【clum! '95 #69】memento mori.立夏

片道5kmを走り切って、大和町の石井樋に着いた頃、一頼はもうヘトヘトだった。自分のペースじゃなく、あたしに合わせてたから、少しきつかったのかな。
「こっちに休めるところあるから、あと少しだよ。がんばれ、がんばれ!」
「……うぅ、はい……」

休憩場所にたどり着く前に、新しくできたばかりの橋の下を2人で覗き込む。上流なのに茶色く濁った水がごうごうと音を立ててる。
「雨上がりだからかな。すごい音」
「桜の花が全部散ったりしてなくてよかったですね」
「そういえばさ」
あたしは、思い出した話を口にする。

「あたし達がまだ小学生の頃は、この辺り、泳げるようになってて。同じ小学校の男の子が溺れて亡くなったのよ。知ってる子じゃないんだけど……」
「あぁ……聞いたことある気がします。まだ今もここは整備されてるとは言い難いですからね」
「お父さんがね、そのうちここはもっと整備されてきれいになって、もっと安全になるって言ってたわ」
橋を渡ると、石碑があった。

「治水が成功したことを記念しての石碑、なんですね。昔は水害で亡くなる方、すごく多かったんだろうなぁ」
「そうだね」
あたしは、この話の流れでなら言えるかもしれないと、意を決して口を開いた。
「一頼はさ。これまで生きてきて、『本当に死ぬかもしれない』って、思ったこと、ある?」
突拍子もない質問をしてることも知ってる。デート中にする話じゃないこともわかってる。でも、今話したかった。

一頼は笑ったり変な顔をしたりすることなく、こっちを見て話し始めた。
「……うーん、インフルエンザで高熱が出たとか、車に轢かれる一歩手前だったとか、そういう、よくありそうなことなら……」
「……普通はそうだよね。じゃあ、『殺されるかもしれない』って、思ったことは?」
一頼が、息を飲む音が聞こえた。

「……立夏には、あるの?」
あたしは何も答えられずに黙っていた。一頼は、それで何かを察してくれたようだった。代わりの言葉を口にする。
「あのね。お試し期間含めたらもう半年、正式に付き合い出してからは3ヶ月経つでしょ?」
一頼が頷いた。
「あたしの、心の準備ができてからになるけど、あたし、いつか一頼にちゃんと話さなくちゃいけないことがある。
あたしが『普通』の女の子じゃないことを」
一頼が、何となく知っていたみたいにこっちを見ている。
「それは、立夏が話したいことですか?」
「ううん、本当は話したくないこと」
「聞かなくちゃいけないこと?」
「このまま、あたしと付き合ってくれるなら」
「他に、誰が知ってるの?」
「パパとママ、あと、迅……。あ、迅は知りたくはなかったと思うけどさ。家が隣同士だし、家に来ちゃったし。仕方ないんだ。芳彦は、たぶん知らない」
「それは」
一頼が空を仰いで、深く息を吐いた。
「もしかして、立夏が男の人が苦手だったり、手を繋ぐのが怖かったりすることと、関係ありますか?」
そう、関係あるの。苦手なんじゃないの、全部怖いの。
小3のあのときからずっと、あたしは傷付けられた小さな女の子のままで震えてる。
でも、まだ言えない。全部なんて言えない。本当は知られたくない。好きな人だからこそ。
あたしが黙ってると、一頼が息をひとつついて、答えた。
「わかりました。いつか、立夏が話したいって思えるようになったら話してください。それまで、俺も覚悟を決めて、待ちます。
だから、泣かないで」
言われて初めて、自分が泣いてたことを知った。

一頼がジャージのポケットから、小さなハンドタオルを出して、差し出してくれた。
「さっき、少し汗拭いちゃったから、嫌だったら……でも、今これしかなくて」
申し訳なさそうに言い訳する言葉を遮るように、あたしはハンドタオルをひったくって、遠慮なく涙を拭く。
少しだけ一頼の、男の子の汗の匂いがする。でも、何故かそれが嫌じゃなくて、少し安心する。
少しは、あたしも変わってきてるのかな。いつか、変えられるのかな。
今はまだわからないけど。待ってくれる人が隣に今いる。それが全部なんだと思う。
「……よし、涙引っ込んだ! 走って帰るよ! 一頼!! はい、これ返す!」
「ええぇ……」

あたしは、振り返らずに、今度は川下の方へと向かって走り出した。
後ろからついてきている、一頼の気配を少しだけ心強く感じながら。


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