山背(京都)の飛鳥路
【記録◆2025年6月18日】
京都府南部では、数百万年の刻み(甌穴群)を目にすることができます。
『布目川甌穴群』の地名が「飛鳥路」と知って、とても驚きました。
なぜ京都に『飛鳥』が?
『甌穴(おうけつ)』とは、川底の窪みに落ち込んだ小石が、渦流によって回転しながら岩盤を削り取り、数十万年から数百万年かけて深く掘った穴。
ここの岩盤は花崗岩で、きわめて硬いため、その年月が必要なのでした。

奈良の『飛鳥』は、大和盆地の「最南端」あたり。
京都(笠置町)の『飛鳥路』は、奈良の「北端」に触れる所。
ふたつの飛鳥は、50km以上も離れています。
「笠置街道」は奈良の『宇陀』に繋がりますが、「宇陀路」という名でも、おかしいとおもうのです。
「大和路」でさえ、県境からは、「伊勢路」になるのですから。
それに、奈良の飛鳥にも、「飛鳥路」という地名はありません。
街を走りたくないので、大和盆地から早めに山間へ入りました。制限速度30kmの所があり、時速10km台まで落とさなければ進めない道もあって、盆地中央を通れば近い「奈良県北端」が、遥かに遠い国境のよう。
(でも、そういう道には信号が無いから、わたしには快いのです。)
途中で、『丹生』という地名にも驚かされました。
まるで「飛び地」のように、辰砂の産地から離れた所に現れたため。
辰砂(シンシャ)は古来、「丹」と呼ばれた鉱物で、産地だった所には「丹生(にう)」「入(にゅう)」といった名が残っています。
しかし、丹生の女神「丹生都比売」を祀るのは、「大和(奈良)」では、
以下の『丹生明神社』だけのよう。
「宇陀市榛原雨師」の『丹生神社』には参拝しました[以下の記事]。
「宇陀市菟田野入谷」の『丹生神社』にも、すぐ傍まで行っています。
以下の記事で、『神御子美牟須比命神社』の次に向かったのですが、道が細かったため、車で行くのを諦めたのでした。
「吉野郡吉野町六田」の『丹生神社』にも、すぐ傍までは行っています。
おもったより時間がかかったため通り過ぎたのでした[以下の記事]。
大和の『丹生神社』は全て、御祭神が「丹生都比売」ではありません。
(最近、消された女神は隠されたのだ、とおもうようになりましたが。)
そして、どの『丹生神社』も、行きやすい場所にはありません。
ところが、行く手に現れた「丹生」は、住所が「奈良市」。
そういえば、ずっと前、大和で「丹生都比売」は消されているのに、
「奈良市に丹生神社がある」というのを、ふしぎにおもったのでした。
それが、いま走っている「奈良市丹生町」の『丹生神社』だったのです。
「車椅子では行けない場所」を巡りはじめた頃、「消された歴史」は山間に隠されている、と気づきました。
(正史から消された「瀬織津姫」を御祭神とする神社もあります。)
それなのに、なぜ「奈良市」に「丹生神社」が存在し得るのか?
答えは現地で判りました。奈良市も平野部だけではないのだと。
そこは、海抜346m。
「平城京」との間に、500mを超える山々が連なっていたのでした。
では、この先にある「京都の飛鳥路」も、道であったなら反対の端は、「藤原京」や「飛鳥京」ではなかったのかも。
奈良の「奥飛鳥」も、わたしが入り込んだ所は海抜442m。
その地名は、入谷(にゅうだに)。「入」は「丹生」です。
[奥飛鳥については、以下の記事。]
「宇陀」は大和盆地から遠くないのに、『宇陀川』は、盆地を流れません。
それで、『宇陀川』の川面を見ると、「逆に流れている」と錯覚します。
その流れは、海とは反対側の山々に向かうのです。
だから、古代人は、「海へ向かう川」と「山へ向かう川」の間を歩いて、遠くへ行けたのかも。
橋や舟が無くても、山々の「源流」にさえ、行く手を遮られないで。
「大和盆地」は、「大和川」が地滑りで塞がるたび、湖と化したようです。
[地滑りについては、上の記事。]
「大和川」を水が滞りなく流れているときでさえ、平野部は、橋のない川に陸路を分断されていました[以下の記事]。
しかし、山間では、『丹生神社(宇陀市榛原雨師)』辺りから、川は東へ向かいますし、神社の背後の山の向こうでは、川は西へ向かいます。
「東へ向かう川」と「西へ向かう川」の間を古代人は歩いたのでしょうか?
両脚に障害があるわたしでも、源流の近くなら向こう岸へ渡れるので。
いえ、山間だと、源流から離れても、川幅が狭い所はたくさんあります。
「まったく川の無い所」だけを選ぶ必要は無かったでしょう。
それでも、荷を負って進むなら、濡れた所を避けたほうが安全。
両脚に障害があるわたしでも、尾根道なら速く進めますから。
[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]
「大和(奈良)」の丹生神社は全て、山の向こうか、川の向こう。平野部に無いため、近くまで行っても何社かには、辿り着くのを断念しています。
それで、「布目川甌穴群に行ってから、余力があれば行ってみよう」と、今回もおもうのでした。
◇◇布目川甌穴群(ぬのめがわ おうけつぐん)◇◇

