り婿)、「視学」となれば、石原莞爾や甘粕正彦とも面識があっておかしくはないだろう。

石原莞爾
甘粕正彦

実は父親の出生地住所を、私は大学に入学した上京後、古地図を集めて探し出すように求められた。父親は3歳で満州に渡ったので、東京市の旧宅の記憶は「近くに坂があった気がする」くらい。

調査の結果は、近衛文麿邸のすぐそばであった。

近衛文麿

祖父は、五族協和、王道楽土をまじめに信じる関東軍エリートだった可能性はある。関東軍にはそれを侵略であると自覚しているリアリストも少なくなかったろうが、ピュアな理想主義者も結構いたんではないかと思う。

だから、祖父はソ連軍の侵入、満州国・関東軍の崩壊という現実に直面して、アイデンティティ崩壊をおこし絶望して自死に至った可能性もある。

しかし、もう一つの可能性は・・・「脳内」に蓄えられた「機密情報」がソ連軍に渡らないための「消去」を、崩壊しつつあった関東軍の上層部の誰かから「命令」された可能性である。

すでに述べたように、祖母にも事前に伝えた上で、息子である父を祖母にはっきり託しての、覚悟のピストルと思われるので、こうした「命令」を受けていた可能性も否定できない。

あるいは、この両者の中間・・・つまり、関東軍の意向を「察する」、という、いかにも日本的な自己判断をした可能性もあろうか?

いずれにしても、遺された祖母と父は、大連にたどり着く。

港湾地区の一角に、満州開拓民の避難民は押し込められた。

中国現地側(国民党軍と共産軍、あるいはソ連軍との関係はどうなっていたのかはわからないが)と、避難民をまとめる「旧関東軍」関係者との間で取り決めがあったのだろうと思うが、いずれにしても、避難民全員には、自決用の青酸カリが渡されていた。

この青酸カリは、実際に日本本土引き上げの際に没収されたという。

父と祖母は、許された外出区画で、饅頭売りをしていたという。

父親はこうしたことを、私の小学校の課題だった「あなたのお父さん、お母さんの戦争体験を聴いてきて書いてください」に応じてくれる形で、なんと父自ら、原稿用紙10枚くらいにわたって書いてくれたのであるが(こんなこと、父の生涯、一度切りである)、父はその文の中で、

この時の、乞食同然の、人間最底辺の生活が、その後の自分の糧になったと思っている。

父の作文

と書いていた。

日本人引き上げに用いられた、大連の埠頭

父と祖母の故郷、三井郡北野村への帰還は、唐突であり、在世していた祖母の父は「彦四郎(父の名)たちが帰ってきたぞ!!」と村中にふれてまわったという。

長男である叔父(旧制早稲田大学卒業)はシベリア抑留で、昭和27年にやっと復員。

次男は、中国戦線で「戦死」。

三男は、旧制玉川大学卒、在学中から文芸同人誌活動にのめり込み(冊子が残っていた。この叔父のエッセイが確かに収録)、卒業後も同人誌活動でかろうじて「食べていた」道楽息子だった様子だが、彼も徴兵にとられ、しかも軍隊を脱走、行方不明となる。

経過的に見て、推定戦死、という判定が出て、遺族年金支給の対象となるが、父のライフワークは、この3男の軍脱走後の消息を掴むことだった。

父は中国側に残る資料を含む、膨大な資料を、つてをたどって収集した。

そして、ある文献に出てくる「上海の阿片窟で死去」とされる人物に該当する、という最終判断をする。

・・・私自身が同人誌作家になったわけで、血のなせる業というしかない。

私の中に、軍を逃亡し、中国各地を流浪し、阿片窟で生を終えるような、繊細だが厭世的な退廃的文人の血が流れていることになる。


父は言うまでもなく、知的には非常に恵まれていた。

周囲の親類は、父の高校進学を勧めた。

しかし阿世賀家の「家長」の威厳に満ちた祖母がいた。

この点では、「サマー・ウォーズ」陣内栄おばあちゃんとそっくりの存在感だったといっていい。

陣内栄おばあちゃん in 「サマーウォーズ」

阿世賀家自体がまさに「サマー・ウォーズ」の陣内家そのものであり(武家の出ではないが)、盆正月や親族の誰かの冠婚葬祭となれば、出席者数十名を要する宴会が「本宅」の屋敷で開かれる世界だったわけである。

こういう光景ですね。

今やその当時を知る「生き残り」は、私のいとことなった数名のみ。

今や実家の法事は、ほんの数名のみ参加の寂しいものとなった。

・・・その祖母が、父の進退について、断言したのだ。

「この子だけ、特別扱いはできません」

父は、久留米市役所の小遣いからたたき上げた。

久留米市役所旧庁舎

経理学校に通い、経理のスキルを身に着けた。

市役所非常勤勤務から、税理士事務所職員へ。

そこで知り合った母と同棲関係に入り、現上皇ご夫妻ご成婚の日にあやかり結婚して地方紙に記事となる。

現上皇ご夫妻ご成婚(1959年4月10日)

