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飛鳥の神の名

【記録◆2025年6月6日】

 大和盆地という「室(むろ)」に満ちているのは、
『事代主(コトシロヌシ)』の慈愛であるように、わたしは感じます。

【笑顔がすばらしかったから、『笑みす(えびす)』と呼ばれた】
という伝承からも、「この地を祟りで覆った」とは考えられません。

『美保の崎』で攫われ、『粟島』の窟(むろ)で命が失われていく間も、
「温かい光に満ちていた国土が、この時から侵食されていく」と観取し、
「此処からではないように」と、祈りを遺したのでは……………

 わたし自身も、悪意によって身が損なわれたとき、「面識のない相手から一瞬で憎悪を向けられた理由」を推測し、他者のうちにある原因は自分にはどうにもできないと考えて、「ひとは哀しい」とおもうだけでした。

「六歳のときにも下校の解散場所で、知らない子から憎しみをこめて執拗にアンタなんか死ーーーーと言われ続けた」と思い出して、血の通った誰かを「自分の中の記号」に変えれば何かに復讐できると考えるのが哀しい、と。

 当時の状況は、以下の記事に書いています。

 妬まれる理由は、事実と異なる(むしろ正反対である)場合がほとんど。
 わたしの場合、生い立ちを語るだけで、相手が妬みを憐れみに変えます。

 愛された『笑みす』でさえ、居なければいいと望む者がひとりでもいたら命を奪われるのだから、面識のない相手の殺意は前世の自分が養った、とは考えなくてもいいでしょう。

 罪悪感も恨みも覚えず、身体から大量の血が流れ出ていく間、わたしは、
「生きられるのなら(周りは諦めていたけれど)、わが子を見守りたい」と考えていました。

 だから、「命が枯れ果てる瞬間まで、事代主も愛し続けたのではないか」と想像するのです。


◇◇加夜奈留美命(かやなるみのみこと)神社◇◇

 愛された記憶を載せた遺伝子が、わたしの身にも織り込まれているのか、事代主の子「クシヒカタ」が居た場所に立つと、なぜか涙があふれます。
『鴨都波遺跡』でも、『神坐日向(みわにますひむかい)神社』でも。

『鴨都波遺跡』については、上の記事内。
『神坐日向神社』については、以下の記事内。

 事代主の妃「活玉依姫」の子が、大和に最初の王国を造ったクシヒカタ。
 事代主の妃「沼川姫」の娘が、『美保(島根)』に残ったミホススミ。
 事代主の后「鳥耳姫」の息子が、九代目の大名持となった「鳥鳴海」。

 ミホススミは女神なのか男神なのか判らなくなっている、という情報を、以下の記事に書きました。

「鳥鳴海(トリナルミ)」も、大和(奈良)では、女神にされています。

 鳥鳴海の別名「加夜奈留美(カヤナルミ)」という美しい文字によって、性別を推測されてしまったため。

 最近、古代の女性名は「ミ」で終わる、という話を聞きましたが、そこになにか隠されているのでしょうか?
「鳥鳴海」の父「事代主」の名も「八重波津身」です(事代主は贈り名)。

加夜奈留美命という文字

 出雲王国は二王制で、主王は「大名持」、副王は「少名彦」と呼ばれ、
東王家と西王家の当主のうち、年長者が大名持になりました。

 八代目大名持(主王)と、八代目少名彦(副王)の行方が判らなくなり、ひと月ほど後に発見されるまで、また、主王と副王が同時に命を奪われたと判ってからも、「鳥鳴海」の責務は、どれほどだったか…………

 それは、これまでの大名持(オオナモチ)が負ったことのない荷でした。

 ひとが健やかに日々を過ごせたら、命の終わりを先に迎えるのは年長者。 
 東西王家が大名持になる順番はそれまで、時の流れに従っていました。

 では、なぜ、この時でさえ西出雲王家の次が東出雲王家になったのか、と不思議におもうのです。

 西王家の当主は、東王家の「鳥鳴海」より年少だったのでしょうか?

 系図をみると、八代目大名持の子は「味鋤高彦(アジスキタカヒコ)」。
 クシヒカタを頼って大和に移り住んだタギツヒコは、味鋤高彦の子です。

 タギツヒコは大和で、父「味鋤高彦」を高鴨神社に祀りました。
 西王家の当主となったアジスキタカヒコは、いつ命を終えたのでしょう。

『記紀』には、「亡くなった義弟にそっくりで、その父親でさえ、『息子が生きていた!』と勘違いをした」という奇妙な話が記されています。

『出雲国風土記』には、【この神は、昼も夜も泣いてばかりであったため、高屋を造って梯子をかけ、それを登り降りさせた】という記述があるとか。

 とはいえ、「正史」は出雲神族に好意的ではないから捏造かも。
(沼川姫の子「タケミナカタ」に被せられた話は特に酷い気が…………。)

