見出し画像

2分で読める幻想短編③言葉を編む蜘蛛|日常異譚

ようこそ「日常異譚」へ。
これは、どこにでもある毎日の中で起こる、少し不思議な出来事。
あなたのすぐ隣で、ひっそりと息づく幻想短編をお届けします。

【第三話 最終話】

息子が大学に進学し、家を出た。

「プログラミングの勉強がしたい」

希望通りの進路だった。
瞳を輝かせ、新しい生活に足を踏み出した息子を、私は誇りに思った。

「よかったですね。いいところに進学されて」
「お母さんも、がんばったわね」

誰もが私を「立派に子どもを育てた幸せなお母さん」と言う。
私も微笑みながら、その言葉を受け止める。

けれど夜、一人でキッチンに立っていると、胸の奥に冷たい空洞が広がる。

息子が旅立った今、この手は空っぽになってしまった。

――いや。

本当はもっと前から空っぽだったのだ。

塾から帰る息子。
仕事から帰る夫。

部屋を整え、献立を考え、何時に帰ってきても温かい食事が出せるように時間を逆算して動く。

「おつかれさま。」
「おかえりなさい」

母として。
妻として。

私が口にするのは、
いつも「正解の言葉」だった。

いつからだろう。
自分の言葉を話さなくなったのは。

照明はついているのに、部屋の中が暗い。
テレビを見る気にもなれなかった。
気晴らしに本でも読もう。
私は書斎へ向かった。

夫も私も本が好きで、狭い家に無理をして、一部屋を書斎にした。
息子も幼い頃は、この部屋が好きだった。

息子の本が増えるたび、私の本は少しずつ処分していった。
今では部屋の隅に、小さな本棚が一つ残るだけ。

その横、天井近く。

天窓から差し込む月光を浴びて、怪しく光る蜘蛛の巣を見つけた。
中心にいるのは、見たこともない銀色の蜘蛛だった。

「……はあ、疲れた」

私は無意識に、蜘蛛に向かってつぶやいていた。

その瞬間、蜘蛛の足が素早く動いた。
銀色の糸が重なり、文字が浮かび上がる。

疲れた

私は息をのんだ。

月の光を受け、蜘蛛の巣には七色に光る文字が次々と現れた。

『げつようび、りんごをひとつ、たべました』

『ミシン カタカタ  わたしのワンピースをつくろうっと』

『そうとも  よくある  よくある ことさ』

ああ。
これは、息子が幼い頃、何度も何度も読み聞かせた絵本の言葉だ。


「ただいま」

夫の声に、はっと我に返り、私は慌ててキッチンに戻った。
不思議な蜘蛛のことは、なぜか話せなかった。

翌晩も、その翌晩も。
私は書斎へ向かった。

蜘蛛はいつも巣の真ん中で、じっと私を待っていた。

「私は何なの?」

「自分はどこに行ってしまったの?」

「このまま同じ毎日を繰り返すの?」

胸の奥の言葉を吐き出すたび、
蜘蛛はそれを銀色の糸に変え、
美しく精緻な模様にして、
その巣に編み込んでいく。

誰にも見向きもされなかった私の心が、
七色に輝き、浮かび上がる。
その美しさに、恍惚となった。

毎晩、私は蜘蛛の巣に吸い寄せられた。


「うわ、何だこれ。気味が悪い蜘蛛だな」

突然、夫の声がした。

「ほら、お前がいつもこのへんを気にしてるからさ。今、潰してやったよ」

夫が差し出したティッシュの中には、
あの美しかった蜘蛛が、黒い汚れのように小さく潰れていた。

「これで安心だろ?」

夫は優しく笑う。

天窓から、白い月明かりが静かに差し込んでいた。

そうか。
あれは蜘蛛じゃなかった。

私だったんだ。

家族のために。
周りの期待に応えるために。

「正しさ」の糸に縛られ、暗闇の真ん中で、
ただ誰かの言葉を紡ぎ、
ただ待ち続けていた私自身の魂。

「……うん、ありがとう」

私は覚えたてのセリフをしゃべる人形のように、
ぎこちない微笑みを浮かべて夫にうなずく。

背後で、切れた蜘蛛の巣が一瞬だけ七色に光り、
紡がれた文字がハラハラと光の粒になって解けていった。

『大切なものは、目に見えないん だ よ』



最後まで、お読みいただきありがとうございます。
また、お立ち寄りいただければうれしいです🌟


2分で読める幻想短編①顔がある|日常異譚  こちらもどうぞ💓👇

2分で読める幻想短編②最適な恋人|日常異譚  こちらもどうぞ💓👇


#創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

いいなと思ったら応援しよう!

こに よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!