今上天皇ご生誕の昭和35年、陛下が2月の早生まれだったのに対して9月1日に生まれたのが私、阿世賀浩一郎である。

今上天皇の幼名「浩宮」から一字もらって、「浩一郎」なわけである。

父は、極めて有能かつ勤勉な経理の職人であり、「税理士」の資格自体は最後まで取らなかったが、税務署務め上げて退職した公務員なら税理士の資格もらえるわけで、そういう実は引退した人から名義だけ借りて、自分が筆頭職員となる税理士事務所オフィスを切り盛りした。

その事務所は最終的には久留米市最大の大通りに面し、職員を母以外5名かかえたが、父は実はその5名分より仕事ができたわけで、確定申告の迫る新年迎えた1月から3月はじめにかけては、オフィスに簡易ベッドで泊まり込み、徹夜を重ねて、久留米市で一番顧客の多い税理士事務所を切り盛りした。

この写真に写っている左から2件めの1階が父の切り盛りした税理士事務所オフィスの場所だった。

父の頭の回転はすさまじいものがあった。

親戚内部の対人関係相関図顧客の経営状況について、驚くべきCPUスペックで、一瞬で推理「完成」

その多角的で多面的、立体的な分析を食卓で母にとうとうと物語るわけだが、それは「壮観」とっていい、リアリズムに満ちた人間心理分析の対人関係相関図と、そこに作用している法則の分析だった。

父は当然心理学など学んではいない。

すべてが、カントのいう意味での「世間知」の産物。

甘いも酸いも嚙み分けた。

父は、
その分析を「仮説」として、
そうした親戚の人間関係や顧客の経営に、
実際に進んで「介入」するわけである!!

父のトラブルシューティングぶりは、
たいていの場合、効果的であり、
親戚や顧客からは感謝されていた。

ただし、父のとる対策は、ある意味で独創的過ぎた。

つまり、父というトラブルシューター請負人の固有の特性に依存し過ぎていた。

父が継続的にフォローしなければ、有効に機能しない。

この限界ゆえに、父の対策が結果的に裏目に出ることもあったことを、父は苦しんでいた。

例えば、親戚の反対の中で、若いカップルの大恋愛。

父はなんとその交際相手の男性の今の職場(料理屋)を客として隠密で視察。

交際相手の人柄を「吉」、料理屋の経営者に「ダメ出し」評価すると、住み込みだった彼をまずは我が家に住まわせた。

もちろん、すぐにアパートを借りてやるわけだが、何と彼を、税理士事務所の顧客だった「老舗料亭」にコネで修行に送り出した!

こうして料理人としての実力をつけさせたことで、親戚一同を納得させ、カップルはめでたくゴールイン(当然、私の両親が仲人)。

その2人が独立して店を営むまで全面サポート、店備え付けのマッチのデザインにまで協力した(ある時期まで実家にはその時制作したマッチがごろごろしていた)。

しかし、残念ながら、そのふたりの経営的才覚までは育てられなかったわけである。

半官半民施設での開業だったので、負債は大きくはならなかったが。

・・・あの、

こういう父親の息子が私、


ということは忘れないでね。

父親の、
「面倒見すぎの弊害」を、
目の当たりにして育った
のが
なわけです!!


父の「税理士事務所職員」稼業を見ていて気付いたのは、

税理士とは、
正直に申告「できない」顧客のために存在する


という歴然たる現実でした。

別に「脱税」したいわけではない。

経営や会計管理があまりにどんぶり勘定で、税についての知識もない放漫経営者だらけなわけで、まともな元帳すら提出せず、ひどい時にはレシートの束を持ってくるのみ。

そういう不良顧客の「全面尻拭い」を回避せず引き受けたからこそ、父のオフィスは繁盛したのだ。

帳簿から申告書まで、ほぼ全部虚構のフィクションという領域に突入する。

突如、

「調査」


という言葉が、食卓の頭上の父母の間で交わされる。

言うまでもない。

申告内容が「怪しい」と判断した企業への、
税務署からの緊急査察への日程予告が出た、
ということ。

父母は明らかに、
非常事態モードに切り替えて活動を開始するのだが、
それはあわてているというより、

ここぞとばかりに生き生きしている。


だから、

こういう家系

私が育ったということお忘れなく。

「スパイ」を祖父、

親類縁者や顧客のかかえた問題の、

リアスティックな、
何でも総動員のトラブルシューター、

かつ、

「脱税追徴金逃れ」の策士

が父です。


ようするに、

物事の解決のためなら、
非合法すれすれ、何でもあり、


血の継承者であり、

犯罪として裁かれないのは、
そのラインまでかな?

確かめないままで、

「それは常識的な決まりだから守る」

というだけでは、

現実

は見えてこないと確信している、

徹底的な経験論者、リアリスト

の血をもろに受けています。

ある意味では、

革命動乱期の活動家的な開き直り

があるとも言えますね!!


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