【clum! '96 #46】ファーストキスの定義
1996年、お盆明けの夏休み。
ジリジリとした蝉時雨が響く、岡本家の居間。
冷房の効いた部屋で、テレビからはベタな恋愛ドラマの再放送が流れていた。
画面のヒロインが「私のファーストキス……」と呟いたのをきっかけに、岡本家の居間は、突如として氷点下の修羅場と化した。
「……ちなみに、物理的な接触の時系列で言えば、玲の『ファーストキス』はすでに僕が取得済みだが」
麦茶を飲んでいた樹が、テレビ画面を見つめたまま、極めて平坦な声で言い放った。
向かいに座っていた迅の碧い瞳が、スッと細められます。その場の空気が、一瞬で重く冷え込んだ。
「……は? 樹、お前、今なんつった」
「言葉通りの意味だ。1994年の8月。ちょうど2年前の夏休みだな」
樹は眼鏡を中指で押し上げ、その居間の隅にあるソファを顎でしゃくった。

「玲がそこで昼寝をしていた時、僕が口に直接キスをしたという話だ。あぁ、この話は以前にもしたはずだったな」
「……二度と口にするな!!」
迅がテーブルを蹴り飛ばす勢いで立ち上がり、樹の胸ぐらを掴み上げた。

その恐ろしい形相と殺気に、台所でスイカを切っていた玲が慌てて飛び出してきた。
「ちょっと! なんで二人とも急に喧嘩してるの!?」
「玲!! お前、こいつに寝込みを襲われたんだったな!!」
「えっ!? ね、寝込み……!?」
玲は顔を真っ赤にして、兄と恋人を交互に見比べました。1994年当時、玲自身は完全に熟睡しており、兄の凶行に全く気づいていなかったのだ。知ったのは昨年の11月の大事件の最中。

「……離せ、折館。非論理的な暴力だぞ」
樹は胸ぐらを掴まれたまま、迅を冷ややかに見下ろした。
「大体、君に僕を責める権利があるのか? 君だって、昨年の9月……遊園地帰りのバスの中で、寝ている玲の額にこっそりキスをしていただろう。僕の目は誤魔化せないぞ」
「うっ……」
今度は迅が言葉に詰まった。
「お、俺のは額だ! しかも、玲の寝顔があんまり無防備だったから……」
「結果的に、対象の同意を得ていない接触という点において、僕も君も同罪だ」
「一緒にすんな! 俺はその後の11月! 図書室で、ちゃんと起きてる玲の口にした!!」
迅は開き直ったように、己の所有権を主張するように叫んだ。
それを聞いた瞬間。
玲のお盆に乗っていたスイカの皿が、カチャリと危うい音を立てた。

「……っ、迅くんのバカ!! あれは……『ちゃんと』じゃないもん!」
玲が涙目で抗議の声を上げた。
1995年11月の図書室。あの時、迅は玲の前でどうしても我慢ができなくなり、無理やり彼女を力強く抱きしめて、強引に唇を奪ったのだった。
「あれは……迅くんが強引で、私、びっくりして……ちっとも、心の準備なんてできてなかったし……っ。い、嫌じゃなかったけど……っ!」
顔から火が出るほど赤くなり、スイカを置いて、口元を両手で覆う玲。
迅は「あ……」と気まずそうに視線を逸らし、樹は「……折館。お前、妹に無理やり行為に及んだんだったな。そっちの方が犯罪的だ」と責めた。
「待って、お兄ちゃん!!」
玲が慌てて樹を制し、深く、深く深呼吸をしました。
そして、兄の過保護な視線と、恋人の焦った視線を真っ直ぐに受け止め、少しだけ震える声で、はっきりと宣言した。
「……私のファーストキスは、今年の夏だからね!!」
その言葉に、樹と迅が同時に動きを止めました。
「あのね、お兄ちゃんが寝てる時に勝手にしたのも、迅くんがバスでしたのも、11月に無理やり図書室でしたのも……全部、ノーカウントですっ!」
玲は、ギュッと両手を胸の前で握りしめ、迅の方へ向き直った。

その瞳には、彼女なりの絶対的な「強さ」と「愛」が宿っていた。
「私の本当の『ファーストキス』は……中体連の前。
バスケ部の練習試合で、
私から迅くんに『上書きして』ってお願いして
二人でちゃんとした、あのキスだけだから……っ!!
それに2度目も3度目も……迅くんとだけだからっ!」
言い切った後、玲は自分の発言の恥ずかしさに耐えきれなくなり、「スイカ、切ってくる!!」と真っ赤な顔をして台所へ逃げ込んでいった。
居間に残された、二人の男。

「……」
樹は、無言のまま、ゆっくりとソファに腰を下ろした。
あの妹が、自分から「上書きして」と男にお願いをした。
その事実が、1994年の自分のフライングなど何の意味も持たないほど、彼女が迅の引力に囚われていることを証明していた。
一方の迅は。
「…………っ」
顔を両手で覆い、顔を真っ赤(耳の先まで真っ赤)にして、その場にうずくまっていた。
玲の口から直接「わたしからのキスがファーストキス」と宣言された破壊力に、ただの純情な男子中学生として完全にノックアウトされていたのだ。
「……折館。お前のその顔、写真に撮ってばら撒くぞ」
「……殺す」
1996年、夏休み。
蝉時雨の中、「ファーストキスの定義」を巡る男たちの醜い争いは、玲という最強のヒロインの鶴の一声によって、迅の完全勝利(ただし恥ずかしさで瀕死)という形で幕を閉じたのだった。
【今回のおまけ】
野瀬「ぶはは、やっぱり一番強いのは玲先輩だわ」
稲城「はいはい、今回は夏休みの3人の設定画です」



稲城「涼しげ…! 玲先輩の私服が可憐!」
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