「沼川姫」の話も、王家の伝承とは大きく異なります[以下の記事]。

「鳥鳴海」の祖母は、田心姫(タゴリヒメ)。
「味鋤高彦」の母は、多岐津姫(タギツヒメ)。

「田心姫」は「多岐津姫」の姉ですが、それでも、東王家当主「鳥鳴海」が西王家当主「味鋤高彦」より年長になるのでしょうか。

「大名持と少名彦の宮は、高床式住居だった」というのを思い出しました。
「彦」は王子を意味するので、短い期間に入れ替わったのかと想像します。

 10代目大名持も、「鳥鳴海」に続いて「東王家」出身だから、その時まで混乱が尾を引いていたのだろうか、と考えもするのです。

[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]

「味鋤高彦」の行方は、大和では、以下の所(記事)までしか追えません。

 正史(記紀)の「大国主」は、八代目大名持「八千矛(ヤチホコ)」。
 そして、「記紀」の大国主は、東西王家をまとめたような家族構成。

 この記事には、王家の親族関係図と異なる部分を書き出しておきます。
[注:気をつけて写しましたが、正確ではないかもしれません。]

〇「記紀」の大国主の妻:田心姫(タゴリヒメ)
  関係図では:事代主の父「冬衣王」の妻で、事代主の母。
 その子:アジスキタカヒコネ[伝承では:味鋤高彦]
  関係図では:八千矛の妻「多岐津姫(タギツヒメ)」の子。
 その娘:シタテルヒメノミコト[伝承では:下照姫]
  関係図では:八千矛の妻「多岐津姫(タギツヒメ)」の子。

〇「記紀」の大国主の妻:多岐都比売命[伝承では:多岐津姫]
 その子:事代主神
  関係図では:事代主の父は「冬衣王」で、母は「田心姫」。

〇「記紀」の大国主の妻:沼河比売[伝承では:沼川姫]
  関係図では、事代主の妻。
 その子:建御名方神[伝承では:建御名方富彦]
  関係図では:事代主が父で、沼川姫が母。

〇「記紀」の大国主の妻:鳥耳神
 その子:鳥鳴海神
  東王家の伝承では:事代主の后「鳥耳姫」の子が「鳥鳴海」。

加夜奈留美命神社

 神となられた「鳥鳴海」に手を合わせ、「ここにいらっしゃるのですか。東西出雲王家の混乱が収まるまで王国を支え抜いてくださって、ありがとうございます」とお礼を申し上げました。

狛犬の親子

 この狛犬が目に入った瞬間、「鳥鳴海も、かなり若かったのでは」という気がしました。
 写真で見た「沼川姫と建御名方の像」に似ていたため。

 幼い「建御名方(タケミナカタ)」にすがられた母親の像が、糸魚川市の『海望公園』に立っているそうです。

後ろ姿も可愛らしい

 クシヒカタも、成長して新王国を造るまでの間、母「活玉依姫」とともに移り住んだ『三島(大阪)』で過ごしています。

「事代主」の王子たちは、力を蓄えつつ時を待つ必要がありました。

 タケミナカタは、母「沼川姫」と『高志』に移り住んだ後、『信濃国』に新王国を創っています。
 出雲神族は、国土の何処に在っても、「創る者」となるのでした。

加夜奈留美命神社の鳥居

 手を合わせたとき、「ここにいらっしゃるのですか」と訊いてみたのは、
『加夜奈留美命神社』の比定地となるまで「龍の神社」だったようなので。

 大和では、「丹生都比売の神社だったのでは」とおもえる場所が「龍神の神社」になっているから、もしかしたら、その前にも歴史があるのでは。

 というのは、ここから奥が「入谷(にゅうだに)」という地名なのです。
「入」は「丹生」なので、たぶん「丹生(辰砂)」の産地だったはず。

 5年前には、行き先を誤って、その谷に迷い込んでいます。
[以下の記事。]

 当時はまだ、「大和(奈良)にも出雲があった」というのを知りません。もちろん、大和が辰砂の産地だったことも、「丹生都比売」という女神も。

 でも、その谷に迷い込む数日前、いまおもうと「鳥鳴海」に繋がるような体験をしています。

 どういう気象現象なのか、遠い山から勢いよく垂直に昇る雲を『飛鳥』で見たのです。「昇り龍……っ」と叫んだほど、見慣れない光景でした。

 その辺りに『加夜奈留美命神社』の「古社地」があるそうです。
 そちらは、比定地ではなく、ほんとうに祀られた場所なのかも。

 昇龍のような雲を見たときは、「みむろ山(三輪山)の方向なのでは」と考えたけれど、いま地図で確認すると、「古社地」が遙拝所のような位置にあります。

 山中だから実際には見えないとしても、「三輪山山頂」「標高326m」と「鳥見山の霊畤遙拝所」を結ぶ線の延長線上に。

「三輪山」を御神体とする『大神神社』の拝殿は、山頂(467m)ではなく「標高326m」辺りを(そちらが重要なのか)拝むようになっています。

『大神神社』の拝殿から山は見えないけれど(樹が多いため)、出雲神族が三輪山を遙拝した『鳥見山』からは、山頂(467m)と「標高326m」辺りが前後に重なって見えます[以下の記事のとおり]。

