小説 境界師の夜『新月の夜、学校に行くと“境界が消える”』

第一夜
来てくれると思ってた……
もしもあなたが来てくれたら、この恋は終わりにするつもりだった。
待っているあいだ、何度も考えたよ。
断られるのか、それとも、曖昧に笑われるのか。
どっちでもよかった。
ちゃんと終わるなら、それでよかった。
でも、来なかった。
だから私は、選ばれなかった方に行くしかなかった。
---------------
新月の夜、学校に女性の姿が現れる。
生徒たちの間でにわかに噂が広まった。——僕はそれを確かめに行った。
あの日、彼女の呼び出しに応じなかったことと、何か関係がある気がしていた。
失踪した同級生は、まだ校舎のどこかにいるのかもしれない。そんな馬鹿げた妄想が頭をよぎる。
フェンスの切れ目は、昔のままだった。
在校生としてこの学校に通っていた頃から何度も見ていたはずなのに、そこをくぐるのは初めてだった。
夜の校舎は、音が少ない。
風も、虫も、遠くの車の音も、どこか遠慮しているみたいに薄い。
それでも、廊下に入った瞬間、確かに“何かがある”と分かる。いや、気配と言えばいいのか、
窓から、細い月光が何本も差し込んでいる。
床に白い線を引いたみたいに、まっすぐ伸びていた。
その一本の中に、彼女はいた。
最初は、肩だけだった。
次に、頬の輪郭。
光に触れている部分だけが、順番に浮かび上がる。
月光に照らされた部分だけが可視化されていた。なんとも幻想的な美しさだった。
「……来たんだ」
声は変わっていなかった。
やはり、あの子なのか。
近づくと、光の帯の中で彼女の姿が揃っていく。
制服も、髪も、表情も——あの頃のまま。
「どうして」
口に出したのは、それだけだった。
彼女は少しだけ首を傾ける。
「来てくれなかったでしょ」
責めるでもなく、ただ確認するように言う。
言葉が返せない。
「だから、私、こっちに来たの」
軽い口調だった。
まるで、帰り道を選ぶみたいに。
「戻れないのか」
「戻らない」
間を置かずに、言い切る。
あの夜。
校舎裏で待っている、と送られてきたメッセージ。
きっと告白されると思った。
だから行かなかった。
断るのも、受け入れるのも、面倒だったから。
何も選ばなければ、何も変わらないと思っていた。
「ねえ」
彼女が一歩、光の外に出る。
その瞬間、月の光から出た部分。
腕が消える。
「やめろ」
思わず言うと、彼女はまた光の中に戻る。
「全部はいられないんだよ、こっちだと」
自分の手を見下ろしながら、言う。
「どっちにもね」
それから何度も、僕はここに来た。
月のある夜だけ、彼女は現れる。
光の中に、少しずつ。
話す内容は変わらない。
変わるのは、距離だけだった。
近づくたびに、彼女ははっきりする。
同時に、廊下の奥が暗くなる。
最初は気のせいだと思った。
でもある夜、気づいた。
自分の影が、光の中に入っても、完全には出てこない。
「今夜で何度目」
彼女が聞く。
「覚えてない」
「そう」
それ以上、何も言わない。
昼間、職員室の前で、見覚えのない子に声をかけられた。
制服が違う。
名札もない。
「お前、」
そう呼ばれたことに、驚いた。
「教師に向けてその言葉使いは……」
その子は僕の言葉など聞く素振りもせず言う。
「夜の学校、気をつけて」
「……何のことだ」
「何度も行くと、あちらに落ちるよ」
無表情なまま、口元だけが少し動いた。
「こちらに戻れなくなる」
その言い方に、妙な既視感があった。
「待ちなさい。君はどこの生徒だ」
返事はなかった。
代わりに、静かな声が落ちる。
「境界師」
間を置いて、
「名はない」
問いかけた時には、もういなかった。
そして、新月が来た。
月はない。
なのに、校舎はいつもより明るかった。
光がないはずなのに、廊下の輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。
すべての輪郭が、曖昧だった。
彼女は、最初からそこにいた。
今までみたいに、断片じゃない。
最初から、全身が見える。
「来ちゃったんだ」
困ったように笑う。
「今日は、やめた方がよかったのに」
「分かってる」
それでも、足は止まらなかった。
「戻って来れないのか」
聞くと、彼女は少しだけ考える。
「できないよ」
それは優しさでも、拒絶でもなかった。
ただの事実だった。
「じゃあ」
言いかけて、言葉が詰まる。
彼女が、手を伸ばす。
触れられた瞬間、温度はなかった。
でも、確かに“掴まれた”。
ひ、引かれる。
廊下の奥へ。
光のない方へ。
足が浮く感覚。
抵抗できない。
助けを呼ぶ声も出せない。
そのとき。
強烈な摩擦音。
足元に、線が引かれる音がした。
振り向くと、あの女子高生が立っていた。
紺のブレザー。
見覚えのない制服。
手には、鞘に収まったままの、日本刀。
柄から鞘まで、組紐で何重にも縛られている。
「その男を離せ」
短く言う。
彼女は答えない。
掴られる力がさら強くなる。
女子高生は刀を抜こうとしない。
そのまま、床に鞘を当てる。
そして真横に向けてゆっくりと引く。
何もないはずの床に、細い線が浮かび上がった。
光とも影とも違う、曖昧な線。
「これは切るための刀じゃない」
静かな声。
「こちらと、あちらを分けるためのもの」
線は、僕の足元で止まる。
「お前」
女子高生がこちらを見る。
「もうずいぶん、体があちら側にあるな」
言い切る。
「何度来た」
答えられない。
「……もう手遅れかもしれない」
その時、日本刀に絡みついていた組紐がほどけた。
音もなく、自然に。
女子高生は、わずかに目を細める。
「……許しが出た」
誰のものかは言わない。
ゆっくりと鞘から刀を抜く。
音はしない。
ただ、空気が一度だけ揺れる。
次の瞬間。
閃光が走ったと思えば掴まれていた手の感触が、消えた。
彼女の姿も、同時にほどける。
光でも影でもない何かになって、廊下の奥に流れていく。
膝から力が抜ける。
床に手をつく。
呼吸だけがやけに大きい。
女子高生は刀を鞘に戻す。
再び、生き物のように組紐が巻きつく。
「お前から約束を違えたのか」
小さく呟く。
それから、僕を見る。
「化け物は、お前の方だ」
否定できない。
女子高生はそれ以上何も言わず、廊下の先へ歩いていく。
やがて暗がりに溶けて、見えなくなった。
翌朝、校舎はいつも通りだった。
光も、音も、現実のまま。
夜の学校で女の姿を見たという噂は、それきり消えた。
誰も話さなくなった。
ただ、新月の次の夜。
廊下の同じ場所に、細い線だけが残っていた。
踏み越えられるほど、細いのに。
どうしても、越えてはいけない気がした。
次回
境界師の夜 第二夜
越えてはいけない境界がある。
それでも人は、後悔とともに何度でもその線の前に立ってしまう。
境界師の夜
全話はこちらから
どこか不思議な世界観が好きな方へ、こんな話も書いています。
前世と来世の“因果”に縛られたふたりが、奇妙な共同生活を始める。
運命や過去に理由を求めていた彼らは、やがて「今」を生きる選択に辿り着く。
不器用な再生の先で、自分の背中を自分で押せるようになる物語。
