【clum! '95 #23】お試し、する?

1995年、8月31日。
佐賀の広い空が、燃えるようなオレンジ色から深い紫へと溶け落ちていく夕暮れ時。
新設されたばかりの碧翔学園は、明日から始まる二学期を前に、静まり返っていた。
自主練習を終えたあたし、佐野立夏と、それに付き合った早坂くんは、正門近くの自販機の前で足をとめた。
「……あーあ、終わっちゃうね、夏休み」
あたしは、自分の影が長く伸びたアスファルトを見つめながら、ポツリとつぶやいた。手元には、冷えた「メローイエロー」の缶。
いつもなら「宿題終わってない! 悔しいけど折館くんに写させてもらわなきゃ!」と騒いでいたけれど……今日は、それどころじゃなかった。
「……そうだね。でも、明日からまた毎日、学校で会えるし」
早坂くんは、自分のスクールバッグをぎゅっとつかみ直した。
あたしは、ふと早坂くんの横顔を見た。出会った頃よりもぐんと身長が伸びて、自分に少し近い高さになったことに、今さら気付いた。
早坂くんは、決してあたしの嫌がることはしない。歩く時は少しだけ後ろを歩くし、座る時はこぶし一つ分の距離を空ける。
それは、彼が控えめな性格だからだと思っていたけれど、この夏を通して、あたしはそれが彼なりの「誠実さ」なのだと気づき始めていた。

この子なら、怖くないかもしれない……。
あたしでも、大丈夫かもしれない。
あたしは、早坂くんといても、過去の記憶が引き起こす、あの胸のざわつきを感じなかった。
あたしがどれだけ騒いでも、どれだけ「女子」らしくない振る舞いをしても、早坂くんはただ優しく、そこにいてくれる。
もしかしたら、この子なら。
「ねえ、早坂くん」
「はい?」
「……早坂くんさ、なんであたしなんかに、あんなに一生懸命ボール拭いてくれたり、数学教えてくれたりすんの? あたし、喋るとうるさいし、全然かわいくないじゃん」
早坂くんは驚いたように目を丸くした後、少しだけ困ったように笑った。
「……かわいいですよ。佐野先輩は、すごく。……一生懸命練習してるところも、お菓子を美味しそうに食べるところも。……僕、佐野先輩の隣にいると、自分が少しだけ、強くなれる気がするんです」
その言葉は、あたしの心にまっすぐ届いた。
「……バカ。……あんた、本当にバカね」
あたしは顔が熱くなるのを感じた。
怖い。でも、この心地よさを手放したくない。
あたしは、夕闇の暗さを味方につけて、意を決して言うことにした。
「……じゃあさ。……お試しで、付き合ってみる?」

時間が、完全に止まった。
「え……? ……えええっ!?」
「声が大きい! びっくりするでしょ!」
あたしはいつもの調子で怒鳴っちゃったけど、たぶん耳の先まで真っ赤だ。
「……あの、あたしさ。……人といきなり『恋人』とか、そういうの、よくわかんないし。……ちょっと、いろいろ、苦手なこともあるから。……だから、まずは『お試し』。二学期の間だけとか。……嫌なら、いいけど」
あたしは、制服の襟元をぎゅっと握りしめた。
これがあたしなりの、精一杯。
「……嫌なわけ、ないです! ……僕でいいんですか? 本当に?」
「いいから言ってるの! ……ただし! 手を繋ぐのも、その……あたしがいいって言うまで、待ちなさいよね! 分かった!?」
「はい! ……あ、はいっ!」
「……帰るわよ。送んなさい」
「はい、もちろんです!」

早坂くんは、弾むような足取りで歩き始めた。
あたしはその後ろ姿を見ながら、少しだけ、本当に少しだけ、自分を縛っていた過去の鎖が軽くなったような気がした。
あたしは、この子となら、変わっていけるのかもしれない。
まだ「好き」が何なのかは分からない。
でも。
早坂くんの隣を歩くことは、
もう少しだけ、
続けてみたいと思った。


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