 鳥鳴海を祀った「古社地」に行けば、目には見えなくても、それらが全て視えるのでしょう。
「鳥鳴海」からも、早くに亡くした父「事代主」を祀った場所が。


◇◇女綱◇◇

 来た道を車で帰っていくとき、「注連縄が巻かれた岩」に気づきました。
 視線を上げると、綱が渡されています。来るときは気づきませんでした。

女綱
説明板

 向こうの端は、まるで女神山のよう。
(古代人は、丸い形の山をみると妊婦を連想したそうです。)

飛鳥川の向こう岸

 飛鳥川が流れる先は、まるで神奈備山のよう。
(出雲王国時代は、蛇のトグロに似た円錐状の山を神奈備山と呼び、信仰の対象としたそうです。)

飛鳥川の下流側

 帰宅後に知ったのですが、「カヤナルミ」を祀った「飛鳥の神奈備」とはどこなのか、いまでは判らなくなっているそうです。


◇◇飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社◇◇

『加夜奈留美命神社』の地図を印刷していて、「多岐」という文字に視線が止まりました。
「あすかかわかみにますうすたきひめのみこと神社」という長い名前です。

「多岐津姫を祀ったのだろうか」とおもったのですが、『宇須多岐比売は、加夜奈留美の母』という記事を読み、「鳥鳴海の母でも祖母でもないし」とおもったら、その記事では、「高照姫」が加夜奈留美にされていました。

「多岐津姫」から名をもらった「タギツヒコ」の行方も追えないのですが、
「高照姫(多岐津姫の娘)」の孫「ムラクモ」が、大和の初代大王となって勢力を増したので、タギツヒコは大和盆地から離れたのでは。

 正史に名が残らない方々は、「龍の血(丹生)」を求めて、中央構造線へ向かったのかも。

「奥飛鳥」よりも、さらに奥へ向かった方々については、以下の記事。

[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]

飛鳥川の透き通った水

『飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社』の階段は200段近い、というから、
「行ける所まで行くのは最後にして、神社の前の飛鳥川に下りてみよう」と楽しみにしていました。

 そして、車道から川に下りていくと…………
「ここに来たことがある」と思い出したのです[以下の記事]。

 前に来たときには、道の反対側に神社があると気づかなかったのでした。(迷い込んだ「入谷」の出入口でも、『加夜奈留美命神社』に気づかず。)

 大和の出雲は、何年も前から招んでくれていたようなのに…………

川底の色

 前には気づかなかったけれど、「飛鳥川」の川底も、岩も赤い。

「丹生族」が古代に採掘をした場所では、「辰砂(シンシャ)」は、地表に残っていないでしょう。この岩の色も、「酸化鉄」に起因するのか?

 しばしば「奥大和」で見かける赤い岩については、以下の記事。

飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の階段

「200段近い」というなら、見えている先にも、まだ続くのでしょう。

 段差は小さいから、T字杖を握った両腕の力だけで上がっていけます。
 絶対に上を見ません。足元から目を離したら、後ろ側に倒れそう。

 医者の診立てによると「とうに機能全廃になっているはずの両脚」なのに神域では動きます(家の階段だと二本杖でも、一階から二階がやっと)。
 脚を骨折した友人も、同じ話をしていました。

『天河大辨財天社(吉野郡天川村)』は、ふたつの地溝線が交差する所で、地から二重螺旋のような形で天へ向かう力があると、どこかで読みました。

「天川村」に限らず、神域には「天へ向かう力」があるのかもしれません。
 肢体不自由のわたしは、目には見えない力に運ばれているのでしょう。

階段のない所は山道

 階段のつづきは、上り坂になった山道。
 暑い日なのに、森を渡ってくる風が涼しくて心地よい。

鳥居からは階段

 ようやく拝殿が見えました。

拝殿

 写真を撮るときは参拝をすませてから、「撮らせてください」と帰り際にお願いしています。

「拝殿」の後ろは丘のよう。本殿は無いようです。

 御神体は山だとおもいますが、瑞垣の向こうの丘で樹々が輪になっている感じがして、『千杉白龍大神』を思い浮かべました。

 丘に並ぶ樹々は大木ではないけれど、拝殿の左側の斜面をのぞきこんで、ここまでの高さに仰天。

 上ってきた斜面とは反対側にも、渓谷の底を水が流れています。飛鳥川の支流なのでしょう。

 仰天したのは、たくさんの樹が、その川岸に根ざしているのに、この丘を越えて天に向かっているため。

 川岸あたりは、焦点が合わなかったのか、きれいに撮れませんでした。
 いま居る所から上を載せます。

 そういえば、水脈と地溝線が出会う所では巨樹になる、というような話をどこかで読みました。

御神体の山?
帰り道

 最後の階段を上から撮ると、踊り場しか写りません。
 ずっと先で、車道も、飛鳥川も、光の海に溶けているのでしょうか。

 横向きになって下ります。いつか、最下段まで辿り着くでしょう。
 そこで石段から足が離れるまで、気を抜きません。