川原に下りられそうな所がありました。
かつては橋が架けられていたのかも?

数十万年かけて刻まれたのが、小さい甌穴。
数百万年かけて刻まれた甌穴は、どこでしょう?

この景色の向こう側へ行きたいので、いったん川原から道に戻ります。
帰宅後に写真を見て気づいたのですが、川底の窪みは写っていました。



ここからだと、一望できるでしょうか?

見分けられるようになってきました。

水が溜まっている所は、すべて甌穴です。



甌穴の縁に立ってみたいけれど、下りられる所は無さそう。
そう考えて川沿いの道に戻ったら、少し先に、隠れた小道がありました。






ここは、布目川が『木津川』と合流する手前。
滑らない岩だけど、二本杖で歩く車椅子ユーザーは、先には行きません。

川沿いの道は木陰なので、涼しい風が吹いています。
広い『木津川』の豊かな水が、急かされるように流れる場所で、
「1800年前の舟の速さ」を視ました。
「磯城王家」の「オオヒコ」が「伊賀(三重県)」から「三島(大阪)」へ舟で向かうのを………
同じ頃、「登美家」の当主「建津乃身(タテツノミ)」は、木津川周辺に移り住み、大和に侵入した九州勢から攻撃をあまり加えられていないよう。
「登美家」は「賀茂家」(カモは神)とも呼ばれたので、この地は「加茂」という名になりました[登美家については、以下の記事]。
オオヒコは次の大王となる身だったためか、木津川流域という水上交通の要を支配していたためか、執拗に追い回されていますが、海へ向かう流れに乗って(または遡上して)軽々と各地を巡っていった、と感じるのです。
「紀の川」の河口で九州勢をいったんは退け、次は勝てないと判断した後、「伊賀」に移り住み、そこも攻められたので「三島」に移り住み、さらに、「野洲(滋賀県)」にも移り住んで、新王国を創っています。
「オオヒコ」については、以下の記事。
もっと古い時代には、ひとは定住しなかった、と聞きました。
住めなくなると、その地を離れて他所に移り住んだそうです。
どの土地も、現代では所有者がいるため、川原の小石も拾ってはいけないということになっていますが、かつては、誰の所有でもないのでした。
宇陀川は奈良の東を大回りして木津川へ向かい、淀川となって大阪湾へ。舟は、大阪ではなく京都へ向けると、琵琶湖を通って日本海に出られます。
オオヒコは、川と海を渡って風のように、どこへでも行けたのでした。
(島根の出雲王家にも、加勢を求めに行っています。)
1800年という時間の隔たりがなければ、わたしは水際で、オオヒコの舟とすれ違ったのです。
◇◇丹生神社(奈良市丹生町)◇◇
「まつろわぬ民」は、大和を去るとき、舟がなければ尾根道を歩いたのか、と考えます。
「山背(やましろ)」とは京都南部の地域名ですが、わたしは尊称のように感じるのです。山の背後に、失われないよう奪われないよう、大切なものが隠された………という気がして。
大和盆地も、山々の背後に古い神々の名が隠されています。
それが、新文明の背骨となるのかもしれません。




ここにも、涼しい風が吹いていました。
(帰宅後の室温は、34度を超えていたのですが。)
