【clum! '95 #26】一瞬の越境
貸切状態に近いバスの中で、夕闇に溶けていく佐賀の田園風景を眺めながら、その「一瞬」を起こしてしまった。
遊園地で一日中遊び倒し、エネルギーを使い果たした俺たち。
バスの車内には、低いエンジン音と、誰かのカセットプレーヤーから漏れる微かな重低音、そして時折窓を叩く秋の風の音だけが響いている。
前方座席で、立夏は、早坂の頭に頭を預けて爆睡している。
早坂もまた、立夏のポニーテールが頬に当たるのをくすぐったそうにしながら、幸せそうな寝息を立てている。

後方座席の窓側に、俺、折館迅、その隣に岡本玲。
岡本も遊び疲れたのか、俺の左肩にこっそりと頭を預け、深い眠りに落ちていた。
俺は、肩にかかる岡本の頭の重みと、彼女の柔らかな髪から漂う石鹸の香りに、何故か心臓が痛いほど波打つのを感じていた。
……なんで、こんなに無防備なんだよ。

岡本の寝顔は、壊れそうなほど儚く、それでいて残酷なほど無垢だった。
俺だけが岡本を「おんなのこ」として意識し始めている。喉が渇く。
一方で、岡本は俺を「双子の兄の親友」として、あるいは「信頼できる仲間」として、疑いもなく隣に置いている。
その違いが、俺の胸の奥にある何かをチリチリと焼き焦がしていた。
数ヶ月前の、まだ岡本を意識し始めた頃の自分なら、ただ隣にいるだけで幸せだったはずなのに。
バスが大きなカーブを曲がり、街灯のオレンジ色の光が規則正しく車内を走り抜ける。
光が岡本の白い頬を照らし、次の瞬間、影が彼女を包む。
その明滅の合間に。

「…………岡本」
俺の掠れた声は、エンジン音にかき消される。
「…………玲」
俺は、誰にも見られていないことを確認して、それからゆっくりと、吸い寄せられるように顔を近づけた。
――触れるか触れないかの速度で、岡本の柔らかい髪の生え際に、唇を重ねた。

「……っ」
何をしてるんだ、俺は!
すぐに顔を離した俺は、自分の心臓の音で岡本が起きてしまうのではないかと思った。
耳の奥が熱くなるのを感じた。
岡本は、小さな吐息を漏らしただけで、幸せそうな夢の中に留まったままだった。
バスが佐賀駅バスセンターに止まるまでの15分間。
俺は、自分が犯した「小さな裏切り」の熱を唇に残したまま、ただじっと前方の座席を見つめていた。
この日、俺は、誰にも言えない、後ろめたい秘密を抱えてしまうこととなった。
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