日本は突き詰めすぎない。だから息ができる。脱北者ならぬ脱米者タントリス
さて、昨日に引き続いて、今日も『リベラル地獄・アメリカ』の話。
アメリカでの地獄(彼自身の生い立ち)に始まり、フランスの品を保ちつつ疲れ切った諦念を語り、いよいよ日本での暮らしと、日本で何を感じたかを語る。
下北沢にさえも、政治やイデオロギーがあらゆる日常的接触を植民地化する必要はないという、暗黙の了解があるんです。だから、過激な歌詞も、破調のギターも、みんな「音楽」として聞いている…
下北沢といえば、ライブハウスと演劇の街。若者の街だ。昼間歩けば古着屋が多いかな?ぐらいの普通の街だけど、きっと夜のライブハウスは喧騒と混沌の濃い街なのでは、と想像する。だけど、「政治やイデオロギーがあらゆる日常的接触を植民地化する」ってのは意味不明だ。日本人にとっては。これと下北沢とどう関係があるの??
彼はシモキタの小さなステージでギターを演奏する。米国のパンクシーンにそれなりに身を置いてきた彼は、「僕は身構えていました。激しい議論。鋭い質問。帝国主義からギターペダルを使う意味に至るまで、あらゆる立場について問われる覚悟をしていました」p259。つまりね、米国のライブハウスで演奏するってのは、激しい議論に巻き込まれ、政治的立場を問われることに直結している。ちょっとしたギターの演奏も、それが政治色を帯びてしまうってことらしい。政治的表現としてのギター演奏。冗談でしょ?いや、冗談ではない。そこから議論が始まり、白黒つけたがり、自分の立場が守れなければ「負け確定」となってしまう。多分、議論で負けてしまえば、そのライブハウスで共感・共鳴を得ることはできなくなり、次のライブには「おことわり」となってしまうのだろう。そう、つまりあらゆる日常的接触が政治やイデオロギー色を帯びることになる。政治やイデオロギーが日常的な活動・表現を乗っ取る=植民地化するってこと。息苦しくない??そう、だからタントリスは米国から亡命してきた脱米者のようなもの、なのだ。
もちろんこれはタントリスの感受性で、受け取り方。極端な意見かもしれない。タントリスの特殊な体験からくるものかもしれない。そこは割り引いて考える必要があるかも、だけど…。
とにかくシモキタでの現実は米国でのものと違った。「人が来る。聴く。うなづく。拍手する。時に微笑んで「すごかった」「ギターが好きだ」と言い、帰っていく」p259。「尋問されない。思想による仕分けもない。コード進行から僕の政治思想を解読しようとする試みもない」p260。それがタントリスには新鮮だった。信じられなかった。自分の音楽には欠点があるのでは、とも思った。
もぎせか氏がいう。「(音楽を)楽しみに来ているのであって、主張しにきているのではないからなぁ…」p260。音楽を演奏し、音楽を聴く楽しみが、楽しみとして純粋に味わえる日本。それこそが心の自由なんじゃないんすかね??
そのほかにも、米国や欧州で暮らす上での、日常的な緊張感などが生々しく描かれている。そして、その対比として、日本ではいかに楽に息ができるか、も。
本書にはもっともっとたくさんの事例と分析と洞察と、それから崩れてしまった米国の現実の痛みと、それに巻き込まれざるを得なかった青年への静かな共感がある。
もぎせか先生の寄り添い方が秀逸。時にはカウンセラーのようであり、時には日本文化の解説者であり…。正直で、年齢差はあるけど対等感があるんだよね。なんかね、こういうお父さんっていいな〜って思っちゃう。どうだろ!?(いや、私ともぎせか先生は同年代…🤣🤣🤣)。
改めて。
amazonの本書の紹介はセンセーショナル。だけど、本書を読めば、決して大袈裟ではないとわかる。ただ、感じやすくて、正直な若者が決定的に傷ついたんだ。ポリコレに染まった大学の中で。いえ、それまでの生い立ちも、友人たちも(彼らの絶望も)、読み応え抜群です!
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